研修資料 5 (S56・1・5〜S56・12・28)
徳はどうしても、度胸とか離れ技的なものでないと受けられんという感じがする。神様との一騎打ち的なものがいるね。S56・1・5
不行状というような人が、一度信心に向かって一途に打ち込んでいくとかえってお徳を受けよい。S56・1・5
合楽では、朝昼晩の御祈念に出て、三時の研修に出ておれば力を頂く。修行生はこれだけ出来ればほっといても育つ。そのことが出来ん人が多い。これを欠かさず繰り返したら、実験も実証も出来る。そして絶対私の心に適うです。私は他のことは求めん、これだけの事は出来にゃでけん。それだけで合楽理念は身につく。S56・1・12
修行生お夢。柱に「たより」と書いてあると。頼りになる柱になれ。自分はどういう所の柱にあるだろうかと考えてみる。いつも、神様は間違いないなあということを見たり聞いたりしておるはず。それを、神様をいいかげんに見よるから自分までいいかげんな生き方になって来る。今朝からのお届けに、人間関係の問題、人間の弱さを見る思いがするお届けが続いている。平仮名で「たより」と書いてあるは、ちょっと軽いことは頼れるが、重いことは頼れん感じ。いざという時に神様からも頼られ信者氏子からも頼られる信心内容を頂きたい。S56・1・17
世の中には奇特な人がある。何年も前から周囲の人たちを拝めるようにという願いを立てたと。けれど未だ拝めないという。結局は自分自身が有り難い、生かされる喜びとか、その喜びをもってのものでなければ拝めないものだ。自分の心を拝める内容にしていく。本気で、この世には魂を研きに来ているんだと、分かっての信心でなければならん。やはり皆さん、徳の蓄積です。そのための信心、本気での修行の取り組がいります。自分の心が拝めるように、がまず第一です。自分の周囲を拝みたいなら。S56・1・19
私の小学校時代、あまり勉強をしていなかった頃、先生が「乙の組で頭は良いが勉強しよらんとを呼び上げる」と言った中に私が入ってなかった。その反発というか、よしっ、とこの日を境に、勉強をしだし、子守をしていても本を放さないほどだった。ついには師範学校行きを勧められるまでになった。何事も本気でやる、心のお繰り合わせを願わねば。本気になればしるしい(辛い)ことも楽になってくるから。S56・1・19
神様を人間の世界に入れようとする。人間が神様の世界に入っていかんとする。S56・1・19
修行に火を点けるものは一心発起。その一心発起に対して神様が働かれる、心に火を点けられる。だから生々とした楽しいものになってくる。合楽の場合、こちらが本気になると神様も本気で働かれるから。S56・1・20
本当で成り行きを頂こうという構えの前には、何を食べようとかいう思いは起きんもの。成り行きを、自然の働きを頂く尊ぶところには、必ず働きがプラスされて来る、加算されて来る。だから飲みたい食べたい以上のものが用意されて来ることになる。思い以上の働きになって来る。一事が万事にそうだ。S56・1・20
自他共に助かる力・お徳を受ける為の修行をしているのだから、ただ信者一般と同じであってはあいすまん。自重せねばならんところは自重せねば。S55・1・22
「くつなくば裸足で歩め道の為、飢えて飢えざる糧つくりつつ」というお道の教歌がある。糧求めつつ、とは仰っておられない。パンは求めずに与えられるものだ。与えられた以上の物を求めず。おまかないは神様から頂く。神様を確信して疑わないということ。S56・1・22
自分の不精進が、自分は駄目だという、自分を蹴落とすようなことにしてしまう。S56・1・22
「ふ」鯉の餌。頂いているお徳を肥太らせるもと。一つ一つを黙って治めるというその内容が、口で「はい」と受けて、心の中ではどうした人だろうかと思うようではいけない。心から「そうですね」と受けて鯉の餌になる。S55・1・22
同情でもされる修行じゃ全くつまらん。皆が憧れるぐらいな生々としたものでなければ。頂いているお徳を生々と育てていっている喜びがなければ痩せ細ってしまう。S56・1・22
おかげの世界からお徳の世界に住み替えさせようとされる働きがいっぱいあっておる。だから、その働きのままにお徳を受けていく信心へと精進していかねば。その手立てを説く合楽理念。御神徳学を説く合楽の教え方。S56・1・24
○○さんは、自分から車に乗んなさいとは言われんが、乗せて下さいと頼まれたらとことん送って下さる。これが合楽の大体のいきかた。そこを○○教会の方なら、本当の親身で乗んなさいと言う。それが本当だから神様の思いとピタッと合う。そこんところを合楽はまだ臆病にしている感じです。しかし変人になれと言われるからね。神情を基礎基盤としてのコントロールということですね。S56・1・27
限りないものへの憧念心。S56・1・29
今、朝晩、白粥さんを頂いておる。仕方がないからお粥を頂くというのでなく、お粥がいいから頂いとる。その違い。またお粥か、でなくてね。修行も同じ。匂いをかいだだけで嫌になったり、楽しう嬉しうなる。これによって一徳受けねば、それによって頂かねばと思うたらね。人が助かる自分が助かるその元になっていくと思えば有り難いのです。S56・1・30
酸性土壌の心に修行を入れてアルカリ土壌の心にする。心の確信が強うなった、信念になったということ。それは何時の間にかそうなったということもあろうが。亡父の好きなものにどじょう汁があった。食べる時に「そのまま血になり肉になるような感じだ」と言っていた。実際に取り組んで血肉にするということ。自分のものにしてこそ言えれる、話されるという確信、信念。だから伝わってくる。S56・2・1
