金光大神御覚書

(注)年月日は新暦と表示がないものは旧暦のままで記述している。また年齢も数え年である。()は当サイト筆者による。


 一つ、このたび、天地金乃神様からお知らせ。(明治七年十月十五日)
 「生神金光大神、生まれ所、なにかと古いこと、今より前後ともども書き出せ」と仰せつけられになりました。

 金光大神の生まれ所は、備中国(岡山県)浅口郡占見村。
 香取千之助の孫。父は十平。その次男。
 村の氏神、大宮大明神の祭日に、暮れ六つ前(午後六時頃)に生まれた。男。
 父は酉の年生まれの三十八才、母は卯の年生まれの三十二才だった。
 文化十一年(一八一四年)八月十六日(新暦九月二十九日)、戌の年の生まれ。
 香取源七と名づけられた。母は益坂村の徳八の娘おしもと申します。

 文政元年(一八一八年・五才)に母が難産いたし、その年に私は唐辛子が目に入って難儀した。
 同じく文政二年(一八一九年)の私が六才の年に天然痘になり。同じく文政五年(一八二二年)一月、私が九才の年に、はしかになった。
 同じく文政七年(一八二四年・十一才)に、母が私の生まれた日やその時のことなど、いろいろと話をして下さった。
 私が十才の年には腹痛となった。鴨方町の医者の薬を五服飲んだが、治りもしなかった。

 文政八年(一八二五年)九月、大谷村の、父の姪婿になる万吉殿と、母の弟おじになる益坂村の庄八殿の両人にすすめられ、大谷村の川手粂次郎殿へ養子にまいりました。私が十二才の年だった。
 養父は卯の年生まれの五十五才、養母(川手いわ)は亥の年生まれの三十五才だった。当家の曾おじいさんのゆずり名をつけて、源七から川手文治郎と改名してもらいました。

 文政八年十一月二十六日の吉日に、途中で川手家の後ろにある大橋家へ寄って、そこで裃(かみしも)装束で正装しました。親類、屋守(地名・倉敷市玉島)の音蔵、同じく豊蔵の両人が出迎えに出た。もてなし役は古川家の五平じいさんだった。夜から明けの二十七日まで酒盛りをにぎやかにした。午後に里の父や母方のおじがお帰りになった。後から来た残りの客もにぎやかだった。
 その後、里帰りして餅つきをするために出て、また川手家に戻り、皆にお披露目のあいさつをした。

 一つ、庄屋の小野光右衛門様から、「読み書きそろばん」の手習いまでさしてもらった。私が十三才と十四才の二年間だった。

 私が十五才の時に腹痛がおこり、医者の紋行殿の所へ養父が連れて出て、体のつぼに墨で点をされた。そこにお灸をすえたが、難儀だった。また、十七才には、伊勢参宮をした時に、養母が足に三里の灸(膝にする灸、疲れをとるという)をせよと申された。それでお灸をして参ったが、道中で化膿してつぶれ、とても難儀をいたしました。
 私が十八才の時は、七月十八日よりおこり(マラリア)になり、熱と震えが繰り返して、六十日間も苦しんだ。

(一八三一年・十八才)
 養父が六十一才の時に養母が四十一才で初産し、男の子が生まれた。八月十七日で卯の年生まれ、名は鶴太郎。母は産後の血の道(婦人病の症状)で全身がはれ、百日あまり難儀し、四十二才にはお乳が痛んで百日あまり難儀をされました。

 一つ、領主様(旗本七千七百石)として蒔田荘次郎様(蒔田廣運ひろゆき、荘次郎は通称)が相続され、百姓に、「じろう」の名を変えるように仰せ付けられました。天保三年(一八三二年・十九才)に、養父は川手多郎左衛門、私は国太郎と、父子ともに改名いたしました。

(一八三六年・二十三才)
 一つ、弟の鶴太郎が病気になり、後にはひどい症状となり、病死しました。天保七年の七月十三日の午後四時頃でした。
 養父が発病して疫痢になり、その病中に私に申して聞かせたことは、川手家の名字のことで、「川手」をやめて元からの「赤沢」の姓に変えるように申しおかれました。八月六日に病死なされました。六十六才でした。
 川手文治郎から赤沢国太郎に改名させてもらいました。

 大谷村の大橋新右衛門殿に、母(養母)が頼んで、同じく古川八百蔵殿の娘をもらいくだされました。私は妻にすることをひきうけました。卯の年生まれの十八才、名は「とせ」
 新右衛門より頼んで、本家(大橋家)の「おすて」と、叔父と姪の両人が連れてきました。その時に方角が悪いと申して、回り道をして出た。私が二十三才の年、天保七年の十二月十三日。

(一八三七年・二十四才)
 母屋から見て卯(東)の方角へ、四尺に一間半の建物で便所場と風呂場を建てた。天保八年三月二日。方角や日柄は調べてもらった。大工は同じ大谷の安吉。

(一八三九年・二十六才)
 私が二十六才、妻が二十一才の時、六月十五日の夜に妻が安産した。男子が生まれた。名は赤沢亀太郎。亥の年生まれ。
 六月十五日より、母がおこり(マラリア)で、熱や震えがあった。九月初めまで続いた。

(一八四二年・二十九才)
 私のせがれ、亀太郎が八月一日より病気になり、私も同じ病気になり、父子とも疫痢(赤痢症状)になってしまった。せがれは十六日の朝に病死いたしました。四才にて。
 私は全快しました。私が二十九才の年です。天保十三年八月。
 同じ年の十月十日の夜、妻が安産し、男が生まれた。赤沢槙右衛門。

(一八四三年・三十才)
 巳午の方角(南南東)に、門付き納屋を建てることを思いついた。二間に六間半で半間のひさしのついたもの。
 日柄方角を調べてもらった。卯の年(天保十四年)一二月十八日吉日に手斧始めをし、翌年の辰の年正月八日より始めて、同月二十六日までに建てるように、方位を見る方から申されました。
 柱にする木は玉島の人に頼んで紀州に船で注文しました。しかし船が戻らず、期限の日が間に合わないので、玉島に出てまた別に買い入れ、二十六日までに建てた。大工はここ大谷本谷の寅の年生まれの安吉で、建ったのは辰の年(一八四四年・三十一才)の正月二十六日だった。

(一八四四年・三十一才)
 天保十五年に、私の国太郎の名を、また元の文治に改名させてもらいました。同じ年に年号が変わって弘化元年となった。

(一八四五年・三十二才)
 同じく弘化二年二月八日、小作田である大新田下の田へ麦草を取りに行っていた妻が、そこで産気づいた。家から遠くの平地の田だった。晩の七つ時(午後四時ごろ)に安産して男の子が生まれた。延治郎と名づけた。

(一八四六年・三十三才)
 同じく弘化三年二月二十二日に、私は四国参りに出立した。私が三十三才の年だった。三十六日ぶりに帰った。

(一八四七年・三十四才)
 同じく弘化四年の九月十七日の夜の五つ時(午後八時ごろ)に妻が出産。女が生まれ、ちせと名をつけた。
 この女の子、おちせは翌年六月の未明から病気になった。医者を二人もつけて、親類や隣近所の宮参りの講中の人たちに祈念を頼んで、ごやっかいになりました。一日がかりで医者も治療しましたが、晩には病死いたしました。年号が変わった嘉永元年(一八四八年・三十五才)六月十三日のことです。

 同じく嘉永二年(一八四九年・三十六才)の四月二十五日の夜四つ時(午後十時ごろ)に男の子が生まれ、赤沢茂平と名づけました。

 同じく嘉永二年の十二月三十日に、須恵村丸山の竹次郎の古家を買ったらどうかと申されました。証人は小田の八衛門殿です。庄屋の小野四右衛門様に方角を見てもらいましたら、「よし」と申されたので買い受けることを申しました。

(一八五〇年・三十七才)
 (翌年の)戌の年の正月四日、総社のお役所へ小野四右衛門様が年始の挨拶においでになるので、私が人足としてまいりました。四右衛門様がそこにおられる父の大庄屋である小野光右衛門様に今度のことをお願い下されました。あらためて日柄方角を見てもらいましたが、親の光右衛門様では、今年は私の生まれ年と同じ戌年で、三十七才の年回りになるから建築してはならない、と仰せつけられました。
 私も困っていろいろと考えました。それで、なにかとお繰り合わせならないものでしょうかと願い上げましたら、また、日柄方角をよくよく調べ直して下されました。
「それならば、三月十四日に、辰巳(南東)の方*に仮小屋を建てて、そこに移り住んでおき、八月三日から家を取り壊し、四日に地面をならして基礎をし、六日に棟上げをし、二十八日に移り住んだらよし」と仰せ付けられました。
 (*この時、暦ではこの方角には「豹尾、金神」が居座っている。)
 正月二十八日に、須恵村のその家を解体運搬にまいり、二十九日までにすませました。
 三月十四日に仮小屋に移り住み、家移り粥を炊き、せがれの槙右衛門九才を連れて、父子で寝泊まりしました。
 五月十日頃より槙右衛門が病気になり、病勢が増し、医者にかけて薬をのませ、医者にどうでしょうかと伺うと、「心配なし」と申されました。その夜、夜どおし高熱に攻められ、もだえ苦しんだ。
 夜が明けるのを待ちかねて、医者のところへ行ってお願いした。早々とおいで下されました。病人を診られて、「これは案外むつかしい」と申して帰られた。
 それから驚いて、講中親類で裸参りまでして祈念し、神々様に願い上げた。祈念は成就せず、死んでしまいました(九才)。嘉永三年五月十三日。

 その日より、延治郎六才に、「この子は疱瘡(天然痘)が出ている」と申して、見舞いに来た人が見られて知らせて下されました。槙右衛門に掛かりきっていて、その病気を知らずにそのままだった。
 死人を門納屋へ連れて行き、兄弟親類で葬儀の用意して送って下されました。あとから、丁寧に礼をいたしました。親類、里の母は私宅には来られずに墓参りをして下さったと、後からおって聞いた。
 二才の茂平と延治郎は無事だった。

 神職の神田筑前殿に願って、天然痘の厄がすんで厄守りの神様を送る「注連あげ」をいたしました。親類を呼んでお祝いし、一人は死んだけれどもと他は無事だったから、神様へご馳走を供え上げ、神職が喜ぶようにお礼をした。筑前殿は、お礼の品をお仲間内へ披露して吹聴したので、その人たちは喜んで「なんと思いわけ(分別)のよい人じゃのう。うちらでは、全員そろうて無事に仕上げても、そのような礼を受けたことはない」と申されまして、かえってご心配くだされました。有り難いことと思っております。御礼申し上げました。神田筑前殿は喜んで礼を申されました。嘉永三年五月。

 同じく嘉永三年七月十六日より、飼い牛が病気になった。牛医者を迎え、鍼(はり)、服薬、治療に夜昼ともされた。十八日に「治った」と申されました。牛医者は、「帰るから皆も用あることをしなされ」と牛医者は申された。
 私も幸い、そこへ中六(地名・鴨方)の平吉殿が来られたから、連れのうて玉島へ建築用材を買いに出た。二人して玉島の久々井まで戻った時、古川参作(教祖妻とせの弟)がかけつけて来て、「牛が急に悪くなった」と申して見えた。私は、「悪くなったというて、なんの来るにおよぼうか。わざわざ言うて来るからには、よくよくのことじゃろう。もし死んだとしてもどうなろう」と申した。「そう言われればよい。力を落とすだろうと思うてそう言うた。飯後(午前十時ごろ)に容体が急変して、すぐに牛医者を呼だが、来る間に死んだ。どうしようもなかった」
 私は、今帰って牛を見るのもいじらしい。思い返して、古川参作に後を頼んで、すぐに益坂(地名・鴨方)へ木を買いに出た。七月十八日のことだった。

 八月三日に母屋を解体してとりのぞいた。
 金神様へ私はお断り申し上げた。「日柄方角を見てもらい、それぞれ何月何日にいたしました。小さな家を大きな家にして、三方へ押し広げることになりましたから、どの方角へご無礼することになりますか、それも凡夫の私には分かりません。建築が成就しましたら、早々にお神棚を作りまして、お祓(六根清浄祓い詞)と心経(般若心経)を五十巻ずつ奏上いたします」と申して建築に取り掛かり、すぐに整地した。
 同じく八月六日までに建てて、棟上げをいたしました。雨が降りに降りました。建築中、七八日もおしめりがあって、とても困ってしまいました。
 同じく、八月二十八日に移転をいたしました。大工は安倉(地名・寄島町)の元右衛門を頼んだ。金神様のお神棚を調えた。蒸したもの(飯類の)は供え上げてもよい、と大工が申しました。金神様へご馳走としてお祓いと心経をあげて、建築が成就したことを御礼申し上げた。

(一八五一年・三十八才)
 嘉永四年七月十六日に、飼い牛が病気になった。十七日、十八日と、牛医者に見せ、夜昼の看護をしてやり、十八日に絶命した。考えてみて、ちょうどあれから一年目の月日変わらずの日に死んだ。

 同じく嘉永四年亥の年十二月十五日の夜明けの六つ時(午前六時ごろ)に妻が安産。女の子が生まれ、名は「くら」とつけた。母が同じ亥の年生まれだからと、母が名をつけた。

(一八五四年・四十一才)
 同じく嘉永七年の寅の年に年号が変わって安政元年となった。
 同じくその年の十二月二十五日の夜の四つ時(午後十時ごろ)に妻が安産した。男の子が生まれた。私はその時四十一才。
 父親の四十二才の二才子は悪い(親を食い殺すの言い伝えから)と申して、置かん(間引く)と申した。
 母が止めて、「わしが育てる」と申しました。母に任せて育て上げるとして、それなら、翌年の正月生まれということにして年の「まつりかえ」をしようと申して、置くことにした。
 正月二日が八日目の、(産の穢れの終わる)火合わせ七夜に当たる。だから二日生まれにしてもらおうと、話し合った。

(一八五五年・四十二才)
 翌年の卯の年の正月一日、年神々様(才徳神など)へ早々に御礼申し上げました。総氏神様(大谷・須恵の両村の氏神)に参拝いたし、私の四十二才の厄晴れを祈念した。神田筑前殿に願い、今度の三男を卯の年生まれにまつりかえを頼み、守り札をもらってそれを氏神様に納めて、赤沢宇之丞と名をつけた。
 鞆津(広島県福山市)祇園宮に参り、神主の大宮家に行き、神主に願い出たら奉祈念(「奉祈念家内安全」などの)の木札を下された。正月四日だった。

 吉備津宮(岡山吉備津神社)に参り、お供え料を上げ、その時、二度も「おどうじ(釜を使った占いで、音が鳴ると吉、鳴らぬと凶とする。)」があった。私は、出世(家繁盛して安楽になることの方言。いわゆる立身出世ではない)すると有り難く思うて帰り、すぐに西大寺観音(岡山西大寺)へ参った。十四日に出て、十五日に帰宅した。

