学びは、人間のみならず高等動物が持つ特徴である。子は親の行動に学び、個は集団のルールに学ぶ。
例えばチンパンジー。
小さい時に群から離されて人の手によって育てられたチンパンジーは、子供が生れても可愛がる愛情を示さず、かえって気味悪がって養育を放棄するという。
群れの中で年少のチンパンジーなどと遊んだりしたことがなく、メスのチンパンジーが子供を育てる姿などを見ていなかったからとされる。
高等動物が持つ「愛情」は本能として備わっているが萌芽に過ぎず、それを育てる環境があってこそ大きく発揮されてくるという。
たとえば小さい子供が群れの中のより幼い子を可愛がるのは、自ら愛情の萌芽を育てていることになり、孤独のチンパンジーとは違って群で育つチンパンジーは、親としての子供の育て方も、その為の愛情も、また他を愛することも、あるいは上下の順を学んで群れの和を保つことも、集団の中に学んで育っていく。
人もまた同様で、学びは人間にとって好むと好まざるとに関わらず、家庭で、学校で、社会で、見聞で或いは実体験で、自ずと学び、自ずと記憶し、情報として蓄積していくのである。
「学ぶ」の語源は「まねぶ」である。「まねてする」の意味である。
全盲聾唖のヘレン・ケラーは、師のサリバン先生が家庭教師として来るまでは、言葉を知らない獣同然であった。感情あらわに唸り吠え、空腹になれば手づかみで食べ、家族の意味も、物の意味も、心の意味も、いや人間であることすら知らない、また両親としてもどのようにして教え育てればよいのか分からず、結局は本人の望むままにさせるだけの全くの放任状態であった。
そのヘレン7才の時に、初めて文字を教え言葉を教えたのが弱冠20歳のアン・サリバン女史である。
2人の必死の格闘とも言える取り組みの上で、最初にヘレンが覚えたのは「Water(水)ウォーラー(発音)」であった。
ヘレン・ケラーは後に大学に入り、社会活動に取り組み、教育家・社会福祉事業家となり、世界各地を歴訪して身体障害者の教育・福祉に尽くす生涯を送る。
もし彼女が言葉を学ばなかったら、一生獣のままであったろう。
言葉は人間の精神を人間足らしめる基本である。
そして人の言葉が文字となり、書物となり、直接言葉を聞かずとも文字でその言葉を知り、その意味を知り、それを学んで自らのものとすることが出来るようになった。
もし金光大神の教えが文字となっていなかったら、金光教は消滅していたかも知れない。
少なくとも教祖が、覚・覚帳を記されなかったら、天地書附を書き残されなかったら、その信心の本質は解明できないままだったかもしれない。
しかし同時にまた、文字があろうと教典があろうと、もし人が学ぶことをしないならそれらは何の意味もなさない。
例えば「天地の大恩」という言葉とその意味。もっと基本として「恩」という言葉と意味。それは学ばねば人は知ることは出来ない。
「感謝」「感動」「有り難い」「お礼の心」、これらもその意味を学ばないなら、たとえ感じても人に説明することも出来ず、また他者もそれに共感することが出来ない。
犬には、泥棒と新聞配達の少年の区別が出来ず、猫をどれだけ可愛がろうと恩返しをすることは無い。しかし人であっても、例えば乞食にどれだけ恩を与えても決して報いることはしない。
今では子供に対する親の養育放棄が目立ち、また親が子を育てても、親の老後を養わない子も少なくない。そのような時代になった。
なぜなら、学びが偏ったからである。
例えば盗みをする人が増えた。万引きを平気でする人が増えたという。
なぜなら、人としてどうあるべきか、という学びが疎かにされたからである。
もちろん、盗みそのものは天地から見れば大した問題ではないように見える。ようするに天地の間にあるものを、あっちからこっちに移しただけだと。
しかし人間は群れ社会を形成せねば生きていけない動物である。米を作る人がある、それを売る人がある、服を作る人があり売る人がある。また車を作る人もある。ありとあらゆる物が多くの人々によって作られ、売られ、それによって、米を作らなくとも食べられ、服を作らずとも着られ、車を作らずとも車に乗れる。
それが支え合い助け合いの人間の社会の実態である。しかし盗みはそれに対する裏切り行為であり、だから法律では罪となって処罰されるのである。
それをするのが社会、即ち国家、つまり教祖の言われる「お上(おかみ)」である。
「お上、上々(神々)、親、この三つこと守り、そむかぬように説諭をいたし。(明治11戊寅(1878)旧5月)」というお知らせがあり、また「お上もかみ、神様もかみであるから、お上の規則に外れたことをしたら神様のおかげはない。(理2・河本虎太郎・10)」という教えがある通りである。