おかげを受けられるタイプと受けにくいタイプがある。おかげを受けやすいのも有り難いが、おかげを受けにくい酸性土壌の人こそお徳を受けるタイプと思う。むろんそのままで良いというのではなく、よく物が育つアルカリ土壌にしていくということ。酸性土壌に何を入れたらアルカリ土壌になるか。それは石灰。「はい」という素直な意志(石)だ。今日の合楽は、私の「はい」の一字から生まれてきた。泣く泣くでも嫌と言えずに神様の仰せを素直に受けてきた。昨日は三千八百二十七名のお届けがあっとる。そういう比礼が、私の「はい」の一言でそうなったということが分かればね。S56・2・2御理解
有り難くなるおかげを頂くのではなく、有り難くなる信心を頂く。そこからお賄いも待遇も変わって来るのです。S56・2・4
今の合楽であっておることが只事ではないと分からねばならない。しかもそこに縁を頂いていることが只事ではないと、まずは感じての合楽理念でなければ徳につながらない。S56・2・4
どうでも、という勢いがあれば必ずおかげになる。S56・2・9
「我が身は神徳の中に生かされてあり」の実感がないなら、間違いなしに我情我欲にひたりきった生活をしていることになる。S56・2・9
「口八丁心八丁」。いつも頂く心構えを作っとくと、一口話を聞いても、ああおかげ頂いたということになる。話手でも、聞きよって落ち着いて聞ける話、また、言いそこなわれんだろかと思うような話手もあるでしょう。口も八丁そして心も八丁でなければならん。S56・2・10
「梅もどき」。信心辛抱といったようなことでなくとも、梅もどきぐらいはさせて頂くでなくてはならん。S56・2・10
福岡修行時代、○○先生がいつも御結界で言われていたことは、「私は信者さん一人一人が皆億万長者となれるよう願うている」と。今から考えればその通りになっている。じゃ、そのための信心をどこを頂いたかというと、「馬鹿と阿呆で道をひらけ」を貫いたということです。これほど大きな信心はない。S56・2・14
喉がかわいている者には水を、お腹が空いている者にはお握りの一つでもやれるような働きを頂いて、そこから「信心の生き調子」を身につけていくといった教導であること。S56・2・14
「神が機感にかなう」と頂く。神様が氏子の心にかなえてやろうとしておられる。「神の機感にかなう」とどこが違うか。神様がこちらの心にかのうて下さるような信心をすることだ。願う者の心に神様が働かれるか、働かれんかということだ。S56・2・15富久信会
役者でも、上手でも花のない役者がある。金光教は人が助かるという実があっても花がない。花も実もある先生、教会でありたい。S56・2・16
その気になる、ということが願いの根本になければ、頂けれるおかげも頂けれん。S56・2・17
「結婚式を前にした女の人が御祈念をしておる。長い数珠とも金の鎖とも見えるものを手にかけてある。それを手で引っ張って切って抜けようとしながら御祈念しておる。私が思うたのに、あれを引っ張らずに合掌したらするっと抜けられるのになあと」という情景を頂く。これをこうやって力でしても鎖は切れない。信心しておって、どうしてああ貧乏しござるかと、人にも言われてきた私共の数十年前の修行時代。それから逃れようと思わずに合掌してその修行を受けたところに、するっと抜けて限りない今日のおかげの世界がある。S56・2・18御理解
十の修行という時は十一の修行をさせて頂こうという勢いがいる。S56・2・18
修行時代の事。借金の断りに行かんとする時、わざわざ足がちぢむようなお知らせを下さってあった。百の修行より千の修行をさせたいという神様の親心だったろう。S56・2・18
ある人の不平不足のお届けに対して、「首の長ーい水龍」をご心眼に頂く。頭が高いところにあるから。お恵みの水があんなに遠くにあると思いよる。頭を低うせれば水を身近に頂ける。しかも体は水につかっているのに。自分という者を見極めたら、自ずと頭は下がるもの。S56・2・19
キリスト教のテレビ番組があっていた。こういうことしたら地獄に落ちる、煉獄に行くというお話あっておったが、いよいよ助からん宗教だなと感じた。煩悩を問題にする仏教でもそうだ。煩悩があったら助からんということではない。煩悩を取るのではなく、浄化していく。お礼を申し上げていく。教祖の生きられ方は前代未聞だ。ここを明らかにしていくところに合楽の使命がある。我情我欲は教えに基づけばいつのまにか取れていく。過去の宗教はいよいよ人が助かるとは無縁のことを言うてきたということ。S56・2・22
「これは許されない、これはいけない、ということは機会ある度に言え」とお知らせを頂いた(今日のキリスト教批判の御理解について)。キリスト教は偽善以上の偽善。ここ一週間そういうことのお知らせを頂くです。宗教の中には、してはいけない宗教、すまして宗教面している宗教がたくさあるということです。S56・2・24
人情も高度になってくると、神情に近いものになってくるが、心を遣い過ぎると、間違う時がある。どこまでも神ながらでコントロールされるようなものでなければならん。神饌の盛り付けで、正面より裏の方がいい時がある。裏の方が神ながらだから。私が体調悪く食事がいけんから、人が色々と心遣うて作ってくれるが、心を入れ過ぎて、人情が入り過ぎて、かえって食べられん。家内のおかずの方がしきりに食べたいような時がある。神ながらの御取次がまず出来とかんといけない。テクニックの上にも神ながらの自然の働きがいるのだから。心を遣い過ぎないこと。S56・3・6
「御結界の机の上に何もないところ」を頂く。お道の教師は何も要らん。只々座っとるだけでよい。S56・3・6