 四月二十五日の午後に気分が悪い。二十六日には病気が増した。医者、服薬、神仏に祈念して願い上げた。病気はのどけ(喉の病気)になってしまった。ものも言われず、手まねで知らせた。湯水も通らなかった。医者は「九死一生」と言われた。
 私は心確かに、神仏へ身を任せていた。家内に、外へ出て仕事をせよと、手まねで言った。
 親族身内の皆が来て、小麦打ち(小麦の脱穀)の手伝いをしてくだされた。そのうち小麦打ちもやめて心配され、「とてもいけん」ともの案じして、「宇之丞を育てねばよかったにのう。死なれてはつらいものじゃ」と、みな思案した。「仕事どころか」と申し、「それでも、なんでも早うにかたづけて、神様に願うよりしかたない」と、親類が寄って、神々様、石鎚様(大谷龍王山に祭る石鎚毘古の神)へ祈念して願いあげた。

 古川治郎(妻とせの弟で石鎚信仰の先達だった)へ神様のおさがりがあった。
 「建築移転について、豹尾神・金神へ無礼しておる」とお知らせ。
 妻の父が、「当家において金神様におさわりはない」と申し、「方角を見て建てた」と申した。
 神様は、「そんなら、方角を見て建てたら、この家は滅亡になりても、亭主は死んでも大事ないか」と仰せられた。
 私はびっくりいたしまして、また、「(舅は)なんということを言われるじゃろうか」と思った。私がもの言われだし、寝座にてお断り申しあげた。
 「ただいま氏子(舅)の申したのは、なんにも知らずに申しました。私は戌の年で年回りが悪いと、してはならんところを方角を見てもらい、何月何日と申して建てましたから、狭い家を大家に広げまして、どの方角へご無礼しておりますやら、凡夫であい分かりません。方角を見てすんだとは私は思いません。以後は無礼のところは、お断り申しあげます」
「戌の年(教祖のこと)はよい。よし。ここへ這い這いしてでも出て来い。今言うた氏子は心得ちがい。その方は行き届いておる。正月一日に氏神の広前に参り来て、どのように手を合わせて頼んだか。氏神はじめ神々は、みなここへ来とるぞ」

 ここまで書いてから、おのずと悲しゅうにあいなりました。
 『金光大神、その方の悲しいのではない。神ほとけ、天地金乃神。歌人なら歌なりとも読もうに、神ほとけには口もない。嬉しいやら悲しいやら。どうしてこういうことができたじゃろうかと思い、氏子が助かり、神が助かることになり、そう思うて神仏悲しゅうなったのじゃ。また元の書き口を書け。』

 「神々はみな来ておるぞ。戌の年は、『当年で四十二才の厄年。厄負けいたさぬように御願い申しあげます』と願ったろうが。戌の年の男は、熱病の番ぞ。熱病では助からんので、のどけに神がまつりかえてやった。神徳をもって神が助けてやる。吉備津宮で二度のおどうじがあり、もの案じいたしてもどったであろうが。病気の知らせをしたのぞ。信心せねば厄負けの年。五月一日に験(おかげのきざし)をやる。金神、神々へ、礼に心経を百巻、今晩にあげよ」とお知らせ。
 「石鎚の神へ、妻に衣裳を着替えさせて、七日の間ごちそうとして香、灯明をさせよ。お広前に五穀をお供えあげよ。
 日天四(太陽の神性)が、戌の年の頭の上を、昼の九つ時(正午)には日々舞うて通ってやりおるぞ。戌の年。戌の年は一代まめ(健康)で米を食わしてやるぞ」と古川治郎に口で言わせなされた。
 その時に持っている幣が、小盆の上の五穀の上に手がひきつけられ、幣に大豆と米とがついて上がった。
 「盆に受けて、これを戌の年に、粥に炊いて食わせい」と仰せつけられました。

 しだいに具合がよくなった。
 五月四日には起きて節句のちまきを作り、ご節句を安心して祝った。
 おいおい全快しまして、有り難く、幸せに存じ奉ります。
 同じく四月二十九日夜、願いすみ。
 安政二年五月、四十二才。

(一八五六年・四十三才)
 一つ、私が四十三才の年、この年まで身弱く、難儀をした。
 一つ、私は、病気難渋のことを思い、月の一日、十五日、二十八日の三日を、朝の間から一日かけてと思いついて、神様へ御礼申しあげ、神々様へご信仰いたし、お願いあげいたしました。

(一八五七年・四十四才)
 安政四年十月十三日の暮れ六つ時、亀山村(倉敷市玉島)より人が出てきた。弟の繁右衞門が気が違い、金神さまの神がかりと申して、狂ったようになって、「早く大谷へ行って、兄の文治戌の年を呼んで来てくれ」と申されておられる。早く来てくだされますよう、と。
 私、早々にまいった。身内、親類、村内の懇意な人たちが待ち受け、「よう来られた。なにとぞつごうよく治まるよう、どうぞお願いします」と言われました。
 私が同人の前に行くと、「戌の年、よう来てくれた。金神が頼むことがあって呼びにやった。金神の言うことを聞いてくれるか」
 「私の力にかなうことなら承知いたしました」
 「さしつかえることではない。このたび、このかた繁右衞門が、やむを得ず屋敷替えの建築で、十匁の銭を借りるところもない。建築費用を金神が頼む」
 私、「してあげましょう」と申し上げた。
 「それで神も安心した。皆も一日ご苦労であった。お開き下され。庄屋ご夫人を若い人がお供して行って下され。神が頼む」
 また後でおいさみ(体がふるい勇むこと)あり、お静まりを願った。「静まってやる」と申して、神棚へ飛びつき、そのまま倒れ寝入った。
 親類の者は正気と思わず、祈念祈祷の評議をした。
 夜も明けて、本人も目を覚まし、元の正気になりました。
 「昨日のこと、みな覚えているかと」申して尋ねると、「なんにも知らん」と申しました。
 「覚えんというならしかたもない。妻でも皆さんへ迷惑をかけたところへお断りをして、挨拶に回らせよ。おって、村役場に挨拶にまいり、それから建築にかかるがよい」と申しおいて、私は帰った。十四日。

 十八日に、私は様子を見に行くと、建築に取り掛かっており、手伝いをしてやった。
 二十日より、私の腕が痛んではれ、一日休息し、家の仕事をしながら治り、まったく金神様のおかげを受けた。たびたび参った。

 十一月九日に金神様をご遷宮(新築になった家の神棚に移して祭ったことを言う)した。弟の繁右衞門は、すぐに金神様が農業をお止めにあいなりました。お広前にて、お金神様のお守りをいたしました。
 建築成就に、小遣い、酒まで、こちらから送り、弟が心配しないように銀子を用立ててやった。

 私の妻が妊娠し、具合が悪い。(繁右衞門の広前に参って)金神様にお願い申し上げた。
 「氏子(妻)に考え違いがある。この子を育てないと思っている。この子を育てよ。今日から身軽くしてやる。この子を育てないなら親に当たりがつく。この子を育てよ。最後の子にしてやろうぞ」と(繁右衞門の口で)お知らせ。
 帰って妻に申しつけると、「子どもが多いし、今度の子は置くまい(間引こう)と思うておりました。そんなら育てる気になりましょう」と申し、神様へお断り申し上げた。

 翌日から身軽くなり、布機(ぬのはた)織りも出来るようになり、仕事に差し支えることなく、何でも出来るようになった。おかげを受け、有り難く幸せに存じ奉ります。

(一八五八年・四十五才)
 安政五年、正月一日、お餅を持って亀山(倉敷の弟の広前)へ参り、早々に弟は金乃神様へお供え上げ、御礼お願い申し上げました。
 「戌の年は、神の言う通りにしてくれて、その上、神と用いてくれて(立ててくれて)、神も喜ぶ。金乃神が、戌の年へその礼に、柏手を打つことを許してやるほどに。神であったなら、よその氏神と言うな。大社小社の区別なしに、拍手を打って一礼いたして通れ。金乃神の下葉の氏子と申して、日本中の神々へ届けいたしてやるから、神が受け返答いたすようにしてやる。
 戌の年、今までは、いろいろと思いがけない出来事や、不幸せなことや難儀を受けた。これからは、何事も神を一心に頼め。医師、法人(僧侶神官などの祈祷者)が必要ないようにしてやるぞ。ほかの氏子には言わないことぞ。妻の産のことは五日か十七日かに生まれる」とお知らせ。

 十七日に日が暮れるまで夫婦で野良仕事をいたし、もどって、夜の四つ時(午後十時ごろ)にお産をした。早々にお礼に参った。(子どもの名は)この。有り難し。お知らせくだされて。

 神棚を新調して、ご信心いたし、朝晩に拍手打ってご奉願。日夜におかげを受けた。
 三月十五日、手にお知らせくだされた。何事もお伺い申しあげた。
 四月、麦こなし(脱穀)にて、茶づ後(午後二時ごろの食事後)、にわかに私に熱があって頭痛がした。麦をかき寄せておいてくれと妻に頼んで、私は神様に御願い申しあげ、少しの間横になった。つるりと寝入って、目を覚ますと、すみやかに治っていた。おかげを受けた。麦こなしもさしつかえなく出来た。有り難いこと。日々におかげ受けた。
 七月十三日、ご先祖の精霊回向をさせてもらおうと思い、早くから金乃神様へご奉灯して御礼申しあげた。
 私の口へお言わせなされた。
「戌の年は、今晩は盆と思うて、精霊回向へ気を寄せておるが、灯明の油少のうても火は消えん。もう、晩からどれくらいになるか。母妻ともここへ来い。物語いたして聞かせる」など、なにかとお知らせがあった。
 そこのところへ、小田の八右衛門殿が見えてこのようすを聞き、「いつもこのように言われるか」と問われ、「今夜がはじめてです」と(家内の者が)申した。
 神様もおやめになられました。私もさがって、同人の相手をいたしました。用がすんで、同人は帰りました。
 私は、鞆津の祇園宮のご縁日でもあることから、奉灯してご祈念願いあげた。また金乃神様からお知らせがあり、家内中へ。
 「うしろ(大橋家)本家より八兵衛と申す人がこの屋敷へ分家し」と先祖のことを教えられた。
 「戌の年さん、お前が来てくれられたので、この家も立ち行くようになって、ありがたい。精霊(先祖)が御礼申しあげる」
 次に、客人大明神が、
 「近江国よりまいり、この所へおさまってから、八百三十一、二年になる。墓地を氏子がそばへいたしておるから、これの場所を変えるように頼みます」と申され、私は聞き覚えた。

 同じく安政五年七月、稲の出穂時に「うんか(稲の害虫)」がわいたので、周囲の人々は油(うんか駆除用)を入れた。
 私には金乃神様からお知らせ。
 「この方には油を入れるな。うんかが食うか食わんか、今夜にこの方の広前(神を祭る部屋)に来て寝てみよ。蚊が食うか。その方は、日ごろから蚊に負けてほろせ(できもの)が出る。ほろせが出るか負けるか。蚊が食わねば、うんかも食わんと思え。もし封じ残りが食うたら、手でおさえておけ。いつでも少々はうんかもおる。蚊に負けねば食わんのじゃ」「もう今夜も八つ時(午前二時ごろ)であるから、かやの内へ入れ。熟睡の時間を寝ておかんと、明日の日が勤まらん」とお知らせ。
 蚊がわんわん申して寝られず。蚊も食わず、負けもせず、かゆうもなし。お試しなされて恐れ入りました。御礼申しあげて、かやの内に入って休みました。

 「とうない田(区切って他と共有する一枚田)へは、人並みに入れよ。油を一升のものなら二升と、人より二倍入れよ」とお知らせ。
 「うんかの集まる所へ多く入れておけ。たびたび歩くな、追うな。稲が痛むぞ。多くというても人並みでよい。『二倍も入れた』と人には申しておけ」
 ほかへは一枚の田も油を入れずに、仰せどおりにいたしました。

 次に、七月末に本庄名口(地名・鴨方)の唐臼立て(脱穀機の一種を作る職人)に頼みにまいると、「翌月に行ってあげましょう」と申しました。
 八月十三日に屋守祭り(玉島の氏神祭礼)へ行くことを、御願い申しあげた。
 「今日は行くな、唐臼立てが来るぞ」とお知らせ。
 私、行かずに待っておると、四つ時(午後二時ごろ)前に来た。その日のうちに仕上がった。ありがたし。御礼申しあげた。

 西原村(倉敷西阿知)のおばの世話にて、香取彦助(教祖の二番目の弟)を、玉島の久々井の清蔵殿の跡目として養子につかわした。私の家から準備を整えて、連れて行って渡しました。九月十四日、十五日と祝いをした。支度の品々なども用意した。私が行って親類中に客馳走をした。
 肴どんぶりの酢のことで、神様からお知らせ。
 「みなさまご免と申して、酢を余計に入れて箸で混ぜ、みなさまおあがりなされと言え。酢加減の中途半端のが当たる。そして、ころり(コレラ)などになる」とお知らせ。ころりというのが世間に流行した年だった。

 せがれ(延次郎が改名して浅吉十四才)と妻に、「稲こきをせよ。朝のうち(午前十時ごろまで)にしてしまって干せ」私には「古いもみが一石余りあるのを、朝のうちにひいて(籾殻取りをして)、米にいたして片づけよ。新しい唐臼なので重いから、神が手伝いをしてやるぞ。飯後より綿摘みに行け」とお知らせ。
 母に「今日は手伝い人があるから、ご飯を早うこしらえなされ」と私は頼んだ。
 私は一人で唐臼をひき、歌を歌うてひいた。
 「その方ひとりでひいてみよ」とお知らせ。
 息がはずんで歌も歌われず、しんどい。恐れ入った。
 「神もしたこともないこと。まあ、休息いたせ。公儀の普請にも休息はある」
 母が、「今朝、手伝い人があると言っておったようじゃが、だれも来ておらんのじゃのう」と母が申した。人間の手伝いかと思うておられた。早々に朝のうちにかたづけた。
 飯を食べて三人で綿摘みに五反場(場所・小作の田畑)へ出た。私に妻子共ついて来いと申した。
 妻が「今日はなぜ早くはかどるのじゃろうか」と申した。何事も仰せどおりだった。

 次に、「今日、家のまわりの田の稲を刈り干し(刈ってそのまま干すこと)にいたせ。雨天でも雨が降り降りでも刈って、三日の天気に干せ。あすあさっての二日のうちに。下淵の田(教祖の自作田)を野こぎ(その場で稲こきすること)にいたせ」とお知らせ。
 古川参作も、鎌をさげて出て天気を見て、「これは必ず降りじゃ、うちにはまあやめよう」と申して帰った。
 三日のうちに、下淵の田も野こぎにした。このまわりの稲も集めて束ね、残りの稲も刈りあげた。
 明けの日の早々より雨が大降りになり、家の内にて稲こきをした。
 仰せどおりにおかげを受けた。四日ぶりに雨が降った。