ところで、またのお知らせに「一つ、盗人は貧から、両方の難。(明治五年正月二十七日)」とある。
教祖様の時代、どうしようもない貧乏から盗む人があった。だからこそこのようなお知らせとなった。
今の時代、遊興費欲しさに盗み、遊ぶ金欲しさに性を売る若者が少なくないこととなった。
教祖の時代、貧しさから盗み、貧しさから娘を遊郭に売ることがあった。ただし、盗みは罰せられても貧しさ故に人に同情されがちであり、10両以上盗めば死刑となるので、被害者の方で例え10両以上盗まれても、10両以下としてお上に届ける場合が少なくなかった。また、勤めを終えて遊郭から戻った娘は、親孝行者として賞賛され、嫁として求める人が多くいたという。
なぜなら教祖の時代、そのような考え方が学びとして人々に認識されていたからである。
教祖の教えには、真、恩、などの言葉が多く出てくる。
真とは、「真は、うそをつかぬが真。子供が言おうがな、『それは実か、真剣か、真か、うそじゃないか』と言おうがな。(理1・市村光五郎2・42)」とある。
嘘でないのが真と。今の時代の日本は子供から大人まで、平気で嘘をつく時代となったと言われている。
昔の日本人にとって、学ぶ、親に孝養を尽す、嘘をつかない、盗まない、弱いものいじめをしない、卑怯なことをしない、人の不幸を憐れむ、人の喜びを自分の喜びとする、世のため人のため役立つ、恩を知ったら恩に報いる、などなどは、子供の頃からの当然の学びであった。
例えば神信心についても、
「神は人の敬うに依って威を増し、人は神の徳に依って運を添う。然れば、則ち恆例の祭祀(に)陵夷を致さず、如在の礼奠怠慢令むる事莫れ。」(御式目童子訓 文化八年(1811))
「神は人が敬うことによって威力を増し、人は神の徳によって運が開ける。つまりは、恒例の祭祀を段々とお粗末なものにしていくことなく、以前からある礼典を怠ることなかれ。」
とは、当時の子供から大人の誰もが知る学びの言葉であった。
当時の日本の就学率は世界各国に比べて格段に高く、幕末の嘉永年間(1850年頃)の江戸での就学率は70〜86%。それに対し、
・イギリス(1837年での大工業都市) 20〜25%
・フランス(1793年、フランス革命で初等教育を義務化・無料化したが) 1.4%
・ソ連(1920年、モスクワ)20%
であった。
教祖もまた、そういう時代に学び、当時の教科書である「実語教・童子教」などを元に庄屋の小野光右衛門氏から手習いを受けた。
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「実語教」は平安時代に、「童子教」は鎌倉時代に作られ、ともに中世から江戸時代そして明治中期までの、寺子屋などでの初等教育の教科書として用いられた。日本の書籍としては、その出版数と種類の多さは今日に至るまで最大数を記録しているという。 |
「実語教」「童子教」は、当時の5、6歳から習う初等教科書である。手習いと言えば「読み書き算盤」と言うが、その読み書きはこれを教科書としていた。
そこに散りばめられた言葉は、人としての基本の学びであり、日本人の人格の形成の基礎となっている。
つまり教祖は、これらによって人間としての基本をすでに学びとして得ておられたのである。
例えば「童子教」に、
「父の恩は山より高く、須弥山(しゅみせん)猶(なお)下(ひく)し。母の徳は海より深く、滄溟海(そうめいかい)還(かえ)って浅し。」
とある。
5、6才の子供が習う言葉であるが、漢文読み下し文の、現在では難解に属する文章である。
神誡・神訓にある「幼少の時を忘れて親に不孝のこと」「神はわが本体の大祖(おや)ぞ。信心は親に孝行するも同じこと。」に通じるものがある。
また、合楽初代親先生も「親孝行は信心の根本」と教えてあるが、当時は人としての根本として教えを受けていた。初代がよく語られた二十四孝の寒中に親が求める筍を掘るも、この童子教に他の孝行話と共に記されている。
或いは又、「実語教」に、
「善を見ては速やかに行き、悪を見ては忽(たちま)ちに避(さ)け(よ)。
悪を好む者は禍(わざはい)を招く。譬えば響きの音に応ずるが如し。
善を修する者は福を蒙る。宛(あたか)も身の影に随(したが)うが如し。」
とある。
教祖の御理解第七十七節「人の悪い事を、よう言う者がある。そこにもしおったら、なるだけ逃げよ。陰で人を助けよ。」
にも通じるものがある。
また福はその行いによって、影のように自ずと従うのであると説く。つまりは、本来おかげは嫌でも付いてくるのであると。