○○教会初代の○○先生は夜中に町中を清掃して回ったという。いかにも美談だが、そんな暇があるなら神様に向かわねば。御結界に座る、神様に向かう、ここ(取次の座)が一番大切。S56・3・7
「誠」と「真」。言うことが成ることが誠。それの元は真。S56・3・10
信心が難しいなら世渡りも難しい、生きるということ自体難しいと言える。信心はみやすいものと分かると仕事もみやすいものになる。何が信心は難しいものとしておるのかと言えば、結局は我情我欲があるから難しい。十年間、本気でそれを取ることに取り組ませて頂くなら、信心はみやすいものになる。楽しうなってくる。楽しいだけでなく、有り難い勿体ないになる。いわゆる信心が血肉になる。三年五年では出来るものではない。S56・3・19
三味線にはつぼ(押さえ所)がある。つぼの中にも更につぼがある。信心も一通りのことを覚えるはつぼを覚えたも同じ。合楽理念を分かっている人は沢山おろう。分かっとっても私の弾くのと音色が違う。私の場合つぼの中のつぼを押さえているから。教えたからというて分かるものではない。S56・3・21
三十数年前の福岡長浜の修行時代に、初めて霊と話し合いが出来たのは、家内の父の命日だった。生前、びわが好物だったから、貧乏でお金はなかったけれども何とかして手に入れたいと、果物屋の前を通ると、丁度びわを選別しているところだった。わけを話すと、それなら持って行きなさいと、僅かなお金で沢山頂いた。それをお供えした時にお礼の言葉を初めて霊から聞いたのが始まりだった。けれども、これはその時の私の真心を愛でて神様がトリックなさったということです。以来何十年間、霊との交流もしたし、その話もしてきたけれども、今から思うとすべてが実は神様のトリックだったということ。この世からあの世に徳を送ることは出来ても、あの世からこの世に働きかけは出来ないということ。これが、合楽理念の霊観。S56・3・22
修行の水に浸りきっとる時が一番楽であり、必ず有り難いの答えがでる。さぼったらほんに辛かろうが。S56・3・24
業(ごう)が行(ぎょう)になる心行家業の行。S56・3・24
役者心がなからにゃ芸は出来んように、取次者心がなからにゃ取次は出来ん。その役になりきろうという心だ。S56・4・2
言うこととすることが合わねばならない。信心とは、すると決めたら徹することだ。S56・4・3
仏教で言う「安心立命」は、安心ではなく、諦観、諦めです。「吾唯足知」は、その日暮らしの利はつくが、繁盛の利にはならん。S56・4・4
息子が家出をしても「外出しとるだけ」というぐらいの心で祈らねば。S56・4・4
(植物でも)しわっとしておったのが、水が与えられたら生々とはなるが、それで育つということはない。そこには必ず肥やしが要る。すこしは背伸びしてでも修行に取り組まねば。S56・4・5
「実意をもって」とは、実際の意をもって、実際に感じたこと思うことを行うのが、実意をもって行うと言う。S56・4・5壮年部会
不平不足のない世界を少しでもいいから広げていかねばならんですねえ。S56・4・5壮年部会
(信徒○○氏の「『言わぬが花』だから、さらにそれを実りにせねばと思う」という発表に対し)「言わぬが花」を実りにするには、言わぬことがこんなにも有り難いことだと分からねば実りにはならない。この「実を結ぶ黙って治める」を焦点にしていくと改まりも出来、研きも出来る。我情を我欲をとっていくところから湧く喜び、それが、ああ言わんでよかった、こういうおかげになってきた、という実を結ぶ黙って治めるになる。S56・4・5壮年部会
自分の祈りを確信すること。S56・4・14
教会の手続きとは事務的手続きぐらいがちょうどいい。出社に対しては、亡恩であってはならんが、子が親に寄ってくるなら受け入れ、去るものは流れ去らせる。S56・4・17
○○氏。学院入学に際し教会手続きのことを悩んでいたら「海水と真水、宮本武蔵」と頂いたとお届け。「海水と真水」これなら混ざる。「宮本武蔵」は両刀使いで行けということ。S56・4・17
人を軽う見るから人に軽う見られる。とりわけ取次者は軽う見られんようにならねば。とかく身を慎むことを心がけておくことです。S56・4・24
盗癖のある人のことをお願いさせて頂きよったら、「鼠小僧に御用提灯がたくさん寄って来るところ」を頂く。たとえ盗癖が心の内容にあっても、神に向かえばその人なりの神様の御用があるということ。神様は結構に使うて下さるから、心を深く見つめ過ぎて気落ちしてはならない。S56・4・25
(教会三代目になる予定の恵城君のことに関して)あれもこれもお祖父さんの通りにせねばならないということではないと思う。何かひとつ芯どころが出来ておれば代勝りになっていく。それが信心のお徳だと思う。S56・4・26
難儀と感じず神愛と感じるその空の心、無の心、そういう心で願っていく。S56・4・27
おかげの上にもはっきりと、お気付けの上にもはっきりと、神様の働きが現れる過程を経て、お気付けも柔らかになりおかげとなるような展開となる。S56・4・30
ちょっとした不浄が、不成になってしまう。S56・4・30
罰をかぶらせようでなく、教えようという働きだと頂いて、有り難いということになる。S56・4・30
「辻」信心にも辻がある。曲がり角がある。商売でも面白いように売れた売れたのプラスになるのが有り難いとは誰でも言うが、それを流すような時にも有り難いが言えれる信心とならねば。S56・4・30
マイナスの時にもお礼の言えれるとは、ただ言えるだけでなく、御神意が分かって言えて本当のこと。S56・4・30