 次に、大新田(場所・大谷)に牛を使いに出ると雨が降りだした。いかがとお伺いした。
 「やめずと牛を使えよ、本降りではない」とお知らせ。
 やめず、一日天気。御礼申しあげた。

 次に、この家の近まわりの小田に牛を使いに出て、途中で雨が降りだした。
 「今日は牛を追うて帰れ。午後には使えぬ。降りじゃ」とお知らせ。
 うちへ帰り、大降りになってしまいました。「どうだろうか。降るか降らんか」と言うていた者は濡れてもどった。
 「世間の者がみな、『天に一家(身内)がないから降る照るのことがわからん』と申しておる。この方には、天に一家をこしらえてやるぞ」とお知らせくだされ、有り難く幸せに存じ奉ります。

 九月二十三日にお知らせ。
 「 天照皇大神様、戌の年の氏子を、私(金乃神様のこと)にくだされませ」
 「へい、あげましょう」と申された。
 「戌の年、金神がその方をもろうたから、金神の一乃弟子にもらうぞ」と仰せられた。
 「金神様、戌の年をあげましょうとは申したれども、やはりあげません。戌の年のような氏子はほかにござりませぬ」
 「それでも、いったんやろうと言うてから、やらんとは、いつわりになります。ぜひもらいます。おしければ、戌の年の代わりに、せがれ巳年(浅吉)が成長しましたら、お広前に参らせまするから、くだされ」
 「さよう仰せられますれば、あげましょう」
 「くだされれば安心いたします。戌の年、母、家内一同へ申し渡す。一乃弟子にもらうというても、よそへ連れて行くのじゃない。此の方で金神が教えをするのじゃ。なんにも心配なし」
 「秋中、行をせよ。朝起き、衣装着かえ、広前へ出て祈念いたし。それがすみしだいに、広前へ膳を妻にすえさせ、食事いたし、すぐに衣装着かえて、はだしで農業へ出よ」とお知らせ。
 妻が、「いや、大霜が降っとってもはだしですか。それでは人が笑う。体裁が悪い。信心ばかりしてわらじひとつ作らんと人が言うから」と申した。
 私は、「そんなら、体裁が悪けりゃあ、後からわらじを持って来てくれ」と申した。
 妻はおかげを知って知らず。人の世間体を気にする。私は世間体を気にせずに、神の仰せどおりにして、なにかによらずそむかない。

 「稲の熟れ色がよい。谷中(大谷村本谷中)にない」と、人が申して通った。
 下淵の田にもち米を植えた。田並びの古新田へ古川家でも、もち米の稲を植えた。もみ種はうちの(教祖の)に替えてあげて両方同じにした。
 「参さ(参作)の稲と文さ(文治)の稲は、植え物が違うじゃろうか」と、むかい(栗尾家)の馬蔵ら、人がみな申された。
 参作は「(うんか駆除の)油を二度入れて四畝半に正月の餅つくほどもない」と申した。
 うちには、反に二石八斗できあり、ほかの田も二石下ぐらい。
 その年には村中で、油を三度入れて一俵も取れんのがあり。なかには、うんかが食うて藁がすすけたようになり、収穫が無い田もあった。
 私のは、油を入れたのが収穫が少なく、油を入れなかったのは、上米七、八、九俵もあった田もあった。

 次に、高札をあげる所にある西の田の麦まきのこしらえとして、馬鍬(大谷では牛を使った)をかいた。曇って、雨が降った。
 人が「この雨降りに馬鍬をかいてどうするのかい」と申された。
 「また田植えをするさ」と申して、一日牛を使ったが、小降りでさしつかえなかった。
 日が暮れて、「もう、しまって帰れ、降りはせん」とお知らせくだされました。
 翌日はお天気だった。みな人々が、「なんと昨日が降らずに、よいお天気で。文治さん、根気ようやんなさったのう」と人が申した。
 一日のうちに麦をまき、かたづけました。
 「明日は準備するな。雨が降る。藁を切って田に広げておけ。雨が大降りすると土が塗ったようになって、そのままでは生えつきが悪い」とお知らせがあった。仰せどおりにいたしました。
 人が「麦まきは終わったか」と申しました。「この田だけ終わりました」と申した。片づけて、うちへ帰るまではよい天気が、茶づけを食べる間に曇り、大降りになった。恐れ入って御礼申しあげた。

 次に、麦まきや肥のことで、なにかとお指図どおりにいたしてすみました。

 母が病気でむつかしい状態になった。その時に、「町へ買い物に出て、品々入用の物を買い入れいたせ」とお知らせ。
 玉島で品物を見たが、良し悪しがあって、気にいった物がない。
 「金縁の湯飲み茶椀を二十個買え。これはいつでもいる物だから。ほかの品物はもう買うな。日も晩に近い。帰れ。また(母が)死んだ時の買い物は、また人が来るから(他の者が買いに来るから)今日は帰れ」とお知らせあり。
 その日は帰った。母もおいおい良くなり、全快しました。

 「襖紙を三間半分買え。上の間と外の間との境の二間分は、菊と桐模様の紙を買って片側へ張れ」と、同じく十一月六日にお知らせ。
 「上の間の正面へ神棚を作って、厨子(神の社)、三方(供え物をする台)、酒二合入りの徳利(神酒徳利)を調えよ」
 とお知らせ。同じく十一月二十九日。

 十二月六日、「置きこたつをいたせ、別あつらえで、その方一人だけあたれ」と仰せつけられた。大工は中六(鴨方町)の国太郎(舅の三男)。

 迎えた麦まきや肥のこと、なにかとお指図どおりにいたして、すみました。

 同じく十二月二十四日、私の名(神号)に、「文治大明神」をお許しくだされました。

 先祖のことのお知らせがあった。
 「*以前、川手多郎左衛門の屋敷が断えた。元は海岸端に柴の庵をかけており、そのうち繁盛し、これまでに四百三十一、二年になる。この家の位牌をひきうけ、この屋敷も不繁盛で子孫が続かぬ。二屋敷とも金神に障った。まだ海があった頃、屋敷内に四つ足(獣類)が埋もり、無礼となった」とお知らせ。
 私の養父親子、七月八月と月並びに病死し、私の子が三人、年忌年*には死に、飼牛が七月十六日より病気になり、医師、鍼、服薬しても、十八日死にと、月日変わらず二年で二頭の牛が死んだ。
 (*亀太郎は、養父親子の七年忌の年に、おちせは、亀太郎の七年忌の年に、槙衛門は、おちせの三年忌にそれぞれ死んだことを指す。)
 医者にかけて治療し、神々に願い、祈念祈祷におろそかもなかった。神仏に願ってもかなわずにしかたがないことと、残念至極と始終思い暮らしたことだった。
 天地金乃神様へのご無礼を知らずに、難儀しました。この度、天地金乃神様がお知らせくだされて、有り難いこと。
「前々のこと考えてみよ。十七年の間に七墓築かした。年忌年忌に知らせいたした。実意丁寧神信心ゆえに夫婦は命を取らなかった。知ってすれば主から取り、知らずにすれば、牛馬七匹合わせてでも、七墓築かせる、というがこの方のこと」とお知らせなされた。
 恐れ入ってご信心いたし、家内一同安心の御礼を申しあげた。

(一八五九年・四十六才)
 安政六年正月にお知らせ。当年、せがれ(浅吉)は巳の年十五才になっていました。
 「その方はせがれに世帯を渡せ。病気と申して、お上の村役場へ隠居願いを申せ。村役場に願って、お上へお願いあげいたせ。また、春中には、子供三人に疱瘡(天然痘)をさせるぞ」とお知らせ。正月一日。

 同じく正月十八日に庄屋の所へ隠居願いにまいった。小野四右衛門殿がお聞き済みになりました。家の主の名義変更も願った。
 「名義を切り替えてはどうか」とのことで、それならば本隠居となって安心いたしましょうと思って御願い申しあげた。
 「それならば、三月の宗門帳改めまで考えて願え」と申されて、帰りました。正月十八日。

 三月一日に、御願い申しあげた。
 小野四右衛門様は「いよいよ隠居願いか。それなら、もうこちらが(用事・使いを)頼んでも、来てくれられないのう。まだわしらは隠居しとうない。そんならせがれ浅吉へ名義を切り替えよう」
 私帰り、安心いたしました。

 「三月には子供の疱瘡も延期して、先で繰り合わせてさせる」
 もみ種のこと、早稲三反植えること、中田(なかて・・早稲と晩稲の中間の稲)、晩稲、その田その田へのお知らせをくだされた。田植え、植えつけ、肥のこと。麦中打ち、つえかうこと(根元に支えの土を盛ること)。
 「当年は雨多し。田の麦は中つえ*だけをして、両端に土を盛るな。雨に風が沿うということがある。麦が刈りにくい。将棋だおしになるということがある」と。お知らせどおりに両端に土盛りの支えをしなかった。

 「春は五月五日の節句、安心を祝って休め。六日から麦刈りするがよい」四月十日。
 
 同じく四月二十八日氏子が来て、「麦が熟れた」と申した。

 五月一日に雨降り、同じく五日朝まで降った。飯後より、みな麦刈りに出た。私は、神々様、村役場へお礼まいりして休んだ。
 六日より麦刈りにかかった。
 「今日刈った分は、夕方には取り込んで、その日終いにいたせ」とお知らせ。
 夜より雨が降り風が吹き、麦が倒れて刈りにくい。私は、お知らせどおりに支えの土盛りをしていなかったから将棋だおしになって、麦を刈るのに都合がよかった。

 「天気の都合で仕事をして、早くかたづけ、雨模様の間に麦に日を当てずに俵にいたせい」とお知らせ。
 雨の日が多かった。よそには、雨模様の間、遠くの田へ田植えの準備に行っていた。私は、うちをかたづけ(麦を俵にして)、天気になってから遠くの田へ出て、田植えの準備をして待ち、田植えをした。

 次に、五月末に、亥の年生まれの女「くら」九才が病気になり、金乃神様へ御願い申しあげた。日々に弱っていった。
 「捨ておいて農業へ出よ。朝に容態を見て出て、また飯時にもどって見て、その時々に見て、それで万一死んでいたら、午前中のうちに。昼、夕方、暮にもどって見て、それで死んでおったら、『昼にもどった時までは生きておったが、夕方の間に死んだ』と思え。前々は夜も寝ずに、医者、法人(僧侶・神官)、隣家、親類、講中まで心配かけて、日夜混ぜかえして、それでも死のうが。死んだらままよと思うて、心配せずと、農業、家業に励め。病人のそばにおるな。病人を見ておると気が焦って悪い」とお知らせ。
 日々、遠くの田へ家業に出た。

 二十七日に辻畑(木綿崎山にあった畑)にて夫婦話をし、夕方には小麦頭こなし(脱穀した小麦から残りの穂を取ること)をしようと申して、中食(午後二時ごろ)に早く帰った。
 母が妻に、「昼役(昼の間の仕事時)には、おくらは、よう寝とるのか、湯とも水とも言わんが、行ってみなさい」と申した。
 私は、土間にて神様にお伺い申しあげた。
 「心配なし」とお知らせ。
 妻は手足を洗い、私は茶づけを食べた。
 妻が、「おくや、おくや(くらの略称)」と申したが、くらはものを言わず、体は冷たかった。
 「母さん、油断じゃった。おくらは死んだ」と申し、聞くより母ともに嘆き悲しんだ。
 私は、「なにを言うておるか。今わしは神様にお伺い申したら『心配ない』とお知らせがあったぞ」
 妻が、「なんの、死んだ者に心配(があろうか)」と申し、私は、「いよいよ死んでおるかよく見よ」と申した。
 妻が改めて見ると、「息があり、背中にぬくもりがある」と申し、私、「そんなら死んではおらんと」申し、妻が、「早うにご祈念を頼みます」と申した。
 私、茶づけ食べている途中で、天地金乃神様へ御願いした。すぐにお知らせがあり、
 「お神酒を飲ませて、加持(祈念)をしてやれ」
 私、幣帛(神前に供えたご幣)とお神酒を持って行き。くらは目をひっくりかえして歯をくいしばり、顔は白うになっていた。私は、病人をひき起こして片手にかかえ、すねにもたせかけて、小指で口を開けさせ、お神酒をうつしこみ、喉へ通らせた。
 「腹へ納ったから心配ない。加持をいたしてやれ」
 六根の祓と心経を三巻ずつ読んだ。
 「もうよし。暮れ六つ時(午後六時頃)までに験をやる。生き祝いと思うて、夕方をここの広前にて休め。家内は病人のそばにおってやれ」とお知らせ。
 私は茶づけを食べなおして、部屋の境の襖を閉めて、お広前で横になって休んだ。なにかと考えてみた。
 「以前には教えてくださる神様もなかった。こんどは結構にお知らせくだされなさった。ありがたし。これで死んでもおかげ。今までは大入用(大出費)入れて死なせ、隣家、一家、親類、谷中の人らのごやっかいまでかけた。この度は入用させなさらんのう」と思っているところへ、妻が、「もういけません、今のうち死にみやげに、もう一度祈念をお願いしなされ」と申した。
 私は、天地金乃神様へお願いした。
 「祈念してもせんでも同じこと。したい思えばせよ、せんよりはよかろう」とお知らせ。
 お祓、心経五六巻あげた。
 「もうよし。暮れ六つ時までは、まだ時間がある。ほどなく験をやる。一口だけ泣いても験、ものを言うても験ぞ」とお知らせ。
 また私、横になって休み、もの案じいたした。
 「『信心いたしてもどうもならんものじゃのう。またあそこには子が死んだ』と人に言われるのが残念と思い、しかたないこと、世間にもあることと。神様のお知らせどおりにして、病中に入費も入れずに、ありがたいこと。夜にひそかに葬式いたそう」と考えているところへ、「お母さん、小用(おしっこ)が出る」と申す声に、私は起きあがって出てみた。
 病人が奥の間から土間の入口の外で夢中でしゃがんでおり、妻は外の片づけに出ておってそこへ来た。
 私、「それみい、験をくださったのう。ひきかかえてもどれい」と申し、妻が抱いて帰って寝させると、すぐに寝入った。
 早々に私、神様へ御礼申しあげた。七つ半ごろ(暮れ六つ前の午後五時頃)だった。
 「お礼がすんだら湯を浴びなさい」と申して、妻が湯をとる間に、また「小用」と申して、土間の入り口の外にて、たくさん小用が通じ、本性にあいなりました。七つ下がり(七つ半と同じ)にて。
 天地金乃神様に御礼申しあげた。子どもは夜もよく休んだ。