「実語教」は平安時代に、そして「童子教」は鎌倉時代に作られ、ともに中世から江戸時代そして明治中期までの、寺子屋などでの初等教育の教科書として用いられ、その言葉と意味は数百年間にわたって日本人の心に深く刻まれ、その考えの基層となった。ちなみに日本の書籍として、その出版数と種類の多さは今日に至るまで最大数を記録しているという。
つまりは、教祖の人間としての基礎もまたここにある。
以下まず「実語教」からいくつかを抜粋する。
山高きが故に貴(たつと)からず。樹(き)有るを以て貴しとす。
人肥へたるが故に貴からず。智有るを以て貴しとす。
冨は是(これ)一生の財(ざい)。身滅すれば即ち共に滅す。
智は是万代の財(たから)。命終はれば即ち随つて行く。
「智」を「心の叡智」とも「徳」とも解釈しても良い感じがする教えである。
興味深いことに、あの世まで持って行けると説いているのである。
玉磨かざれば光無し。光無きを石瓦(いしかわら)とす。
人学ばざれば智なし。智無きを愚人とす。
神訓「信心は本心の玉を磨くものぞや」そのままである。「智」とは高次の宗教的叡知を意味する。すなわち、信心あっても真の教えを知らぬ者は愚人と言える。
倉の内の財は朽つること有り。身の内の才は朽つること無し。
千両の金(こがね)を積むと雖も、一日(いちにち)の学には如(し)かず。
兄弟(けいてい)、常に合はず。慈悲を兄弟とす。
財物、永く存せず。才智を財物とす。
この教科書で説く「智」とは、今日で言う「知識」ではなく、明らかに人徳を得る叡智のことであり、よって宗教情操教育そのものであったと言ってよい。
また、兄弟云々については、「兄弟(肉親)だからと言って常に心が合うとは限らない。自分の慈悲の心こそ人に接する際の兄弟の心(肉親の情)とせよ」という意味であろうか。
財に頼ることを戒めた教えである。財に任せて上辺を着飾るよりも、人としての内容が大切なことは、教祖が次のように教えられたことに通じるものである。
「洋傘の流行しはじめのころ、『人より先にさそうと思うな。体に派手なことをしていると、心にぼろを下げなければならない。心に錦を飾っているがよい。弱くて高い物を着るよりは、安くて強い物を着るようにせよ』理2・難波幸・16」
童子教でもまた以下のように説く。
貴(たつと)き者は必ず冨めず、冨める者は未(いま)だ必ず貴からず。
冨むと雖(いえど)も心に欲多ければ、是(これ)を名づけて貧人(ひんじん)とす。
貧しと雖(いえど)も心足(た)んぬと欲(ほつ)せば、是(これ)を名づけて福人(ふくじん)とす。
すなわち「今を喜ぶ」人こそ福人であると。
次に以下のように、家庭で、親族で、或いは他人との間で、それぞれの人間関係に於いて人としての在り方を説いている。
実語教から。
父母は天地の如し。
師君は日月(じつげつ)の如し。
親族、譬(たと)えば葦(あし)の如し。
夫妻は尚(なを)瓦の如し。
父母は朝夕に孝せよ。
人は師君家族親族のおかげで今日あることを知れと。ゆえにまず父母に孝行せよと説くのである。
師君は昼夜に仕へ、友に交はつて諍(あらそ)ふ事なかれ。
己(おのれ)より兄には礼敬(れいきょう)を尽くし、
己(おのれより)弟には愛顧を致し(せ)。
人としての礼儀や在り方である。つまりはそれらは学文として学ぶのである。そして、
人として智無きは、木石に異ならず。
人として孝無きは、畜生に異ならず。
と、教えを心得ない者は、木や石ころと同じであると説き、孝心がない者は獣と同然であると説いた。
老ひたるを敬ふは父母の如し。
幼(いとけな)きを愛するは子弟の如し。
我、他人を敬へば、他人亦(また)我を敬ふ。
己(おのれ)人の親を敬へば、人亦(また)己が親を敬ふ。
己(おのれ)が身を達せんと欲せば、先づ他人を達せしめよ。
他人の愁ひを見ては、即ち自ら共に患(うれ)ふべし。
他人の嘉(よろこ)びを聞いては、則ち自ら共に悦ぶべし。
お年寄りや幼少の者また他人に対する心遣いのみならず、先ず他人を達せしめよ、とあるのは、教祖の教えとして、
「信心する人は、わがことより他人のことを先に願え。そうすれば他人も助かり、わが身にもおかげがたくさんある。」理1・津川治雄・5
に通じるものがある。
繰り返すが、5、6歳の子供が徹底して学ばされる教えである。当時の日本人がいかに和の心を大切にしたかが伺われる。
もちろん人の在り方として、恩を知り恩に報いるは当然のことであった。童子教に、
父の恩は山より高く、須弥山(しゅみせん)猶(なお)下(ひく)し。
母の徳は海より深く、滄溟海(そうめいかい)還(かえ)って浅し。
恩を戴(いただ)ひて恩を知らざるは、樹の鳥の枝を枯らすが如し。