本教の修行のイメージということ。修行観から間違って来ている。その岐路になるのが難儀。修行が表行(苦行)になって金光大神の教えが壊れて来た。金光大神の教えの取り組みに迫力がなかったし、教えそのものの深さ広さが分からなかったということ。修行は自然が求め給う修行に取り組むのが一番。四神様の教えに、「信心せよと言いますと、すぐに拝みだしますわい」というのがある。拝み倒しておかげを頂くのが信心と思っている。おかげにも正道のおかげと正道でないおかげがあるようだ。神様が下さった難儀をすぐに水をかぶりだしますわいは、正道でないおかげ。自然との調和をせず、すぐに表行に取り組もうとする。正道で取り組むおかげには神徳がついてくる。S56・5・2
「ネクタイ」。「寝苦体」金光様の先生は朝がしるしい(辛い)と思うようであっては信者は助からん。S56・5・4神愛会
(つきあっている彼女が写った写真に首から上が写ってない、というお届けに対し)時計が「三時半」をさしているところを頂く。(研修室にかかっている時計を指されて)私が朝御広前に出て来る時間です。一心発起が要る。目先のこととせずに、一生のこととして考えねば。(神様のトリック・テクニック)S56・5・4神愛会
信心がつかみどころがないなら、とにかく信心とは神様が御承知の世界に生き抜くこと。神様のおかげを頂かねば立ち行かん、神様のみという時に人間は見えない。そこからつかみどころがつかめてくる。S56・5・9
感が狂う。日々取り組み思いつめていないと感が鈍る。S56・5・10
神様を感じる、感じさせる。取次の働きとはそこ。神様を感じさせる。そこから御理解を心から頂くことになる。S56・5・11
神様を中心とした信心に問題はない。自分中心だから問題が生まれる。S56・5・11
人柄がよい、横着気がない、そして親切な人。こういう人は必ず商売が繁盛する。しかしそれが子や孫に伝わることはない。やっぱり信心の徳を頂き、その徳が伝わるという繁盛でなければいけん。S56・5・15富久信会
そのことを修行として受けるのが一番特効薬的おかげ。S56・5・17
御理解第三節の前半が分かって後半に入っていきお徳を受けるということだ。S56・5・18
めぐりにするも神愛にするも信心次第。S56・5・20
神情一筋にやりぬくことがなければ、難儀を難儀と感じず借金も借金と感じないという世界は分からん。S56・5・31
分からん者にはおかげをもって示していくのが一番であり、中途半端でおかげといっても通じんばかりでなく却って反発されるもの。S56・6・6
とりわけ取次者は、お届けの話を途中で否定も肯定もしてはならない。とにかく最後まで素直に耳を傾けることだ。S56・6・8
○○さんの、その心がけのよさ。御祈念でも、親先生がなさるからと、口をゆすぎ手を洗うていくと。信心はそういう心がけが要るということを心得ておられる。S56・6・12
思い通りにならんもの。それは思い以上のおかげの受けられる修行だと思えばお礼が言えれる。それが信じられるまで修行せにゃね。S56・6・15
改まりの出来ないそこのところをいっちょ見極めて、ひとつお礼の言えるところまで取り組まねばね。S56・5・15
親神様に親孝行したいという願いから発する合楽理念。神様のお心を分からせて下さい、神様の願いを分からせて下さいという。S56・5・15
生々とした心で向かうなら、はっきりとしたおかげを受けられるのは間違いない。生々とした心、健康な心で修行出来る工夫をせねば。S56・6・16
人を誤魔化すのは神様を欺くも同じ。商売で、人に喜んで頂くことばかり思うていますということは、神様に喜んで頂くことばかり思うていることと同じになる。電器店経営の○○さん、本当に実意丁寧素直な人。なるほど商売が繁盛しているはず。S56・6・16
間口の広い教会でなければならない。どういう人でも助かるということにならねば。合楽は助かりの理念ひとつだから、そこをマスターして、どういう場合であってもお礼と喜びの出る、ということを求めるとなると間口が広い。全階層の人々に当たれる。S56・6・17
一粒万倍というが、万倍にまでなる一粒の真価。人情はない神情一本。S56・6・17
表現は、みやすく、正しく。S56・6・19
「くさの葉にとまるちょうちょは二心、そして菜の葉も捨てずして」S56・6・23
○○さん、電話で毎日お取次を頂く。一度も参ったことがない。たまに参らんのと言おうごたるけど、本人が夢でお知らせを頂いては一口御理解を頂かれる。結局、私達が教導するのではない。自分の思いやらでお取次しちゃいけん。神様が育てなさるのだから。取次者は只々人が助かりさえすればの精神でいけばよい。S56・6・24
勤行に欠けている者は構えが弱い。S56・6・28
「神様の御都合」と言って、「どげな御都合ですか」と信者に言わせんですむ御取次者になりたい。S56・6・29
共励会。研修会。余韻の残るような信心の話の出る会であるようにせねば。でなければだれてしまうよ。S56・7・1
見た目の美しさより、感じる美しさが大切。S56・7・3
名々の教会の、これが私んとこの教えの芯というものが、漠然とした合楽理念であってはいけない。たとえば、○○教会は「くノ一修行」というように、具体的に決まっていなければいけない。S56・7・4
合楽の御理解は、教祖の御理解を、人が助かる、おかげを頂くということを視点に説いているのです。S56・7・5
表行は心が荒れる。S56・7・5
天地との交流そのリズムを感じていきよりさえすればよい。そして、それを三年五年と続けながら、より豊かにより大きくしていくことだ。リズムに乗って交流出来ているといって、それで信心が出来ているということでなく、そこに腹を立てないとか、そういう心の豊かさ大きさに通じていくということ。S56・7・5壮年部会