 明けて二十八日に御礼申しあげた。
 妻が病人を見て、「おくらには疱瘡が出とる」と申した。
 神様、「疱瘡と言うな、疱瘡と言うと、この上に心配になるぞ。朝飯を食べて、みな野良仕事へ行け」と仰せつけられました。
 夫婦とも、遠くの田へ行き、妻が来て「疱瘡じゃ」と申した。
 飯に帰りて、私、病人の所へ行って見ると、発疹がぱらりと出ておる。そのままにして、また田へ出た。晩の御礼の時には、なにかと神様のお知らせがあることを楽しみにした。
 二十八日の晩の御礼を申しあげた。
 「今日早々には、疱瘡ではないと申したのは、安心させるために言うたのぞ。よそには、『疱瘡を仕上げる(年下の子から年上にうつること)』と申す。この方には大きな子から仕下ろさせるぞ。五月は小の月で明日限り。二十九日(小の月は二十九日まで)、日もよしる注連おろし(厄守りの神を祭って注連縄をはること)する。門注連(家の入り口の注連縄)までその方は手伝ってやり、祇園宮厄守りの神前に向かうことは子供にさせよ。その方は、祇園宮へ向かうことはならん。この方の広前をせねばならんから。日々にご飯、香、花、朝晩に、祓、心経のごちそうをあげさせよ。この方には、笹振りの不浄、汚れ、毒断て*ということなし。二ヶ月越しの疱瘡ということにしておけ。ほかの子は、疱瘡をしてもせんでも、している途中であっても、六月十三日には注連あげ(疱瘡が終わったときの儀式)をせよ。祇園宮祭りまでに、厄守り神を帰らせねばならん」
(*笹を振って塩水をまいて祓ったり、けがれのことの作法や、病気やお産の時に特定の飲食物を絶つことなど。)

 二十九日に、床へ壇をかざり、祇園宮様をまつり、門注連までして、子供に御礼申しあげさせた。
 「うえのばば(妻の母)に知らせよ。『うちにもくらが疱瘡じゃ、今日に注連おろしする』と申しておけ。六月一日には発疹が出尽くすぞ。うえのおば(古川三作の妻)らが、子供(くら)を連れて、氏神、観音様へ参るから、赤手ぬぐいをかぶらせてついて参らせよ」とお知らせ。
 明けの一日、子どもは一日中遊んでもどったが、別状なし。御礼申しあげた。
  二日には、「今日は外に出ようとも言うまいが、出すな。今日から疱瘡が化膿し始める」
 三日、早々に御礼申しあげた。「今日、朝のうちが疱瘡の盛り。昼、夕方には、下りになる。まず一人はしあげた。安心いたせ。疱瘡は顔面が主で、ほか手足は大したことではないと思え。三日疱瘡と申すものなり」とお知らせ。

 安政六年六月十日に、「金子大明神」とお許し下された。

 疱瘡をしあげ、十三日早々に注連あげをした。祇園宮祭り、厄守り神を送り、神社(山の神の社)へ子供みなお供をして参った。
 御礼申しあげ、「また祭り後、厄守り神がいつなりとも来て、あとの子供にはさせようぞ」と天地金乃神様お知らせ。

 同じく六月十六日、三男卯の年宇之丞が病気になった。病気の全快を祈念した。日々御願い申しあげ、しだいに弱り、大病になった。
 二十一日には湯水も通らず、早々に御願い申しあげた。
 お知らせ。「疱瘡なら発疹が出ように、はや五六日になる。この度は病難ぞ。むつかしいが、どうか。この子は生まれ年をまつりかえしておろうが。元の年へもどすか。もどさねば助からんが、どうする。守り札を流すか、いかがにいたすぞ」
 「恐れ入りました。守り札流して元の年へもどしまする。お助けくだされ」と願いあげ奉り。
 「そんなら、元の寅の年の男六才、名も改めて、虎吉、とらよしと申せ。今日の朝のうち四つ時(午前十時ごろ)までに験をやるぞ。朝の仕事は家でやり、飯食べてからは、下淵の田へ、田の草取りにみな出よ」
 子ども(虎吉)が飯前に「水を飲む」と申し、湯飲み茶椀で一杯飲み、「団子食べたい」と申し、水団子を作り、一つ食べ、「もういい」と申した。妻が「もっと食べよ」と申し、私、「すすめな」と申し。無理にすすめて一つ食わせ、すぐにもどした。
 「すすめなと申すのに、無理に食わせて、難儀をさせて」と申してと、私は妻を叱った。神様に御礼申しあげた。
 「もう心配なし。飯食うて田の草取りへ出よ」

 同じく六月二十二日にお礼申し。
 「これをついでに疱瘡をさせよう」とお知らせ。
 「しかし、こんどは、先に注連おろし注連あげいたしたからは、こんどは注連縄をすることはいらない」と。

 次に、「午の年二才おこのは昨年より顔の出来物で毒取りをしているから、疱瘡は軽い。多くとも十五、六ぐらいは出ようぞ。序病み(初期症状)もない。祇園宮厄守り、外の間の神棚でごちそういたしてよし」とお知らせ。
 妻が「このは寝冷えをしたか、乳飲むのに口の内が熱い」と申し。その明けの日には発疹が出て、姉のおくらが始終守りをいたし。

 三人の子供に一夜も守りいらず。娘くらの時は午後の間、せがれ虎の時は朝の間、二人して手間がかからず。これも神様のお指図。何事も仰せどおりにしました。不浄、汚れ、毒断てを言うこともなし。結構に疱瘡をしあげて、ありがたし。

 六月二十八日、「隣家だけ呼んで、仮祝いにしておけ。また先で祝うと申し、よろこび(祝いの金品)は遠慮してもらうな。「借り末代」ということがある。不入用(無駄な出費)をさせるな」
 よろこびはもらわず、客接待だけいたしました。

 一つ、綿の肥やしは、油粕を一反当たり一俵づつにし、日照りになっても水をやるな。水をやると実の中の虫が多くなるぞ」とお知らせ。

 一つ、鈴木久蔵が、母屋と別棟住まいの時に、うちのまねをして麦を日に干さずに俵にいれた。
 六月には、つみ(穀象虫)が黒うなるほど出たと申して来た。
 「こなたにはどうでござりますか。つみが出はしませんか」「うちには出ない」「日に干しましょうか」と申し、「虫がおれば日に干すがよい」と私申し、「こなたにはどうなされるか」「私方にはつみが出んからなにもしません」と申した。
 同人が俵を出して、日に干した。つみがたいそう出て、母屋内へ入り、弟の今蔵が苦情を言いたてた。
 「ばからしい。信心する、拝むというて、神信心の素人の言うことを本気にして。拝んで虫がわかんものなら、僧侶や神官方には虫はわきはせん。生麦をどこの国にか俵にする者があるか。ばかの天上じゃ。うちの麦までだいなしにさせた」と申したと久蔵が来て話した。
 「それでも、おかげでたくさん痛まず、よけいも減らず、有り難いこと」と申して喜んだ。私は、神様に御礼申しあげた。
 「仕事のまねは誰でもできる。心のまねができんから」とお知らせがあった。


 八月に、虫が入っていそうな一番やわらかな麦俵に印をして別にし、それを出して俵からうつすところに、ちょうど鈴木久蔵のせがれが来合わせた。
 「どうかな。うちのは、つみも虫もおらんが。お父さんに、来て見なさいと言いなさい」と申した。
 麦を脱穀したが痛みもしていなかった。有り難いことだと知った。他の麦俵も日に干すことはしなかった。

 一つ、綿を植えたのは、堂東と小田など。そこに綿つみに出た。実も出来が良く綿の出もよかった。
 そこに、古川治郎が通りかかり、「この綿はよい綿じゃ。選別しないでいいほど」と申し、「うちのは、鳩の糞のような状態で、上の出来はない」と申した。肥を多くしたり、水をたびたび入れたのは綿の出が悪かった。
 綿を買う人が、「よい綿じゃ、こ(繊維)がよう出る」と申した。摘むのにも早く、選り分けなしだった。値段がよかった。

 九月十日にお知らせ。
 「当年の麦まきは、二十日ごろから来月の二十二、三日ごろまでにまくがよい。気をせくな。その間にはまかせてやる。当年は、せがれに牛を使わせよ。初めてのことで、土の耕しがうまく出来ようが出来まいが、たとえゆがんでしまっても、ままよと思って任せておけ。
 人が参って来て願い事を頼むのに、その方が牛をそのままにして家にもどるわけにはいかん。たとえ溝を切りさくことになっても、後から戻って直せばよいから」

 牛の使いはじめに、土手根の札場の田へ行った。
 妻が「秋の使い初めのことで牛の気が荒いから、初めにならしてみて」と申すので、私が最初に使った。しかし、牛はとび歩いて手に合わず、鼻輪を持ってもどうにもならない。
 私は考え、「これは神様のお知らせじゃ」と思いつき、せがれに使えと申した。すると「大人の手に合わんものが子供の手にどうして合うものか」と妻せがれとも申した。「手には合わんでも使うてみよ、楽じゃ」
 せがれが使うと牛は静かになった。
 妻とせがれに、「どうだ。恐れ入れい」と私は申しました。

 せがれ十五才に牛使いを譲り渡した。私は麦まきの途中でも、「人が参って来られた」と、うちから呼びに来る。すぐ家に戻って、拝んであげていた。
 十月二十一日までに麦まきを終わった。

 天地金乃神様にそのことを御礼申しあげた。
 「麦まき終わって安心いたした。五色の紙を五枚買うて来い」とお知らせがあり、私、紙を買うてまいり、お願いしました。
 「五枚を重ねて、七五三のちぢみをつけて幣に切れ。それで二尺五寸の新しい幣串を作ってそれを付けて供えよ」とお知らせ。
 できしだいに、お調べを願った。

 「金子大明神、この幣切り境に肥灰(農業)差し止めるから、その分に承知してくれ。外家業をいたし、農業へ出、人が願い出、呼びに来、もどり。願いがすみ、また農へ出、またも呼びに来る。農業する間もなく、来た人も待ち、両方のさしつかえにあいなる。なんと家業をやめてくれぬか。その方は四十二才の年には、病気で医師も手を放し、心配いたし、神仏に願い、おかげで全快いたした。その時死んだと思うて欲を放して、天地金乃神を助けてくれ。
 家内も後家になったと思うてくれ。後家よりまし、もの言われ相談もなる。子供連れてぼとぼと農業しおってくれ。
 この方のように実意丁寧神信心いたしおる氏子が、世間になんぼうも難儀な氏子がある、取次ぎ助けてやってくれ。神も助かり、氏子も立ち行く。氏子あっての神、神あっての氏子、すえずえ繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよ(呼び合いの語句)で立ち行く」とお知らせ。
 一つ、仰せどおりに家業をやめて、お広前をお勤めすることとなりました。安政六年十月のこと。
 (このお知らせを「立教神伝」と称している。)

  十二月二十二日、お知らせ。
一つ、「床の間に仮に二段の棚をこしらえよ。このままでは正月のお供え物ができぬ」
 占見村宗元の大工、重蔵が神様のおかげを受け、「お礼にしてあげます」と申して、同じく十月二十八日に調え、散銭箱も同人が供えあげた。

(一八六〇年・四十七才)
 安政七年の正月、信者氏子に拍手を打つことをお許しなさった。
 「所、歳、名前の覚をつける神門帳をこしらえよ」とお知らせ。
 同じく五月朔日お知らせで「願主歳書覚帳」と名づけて調えた。

 「田地を売り渡せ。所は札場西、向淵土手根みぞべり。それを古川家に売れ」
 買い主を八百蔵(舅)に仰せつけられました。万延(安政から元号変わる)元年十二月。

(一八六一年・四十八才)
 文久元年正月にお知らせ。
 一つ、「東長屋を建てかえよ。二間に四間*で、土間は四尺、半間のひさし付きで、一丈一尺の柱。木は、益坂の才治郎を頼め。大工は中六畳屋(地名・鴨方)の国太郎を頼め。こちらは何月何日と日柄を見ることはない。大工らが急ぐ仕事があるならそちらを先にしてもよい。いつであっても、その方の勝手しだい。準備出来しだいに建ててよい」
(*俗に「死に間」と言って世間の人が忌み嫌った建て方。)

 六月四日に大工が来た。脇大工は同じ所の玉之丞。そして同村の平吉が手伝い人として来た。

 七月二十一日に地ならしをした。石をすえる時、皆が暑いと申した。
 「明日は天気をくり合わせてやるから、暑いことなし」とお知らせ。
 「午後には、吉兆に雨が降りこむ、と申すことがある。二十二日早々に建てかけよ。人は大工とも七、八人でよし。手が足りねば神が手伝ってやる」とお知らせ。

 二十二日は一日曇り日和、八つ半ごろ(午後三時半頃)に建てかけが出来た。雨が降りだし、濡れては困るものや鴨居などそれぞれに、覆いをした。上からおりる間に、遅い人は雨のしずくが流れるほどの大夕立だった。
 昼からすでに雲が出て、「もう降る、もう降る」とみな申していたところだった。
 「よう今まで降らなかったのう、これが途中で降ると、どうにもならんのじゃった。よい都合に建ったのう」と大工が申した。
 すぐにお天気になりました。
 午後に棟上げのお知らせ。
 「五色の幣を三本切り、祝儀を三つ包み、米一俵を三人へ。棟梁は一斗五升、両人へ一斗ずつ、三つの入れ物に入れて、それぞれ幣を一本ずつ立てて、此方広前で三人で棟上げを祭ってくれ。ほかでは棟で祭るが、この方には神の指図で、棟ばさみも祭る米もいらんぞ。棟で祭っても、地を治めんと、ひっくり返っても仕方がないぞ。この方には地を治めよ。末の繁盛楽しませるため」
 七月二十二日に建った。

 八月、西北の方へ、大便所と小便所を建てることを、私へ仰せつけられました。

(一八六二年・四十九才)
 文久二年正月三日、久々井(玉島)に養子に行っている私の実弟の彦助(丑年)が神経が荒立っていると、本家の初之丞殿ならびに隣家の人二人が言うて見えた。
 早々に神様に御願い申しあげた。
 「心配なし。治めてやる」とお知らせ。