徳を蒙(かふむ)つて徳を思はざるは、野の鹿の草を損ずるが如し。
とある。
当然親に対する報恩としての孝行については、中国の故事を元に繰り返し説いた。以下童子教より。最初の2文字は人の名前である。
酉夢(ゆうむ)、其の父を打つ、(すなわち)天雷其の身を裂く。
班婦、其の母を罵(ののし)る。(すなわち)霊蛇其の命を吸ふ。
親に暴力を振るえば、天が怒って身を裂き、口汚く罵れば、命を吸い取るぞと、まず不孝の行為に厳罰があることを教え、次に二十四孝のいくつかを教えた。
郭巨(かっきょ)、母を養わん為 穴を堀れば金(こがね)の釜を得たり。
姜詩(きょうし)、自婦を去つて 水を汲めば庭に泉を得たり。
孟宗(もうそう)、竹中に哭(な)きしかば、深雪の中(うち)に笋(たかんな)を抜く。
王祥(おうしょう)、歎いて氷を叩(たた)けば、堅凍(けんとう)の上に魚踊る。
舜子(しゅんし)、盲父を養ひ、涕泣せしかば両眼の開く。
刑きょ、老母を養い、食を噛めば齢(よはひ)若(わか)を成る。
董永(とうえい)、一身を売つて、孝養の御器(みつぎ)に備ふ。
楊威(ようえい)、独りの母を念(おも)ひ、虎の前に啼(な)きしかば害を免(まぬが)る。
顔烏(がんう)、墓に土を負へば、烏鳥(うてう)来つて運び埋(うづ)む。
許牧(きょぼく)、自(みづか)ら墓を作れば、松柏生じて墓と作(な)る。
此等の人は皆、父母に孝養を致し、仏神憐愍(れんみん)を垂れ、望む所悉(ことごと)く成就す。
そして、手習いの師匠はそれぞれについての意味を詳しく説明した。例えば、「郭巨(かっきよ)、母を養わん為 穴を堀れば金(こがね)の釜を得たり。」については、
昔、郭巨という人は、家が貧しく食べるものもろくろくなかった。母に満足に食べものを上げることも出来ないことを悔やんだ郭巨は、妻に向かって、子供を一人殺してその分の食べ物を母に回そうと話した。妻も泣く泣く承知し、夫婦で庭に埋めるための穴を掘っていたところ、金の釜が出てきた。そしてそれには、天がその孝養の心に感じて郭巨に与えるものである、と彫られていたと。それを売って食べ物や土地を買い以後家族幸せに暮らしたと。
それほどに親は大切なものであり、また恩に報いれば天が感じて更に幸を与えられると、孝心の情が大切であることを説いた。
合楽初代も、「世界で一番大切なものは親である」「親孝行は信心の根本である」「孝心の情を以って信心がなされねばならない」と教えられる所以である。
更にそのような考え方の中に、敬うものは敬い、尊ぶものは尊ぶべしとして、親のみならず、世話になる全てのものに対する、人としての礼を教えた。
童子教より。
三宝(仏法僧)には三礼を尽し、
神明には再拝を致し、
人間には一礼を成し、
師君には頂戴すべし。
墓を過ぐる時は則ち慎め、社を過ぐる時は則ち下(お)り、
堂塔の前に向かつて、不浄を行ふべからず、
聖教(しやうけう)の上に向かつて無礼を致すべからず。
人倫礼有れば、朝廷必ず法在り。
人として礼無きは衆中又過(とが)有り。
「師君には頂戴すべし。」とは、今の時代に最も忘れられた師と生徒の関係である。何ものにも代え難い、生涯の宝となる叡智を教わるのである。当然習う側は最大の敬意を以って教えを頂く、つまり頂戴するのである。
寺子屋で一度習えば、その師と生徒との関係は絶対のものであり、生徒は「筆子」と呼ばれて、師の恩を生涯大切にすることを学ぶ。教祖が手習いの師であった小野光右衛門をいつまでも恩師として頂かれ、その亡き後にも墓掃除やお参りを欠かされなかったのも、当時としては至極当たり前のことであった。
また、「人倫礼有れば、朝廷必ず法在り。」とは、人の道として礼儀を守ってこそ、必ず国もまた法律で人を守るのである、という意味であろうか。
更に礼儀は人間の品格に関わってくる。以下童子教より。
衆に交はりて雑言せざれ。事、畢(おわ)らば速(すみやか)に避(さ)れ。
事に触るれば朋(とも)に違(たが)わざれ。言語(げんぎょ)離るることを得ず。
語(ことば)多きは品少なし。老ひたる狗(いぬ)の友を吠(ほ)ゆるが如し。
懈怠(けだい)の者は食を急ぐ。疲れたる猿の菓(このみ)を貪(むさぼ)るが如し。
勇める者は必ず危(あやう)きこと有り。夏の虫の火に入(い)るが如し。
鈍(にぶ)き者は亦(また)過(とが)無し。春の鳥の林に遊ぶが如し。
勇む心を奨励せず、むしろ鈍であることを良しとするという興味深い教えである。
人の耳は壁に附く。密(ひそ)かにして讒言(ざんげん)すること勿(なか)れ。
人の眼(まなこ)は天に懸(かか)り、隠して犯し用ゆること勿れ。
教祖もまた、