こういうところまで馬鹿になっとかにゃいけんだろうか、というところが平気になった時がおかげの受けられる時でしょうね。不平不足がどれだけおかげの邪魔になるか。S56・7・5壮年部会
一心不乱の祈念とは乱れ不ということ。雑念妄念もお礼を申し上げる他なし。神愛です。そこに乱れることなしである。S56・7・5壮年部会
お供えものをせずにはおれない心にはおかげがあるごたる。真一心、やむにやまれないもの。神様が向きを変えて比礼を表して下さる。S56・7・6
「詰め」もうひと押しの詰め。S56・7・6
とおりいっぺんはとおりいっぺん。人並みは人並み。そこを私は行人べんと、人とは少しは違う生き方をせねば。御祈念には人より十分前には出て来る、大祓信行は一巻よけいに足すとかね、そういう心がけ。S56・7・6
一生懸命にならねば信心はみやすうも楽しうもならない。取り組んだら絶対有り難うなる楽しうなる。手応えのある一日でありたい。S56・7・8
小さな心の動きひとつでも心して取り組め。S56・7・8
合楽の御理解は毎朝修行生の為の御理解だよ。S56・7・8
心の世界は実にデリケート。ばちというのは自分から当たりにいくようなもの。罰をあてられると思いよるから、そういう思い込みで、すいませんすいませんで恐れるから、おかげにならん、ばちかぶるということになる。S56・7・8
「明眸禍(めいぼうか)」中国の言葉。美人であるが故に人間関係の禍い(わざわい)が絶えない。美人は薄命か明眸禍。S56・7・8
信心は練り出すものというより、練り出されて来るものだ。話を聞いて分かったら実験し実証していく。そこに自ずから練り出されて来るものです。S56・7・9
来てくれと頼まんでも金光大神が来て下さっとる世界が、タイミングのよい天地のリズムに乗っての、神様の働きが頂けている時。せめてそこの世界までは頂きたい。そこから深くは限りがない。金光大神と会話し続ける世界へと深めて行く。S56・7・10
神様の信用がなきゃ取次は出来ん。保証人の立場だ。S56・7・10
「金光大神は形がのうなったら来てくれと言うところに行ってやる」と言っても、死んでもお取次は出来ようが、理解申して聞かせは出来ないということ。S56・7・10
「辛抱しまつばかりなり宝船」。辛抱し貫く中から、神様の働きには間違いがないなあ間違いがないなあが積み重ねられて「まつばかりなり宝船」だ。S56・7・11
信心のセンチメンタル。答えが有り難いとでりゃいいが、「わしゃつまらん」になっては助からん。S56・7・11
人間が、様々な迷信慣習にとらわれて、窮屈な生き方、小さい天地にするから、おかげも小さな窮屈なおかげになる。大きな信心に大きなおかげ。S56・7・16
おかげの頂けれる方法論から実験実証へ。せずにおれぬ世界は方法論ではない。S56・7・16
○○先生の一心とは「信心が好きだから」ということ。S56・7・16
「梅は咲いたか桜はまだかいな 柳なよなよ風しだい 山吹ゃ浮気で色ばっかりしょんがいな」56・7・20
悪口を言いたいような人がある。だからこそ、その人のことを祈り助かりを願うのが神の機感にかなうことになる。S56・7・20
とにかく教祖の教えを実証していかねば。「神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ」という世界を証立てていかねば。S56・7・22
一瞬青うなっても、次の瞬間にはおかげで平静に戻っている、というのが金光教で言う安心。金光教の安心には絶対おかげが伴う。仏教の「安心立命」とは違う。そのことに対してお礼が言えれるというのが金光教だ。ただ不平不足を言わないということではなく。S56・7・22
合楽哲学。S56・7・22
信心の情熱の向こうにあるのが安心。S56・7・24
かゆいのは苦しいが、掻いてもらうのは快感。信心の喜びとはそんなもんだ。S56・7・24
「神様がお受けにならんと眠気がつきますよ」ということがある。御祈念して神様と交流しだしたら、益々眼が覚めて来る、そういう御祈念をせねばならない。S56・7・27
たての神徳、よこの神徳。S56.7.28
信行が折り目正しく節度をもってなされる。そういう人の上に神様の信用がつく。「自分のような者でもおかげが受けられた」というようなおすがりでは、おかげは受けても信用にはならない。信行を貫く。それが育っていって、「私がおかげを頂かんはずはない」という確信にまでなるような、自分の身へのつきようでなければ。楽をせんぞと決め込んだ時には、楽はさせずにおかないという働きが必ずある。それは、石段の途中に休む所があるようなもの。それを待ちきれずに楽を取るからお徳が受けられん。S56・7・31
「神様に好かれたい、天地の心に通いたい」というのが、漠然と神様神様と祈るのみでなく、どうしたら好かれるか、その心がけをつくらねば。ちょっとした心がけで構えが出来るのだから。S56・8・2
神様好みになろうとすると、不思議にこちらの性根の好みに神様が合わせて下さる。S56・8・2
教会長の威義ある信心に信者もそうなる。それを信者の悪口を言うのは、上を向いて唾を吐くようなもの。S56・8・2
「腹立ちをすべて許して茄子の花」そこに千にひとつの仇もなし、だ。S56・8・3梅の実会
親が子のことを思わんことはないだろう。しかし、ここまでは親の責任、というところから、先は神様にお任せするより外はないということが心に出来ておかねばね。S56・8・3梅の実会
「我がものと思えば軽し傘の雪」56・8・4神愛会