 また八日に、治らんと申して先の三人が来た。「本人が暴れて番をするのに困ります。檻に入れて、祈祷をいたしまする」と申した。
 私はまた神様にお願いした。お知らせ。
 「ほかの氏子なら止めぬが、この方から無事でやったから、この方で治してもどす。これが氏子同士なら、『健康な体でやったのだから、傷ものになったのは、よう受け取らない』と言おう。しかしこの方は神であるから、二匁の初穂(お供え料)も無駄な出費はさせぬ。元の本身にしてもどしてやる。
 「そうおっしゃっても来ません」「来ねば、この方から迎え神をやるから来る。せがれが行ってひきたてるから、その方は先になって戻れ」とお知らせ。
 せがれ浅吉が早々に行き、病人彦助を八日八つ時(午後二時ごろ)には連れてきた。また、本家、隣家の四人もついて来て、介抱いたしますと申しました。
「今朝から皆が世話をしたから、小康状態になっているが、大勢おるのがかえって悪い。この方で介抱してやる。皆ひきとってもらえ」とお知らせ。
 私、みなに断り申して、帰ってもらった。おって私ご祈念お願いをした。験の日のお知らせを楽しみに、日々お願いした。験の日のおかげも受けた。

 一月十四日の朝に弟の発作が起こり、私の手にあわない。金乃神様に御願い申しあげた。
 お知らせに「今日の昼、午後までには治めてやる。夕方には風呂を沸かして、家内中が入り、あとで本人を入らせよ。明日十五日にこの方の広前に出てお礼申させる」とお知らせ。
 「みなが風呂へ入ったからおまえも風呂へ入れ」と私申して、風呂場へ連れて出た。本性になっていた。入らせておいて部屋に帰り、神様に御礼申しあげた。
 また私は風呂場に行き、「湯加減はどうか」と申し、「よい加減です」と申し、「もうあがりまする」と申し、あがって便所を使った。
 「今夜は(門納屋から)母屋の方で休め」
 本人はうちへ入って神様におじぎをして休んだ。私も御礼申しあげた。
 本人は十五日十六日と疲れて休んでいた。
 十六日の昼、「もう起こせ。寝させておけばきりがない。大橋孫兵衛殿に頼んで、さかやきをしてもらえ。全快を久々井の家に申してやれ。彦助の妻は妊娠しておる」

 ようやく十七日が来て、元の本身になりました。
 「午後にはせがれ浅吉に着がえを持たせて帰らせよ」とお知らせ。
 ふとん一枚を食い裂いて、道具も壊していた。これは夜に番をしなかったゆえに、こちらの不注意だった。
 お知らせどおりに全快いたしました。八日より十四日までのことだった。

 二月二十八日の夜に、彦助の身内五人が、彦助を連れて来た。
 「あいすまんことですが、また発作がおこり、妻は産気にて心配しております」と御願い申しあげた。それで、お願いした。
 「氏子心配するな。神が産はさせん。帰ってみよ。腹は治っておろうぞ。病人はここに置いておけ。治して帰らせる。一度に毒を取ると、精根が弱る。二度にわたって毒をとってやる。病人が元の本心になって、妻のことが心配と言うようになったら、産をさせよう」とお知らせ。
 五人の者は頼みおいて帰った。

 三月三日の午後に、「姉さん帰ります」と申して、ひとり帰った。
 同じく四日にせがれに様子を聞きにやった。本人は朝の仕事に肥をかついだと申した。丈夫になりました。

 三月二十六日の夜中に、彦助の妻が安産した。おかげで軽かった。彦助はお礼参りをし、女の子が生まれたと申した。
 「一月延ばしてやった」とお知らせ。有り難し。親子丈夫に肥立っているとのこと。

 六月四日、東長屋の中に便所場を、また母屋の東に外便所つけることと、大小便所を作るようにとお知らせがあり、二か所にお許しくだされた。

 「せがれ浅吉当年十八才、身の上難儀の年。祇園宮へ六月十三日に参らせよ」と天地金乃神様のお知らせ。
 仰せどおりに参らせ、沙美より船で参り、同じく十四日の七つ時に下向いたしました。
 本人は、十五日十六日と疲れのようで、やぶのかけ台の上に裸で休んでいた。
 神様は私に、「疲れではない。はしかぞ」とお知らせなさった。

 二十五日に、はしかもしあげて元の本身になりました。
 「ついでに、あとの四人の子供も月のうちにはしかをさせてしまおう」と仰せつけられた。
 畳屋(地名・・鴨方町)の大工の伴蔵が、東長屋の作事をしていて、「この頃、子供衆が見えんが」と。「子供はみなはしかをしております」と言った。

 七月一日までに皆しあげた。五人の子に守りもいらず、その間、果物や野菜や青魚などの毒断ちをする必要もなく、この方よりはしかに対する手本を出した。

 一つ、修験道の矢掛智教院主のおじの斎次右衛門と申す者が来て、脅迫がましいことを申した。

 一つ、山伏のことで、神様が笠岡の出社(弟子の斎藤重右衛門宅)へ私を差し向けられた。私、二十一日の暮れ六つ時に行った。そこでは信者氏子が参っており、話をした。早々と矢掛(地名)へ人をやった。
 明けの二十二日午後に矢掛から人がもどり、「智教院主がお詫びを申された」と申した。
 
 同じく二十三日、籠で帰り、五人が供をしてくだされ、早々に五つ時に帰宅しました。神様に御礼申しあげた。
 あちらこちらから氏子が参って待っていた。前の家の鈴木久蔵が帰りを待ちかねて参っており、「妻が妊娠中にはしかで、九死一生と、医師は薬一服を置いただけでさじをなげて帰りました」とお願い。
 私は、お神酒を下げてやって、「早うに頂かせよ」と申して帰らせた。
 総氏子の御祈念を願いあげた。
 久蔵の妻は早々におかげを受け、お礼のお届けをいたしました。全快しました。
 大工の国太郎の妻が、妊娠中にはしかということで、医師も手を放したと申して、人が願いにまいり、「古川の母(八百蔵の妻で国太郎の実母になる)に来てくだされ」と。
 神様にお願い申した。
 古川の母に、「心配せずに行け。一心に願え。うろたえるな。明日の午後には安心して戻るようにしてやる」とお知らせ。早々とおかげで全快した。
 小田、本谷と、妊娠中の女が六人助かった。世間には多く死んだと聞いた。
 益坂の惣左衛門は、「今日の九つ時に験がある」とお知らせ。験の時に死んだと申して、人が来た。

 久々井の弟、彦助が大病と申して人が参った。薬一服も飲まずに全快した。弟は、はしかの時もおかげを受けた。

 一つ、十月十六日に早々の御礼申しあげているのところへ、「久々井の彦さんが急変で死なれた」と申して人が来た。
 私、聞くより神様にお伺い申しあげた。
 「急変ではない。変死じゃ」とお知らせ。
 「母親が神の恩知らずゆえ、彦助もいつまでも繁盛して安心することがない。神が早うにくつろがしてやった」とお知らせ。
 おって話を聞いた。十五日、日中に麦まきをし、夜明け頃に変死いたしましたとのこと。家内中たびたび神様にごやっかいになり、おかげを受けて恩を知らず。
 母と亭主の清蔵は、娘の持病で黒住教へ信心いたし、本部の信者と聞くなれども、先の養子も去り、娘の病気も治らず、父も病死いたして、後を継ぐものがなかったとのことだった。
 清蔵の妻は私の母方の西原のおばのいとことで、香取彦助を養子にすすめられた時、私は兄や兄弟が多くおるけれども、みな不幸せで、私を頼みにしたから世話をした。娘の持病もおかげで治り、二毛作の出来る上質の田まで心を配って与えた。しかし、神様へは信心すなと申し、心得の悪い母親と、この度思い知った。黒住教のおかげもないはず。取り欲張りで、彦助の葬儀費用までもむしんに来た。見限った女。

 金光大明神と十一月二十三日にお許し下さった。

 「土間の所の一間分を、座敷にせよ」とお知らせ。同じく十二月。

(一八六三年・五十才)
文久三年二月。
一つ、妻四十五才が妊娠した。
 「二月九日の夜に安産する」とお知らせ。
 九日には、「今夜は参り人がある。明夜に産を延べる。(産湯のための)かまどの火を消して今日はもう休め」とお知らせ。
 十日の夜は、参り人もなし。夜の五つ時(午後八時ごろ)に産人にふるえがつき、神様にお伺いした。
 「心配なし。広前の金の御幣を持って行って持たしておけ」とお知らせ。また私は、祈念して願い奉った。
 「もうよし。金幣はこの方へ納めておけ。産気の知らせである。産の場所をこしらえておけ。夫婦とも安心して休め。まだ、ひま取る。今夜の月のお入りでなからねば生まれぬ。生まれても、(私には)起きるには及ばぬ」とお知らせ。
 「こんどの子は育てるな。育たないぞ。産声だけぞ。脇へ寄せておいて、妻はいつものように休め」とお知らせ。
 妻が、腹が張ると申して目を覚まして起き、早々に安産した。軽かった。おかげを受けました。月のお入り時に男子が生まれた。そのまま片づけおいてまた休んだ。
 私、十一日が明けて御礼申しあげた。
 「子は七夜までうちに置き、七夜たって川へ流せ。産人は、夜が明けたから、起きて門の戸を開けよ。水神社広前(井戸のこと)に出ることを許してやるから、水をくんで、ご飯を炊き、土公神(かまどの神)と、この方へ供えあげよ」とお知らせ。
 産人は起きて仰せどおりにいたしました。身の上に別状ありませんでした。
 「女の身の上のこと。月役(月経)、妊娠、つわり、に腹痛まず。腹帯をするな。産前に身が軽い。産後のよかり物をせず、団子汁いらず、子に五香もいらず*、母の乳へお神酒をつけて、親子とも頂け。頭痛や血の道や病気もないぞ。不浄、汚れ、毒断てなし**。平日のとおりに過ごせるぞ」とお知らせ。
(*いずれも当時の風習で、産後も横にならずに布団などに寄りかかって休み、精をつけるために米の団子の味噌汁を飲み、初乳を捨てて五種の薬草の煎じ汁を子どもに飲ませるなどした。そうしなければ産後は体の具合が悪くなり、子どもも病弱になると信じられていた。それらの風習を止め、また初乳も飲ませるように、との意味)
(**当時は産にともなって、不浄やけがれが厳しく言われていた。それを廃するようにとの意味。)

 三月二十一日にお知らせ。
 「表口の戸を取って、戸閉てず(雨戸を閉めないこと)にいたせ」

(一八六四年・五十一才)
 元治元年正月一日にお知らせ。
 「天地金乃神には、日本に宮社がない。参り場所もない。二間四面の宮を建ててくれ。氏子の安全を守ってやる。天地乃神にはお上もないが、その方にはお上もある。世話人を頼んで、お上に願い申しあげよ。
 世話人には、当村の川手保平、同森田八右衛門。大工は安倉の元右衛門、弟子は中六の国太郎。手斧はじめは、きたる四月吉日とせよ。
 こしらえてお上に通らないならば、どこへでも宮がいるという所へやるから、かまわん。こしらえをせよ。
 お上に通って建ったら、その方の宮ぞ。天地乃神が宮へ入っておっては、この世が闇になる。宮は正真(いつわりのないこと)の氏子の願い礼場所である。
 その方の取り次ぎで、神も立ち行く、氏子も立ち行く。氏子あっての神、神あっての氏子。子供のことは親が頼み、親のことは子が頼むように、天地のごとし。あいよかけよで頼み合いいたせ」


  村のお役場へお伺いした。願い主は浅吉。世話人はその両人に頼んだ。判頭(村役人庄屋補佐)藤井春太郎、年寄(村役人庄屋補佐)西三郎治、庄屋小野慎一郎殿(小野四右衛門長男)に御願い申しあげた。お聞き入れくだされました。判頭より村方に相談のうえ、お上に願い申しあげました。正月十日。

 金神の宮のことで、御願い申しあげたことに、
 「代人を立てて、棟梁元右衛門、橋本卯平両人を頼め。棟梁は京都より大峰山(奈良県にある修験道の根本霊場)へ行って、山伏許状があるから山伏として、断りとお礼に参り、帰りに紀州を回って、材木の買い入れをいたせ」とお知らせ。
 京都、白川神祇伯王殿様(諸国の官社の総管理局)へ参り、御願い申しあげた。お役人の林大和守、安部田備前守がお聞入れになりました。私に神拝式許状(正装して神拝することの許状)をくだされました。宮のことは、屋敷内に建ててかまわないとのことでした。四月九日。

 神様が、私に湯と行水をおさしとめになりました。六月十日。

 私には、金光大権現、妻には一子明神と許されました。十月二十四日。

(一八六五年・五十二才)
 慶応元年十月十日、一乃弟子として金光浅吉(当時浅尾藩の並足軽となって名字帯刀を許されていた。)が許されました。

同じく十一月十五日に、次男の石之丞十七才(幼名茂平)に、剣術のけいこをはじめるように仰せつけられました。

(一八六六年・五十三才)
 慶応二年六月二十三日、朝の御礼のご祈念(総氏子への祈念)を中止するよう仰せつけられました。

 同じく九月八日明け六つ時(午前六時ごろ)、母(養母いわ)が病死しました。神様に願い。
 「そのことで取次の神前奉仕をやめることはならない。死人の所へ行くこともいけない。今日から節句(重陽の節句)であるから、子供総方に節句をさせよ。病人にしておけ。夜になにかと指図いたすぞ」
 夜に神様にお伺いした。
 「明日の八つ時から節句もすみ、八つの葬式ということがあるから、八つ時から披露いたせ。夜に仮葬式をしておき、京都にいる浅吉(当時京都在勤)へ知らせて、同人が来たら本葬式させる」とお知らせ。
 九日の夜に仮葬りいたしました。
 安倉の橋本卯平がちょうど参って来たので、神様より京都行きをお頼みになりました。橋本は行くと申して届けに参りました。神様は橋本をお差し向けになりました。私も、「蒔田相模守様のお屋敷を訪ねてくだされ、浅吉に会うて話をいたしてくだされ」と頼みました。
 ほかに神様より、「白川伯王殿様へ御願い申しあげて、信者氏子にも神拝式の許状をお許しくだされと願え。大谷村の金子(神号こんし)駒次郎、同じく(金子の意)占見新田村の坂助、同じく六条院中村の秀吉の妻へ、同じく西浜村の多蔵四人へお差し向けられた。棟梁の取次ぎで、金を十両渡して願え」と私に仰せつけられました。許状代として渡しました。九月十日に橋本卯平へ。
 十月二日に帰宅しました。

 十月八日に、京都より浅吉が帰った。一日に出たとのこと。三十日のおいとまをくだされましたとのことだった。神前へ参ってきたので、神様へお届け申しあげました。
 「まず、当分の間休息せよ」と仰せつけられ、「なにかこの方より指図いたすまで待て」とお知らせ。

 お上(浅尾藩)より石之丞へ、十一日の五つ半時(午前九時ごろ)に御召しがかかったので、同人が行きました。

 十二日早々にお知らせ。
 「十三日に母の葬式をいたす」
 十二日の午後、石之丞が帰宅いたしました。有志役(非常時に軍務に服する役)を申しつけられました。名字帯刀を許されました。