「天地の神様は天と地とでじっと見ておられる。地におれば、天からじっと見ておられる。天知る、地知る、我ぞ知ると言うであろうが。」(「理2・佐藤光治郎・28」より)
と教えられた。人の目を盗んで悪事をしても神が見ておられると。
車は三寸の轄(くさび)を以て千里の路(みち)を遊行す。人は三寸の舌を以つて五尺の身を破損す。
口は是(これ)禍(わざはひ)の門(かど)。舌は是(これ)禍(わざわひ)の根なり。
いわゆる「口は禍の元」の大元の教えである。そして善行にも必ず報いがあると、以下のように説く。
人として陰徳有れば、必ず陽報有り。
人として隠行(いんぎやう)有れば、必ず照名有り。
信力(しんりき)堅固の門(かど)には災禍の雲起ること無し。
念力強盛(ごうせい)の家には福祐の月光を増す。
心不同なるは面(おもて)の如し。譬(たと)へば水の器(うつわ)に随(したが)ふが如し。
そして、社会生活上の礼儀も以下のように説く。
境(さかひ)に入(い)つては禁(いましめ)を問へ。国に入つては国を問へ。
郷(ごう)に入(い)つては郷に随ひ、俗に入つては俗に随ひ、
門(もん)に入(い)つては先(ま)づ諱(いみな)を問へ。
主人を敬(うやま)はん為なり。
次に学ぶ事の大切さも懇々と説いている。以下実語教から。
四大(身体のこと)日々に衰へ、心神(しんじん「心や精神のこと」)、夜々(やや)に暗し。
幼(いとけな)き時、勤学せざれば、老いて後、恨み悔ゆと雖(いえど)も、尚(なを)所益あること無し。
かるが故に書を読んで倦むことなかれ。学文に怠る時なかれ。
眠りを除いて通夜(よもすがら)誦(じゅ)せよ。
飢えを忍んで終日習え。
師に会ふと雖も、学ばざれば、徒(いたづら)に市人(いちびと)に向うが如し。
習い読むと雖も、復せざれば、只隣の財(たから)を計(かぞ)うるが如し。
君子は智者を愛し、小人は福人を愛す。
教えを学んでも、身に付けなければ意味がないと。また、ここでの「福人」は裕福な人のことを指す。
また童子教では、
愚者は遠慮無し、必ず近き憂(うれ)ひ有るべし。
管(くだ)を用ひて天をうかがうが如し。錐(きり)を用ひて地を指すに似たり。
神明(しんめい)愚人を罰す。殺すにあらず懲(こ)らさしめんが為なり。
師匠弟子を打つ。悪(にく)むにあらず能(よ)からしめんが為なり。
生れながらにして貴(たっと)き者無し。習ひ修(しゅ)して智徳と成る。
と、生まれながらにして貴い者はいない。学んで行じるから智徳が備わって貴くなるのであると。また、学ばぬ愚か者を神明が罰するのも、師匠が弟子を打つのも、殺すにあらず憎むにあらず、皆懲らしめて更正させ、より良くしようと思うからであると説く。神の大愛、師匠の神情に通じるものである。
更に、
一日に一字を学べば、三百六十字。
一字千金に当り、一点他生を助く。
一日の師をも疎(おろそ)かにせざれば、況(いはん)や数年師をや。
師は三世(さんぜ)の契り。祖は一世(いつせ)の眤(むつみ)。
弟子七尺を去つて師の影を踏むべからず。
師弟子を訓(おし)えず、是(これ)を名づけて破戒とす。
師弟子を呵責(かしやく)す。是(これ)を名づけて持戒とす。
悪しき弟子を畜(たくは)ゆれば、師弟地獄に堕(お)つ。
善き弟子を養へば、師弟仏果に到る。
教へに順(したが)はざる弟子は早く父母に返すべし。
と、習う側のみならず、教える側の姿勢も正し、次いで以下のように中国の故事を引いて、昔の賢人がどのように学問に励んだかを教えた。
酒に酔えば心狂乱す。
食過ぐれば学文に倦(う)む。
身温(あたたか)なれば睡眠を増す。
身安ければ懈怠(けだい)起る。
匡衡(きょうこう)は夜学の為に壁を鑿(うが)ちて月光を招く。
孫敬(そんけい)は学文の為に戸を閉ぢて人を通さず。
蘇秦(そしん)は学文の為に錐を股(もも)に刺して眠らず。
俊敬(しゅんけい)は学文の為に縄を頸(くび)に懸(か)けて眠らず。
車胤(しゃいん)は夜学を好み、螢を聚(あつ)めて燈(ともしび)とす。
宣士(せんし)は夜学を好み、雪を積んで灯(ともしび)とす。
休穆(きゅうぼく)は意(こころ)に文を入れ、冠(かんむり)の落つるを知らず。
高鳳(こうほう)は意(こころ)に文を入れ、麦の流るるを知らず。
列寔(れつしょく)は衣(きぬ)を織り乍(なが)ら口に書を誦(じゅ)して息(いき)せず。
倪寛(げいかん)は耕作し乍(なが)ら腰に文を帯(たい)して捨てず。
此等(これら)の人は皆、昼夜学文を好んで文藻国家に満つ。遂に碩学の位に致(いた)る。
縦(たと)い、さいを磨き筒を振るとも、口には恒(つね)に経論(きやうろん)を誦(じゅ)せよ。亦(また)弓を削り矢を短(は)ぐとも、腰には常に文書を挿(さしはさ)め。