天地のリズムに乗ってのリズミカルな生き方、そしてそこからの迫力ある信心。一段とすっきりと改まっていく信心が求められる。只、「間違いないなあ、リズミカルだなあ」と言うているだけではいけんように思う。S56・8・5
「天真地心」天が真だから、成り行きを尊ばずにはおれない。S56・8・5
神様はおかげを無条件にやってある。それを、信者がおかげを頂いたのに参ってこない時に、「お礼にも出てこん」と思うようではいけない。お礼言わんでも神様はどうとは思いなさらん。それは取次者が思いよること。結局、神様がお育てなさるのだから言うことないよ。S56・8・5
リズムに乗った一日だったからそれでいいのではない。そこに、どちらが本当のリズムだったろうかという見極めがいる。結局、いつも楽をせんぞの方をとっていくことだ。S56・8・5壮年部会
「両の手の平を合わせるところ」を頂く。両方の親指が合えば人指し指なども合うてくる。親夫婦の心が合うていきさえすれば、子も霊も合うていく。S56・8・6
神様お知らせ「『信者に逃げられた』と言うならおかげを頂くが、『信者を取られた』と言うならおかげにならん」と。S56・8・6
こっちの心が美しければ、相手の心も美しう見えてくる。「縁談に信(まこと)の心を見合わせよ」とはそういう心を見合わせよということでしょう。S56・8・7
〇〇さん(女子修行生)が、台所の御用がごたごたもめる時に頂いたことに、「御土産」と。産みなす信心、産みなす手立て、いよいよ土の信心によるほかはない。自分の思うようにならない時ほど土の信心だ。そこに土産は船にも車にも積めぬほどの神徳があると言われるのだから。S56・8・10
不思議というおかげに触れられなくなって来ているのが今日の金光教。S56・8・13
結局、心を鍛えねば力はつかない。鍛練。S56・8・19
「人道いっぱいに豚が歩いている」ところを頂く。「人道」は地に堕ちてしまった。人の道はもう通られなくなっておる。そこで次元の違う道を通らせて頂くほかはない。究極は生神への道だ。S56・8・23
「(大祭を)真正面から拝む者もあれば横からも後ろからも拝む者もあろうが」と頂く。大祭にも参らずお願い参りに来た人に関して頂いた。そういう時、大祭には御参りせにゃと言っては人情・感情。真の教導にはならん。S56・8・26
「人力に見切りをつけて神力にすがれ、人力おのずから湧く」。こうせねばならんからこうする、というのが前の人力。それに見切りをつけるといっても、てれんぱれん(ぶらぶら)しておってよいということではない。そこから神様のおかげを頂かねばどうにもならないと分かって、一生懸命神力にすがる。そこに、そうせずにおれないという心が湧いてくる。これが後の人力。私が朝の三時に起きずにおれない、御神前に座ったら一時間も御祈念せずにおれないという心です。こげんもせにゃというのは人力。ところが、神力にすがって湧いてくるものは限りがない。ここのところに入っていく時に本当の助かりがある。S56・8・27
人の尊敬を集める教会・教師ではなく、まず神様の保証を頂かねば。天地の保証を頂かねば「お徳」とは言えない。S56・9・1
神様から、現代のキリスト教のことを「傾いた十字架に人がぶら下がっているところ」を頂く。いばらの道を歩いてまで神様に接近しようという人がいなくなってきた。十字架を背負うどころかぶら下がる人ばかりになってきた。S56・9・1
「難儀は神のウインク」56・9・2
信心はいつも限界への挑戦。それでいて初めて力に徳になる。それがプロの信心。S56・9・9
あてたふんどしゃ向こうからはずるる。(あてになるものが当てにならないの意)S56・9・9
「ウ」+「子」=「字(あざな)」と頂く。「ウかんむり」とは天地宇宙の意。御神縁を頂いた者へのまず第一の教導は、天地の神様の子である自覚を促すこと。S56・9・10
「不平不足を言わんですむ信心生活を目指して」諦めの心からくる不平不足を言わん、ではなく、「不平不足を言うたら馬鹿らしい、いやむしろお礼を申し上げることだ」と。そこにおかげが頂けれるのだから。S56・9・11
信心でのこれは私の独壇場というものができねばならない。S56・9・15
これが合楽の生き方なんだ、というよりも、人間の本当の生き方なんだと極まったと皆分かったかな。S56・9・15
心に不平不足悩み腹立ちが出た時は、本気で有り難いの心が出てくる追究が本気でなされねばならない。と言うのも、死んだがましという程の修行はないのだから。S56・9・17
人情からでる「誠」、神情からでる「真」。辞書(広辞苑第三版)に、「誠」とは、真実偽りなきこと言行一致。「真」とは、仙人が道を成就して化して昇天することとあるという。S56・9・18
「彼岸のかなた」の「彼岸」を「悲願」と頂く。おかげを受けたのも神様の働きなら、おかげの受けられないのも神様の働き。神の悲願のかなたにおかげはあり。S56・9・19
過多症的信心の人に対して「麦踏み」を頂く。押さえるところにいいものが生まれる場合もある。S56・9・24
神様まかせの生活、自然の摂理の生かさずにおかん働きの中に素晴らしいタイミングを頂いての生活。それは願っておることだけにそういう働きを頂くということではない。例えば、三度のお食事の時間にお膳が整って席に着け、そして頂けれるそのタイミングを実感し、そのことが本当に勿体ないという生活へ進まねば、信心に位がつくということはない。目の詰まった信心がそこにいよいよ求められる。S56・10・1
○○先生がいつか質問されたことに「合楽理念を持っていけば、どういう土地柄国柄にも本当に広まるか」と。その時頂いたことが、「九十度三十度六十度の三角定規、(辺に長い短いがある、中心に丸い穴があけてある)」と。中心は丸つまり和賀心。合楽理念による布教。ただ辛抱が長いか短いかの差があるだけで、必ず道は開ける。S56・10・4神愛会
