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元治元年(1864年)一月一日 |
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ご神伝 |
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天地金乃神には、 |
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日本に宮社なし、まいり場所もなし。 |
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二間四面の宮を建ててくれい。 |
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氏子安全守りてやる。 |
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教祖金光大神は、 |
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天地金乃神にはお上もなし、 |
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神から多くのご神伝(お知らせ)をいただいている。 |
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其方にはお上もあり。 |
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中でも次のこ神伝は、 |
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世話人頼み、 |
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金光大神の信心の展開にとって重要な意義をもち、 |
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お上願い申しあげ。 |
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本教信仰の本質が述べられている。 |
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こしらえてお上がかなわねば、 |
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自由に味わっていただくために、 |
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どこへでも、 |
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『金光教教典』の原文のままを掲載した。 |
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宮のいるという所へやるけに、 |
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かまわん。 |
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こしらえいたせい。 |
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お上がかのうて建てば、 |
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其方の宮。 |
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天地金乃神が宮へ入りておっては、 |
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この世が闇になり。 |
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正真、氏子の願い礼場所。 |
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其方取次で、神も立ち行き、氏子も立ち。 |
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氏子あっての神、神あっての氏子、 |
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子供のことは親が頼み、 |
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親のことは子が頼み、 |
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天地のごとし、 |
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あいよかけよで頼み合いいたし。 |
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元治元年一月一日 |
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神は金光大神に広前の建設を頼み、 |
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取次広前の意義と働きを明確に示した。 |
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安政六年(1859年)十月二十一日 |
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明治六年(1873年)十月十日 |
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この幣切り境に肥灰(農業)さしとめるから、 |
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天地金乃神と申すことは、 |
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その分に承知してくれ、 |
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天地の間に氏子おっておかげを知らず、 |
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外家業はいたし、 |
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神仏の宮寺社、 |
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農業へ出、人が願い来、呼びに来、もどり。 |
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氏子の家宅、 |
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願いがすみ、また農へ出、 |
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みな金神の地所、 |
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またも呼びに来。 |
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そのわけ知らず、 |
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農業する間もなし、 |
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方角日柄ばかり見て無礼いたし、 |
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来た人も待ち、 |
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前々の巡り合わせで難を受け、 |
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両方のさしつかえに相成り。 |
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氏子、 |
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なんとか家業やめてくれんか。 |
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信心いたしておかげ受け、 |
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其方四十二歳の年には、 |
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今般、 |
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病気で医者も手を放し、心配いたし、神仏願い、 |
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天地乃神より生神金光大神差し向け、 |
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おかげで全快いたし。 |
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願う氏子におかげを授け、 |
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その時死んだと思うて欲を放して、 |
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理解申し聞かせ、 |
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天地金乃神を助けてくれ。 |
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末々まで繁盛いたすこと、 |
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家内も後家になったと思うてくれ。 |
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氏子ありての神、神ありての氏子、 |
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後家よりまし、もの言われ相談もなり。 |
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上下立つようにいたし候。 |
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子供つれぼとぼと農業しおってくれ。 |
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此方のように実意丁寧信心いたしおる氏子が、 |
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世間になんぼうも難儀な氏子あり、 |
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取次ぎ助けてやってくれ。 |
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神も助かり、氏子も立ち行き。 |
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氏子あっての神、神あっての氏子、 |
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明治六年十月十日 |
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末々繁盛いたし、 |
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親にかかり子にかかり、 |
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神は、 |
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あいよかけよで立ち行き。 |
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天地の道理から外れ、 |
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難儀をしている世と人々を救済するために、 |
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生神金光大神を差し向け、 |
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神と人があいよかけよで立ち行く世界を |
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実現したいとの神願を、 |
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明確に指し示した。 |
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安政六年十月二十一日 |
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金光大神は、 |
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神からの頼みを受けて、 |
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家業であった農業をやめ、 |
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自宅を神の広前として取次ぎに専念することになった。 |
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この日を、 |
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金光教の立教の日としている。 |
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