言わば士農工商問わず、誰もが学問に励まねばならないと。
そして実語教では以下のように締めくくる。
それ習ひ難く忘れ易きは、音声(おんじょう)の浮才。
又学び易く忘れ難きは、書筆の博芸。
但し食有れば法有り。亦(また)身有れば命有り。
猶(なを)農業を忘れざれ。必ず学文を廃することなかれ。
つまりは仕事を疎かにするのでなく、学問と両立させよと。
師匠は以上のような教えを、まず子供にそらんじて唱えることを覚えさせ、次に意味を一つ一つ教えて幼子の心に刻んでいった。教祖の場合は13歳からと遅かったが、通常は5、6歳から習うものである。
実語教、童子教は、人の一生とは人格を磨き高めることであると明快に説いた教えである。勿論それは基本であって学問の全てではない。しかし、当時の日本人はその考え方の基礎を子供時代にこのように学んでいった。
テレビもラジオも携帯電話もテレビゲームもない時代である。学ぶ為の時間はたっぷりあった。
そして、手習いをせず文字を知らない者であっても、耳学問として、社会環境として、このような考え方は日本人全体の精神の基層となった。
もちろん、どんなに良い教えがあってそれを学んでも、自分のものにしようとしない者もいたろう。
しかし、例えば教祖直信高橋富枝は8才で家の再興を祈願して水行を始め、あるいは吉田松陰は、11歳で藩主御前で軍学を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕した、などなどの現在では信じ難い人間が続出することとなった。
教祖のみが優れていたのではなく、当時の教えを守ろうとする者なら、教祖のような人柄に成るべくしてなる時代であった。
またこの時代は、身分職業身体の障害関係なく、優秀な者は大きく用いられた時代であった。農家に生まれた全盲の人塙保己一は按摩業で生計を立てるしかなかったが、文学に対する才能を認められて、ついに幕府に国学者に取り立てられ、また、貧農に生まれた二宮金次郎は、16歳までに両親に死に別れた薄幸の人であったが、その才能を見込まれてついには幕府の農政を建て直すまでになった。
日本人の徳性とその社会は、西洋人も認めざるを得ないものであった。
幕末から明治にかけて西洋人が多く日本を訪れて感想を残している。
西洋人は、キリスト教と西洋科学文明の自分達こそが神に最も近い文明人であり、当時の日本を遅れた国と思い、日本人は専制的な封建制度の元で惨めな暮らしをしているに違いないという先入観を持っていた。
そんな西洋人の一人であるイギリス駐日公使ラザフォード・オールコックは安政6年(1859年)5月に来日したが、ある時幕府の許可を得て居留区の外の農村風景を見学することにした。
ところが実際に訪れてみると、その眼に映ったのは意外なことに、貧しいながらも平和な生活を楽しむ民衆の姿であった。
オールコックは次のように記録している。
「このよく耕された谷間の土地で、人々が幸せに満ちた、良い暮らしをしているのを見ると、これが圧政に苦しみ、過酷な税金をとりたてられて苦しんでいる場所だとはとても信じられない。ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きのよい農民はいないし、またこれほど穏かで、実りの多い土地もないと思う。」(「大君の都」より)
あるいはまた江戸時代中期に訪れた、スウェーデンの医学や植物学の学者であるC.P.ツュンベリーは、「江戸参府随行記」で以下のように書いた。
「地球上の民族のなかで、日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人に比肩するものである。・・・その国民性の随所にみられる堅実さ、国民のたゆまざる熱意、そして百を超すその他の事柄に関し、我々は驚嘆せざるを得ない。政府は独裁的でもなく、また情実に傾かないこと、・・・飢餓と飢饉はほとんど知られておらず、あってもごく稀であること、等々、これらすべては信じがたいほどであり、多くの(ヨーロッパの)人々にとっては理解にさえ苦しむほどであるが、これはまさしく事実であり、最大の注目をひくに値する。」
「(大阪から京都への道の感想)私はここで、ほとんど種蒔きを終えていた耕地に一本の雑草すら見つけることができなかった。それはどの地方でも同様であった。・・・農夫がすべての雑草を入念に摘みとっているのである。雑草と同様に柵もまたこの国ではほとんど見られず、この点では名状し難いほどに幸運なる国である」
「節約は日本では最も尊重されることである。それは将軍の宮殿だろうと粗末な小屋の中だろうと、変わらず愛すべき美徳なのである。」