 兄弟とも、帯刀でばば(養母)の供いたし、大層にぎやかに本葬式をおさせなさった。何事もおくり合わせくだされました。
 浅吉は、十九日までの回向もし、二十日にお役所に出て御用もすんでその日に戻りました。
 二十一日の夜に、玉島からの船便にて京都へ帰りました。金光浅吉。

 同じく十一月二十四日、
「鬼門金乃神大明神 神力明賀命、金光大権現人力威命」とお知らせ。

(一八六七年・五十四才)
  一つ、お上より、京都(白川家)に神官の官位を出すように、添え状をくだされた。慶応三年二月十日。
  同じく二月十三日。「(私の)代人として金光石之丞、棟梁、橋本右近の両人を頼め」とお知らせ。
  安倉で船を頼んで出船。その三人が上京した。
 上京することについて、神様よりお知らせ。
 「『この度は、藩から添え状をくだされ、神官の官位のこと、よろしゅう御願い申しあげます。しかし、金神の広前では京都の御法(儀式作法)どおりのことはできません』と申してくれ」と両人へ申しつけられました。「たびたびまいるから、天地金乃神のおかげ話をするがよい」と。
 慶応三年二月十三日に、三人が上京し、「これまで、たびたび、ごやっかいになりました。このたび、藩より添え状をくだされましたので、持ってまいりました。よろしきように御願い申しあげます」と申しました。また、金神のありがたいおかげのことを申しあげました。
 拝むことや、六根の祓、心経などのことはお役人もお聞きいれになり、
 「なるほど、こちらの法(儀式作法)どおりにして、神が聞かれずにおかげくださらないでは、どれだけ法どおりに祈っても役には立たないであろう。拝む人の願いで、神がますます感応いたされるのだから、それでよかろう。心経だけは言われねばよいのに。これは経文じゃ、仏の方であるが、とめもしない」
 神の広前の飾り物(鏡や幕、燈篭などの調度品)のことをお伺い申しあげると、「この方には、飾り物の許しは出さないが、氏子が奉納した物なら何であってもかまわない。紋は丸に金の字で、差し支えない。
 吉田家(神職を束ねるもう一つの家)では遠路の人でも留めおいて、礼拝や諸礼のことなど、二十日、三十日かかっても教えると申している。しかし、この方にはそのように人を留めて出費はさせません。藩の願いどおりの許可状を出す」
 備中浅口郡大谷村
 金神社神主 金光河内 白川神祇伯王殿家 本官所
 蒔田相模守様内
  亀山幸右衛門様
  二階堂勇右衛門様
  平田慎作様
       伯王殿家 役人
         村上出雲守
         安部田備前守
         二月二十二日

 京へ四日滞留し、同じく二十八日に三人は帰宅いたしました。

 四月十五日に、浅吉の出世のお知らせ。
 同じく四月十八日、「同人はお役所勤めになる」とお知らせ。
 五月三日、同人はめでたくその通りになりました。

 同じく八月二十五日の早々にお知らせ。
 「棟梁の考えで宮社の建築は成就しない。油買い、分けてあてがえ(事情は不祥)」

 一つ、同じく九月九日、石之丞が浅尾藩のお役所にまいり、その日に帰りました。疲れていた。
 十一日に、石之丞は西小坂村の久太郎の病死見舞いに行った。
 帰ってきて、十二日から病気になり、日々病気が増した。
 二十日夜、「本人をこの方広前へ参らせよ」とお知らせ。
 明けて二十一日の早々、奥の間へ休ませた。今日より天地金乃神様のお祭り。
 「明日までに全快を願え」とお知らせ。
 二十二日に具合悪く、昼九つ時、に「九死一生」と言って妻が私を呼んだ。「このとおりです。どうしましょうか。命乞いの願いをしてください」と言った。
 私は、「命乞いの願いといって、何をするのか。うちのものはみな神様のもの。日ごろの心得を改めよ。大切な、年に一度のお祭りの日に、死ぬような病気になるのも、家内中の心からぞ。しかたないこと。死んでもかまわぬ。ほっとけ」と申し、神様へ「私は、今日はあなた(神様)への御用をいたさねばなりません」と申しました。
 私の心へお知らせ。
 「かわいそうなと思うな、うち殺してしまえ」とお知らせ。
 そのまま私は、お神酒をなめさせておけと申して、お広前に出た。
 氏子らの取次の御用をいたし、晩まで続いた。

 二十三日夜はお月待ち(集会礼会のようなもの)。総氏子の御礼を申しあげた。
 お知らせ。「石之丞へご飯(ご神飯)を下げて、茶をわかして、茶漬けにして食べさせよ」と。
 「神様のお差し向けじゃから、茶漬けを食べよ」と申してやると、本人は手に取って食べました。
 明けの二十四日には粥を食べ、しだいに食づいて、日々快方におもむきまして、ありがたいことでした。

 二十八日に、「(石之丞の)寝床をあげよ」とお知らせ。
 「昼は外へ出られるようにしてやる。十月一日には髷を結い、さかやき剃りをして、広前に出て、礼をさせよ」と。
 何事も仰せどおりにしまして、おかげをくだされて、おいおい全快いたしまして、元の本身になりました。その間十一日間、穀物が食べられなかった。金光石之丞酉の年十九才の年のこと。今は萩雄と改名させている。

 一つ、「門の戸を開けっぱなしにして、その敷居もつぶせ」と十月五日にお知らせ。

 十一月二十四日の早々にお知らせ。
「一つ、日天四(太陽の神性のこと)の下に住む人間は神の氏子。身の上に痛い所や病気があっては家業が出来難し。身の上安全を願い、家業出精、五穀成就、牛馬にいたるまで、氏子の身の上のこと、なんなりとも実意をもって願え。
一つ、月天四(月の神性)の威徳。
子供のこと、育てかたのこと、親の心得。また、月の延びたの流すこと(人工妊娠中絶)は先々に難儀がある。それよりも、心、実意をもって神を頼め。難もなく安心になるぞ。
 一つ、日天四 月天四 鬼門金乃神(大地の神性)、取次金光大権現の威徳をもって、神の助かり。
 氏子の難なく安心の道を教えて、いよいよ当年までで神の頼みはじめから十一か年にあいなる。金光大権現よ、これより神に用いる。三神である天地の神の威徳が見えだした。かたじけなく、金光、神が一礼申す。以後のため」

(一八六八年・五十五才)
 慶応四年の正月六日にお知らせ。
 「子ども二人のことで、四月を楽しみにせよ」
 同じく二月五日にお知らせ。
 「兄の浅吉、身の上は安心安楽ぞ」
 江戸で勤め、その後、江戸より殿様のお供をして、浅尾藩のお屋敷へ入った。同じく三月三日。始終、お屋敷勤めをしている。

 同じく四月三日の早朝にお知らせ。
 「棟梁は神の恩知らずゆえ、神がいとまを出す。お上へ対しては、まず建築の中止を届けて、一区切りをつけよ。四月八日に、米一俵を使って胡麻屋の喜十郎殿を頼んで、大工道具を取りに来いと申してやれ」

 「所帯道具を持って帰らせよ」と十日にお知らせ。

 同じく四月十六日に棟梁が来て、向明神(信徒・藤井きよの)と世話方両人(川手保平、森田八右衛門)を頼んで、三人で私に神様へおわびを願いあげた。私は、神様へおわび申し上げた。
 「金光、願うな。かなわない。金神は気ざわり。荷物を持って帰らせよ」とお知らせ。
 十七日に帰ることになった。「七月の盆までの建築費は出してやる、借金があれば申し出よ、払うてやる、途中でひまを出すのであるから、さしつかえないようにしてやる」と世話方両人へ申し渡した。同じく十七日のことだった。詳しいことは建築の帳面に書いた。

 四月一日、私親子とも、お上より賞せられました。浅吉は徒士役に、父である私には藩の御紋のついた裃を下されました。神様の御仰せどおりでした。四月。

 同じく四月九日お知らせ。
 未来永劫、代続きで、始終幸せで出世繁盛をさせる。

 同じく四月二十四日にお知らせ。日と月の運行のこと。昼と夜に長い短いがあること、南北寄りに回ること。午の年(二年後)は閏年になること。それらのことについて。
 
 五月二日、お日様がお入りになる頃にお知らせ。
 「天地の三神が悪事を刈り取るとは、お上に刈り取らせるということ」

 七月に、「さかやきのこと。月の一日、十一日、二十一日と三度いたせ」とお知らせ。

  一つ、「十か年先までの、わが身の姿を見せる。末のため」とお知らせ。七月二十七日。

 九月二十四日に、神号を変える、と仰せつけられました。

    丑   生神金光大神
日天四 寅
        鬼門金乃神
月天四 未
    申   大しょうぐん不残金神

「『天下太平、諸国成就祈念、総氏子身上安全』の幟を染めて立て、日々祈念いたせ。名前の書きつけとして、新しい信者氏子には神号をとめる。
 一つ、くくり袴を調えよ。羽織はさしとめる」

 九月末に、明治元年と年号が変わったのを聞いた。

 十一月一日に仰せつけられて、家内、子供まで、ご神号をお許しくださった。
 
 「当年より十三か年先には世の治まりとなる。天下太平を願い、楽しみにせよ。明治十三年までのこと。」とお知らせ。
 
(一八六九年・五十六才)
 明治二年正月に仰せつけられ、お洗米(御神米)、歳書帳の紙を新たに買い求めました。

 三月十五日お知らせ。
 「当年より、先祖の祭り。毎年九月九日十日にして、身内、親類を、この方へまいらせよ。
 一つ、そのほかの祝い、祭りは中止させよ。
 一つ、親類のつきあいは子供にさせよ」と仰せつけられ、
 「一つ、建築のことは神が指図するまでは待て。もっとも、ほかの信者氏子が『してあげます』と申すことは、とめはしない」

 同じく三月十七日の早朝にお知らせ。
 「十七夜待ち(お月待ち)を拝むように」


 日天四
      両天惣身尊
 月天四
  大しょうぐん不残金神 土田命

同じく十七日夜に神号のお知らせ。

  同じく三月二十三日、
  「日々の朝晩の(総氏子の)祈念をやめよ。総氏子の祈念は、家内子供にさせよ」と仰せつけられました。また、「日々のご神飯は娘のおくらに炊かせよ」とも。

 一つ、岡山出社(弟子の広前)の信者氏子たちが参って来て、御礼を申しあげた。
 「ご建築がご中止になったとか。私どもでしてあげましょう」と申し、私にすすめた。信者氏子らは、むかい(藤井家)へ寄って相談した。五月二十五日。

 笠岡金光大神(弟子の斎藤重右衛門)、玉島金光大明神(同じく小谷清蔵)が、ご建築のことで、私にすすめられ、神様へ御願い申しあげた。
 「神はどちらとも申さず。総方へ任せる」と仰せつけられました。同じく七月十一日。

 笠岡出社金光(斎藤重右衛門のこと)が棟梁川崎元右衛門へ訓戒をして、手斧はじめをさせた。また、同出社の棟梁である谷五郎をさしむけて、客分の立場で仕事をさせた。同所向かいの友右衛門、弟の林右衛門両人が、建築初めの祝いに酒樽や魚を供えに参ってきた。九月十日。
 諸出費の書き付け、建築費用を月毎に渡すことを、世話方に申しつけた。臨時の手伝いの大工は、その時しだいに頼み、盆の節季は二十日きりにして大工を帰すように申し渡した。

(一八七〇年・五十七才)
 明治三年、大しょうぐん様(暦の神の一つ。この神の方角は三年ふさがるとして万事に忌む。)のご縁日である七月三日の早々にお知らせ。
「一つ、今年限りで古着の繕いをする必要はないと、一子大神(教祖妻のこと)へ申し渡せ」
 「一つ、母屋の屋根がえをせよ」とお知らせがあった。
 以前から、「雨漏りして畳がくさっても大事ない」と仰せられていた。だから雨漏りがすると座敷へ受け物を置いていた。このたびは、「世話人が屋根をふくと申すなら、任せておけ」とのお知らせ。
 九月の天地金乃神様のお祭り後、母屋の屋根のことで私に届けがあった。「よいようにしてくだされ」と世話人へ任せおいた。
 世話方両人、道木、伊勢辰年(久戸瀬伊勢五郎)。屋根屋、胡麻屋、組五郎、同じく、佐方、筆蔵。
 同じく九月二十七日、八、九日までに、屋根のふき替えすべてを成就いたしました。みな、おくり合わせでした。おかげ。

 「一つ、日天四 月天四 丑寅未申鬼門金乃神社 生神金光大神社、当年で十三年にあいなる。辛抱いたし、神徳をもって天地の芯と同根なり」
 私の口をもって六根のお祓、心経をお読みなされて、「金光大神社の口で天地金乃神が御礼申す。このうえもないことである」とお知らせ。
 「一つ、諸事の儀(冠婚葬祭などのつきあい事)には、銀が一匁に対して一分というように、ほかよりも一割り増しにせよ」との、お知らせがあった。十月二十六日。

(一八七一年・五十八才)
 明治四年の正月か二月三日にお知らせ。
「一つ、広前の御祈念の座にしている六角の畳を片づけよ。以前に、農業をとめたが、安政六年の十月より、今年で、十三年の年回りとなる。今まで、たびたびの難儀や災難があった。これから後もどのような災難にあおうとも苦にやむな」と。

 四月六日に西六信者先生夫婦(斎藤藤吉・富枝)が参り、世間で良くないうわさが立っているとの話をした。「弟子の広前の信徒と組んで強盗に行った」といううわさであった。この方にはなんにも知らないことと申しました。
 そのことで別に何事もなし。

 一つ、四月十日お知らせ。
 「世話方の川手保平の広前の歳書帳つけは、今日限り」と、おとめになりました。その後、また川手保平が見え、神様へお伺い申しあげた。
 「世話方午の年(川手保平のこと)。金光大神を六角畳の上からおろすからには、よくよくのことと思うてくれ。また用があれば、この方から申してやる。今日もまあよい」と。
 その後、世間のうわさのことをだんだんと聞くようになった。参り人も少なくなった。
 県(当時の浅尾県)でも聞き込み捜査があったとの話を聞いた。
 県のその係りのお役人が来られて、「どこで聞いても、なんのことはない。何もかもみな嘘である」と話されました。
 「まったく根拠のないうわさである。人の妬みというもので、言った者がわが身へ難儀を受けるであろう。以前にも、ある者がお屋敷内で人をしくじらせようと思うて、たくらみをしてお上に願いあげた。吟味されることになったが、はかられた人が実意に答えたからたくらみとわかって、しかけた者が失敗してついには屋敷を立ち去らなければならなくなった、ということがあった。これらがまったく、妬みはわが身へ難を受けるということ」と話をされ、「あなたが実意であるから、県の聞き込み捜査で確かめることが出来た。人がなにを言いふらそうが別状ない」とお話された。浅尾県の寺尾只一殿(当時、社寺司補)。