有り難いのつなぎとしてのお詫びということ。S56・10・4神愛会
朝起きたらいっちょ鏡を見て、自分の顔が助かっとるか助かってないかを確かめて、助かっとらんなら心の内を改めて、そして一日を始めるという心掛けがいる。S56・10・5
御用はスパナのようなもの。信心の緩みがそれによって締まる。その責任においての御用ということだ。S56・10・9
神心で信心を人に伝えるのは難しいけれども、その責任においての御用ということになれば、同じ内容として受けて下さるのでは。S56・10・18
皆が赤ちゃんブーム。お乳の出が足りないらしい。けれども神様がちゃんと準備しとって下さっとるのですから、それを頂きぬかせてもらわねば。かというてミルクを買うてはならん飲ましてはならんじゃない。そこには神様への敬謙なお詫びが絶対いるということ。S56・10・19
心で泣いて顔で笑ってというものではない。そういう時に「ここが実験実証のしどころだ」と心は元気に弾むようなものだ。それには日頃からもうその事ばかり考えておる、取り組んでおる、ということでなければ。S56・10・20
どういうささいな事でも、それが本当だと心が感じた事を実行していくことだ。それが天地に響く。反対も天地に響く。S56・10・20
座っとって身につくのではなく、立って御用し動きよる中で自分のものになっていく。楽して身にはつかない。S56・10・20
改まりというても、手の平を返したような改まりでなければ、本当のものは身につき難いです。S56・10・21
神様を信じて神力一本の信心が、小さなことだけでなく、いよいよという命に関わるような応用問題にも表せていけることだ。S56・10・22
御取次は無の状態で充実した人が座っとかねば。S56・10・26
朝の目覚ましに、なんかこうしるしい(辛い)思いで目が覚める時は、ははあこれはまあだ神様の本当のおかげを頂ききってないのだなあ、と思う。本当に神様のおかげを頂いたら有り難い嬉しい目覚ましのおかげを頂くものだ。けれども修行中という間は眠たいものです。これが修行なのだからと思うて頂くその修行を通り抜けた向こうにしか有り難い嬉しいおかげはない。S56・10・27
お話は、おかげの受けられる有り難い内容と同時に話上手なら鬼に金棒。発声方法も稽古せねば。大空に向かって声を出しても。S56・10・27
親先生を頂くとは、親先生を信じて頂くということ。信じるといっても、実験実証もなく修行もなく信じるでははずれやすい。教えにかかりきることだ。信ずることの為の迷いは精進していけば必ず祓われる。S56・11・1
和賀心を目指す内容があって愛であり、慈悲である。S56・11・1
お話や発表は確信信念しているところを一口でする。S56・11・1
御結界の取次者の背後には金屏風が立っているも同然。御結界で居眠ったり、だれたり、疲れたけん立とうという心を出すようでは金屏風が泣く。S56・11・2
矢面に立った時、説き伏せていけれる実証を頂いておく。S56・11・2
自分の好みを先に出すと間違う。とりわけ人間を見る時、たいてい思いもかけない人が思いもかけないお役に立つ。S56・11・2
取次者は金屏風をバックにしておることのみ心掛けておればよい。信者へおかげを取り次ぐ渡すとかいうことの責任は本当はない。御都合です。S56・11・4
かつて、どんなに修行しても願うてもおかげにならんので、えーくそっと横にひっくりかえったことがある。心からそうしておるわけではなかったが、そしたら、神様が慌てておかげを下さったことがあった。S56・11・4
おかげもお徳も借り物と仰るから、しかし、借りれるだけ借りたら、こっちが倒れるようなことがあったら神様も倒れることになるので絶対倒しなさらん感じ。S56・11・5
怖くもないものを怖いと誤認しているからおかげが頂きにくい。怖いと思えば足がふるえる。おかげの受けられない観念がある。S56・11・5壮年部会
取次は、そのまま取り次ぐ。私を空しうして。そして、分からせる為でなく、分かる為に教えをする。S56・11・6
神は向こう倍力の徳を授けると。打ち向かっているなら、そこに働きが始まってこねばならない。S56・11・9
後にも先にも外にも内にも金光教以外にないという、気迫の強化が今の金光教に要る。S56・11・9
辛抱に対する慣れでは悲しいの一語に尽きる。信心辛抱は有り難いで喜びが湧く。S56・11・10
商売人が、生活費にこれこれ要るからこれだけ儲けにゃ、というのをもう一つ削っていくこと。生活費を削ったらそれだけお客に安う売ることが出来る。そういう生き方が神の機感にかなう。S56・11・12
キリスト教の助かりのことを神様から「見果てぬ夢」と頂く。キリスト教だけじゃなかろう。一生を罪の償いのために暮らすのがキリスト教徒の一生。この世で償いをして、あの世での天国を願うというのだから、なるほど見果てぬ夢です。S56・11・14
切実心。神様の願いを受けて応えれる切実心。S56・11・14
「柔肌の熱き血潮に触れもせで悲しからずや道を説く君」という与謝野晶子の歌がある。これは過去の宗教全体にも言えることだ。S56・11・14
どこまでも神様に向かう情念でなければ。信者に対する情念では人情になってしまう。為には神様と恋愛中という心にならねば。S56・11・14
金光大神の信心を、かく受け、かく頂き、かく広め、かく深め、かく現しているの説明。S56・11・14