「日本人の親切なことと善良なる気質については、私は色々な例について驚きをもって見ることがしばしばあった。それは日本で商取引をしているヨーロッパ人の汚いやり方やその欺瞞に対して、思いつく限りの侮り、憎悪そして警戒心を抱くのが当然と思われる現在でさえも変わらない。国民は大変に寛容でしかも善良である。」
「正義は外国人に対しても侵すべからざるものとされている。いったん契約が結ばれれば、ヨーロッパ人自身がその原因を作らない限り、取り消されたり、一字といえども変更されたりすることはない。」
「正義と忠実は、国中に見られる。そしてこの国ほど盗みの少ない国はほとんどないであろう。強奪は全くない。窃盗はごく稀に耳にするだけである。それでヨーロッパ人は幕府への旅の間も、全く安心して自分が携帯している荷物にほとんど注意を払わない。」
かくてツュンベリーの言葉から、当時の日本人の国民性をまとめると次のようになる。
「日本人の国民性は、賢明にして思慮深く、自由であり、従順にして礼儀正しく、好奇心に富み、勤勉で器用、節約家にして、清潔好き、善良で友情に厚く、率直にして公正、正直にして誠実、深く疑い、また迷信(神仏信仰)深く、高慢であるが寛容であり、悪に容赦なく、勇敢にして不屈である」と。
これらは、童子教や実語教の内容とほぼ合致するものである。
ところで日本人の大人の、子供に対する態度はどうであったか。
ツュンベリーは次のように記録している。
「日本の学校(寺子屋)では子供たち全員が、非常に高い声で一緒に本を読む。注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも外でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった。まったく嘆かわしいことに、もっと教養があって洗練されているはずの私たちの民族に、そうした行為がよく見られる。」
あるいはまた、オランダ海軍の将校だったファン・カッテンリーケは次のように記した。
「子供達への深い愛情を、家庭生活の全ての場面で確認する事が出来る。見ようによっては、日本人は自分の子供達に夢中だとも言える。・・・・親が子供に何かを禁じるのは、ほとんど見たことがないし、叱ったり罰したりすることは、さらにまれである。」(「長崎海軍伝習所の日々」より)
西洋では子供を厳しくしつけるために笞打つこともあった。西洋人の目には、日本の家庭での子供への接し方が、自分達とは大きく異なっていると見えたのである。
暴力そのものが日本ではまれであった。子供のしつけも学文を以って行われた。むろん容易なことではないが師匠は粘り強く教えつづけた。
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今も昔も子供がやんちゃなのは同じ。それを勉強に向かわせる師匠の苦労が偲ばれる。 |
これが武士階級になると、もっと厳しい品格が求められた。人を罵ることは武士の恥とされ、妻に手を当てることなど最も卑怯な臆病者のすることと決め付けられた。また相手の身分には関係なく、他人と仲違いでもすることになれば、身は切腹、家は断絶ということにまで及んでくる。つまりは武士に対しては、人との和を保つのも決死の一心が求められたのであった。
そして子供は、人々の宝であった。
明治11年に日本を訪問したイギリス人イザベラ・バードは女性の目で次のように記した。
「私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、背負ったり、歩くときには手をとり、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつまらなそうである。」(「日本奥地紀行」より)
「かわいいと思う心が神心じゃ。」「ばちを当てる暇があるならおかげをやるわい」「それがかわいいのが親の心じゃ。神も不信心者ほどかわいい」
本教の数々の教えにある、「親神」としての表現にこもる限りない愛情と、当時の日本人の情愛の深さとは関係ないことではないだろう。
さてしかし、明治維新・文明開化、西洋文化の流入と共に、日本古来のこのような考え方は徐々に薄れ始めた。
なおも明治時代までは「和魂洋才」として維持してきたが、大正時代となってからは社会運動が盛んになり、社会主義・共産主義の画一的な社会観や人間観、思想が流入して来て、「和魂」を大いに喪失していく時代となる。
宿老佐藤範雄師が、本教全体の雰囲気に危機感を持ったのもこの頃である。確実に、教祖の時代の人間とは違ってきていると。