 一つ、五月二十四日にお知らせ。
 「棟梁の性根が悪いから、建築は成就しない」と。

 同じく七月二十四日にお知らせ。
 「運気・運勢のことや、建築修繕などの方角や引越しや縁談などのことで願ってくる者へは、教えを説いて聞かせるだけでよい」と。今日は日天四様のご縁日。

 同じく八月四日にお知らせ。
 「麦を買うな。この方にある時にだけ食べればよい。子供に麦のもみすりをさせなくともよい。家内中の者に米を食べさせる。読み書き算盤は習った者から順に習っていない者に教えてやれ」

 九月九日十日祭り(金光大神祭りと共に先祖祭りの日)に仰せつけられて、幟大小を四本立て、表へ提灯を六張りし、新座敷表には二張りともし、大ろうそくをともし、餅をついた。
 一つ、「なにかのこと。淵が瀬になり瀬は淵となりと、たとえのこと。大水の時、平らの海のごとくと申すことあり」と。
 一つ、「備中の逆川(小田川)と昔から言うように、水が逆さに流れるようになる」
 
 同じく十二月四日にお知らせ。
 一つ、「始終仕合わせ。何事も思い悩むな。実意にいたせ。恐ろしいことも、怖いこともない。どのようなことがあっても逃げるな。逃げる必要はない。何事も、人を頼ると言うな」
 一つ、「娘の縁談のこと。たとえ三十になっても、いかず後家と言われても、かまわない。人の言うことを苦にするな。めいめい考えてみよ。神は先を楽しませる。寿命長久、末繁盛を願え」

  同じく十二月十日早々に仰せつけられた。
 一つ、「金光大神社でき、何事も神の理解(諭し)を承り、承服いたせば安心になり、神仏とも喜ばれる。親大切、夫婦仲ように、内輪むつまじゅういたし候え」
 )一つ、「方角日柄見るばかり。天地乃神に願うことなし。見ても見なくても願い断り申せ。神は氏子繁盛守りてやる」

 同じく十二月十一日早朝にお知らせ。
 一つ、「棟梁のはらわたが腐っているとは、橋本卯平と同様に、人に金の催促を受けても嘘を申し、棟梁様と人に言われて夫婦とも実意がない。神の威徳もなくした。金光大神を利用して氏子をだまし、何百両の金子を借りている。
 神は氏子が可愛いゆえに、神も立ち行くと思うて、棟梁として取りたて、神の威徳もあらわしてやった。それをわが力と思うて、もっともらしく方々を歩き、金光大神の恩も知らない。あれからはや一年もたち、一礼もいたさず。
 神は承知しておる。金光と申しても生神じゃ。目先でものを言わねば何にも知らぬ。金光あっての神、神が知らせねば金光も知らず。天地金乃神も気ざわり。このたび金光大神に知らせおく」

 同じく十二月二十四日にお知らせ。
 「建築地としてを辻畑へ宮建築をいたすと申し、氏子が心配してくれておる。まず、世話方を頼み、地所を開くことは、此方から指図するまで待て」

(一八七二年・五十九才)
 明治五年正月二十五日、
 「子供の縁談のことにつき、『一人もよそへはやらん』と今日言いきってしまえ。何事も世間のしきたりどおりにはさせない。神が指図いたす」とお知らせ。

  同じく正月二十七日にお知らせ。
 一つ、「盗人は貧から。盗む方も盗まれる方も難儀。
 一つ、「博打は重々の罪。人をだまして取る。『罪はほろびる』ということがある」
 一つ、「人にだまされるのは同罪の罪」
 一つ、「強盗は極悪人がすること。末は刈り取られる」

 同じく二月六日の暮れ六つ時に地震があった。
 「天地乃神の気ざわり。世の狂いになった」とお知らせ。

 全国の戸籍調査があった。この方の家内中のを書き改め、せがれの萩雄へ渡して届させた。同じく二月七日。氏神の宮は須恵村神職の弥九郎が勤め、札などを出すことになったとのこと。

 同じく二月十四日早々にお知らせ。
 「萩雄の縁談のことを棟梁が申し出たが、棟梁に頼むにはおよばない。元々、神の差し向けである。今までとは違い、政府もご変革なさったゆえ、神も変革してさせる」
 「この棟梁では棟上げすることはない。この方の建築ではない。ほんとうに、わけのわからないものにしてしまった。心を改めたら成就させようか」
 二月十四日。

 五月五日に「越後白衣かたびら(夏用の上等の単もの)着よ」と仰せつけられました。

 七月二十八日にお知らせ。
 一つ、「天地乃神の道を教える生神金光大神社を立てぬけと、信者氏子に申しつけよ。金光大神、拝むと言うな。お願い届けいたしてあげましょうと申してよし。願う氏子の心で頼めいと申して聞かせい。わが心におかげはあり。
 時節を待て。そのうち、金光と名乗ることを神より信者氏子に許す」

 一つ、「海川も変わり、船着き場所ともなる。世は変わりものである。宮を建てる建築地はここに決める。金光、信者氏子、先をいそぐな。おどろきから治まりになるから」八月十八日。

 一つ、「同じく九月八日まで単の着物を着て、九日から白のあわせを着よ」と仰せつけられました。

 一つ、同じく九月十二日、このごろから政府の宗教政策が変わった。また、棟梁がおいとまとなった。

 十二月一日にお知らせ。
 「朝の御祈念は、十二月一日、一月一日と年に二度だけせよ」
 一つ、「(新暦により)十二月二日限りで今年は終わり、三日よりは一月一日として休め。」
 一つ、「餅つき、注連飾りはこの方にはいらない。年中注連縄があるから。幟は内へみな立てよ。祝いや祭りは人並みにするにおよばず。何事も氏子の供え物でよし。」
 一つ、「家内で食べるものは何なりともこしらえて食べよ」と仰せつけられた。

(一八七三年・六十才)
 同じく十二月十五日(新暦明治六年一月十三日)。
 一つ、「太鼓を打つにはおよばない。門の鳥居を納めておけ」
 一つ、「諸事の買い物は、見ず知らずの行商人からは買うな」
 一つ、「魚なども必要ならば、十匁の物が二十匁しても買え。値切ることはするな」
 一つ、「生きたる物(愛玩用)は多く飼うな。骨が折れるぞ」
 一つ、「衣類、諸事の物、むやみに買うな。買うてよい物は神が買うてやる」
 一つ、「物見遊山や浪曲講談などを聞くことは、むやみに行くな。都合を良く考えてから行け。世間の人は寿命延ばしと申して出ておるが、この方には神がおるから、寿命延ばしをするにはおよばない」

 「金光大神社と一子大神の親夫婦、子供は、金光正神、山神、四神、正才神、末為神と五人とも、神に用いてやる。妻は神となりても、いつも風邪をひいたと申しおる。このうえ神の言うとおりにせねば、病気、病難、はやり病気までもあるぞ」
 一子大神は、鳥居や幟を取ればさみしいと申したから、神様にお断りお願いして、鳥居と土間の入り口の幟はそのままにしておいた。
 十二月十五日(新暦明治六年一月十三日)

一つ、「この先は、また何が変わらないということはない。氏子の心で良いことになる。そう書き付けをして、家内中へ申して渡せ」
 旧暦の十二月十七日、新暦の一月十五日。
 一つ、小田県の(浅尾県は統廃合されて小田県となった)の布達*のこと聞き、神職として成り立たないと申して、家内中が心配いたしました。
 「天地乃神とは、日天四 月天四 丑寅未申鬼門金乃神のことぞ。家内中、神のことを忘れるな。何事があっても人を頼ることをするな。良し悪しも神任せにいたせ。心配するな。世は変わりものじゃ。五年の辛抱いたせ。とにかく、内輪きげんようにいたせ。もの言いでも、あなたこなたと申してよい。何事も無駄口を申すな」
 新暦の明治六年二月十七日。
 * 明治政府による祭政一致の国家神道体制により、従来の神官職が廃され、官選以外の者の宗教行為は禁じられた。教祖もこの時に神官の資格をなくした。
 
 明治六年旧暦の正月二十日。月三十日と決まり、閏月、月の大小もなし。

  一つ、川手村長より萩雄を呼ばれたので、早々に行った。「神前を片づけよ」と申しつけられたと、同人が帰って申しました。すぐにお広前をかたづけ、荒れはてた空き家のようになりました。新暦二月十八日午後の七つ時でした。
 かたづけが済みしだいに、村長へ宅吉(虎吉から改名)に届けさせた。旧暦の正月二十一日に当たる。
 翌日の旧暦の正月二十二日より私、金光大神はお広前をひいた。天地金乃神様より私に、「力落とさず、休息いたせ」と仰せつけられました。同じ日の午後に門の鳥居を片づけました。

 旧暦の二月十五日に、お知らせ。
 一つ、「金光は生まれ変わりとして、十年ぶりに風呂へ入れ」とお許しくだされた。生まれ日を改めました。
 一つ、「子供に申し渡せ。反物があっても仕立てるな。その時その時の流行があるから」
 一つ、「しま模様の木綿は織るな」
 一つ、「白無地の木綿は糸をよく吟味して質の良いものを織って、貯めおくがよい」
 一つ、「売るための木綿織りはするな」

 一つ、同じく旧暦の二月十七日早々にお知らせ。
 「六月(旧暦)を楽しみにせよ」
 一つ、「天地金乃神 生神金光大神 一心に願え おかげは和賀心にあり」
という書付をいたせ」と仰せつけられました。

 一つ、世話人の森田八右衛門が出て来て、村長から「金神様のお厨子を出して、内々で御取次するように」と申しつけられましたとのこと。
 家内中の者は喜びましたが、私は、「内々ではいたしません。お上や、お役場へご心配かけてはあいすみません」と世話人へ申しおいた。
 早々に八右衛門が、川手村長の所へまいり、「金光は、内々では心配をかけるから拝まないと申しまする」また、村長が申されることに、「あんまり、金光は丁寧すぎてどうにもならん。止めたのもわしなら、拝めいと言うもわしじゃ。お上もはじめは厳しゅう申しつけられた。それで小さな宮などは取り払われると思うた。それがまた、少しはゆるやかになった。おひざ元(笠岡)の、大仙稲荷社は建築も出来て拝んでおるのだから。金神様も人が参っても拝んでやらんと、みな力を落として帰ると聞く。悪いことをせんのじゃから、人の助かることじゃ。また、なんとか心配があるようなら、こちらへご沙汰があるから。何事でも申してやるから心配はない」と申され、「これまで資格があって拝んできているのだから、また新規に願いを出すとなると骨がおれる」とのことだった。
 「それならば」と申して、私も得心いたしました。新暦の三月二十日。旧暦の二月二十二日
 世話人の川手保平殿も参り、私へすすめられた。
 「私(川手保平)が、あなたのお身代わりに立ってあげます。ご心配はおかけいたしません」と申しくだされました。私も、「氏子を助けに出るからには、みなさまへご心配や、あなたへごやっかいかけてはあいすみません」と申しました。

 旧暦二月二十三日に、お厨子を出して奉斎をし、御礼申しあげて、氏子の願いのことをお届け申しました。私は、三十日間休息いたしました。
 翌二十四日には、これまでのとおりに袴を着けて広前へ出た。
 一つ、「お上に対しても、実意を立てぬき候え」以上、天地金乃神様が仰せつけられた。旧暦二月二十四日ご縁日、新暦三月二十日より二十一日二十二日ご縁日。

 旧暦三月二日に仰せつけられ、「迎え湯として風呂へ入れ。以後は風呂に入ることはならない。寿命長久させるために」

 一つ、三月十五日に仰せつけられた。
 「   生神金光大神
 天地金乃神 一心に願え
    おかげは和賀心にあり
    今月今日でたのめい
これを書きつけ始めて、書きためておき候え」

 一つ、三月二十四日に仰せつけられた。
 「今までは神前へ向いて座っているが、今日から金光大神、表口へ向け(神前に対して横向きになる)。日月の縁日。天地乃神の威徳。賽銭箱を出して上の間に置け」
 一つ、「月末(三十日)に、絵馬、提灯を広前へ出せ」と仰せつけられました。
 一つ、「銭が三文が一文の値打ちになっても、藩の紙幣が通用しなくなっても、欲を言うな」

 四月四日。
 「何事もみな天地乃神の差し向け。びっくりするということもあるぞ」
 一つ、「夫婦二人に、子供五人夫婦十人、合わせて干支の十二組み合わせとなる。末が楽しみである」

 一つ、宅吉とおこのが伊勢参宮をしたことについて、御願いあげた。
 「二十三日ぶりにはもどる」とお知らせ。仰せどおりに、四月三日に立ち、二十五日午後に帰宅いたしました。
 一つ、「何事もお上任せにいたせ」とお知らせ。

 四月二十一日早々にお知らせ。
 「伊勢参宮した子どもに、まちご(村境で着替えの着物を持って迎えること)はするな。させないのは、憎いからか。兄の浅吉の時と同じ*にするのである。迎えに行くにはおよばない。必ず、うちへもどって来るから」
 *浅吉は元治元年四月に抜け参りをしている。抜け参りにはまちごはなかった。

 一つ、「物事に際して、贈り物をして人からよく思われようとするな。した方がよいと思うことは、神が指図いたしてやる」

 五月二十日までに、岡山藩の紙幣は明治政府発行の新貨幣と交換しておかねばならないと、備前上道郡中井村の信者、金子明神大森うめが知らせに来た。金乃神様にお願いした。
 「あるだけこの方へ納めておけ」と。
 私は妻より預かったが、また妻にもどした。後に大森うめがすすめに参ってきたので、四月二十九日に出した。

 同じく四月二十七日に家内中へ、「木綿着の仕立てをせよ。それは一反も売るな」とお知らせ。

 一つ、「女用蛇の目傘を二本、唐傘を二十本買って、丸に金の字[図 ○の中に金]大本社印を入れたものにせよ」萩雄に申しつけられた。六月十二日早々。

 同じく六月十日にお知らせ。
 「金光大神は平民であっても威徳ある者。天地金乃神の威徳をあらわす者である。当年より五年先には世も治まる」

 八月十七日早々、私は気にかかることがあり、お伺い申しあげた。
 「何事も変わることはない。月日と潮の満ち干も変わらないから、これまでのとおりである。火難、不慮の事故、災難、悪事、毒害も払いのけてやる。別状はない」と仰せられました。

  一つ、申し渡しとして、「娘たちは木綿の着物を仕立てよ。その合間には、売るための木綿も仕立てよ。この方金光大神に買い取らせる。その代金をもってめいめいがいる物を買い、または染め賃にいたせ。織り糸のための綿はこの方からやる。麦や米は買うにおよばない」と八月十七日にお知らせ。