「身代わりの修行、信心で罪を背負っていく」という教徒新聞の記事に対して「うそかい」(太宰府のうそかい神事。木を削って作った鳥の木像を交換して罪を祓うというもの。)を頂く。身代わりというのは、言わば嘘。結局、自らの信心の向上になっているということ。我が身を削るからおかげになる。S56・11・14
私にも、この人が言うて聞かせても分からんから、代わりに私が身を削りますからおかげをやって下さい、という時代があった。なるほどその人は助かった。けれど一番助かったのは私だったということ。氏子のためのようであって、実は全てが私自身の助かりのための修行であったことが分かる。「うそかい」です。S56・11・15
三十年前の修行時代、お道の本ですら読むことが許されなかった時があった。道を歩いておって壁に新聞が貼ってあったのを何の気なしに読んでも、神様から注意を受けた。本というものは真しやかに書いてある。うのみには出来ない。へたをすると間違う。しかも、たいていの本が、人が助かることが難しう説いてある。神様は、それを読むことによって間違った教えがついてしまうと言われた。S56・11・15
ある人が、「今、取次者に欠けているのは信者への情念だ」と言ったと。私の場合、信者にはむしろ冷淡。ただ神様と私の間の情念が強うなっていくだけ。S56・11・15
七五三祭りの意義。「子供たちがこんなに大切にされたという記録として」と頂く。S56・11・15
中に入って広めるといって、何をもって広めるか。それは確信だよ。S56・11・15
布教に出ておるつもり、が修行生の日々の構え。S56・11・17
「合楽の目玉商品」・・鯖の目玉を大きく頂く。人間が人間らしう生きること。「御佐馬」と頂く。神様から許されての人間が人間らしうということ。S56・11・17
御祈念。私は名前を忘れた時は顔を思い浮かべて御祈念をする。S56・11・17
三十年も前、心外なことが次々とあっておったが、御本部参拝、当時鳥栖で乗り換え。駅の前に植え込みがあってそこで時間が来るのを待っておったら、人から心外なことを言われたり態度をとられて、くうーっとしとった。その時思うたことに、赤面弁慶になって言い訳することもないが、人はどげなことでん言うと。そしたら御心眼に「小さな鯖を猫が爪を立ててあっちひっぱたりこっちひっぱたりしているところ」を頂いた。そして御理解に「おまえの信心が小さな信心だから。大きうなれ。ぶりのような大きなおかげになったら、下から眺めるだけで爪も立てきらんようになるぞ」と頂いた。いよいよ元気づいてそれを頂こうという思いにならされたことだった。お互いが、ぶりぶりするようなおかげの実証を頂かんと、あれだけ打ち込んでござったが、と人から言われるようなことになりかねん。S56・11・19
布教に手続き(教会系統主義)は問題にしない。問題は合楽理念の実験実証の実ということ。S56・11・19
「きじを荒縄で羽がばたばた出来ないようにしてある。餌は拾えるが飛び立てない」ところを頂く。そこに足元の餌を頂き、足元の有り難さが分かっていくうちに必ずこの縄は解かれどこへでも飛び立って行けれるおかげになる。難儀の真っ最中、修行のただ中という時こそ大切にせねば。S56・11・20
○○教会のある信者さんのお届けに「重ね衣の」と頂く。○○教会と合楽教会と信心が重なるが、そちらの方が温かいということ。S56・11・21
合楽理念も覚えただけでは机上の空論。S56・11・21
ジュバンの汚れは、人に見えても神様のおかばいがある。足袋の裏、足元の汚れは誰にも見えぬ。そこを大切にするように心掛けておかねば。S56・11・22
天然の美を感動をもって受け止める。これは当たり前のこと。私共は、それと反対の天然の醜も感動で受け止めれる稽古をしているわけ。S56・11・23
形に表したいようなお礼の心、有り難いの心が出てくると、必ず実証が生まれる。S56・11・23
信心は感動です。喜びに喜んでというのは感動。S56・11・23
こんくらいのことはよかろう、という心が汚い心、美しくない心。S56・11・25
手が出らん時は、神様が大きくなれよと願うておられる時。「大きな綿入れを着ているから手が出らんところ」を頂く。S56・11・25
最高の子供の自覚、親のかゆいところに手の届くような最高の子供。そういう子供の世界即ち合楽世界ということになりたい。S56・11・26
傾倒であって、惚れ込みではいかん。惚れ込みは、あばたもえくぼということになるから。S56・12・1
とにかく、修行が有り難いもの楽しいものになる稽古が修行。いつまでこの修行が続くだろうか、といったものじゃなくて。S56・12・2
「広ければ広く、狭ければ狭く、水の流れに不足はあらず」。そういう心の状態が大きな願いと同時にそういう心も広がっていく。合楽の信心はそこにある。諦め的「不足はあらず」ではない。S56・12・22
お道の神髄を究めると、他宗教と和してはいけないことが分かる。他宗教のその非を分からせる悟らせて上げることだ。本当に本当のものを求めている人達に対して教えて上げれる与えられることに責任を感じていかねばならない。その時、実証をひっさげて行かねば我田引水になる。合楽はそこを実証をもって説いているよね。過去の信心は五里霧中。過去の宗教の精算をせねば。S56・12・24
禁欲はくすぶらせておるようなもの。くすぶらせるではなく、それを大酒大食ではいけぬが、燃え上がらせる、発散させるでなければならぬ。これが人間が人間らしうということです。S56・12・28
尊んで頂く。有り難く頂く。つまり、御神意を悟り頂くこと。そこに必ず有り難い働きが起こる。S56・12・28
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