そして昭和20年の敗戦。これを境に過去の日本の価値観の全否定が行われ、ついに昭和30年代までには日本人の考え方としては殆ど重要なものとは見做されなくなる。とりわけ信仰心の喪失には著しいものがあった。
それ以降は多様な価値観つまりは個人主義となり、経済第一主義、つまりは拝金主義が席巻し、物質的には格段に豊かでありながら精神的には不安の多い社会状況となり、家庭崩壊や人格崩壊がもたらす犯罪も少なくない時代となりつつある。
明治の終わり頃、小泉八雲ことラフカディオ=ハーンは薄れゆく日本文化を惜しんで次のように著書に書いた。
「・・・そうした日本古来の感覚や芸術の喪失を、将来の日本人は残念な遺憾なことに思うだろう。
その時になって日本人は昔の世界がどれほど光り輝いて美しいものであったか、あらためて思い返すに相違ない。
その時になって彼等は嘆くにちがいない。
今は消え失せてしまった古風な忍耐や自己犠牲、古風な礼儀、昔からの信仰にひそんだ深い人間的な詩情・・・
日本人はその時多くの物事を思い返して驚きまた嘆くに相違ない。
とくに古代の神々の顔を見、表情を見なおして驚くに相違ない。
なぜならその神々の微笑みはかつての日本人自身の似顔絵であり、その日本人自身の微笑みでもあったのだから。 」
今の日本からは、もはや本当の意味での人道はほぼ崩壊したと言っていいだろう。
かつて合楽初代親先生が神様からのお知らせに「人道いっぱいに多数の豚が歩く」光景を頂かれたことがあった。
「人道いっぱいに豚が歩き、もはや人の道は我情我欲で満ちた。人道はもう歩くことができない。これからは神の道を歩むほかはない」と御理解されたように。
すなわち金光大神覚帳に、
「一つ、お知らせ。人代と申し、わが力で何事もやり。今般、神が知らしてやること、そむく者あり。神の教えどおりをする者は神になり。昔は神代と申し、今は人代。昔へもどり、神代になるように教えてやる。難儀はわが心、安心になるもわが心。」(明治13年11月)
とある通りであり、かつての、
「神は人が敬うことによって威力を増し、人は神の徳によって運が開ける。」という神と人との関係を説いた教えも、
「玉磨かざれば光無し。光無きを石瓦(いしかわら)とす。人学ばざれば智なし。智無きを愚人とす。」と、人格を磨き高める心のための学文も殆ど忘れられ、今日の学問は何事も我が力でやるための知学が大勢を占めた。
今は、心を豊かにするといっても、せいぜい美術品を鑑賞したり、小説を読んだり、観光旅行をすることを指すぐらいのこととなった。
つまりは教祖が、「世が開けるというけれども、開けるのではなし。めげるのぞ。そこで、金光が世界を助けに出たのぞ」(理1・市村光五郎1・17)
と言われた通りであった。
しかしながら同時に、明治10年10月のお知らせに、
「一つ、黒物、くろずみ、すみは黒し。世は黒むがよしということあり。暗うては物事見えんと言うが。一つ、金光とは金光ると書き。明い方はだれでも見ようが。おいおいには明い方へ人が来る。」
とも頂かれた。
闇の世になればなるほど光は目立つことになると。
「ついてきなされ この提灯に 決して苦労はさせはせぬ」
初代大坪師が椛目時代に頂かれたこの御教えの言う提灯とは、自分自身を照らし足元を照らす光のことであろう。
光と言えば、不安の先を見通せるような不思議の光を求める人が今も少なくない。しかし、実語教・童子教が説いたものは、まさにまずは自らを照らす光のことではなかったろうか。
そして、親の恩、師の恩、他人との関係、人としての在り方と、ただに人格を磨くことを説くのみならず、金光大神が説かれたものは、それらに加えて人としての根本、つまりはその足元の根底を照らす、人が天地の大恩の只中にあることを明らかにしたということではなかったろうか。そして報恩の真はまずそのことに向けられねばならないと。
御物を大切にし、成り行きを尊び、和賀心を目指すとは、つまりはより完璧に神を敬い、十全にその威徳を明らかにし、人間をして人格から神格にまで高めていくことに他ならないのではなかろうか。つまりは元の神代に還るのぞと。
還ると言っても日本という国は、もう教祖の子供時代のような宗教情操教育溢れる社会には決して戻らないだろう。
しかし教祖の信心に還るとは、その時代の基本的な考え方を包含しつつ、更には教祖が見出された天地の大恩を大恩と知る世界に回帰することではなかろうか。何故なら、天地書附のみならず、神誡、神訓、御理解は、その時代の日本人の考え方を直接に間接に伝える教えでもあるのだから。
以下、未編集
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