 八月十九日早々にお知らせ。以前に出社(弟子たち)の神号を浅尾藩から止められた事に対して。
 「このたび領主が変わり、出社神号は、『一乃弟子』に改める。皆、金光大神の一乃弟子」
 「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず。神仏の宮寺社、氏子の家宅、みな金神の地所。そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。
 氏子、信心いたしておかげを受けよ。今般、天地乃神より生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす」
 一つ、「向明神(藤井きよの)は、初めの頃よりの信者と申し、こんど心を改め、夫婦とも、命限り根限りと思うて、一心に願え。金光向大明神になれることがある。家庭円満になるようにしっかり願え」

 総氏子のために仰せつけられた。八月十九日。
 「日天四 月天四 丑寅未申鬼門金神、日本に知らん者はない。おかげを受けた者もない。このたび、結構なおかげを知らせ、それを知っておかげを受けない者もある。
 日天四     金光大神 人力おどし命  人力威命
      惣身命 金乃神 神力明賀命
  月天四     大しょうぐん不残金神 土田命
 神名をたずねる氏子があれば、申して聞かせてかまわぬ」
 八月十九日。

 同じく九月十九日、子供四人への申しつけとして、祭りにお鏡餅をするのせんのと言ったことに対して。
 「皆が仲ようして末繁盛するがよければ、餅をするな。仲ようせずに末の難儀をしたければ、餅をせよ。四人相談いたして考えてみよ」と仰せつけられました。
 「この方広前は、このまま、掃き掃除するにはおよばない。心の安心助かりが大切である。掃除は上辺のことである」

 十月二十四日早々にお知らせ。
 「海川山でも、いかなる大きな神社でも、決して没しないとは言われぬ。ここの所でも船着場のような賑やかな場所にならないとは限らない。世の中が乱れれば変わるものである。先を楽しみにせよ」

 十一月十日。
 「何事も安心しておれ」とお指図くだされた。

(一八七四年・六十一才)
 同じく十一月二十二日(新暦一月十日)早々に御礼申しあげた時にお知らせ。
 「子供五人、五か所の取次の広前を建てて、それぞれの役をさせる。夫婦、子ども夫婦、合わせて十二の干支を組み合わせ、神の守り役、氏子の願い取次をさせる」

 同じく十二月十日、金光大神の縁日に、天地金乃神様のお差し向けとして、私、酉の年生まれの一才。そして、新暦では明治七年一月二十七日の日に当たるので、私、金光大神は酉の年二才となる。
 「明治七年より、旧暦の正月一日を起点として、新暦旧暦と並べて、一ヶ月を三十日とした暦を作り、三通りに書き分けてみよ」とお知らせ。
 一つ、「読み書きなどのけいこのことや、他になにかと定めたことを書付けて、家内や子供中へ申し渡せ」
 旧暦十二月十日、新暦一月二十七日に当たる。

 同じく十二月二十四日にお知らせ。
 「子供四人の縁談のこと。古川、藤井、安部である。先方から話があるまで言うな」酉の年の十二月。

 明治七年の旧暦正月一日。、新暦の二月十七日に当たる。
 「一子大神。当年より金光山神(萩雄の神号)へ世帯を渡しなさい。分からないことは二人話し合いでしなさい」

 同じく正月八日、新暦の二月二十四日、
 「金光正神(浅吉の神号)。人なみに辛抱いたした。浅尾から立ちのけ。末のため」

  一つ、「氏子が願う金光大神の直筆のことは、請け合っておけ」
  同じく正月二十四日早々お知らせ。
 同じく、天地書附のことを、萩雄、宅吉両人へ仰せつけられました。
 「今日より書きはじめて、ためておけ」
 一つ、同じく正月二十四日、「当年より三年の間辛抱せよ。信者一同もこの方金光大神も」

 六月二十六、七日両日に仰せつけられた。
 「これまでのとおり、子供の縁談のことは、妻に古川家と話し合いをさせて、仲人なしで直接に、古川才吉にこのを妻として、古川ゆきを萩尾の妻へと、やりとりすることでも、得心ならいたしてよい」

 一つ、「建築のための小屋やそのほかの屋根がえのことは、三年待て。人がすすめても、『神様へお願い申してみましょう』と申しておいてよい。たとえ、壊れても腐っても大事ない。『何事も神様に伺います』と申しておけ」
 六月二十七日。

 一つ、旧暦七月十日早々に朝焼けがあり、すぐに消えた。雨が降り、大風となって、大工小屋と木びき小屋の屋根をはいだ。
 「そのままにしておけ。飛び散った茅は集めて風呂焚きに使え。人から藁の一把ももらうな。人があげましょうと言えば、納めてためておけ。取りに来い、やろうぞ、と言う人の所へは行くな。壊れようと腐ろうとかまわない。三年先を楽しめ」同じく七月十日の縁日に仰せつけられた。

 一つ、同じく八月五日夜に胡麻屋金光(中務坂助)が参って願いを申すのに、「昨夜、向明神(藤井きよの)、せがれ恒治郎親子ともおいでになって、お頼みになりました。こなたの娘おくらさんを貰いに行ってくだされと申されました。私は仲人でもありませんが、私が藤井家へ参って親ご夫婦へも相談したうえで、両親がお頼みになられましたので、よろしゅうお願い申しあげます」と。
 私、金光大神は、神様へお伺い申しあげた。
 「金光大神、神は一口で承知した」と仰せつけられました。
 「お上もご変革になり、この方も天地金乃神も変革する。無駄な出費をいたすな。先で、もし何事かあっても、『胡麻屋へ言うて行け』とか『呼んで来い』とは申さん。間に入った人に心配をかけぬように。
 古川、藤井、安部の三軒は、姓も同じと思って神の分家と思え。神の一家、親類ということは、今まで聞いたこともないであろう。病気の時に『医師だ、祈祷だ」という所へ縁組みはしない。医者や祈祷に頼ることをしないから、三軒とも神に繁栄を願い、辛抱してくれ。末の楽しみのため」

 九月九日、「金光大神祭りは、提灯一張りもともさず、毎年招いている親類だけもてなせ」九日夜と十日の朝のこと、お知らせ。

 同じく二十日早々にお知らせ。
 「天地金乃神のお祭りはいつものとおりでよい。お広前の粗すす払い、賽銭箱の両側へ手燭をともし、上がり口の上に提灯を二張りともせ。幟は一本も立てるな」と。仰せどおりにいたしました。
 世話人は参って来もしなかった。もっとも、森田八右衛門が夜に参り、すぐに帰った。外へは、本谷中の若葉(青年)と占見新田の胡麻屋の講中の人らが、提灯(角燈篭)をともしあげた。二十一日夜。講中では二十三日の夜もともしをあげた。以前から毎年のことである。

 十月十五日早々にお知らせ。
一つ、「ここで道を開いた金光大神の、生まれた時や親の言い伝えなど、こちらに来てからのこと、覚書にして、今の前後とも書きだせ。金神の方角を恐れたこと、無礼断りを申したこと、神々に信心したことなどを」

 一つ、十月二十二日早々にお知らせ。
「子供三人の縁談、交換にすれば、互いに結納もいらない。十一月十三日に嫁を貰え。その間には藤井家の縁談も決まる。その後に一度に客を招いて披露をせよ。世話人の森田八右衛門にも頼め。古川忠三郎(古川八百蔵の四男)の家も、どこまでも一人前の家として扱え。世間のことは言うな。世間では内輪で相談してと言うが、この方では神が指図する」
 しかし、十月二十七日に、十日の延期を仰せつけられました。

 十一月二日早々におてる(古川参作の妻津宇のこと)が参って来た。同じく十一月五日に、古川の母が参り、おてるが腫れ物が出来たと申して、願った。同じく十五日に、またおって願った。
 「時節を待て。どちらになるとも針でつぶすな。突っついたりして触ると痛みがつくぞ。つぶれるまで待て」とお知らせ。

 同じく十一月十七日に参作が参り、その時に神様が諭された。
 「両方の娘を嫁として交換にいたすように話し合い、どちらにも出費しないように」と仰せつけられました。おって話いたしおるところへ、参作の娘のおきぬが、『腫れ物がつぶれた』と申してまいってきた。参作も、すぐに帰った。

(一八七五年・六十二才)
 同じく十一月二十五日早々にお知らせ。新暦一月二日に当たる。
 「相談いたして、今日に妻とこのを古川家に連れて行き、みやげに鞆津保命酒一徳利、上質の砂糖を半分持たせてやれ」
 おこのは古川家に置いてもどり、あとはにぎやかに祝った。
 「古川忠三郎を頼み、おゆきを連れてこちらへ来、嫁として迎え、客のもてなしをせよ」
 どちらも棟を並べるほど近い家どうし。おこのはもどり、おゆきは帰り、客のもてなしをしただけだった。十一月三十日に、おゆきは母が連れて来て貰った。おこのはぐずって、そのまま家にいた。

 十二月十四日早々に私へお願いがあるとして、宅吉が友達に誘われ、南浦の酒屋へ働きに行くと申した。私は、兄(萩雄)と相談して行けと申しました。

 明治八年二月十六日、宅吉は無事で勤めを終えて帰宅いたしました。

一つ、宅吉は青年仲間にみやげの酒樽を開き、客もてなしをし、夜中の三時頃に皆帰った。おくり合わせにて、その後に雨が大降りした。二月は二十九日限りの日であった。

 明け三月一日、本谷の上の講内、下の講内の人たちが、嫁のお祝いにみえて、もてなした。夕方四時前に皆帰った。昼夜とにぎやかにし、皆が機嫌良く帰られ、すべてすみ、安心いたしました。酒が二斗五升いったと申した。

 一つ、母(とせ)が、萩雄とおこのとを連れて古川へ行き、萩雄ととせは、ごちそうによばれて、二人だけでもどった。三月十日。

 一つ、同じく五月九日お知らせ。
 「また元のように、月に三度、口髭と頬髭とも剃れ」

 一つ、同じく鞆の祇園宮の祭り日である六月十三日早々にお知らせ。
 「唐/天竺/日本 くぼい所へ寄る。水の寄るのと同様に。」
 「子供のことは神に任せよ。世間体を言うな。世間体を言う者は親類であってもおかげはなし」

 一つ、同じく九月二十日早々にお知らせ。
 「天地金乃神の祭りは、平生のとおりでよい。二十三日の夜にこわめしを作って、隣家をよび、紋付き羽織を着よ」と仰せつけられた。
 「二十一日の夜は賽銭箱のそばへ大ろうそくを一本立てよ」
 二十四日に、川手村長、庄屋の小野家、そして近所に、お餅を配った。使いをしたのは宅吉。

 一つ、同じく十月十四日。
 「病気、病気による難儀、悪事、災難から、一家親類まで逃れさせる。一心に願え」とお知らせあり。

 一つ、同じく十八日早々にお知らせ。
 「今から百日間修行を楽しんでせよ」
 明治九年の正月二十八日に無事に終わり、御礼申しあげた。

 高梁の酒屋の丸屋に頼まれて、宅吉が働きに行った。十月二十六日。

 十月二十七日、
 「子供五人の身の上は、神がよいようにいたしてやる。三備州」とお知らせ。

(一八七六年・六十三才)
 十二月小二十九日の暮れにまいり。
 「金光正神、三十二才の入り厄を楽しみに待て」とお知らせ。明治九年の正月一日。

 同じく一月二十一日、金光正神がお礼参りをした。心改めると。

 一月二十四日早々にお知らせ。金光正神へ。
 「今まで使うた金は人に貸しておると思うておれ。利子はこの方から回してやる。今住んでいる三畳敷の部屋にて三年の辛抱をいたせ。神に願い、人を助けてやれ。刑務所か留置場におると思うて手習いけいこせよ。毎月二十日にはこの方の広前に来い。借金をだんだんに払い、『わしも辛抱して払うから』と申して、借りた人へ断り申しておけ」
 同じく二十八日に帰った。

 去る明治元年にはご維新になり、明治五年に従来の制度全般が廃止され、それからあしかけ五年ぶりが今年である。十年前後。明治十三年までのこと」
 明治九年二月二十六日お知らせ。

 一つ、同じく四月十七日。
 「蚊帳をつるな」とお知らせ。
 「蚊が食うて血みどろになっても大事ない」
 この年(明治九年)から明治十二年の四月までは、旧暦では閏月があるから、三年と三ヶ月になる。

 明治十二年の旧暦四月十日に、蚊帳をつることを許された。明治九年は格別に蚊が刺さなかった。九年、十年、十一年、十二年と四年ぶりの四月の時。

一つ、「袴と羽織を着るな。白衣でよい」

一つ、明治九年四月二十六日早々に、古川参作が広前へ参ってきて、私へ話をするのに、「姉(とせ)が『頼むから才吉に得心させて、おこのを離縁させてやってくれと』申してきました」と。私も、「子でも言うことを聞かねばしようがない。飽いて飽かれて離縁する人もあり、好き合うた縁でも離縁するから、世の中のことはどうにもならない。また復縁する人もあるから」と申しました。
 同夜に、向明神(藤井きよの)が、くらを呼びに出てきた。翌二十七日に恒治郎が迎えに来たので、くらはついてまいりました。

 一つ、旱(ひでり)になったと申して、本谷中の氏子が願いに来た。五月二十一日。私は神様にお伺いした。
 「今日より田植えが出来る雨が降る」とお知らせ。
 翌二十二日の四時頃より降り、夜中まで降った。田植えした。また、二十五日の夜から朝まで降り、二十七日の午後まで降った。また翌月の一日まで降った。田植えに都合よし。

 三日は、大しょうぐんさまの月のご縁日。
 「上中下の三通りに分けて田植えを遅くしていって、どれが良く育つかをためしてみよ。後の草取りなどの手入れは鍬で削ってもよい」とお知らせ。
 早く植えたのが、秋によく収穫できた。新暦六月二十四日、旧暦閏月の五月三日。

 五月二十八日に金光正神が参って来て願った。私、御願い申しあげた。
 「言うとおりにしてやれ」とお知らせ。
 正神は、「妻がよそで勤めていますが、病気になったので費用がかかります」と言った。

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 (以下、金光宅吉の記述)
 占見村生まれ、元の俗名は香取源七と申し。
明治十六年旧暦九月十日に神去り、金光大神、七十才まで。
その後、二代金光四神こと宅吉と申し、あいつとめいたしております。
明治十七年旧暦十二月二十四日に金光とせ(六十六才まで)こと一子大神と神名。
明治十八年に普通教会金光教会(神道備中事務分局所属金光教会)の願いが通りました。明治二十年に、直轄(神道本局直轄教会)の御願い聞き届けにあいなりました。
                   二代金光宅吉書
明治二十一年八月四日までに写しを成就いたしました。