研修資料 3 (S54・6・24〜S54・12・27)


私どもは、いつも心がしっとりとした朝露を受けたような、潤うた心をいつも求めているわけです。うっかりすると、水気をなくした土が干割れていくようなことになる。打ち水をした後のような心でなければ。S54・6・24

生噛りでは慢心が出る。みっちりと自分のものにせねば。S54・6・24

過激でなく「和道十全」を表現したがいい。(まとめに対し)。S54・6・24

人間心を遣うとお里が知れる。S54・6・24

「ローソクの芯は出ていないのにローソク全体が燃えている。」「(合楽理念は)素晴らしい素晴らしい」で燃えているだけで分からんことになる。本気で行じようと思う芯を出してはじめて光となる。S54・6・26

分かろうと意欲した者でないと分からせられない。身につけず行じない人も多い。ただ詳しうなるだけ。S54・6・26

自転車(自力)という一生懸命の過程を通って、そのわらじばき(一生懸命の意、和楽路)の和楽の味が出るまでが信心辛抱。もうそこには自転車はない。自動車(お徳)がある。S54・6・26

許されたいと思うけれども許されない。眠たいと思うけれども眠れない。食べたいと思うけれども許されない。もうお詫びするより他にないごたる。S54・6・26

鴨居で頭を打って、こん奴がと、鴨居を叩くが「人ながら」。鴨居に向かってすいませんが「神ながら」。S54・6・27

神ながらの働き、おかげの中には、神ながらのお気付けもあることを感じさせてもろうてピンときて、すいませんと答えるところに神ながらのおかげがある。S54・6・28

合楽全部の人が、どうでも日参教聴心行家業の行をさせて頂いて合楽理念の実験実証が出来ねば。そこに必ず日勝り月勝り年勝りのおかげとなり、そこから信心の真を表すところに代勝りのおかげになる。S54・6・28竹葉会

おかげを落としたかのように見える時こそ実験実証のチャンス。よりきわだったおかげを受けさせたいがための神愛であり、そこからの実証に祈りの実感が加わるなら、それが神になるのぞと言われるほどの伝わりようになるだろう。S54・7・2

この修行だけは、この信心の取り組みだけは、自分の命のようなものといったものが要る。S54・7・3梅の実会

「傘があって小川が流れているところ」。おかげ(御利益)がなくて安心が得られるか。おかげ(御利益)が確信を生む。S54・7・5

大きな願いを立てる時こそ小我を見逃せない。繊細なまでの心の見極めがいる。S54・7・5

明日のミニ御理解のことを願っていたら、「(真に有り難しとは)内には我が心を拝める時、外には天地の大恩が悟れた時」と頂いた。S54・7・5

教えによって、「すぐ分かる、すぐ実行できる」話が出来ねばならない。S54・7・6

昔、○○さん、お金を借りられた。奥さんの方はおかげ頂いたと。けれども御主人は「そりばってん、返さにゃいかんとじゃろうが」と。ここに貧乏神がつく。お金を借りれたことがおかげじゃないぐらいに思うとる。S54・7・6

あふれんばかりのおかげをまのあたりにして、もうこの神様の先まわりされるおかげを見れば、徳も力もない私に、もったいない限りと言わずにはおれない。S54・7・7

(信徒○○氏の質問・・「我々は親先生を信じるからどういう難儀の中にあっても神愛としてその言に支えられていきますが、親先生の昔の御修行時代は?」)私の場合、いつもその前後に神様の間違いない働きを蒙っていたから。お金がなくても本部参拝の用意をして駅までいくと、代わりに参ってくれという人が現れたりというおかげを頂いていた。だから、神様が喜んで下さることはおかげになるから、生活一切全てを全部神様に喜んでもらいさえすれば、そういう思い行いになればおかげは頂くという信念だった。S54・7・8

今朝の御理解は「腹を決める」ということ。いつまでもぐづぐづしていてはおかげにならん。私が、もうきつかと言わんぞと腹を決めたから途端におかげ頂いたわけ。腹を決めたら神様も腹をきめておかげくださる。S54・7・8

(「合楽の少年少女会のブラスバンドが福岡に行った時、雨が晴れていった。もし合楽が行かなかったら晴れなかったと思います。」の修行生の言に対し)これが合楽的慢心だよね。S54・7・8

地の心に辛抱力。天の心に潔さ。S54・7・8

不平不足が出るなら精進不足。S54・7・11

有るから集まって来るんだ。必要なもの、欲しいものは必ず何処かにあるんだ。昔、修行時代に、「私ども夫婦は断食してもいいが、親には子供にはひもじい思いをさせたくない」と懸命に神様に願うといった悲壮なものは更々なかった。「今日は今日、明日は明日の風が吹く」で、神様の間違いない働きを実感しての毎日だから信じられていた。ためには、あかぬけた信心、修行が、出来ておかんとそういうすっきりとした働きおかげは頂けんし、実感できんよね。「明日は明日たい。さあ御祈念!御祈念!」で一日を終わったものだった。S54・7・11

真の幸福は信心による外はなし、とその為の修行をあらゆる角度からなさった金光大神。それを教えとしてはっきり教えてあるのだが、こちらがはっきり分からんところに、私ども自身の中で実験実証を繰り返して、確たるものにせねばならんということです。S54・7・12

信心は「こつ」。聞いて分かるものじゃない。やはり身に試してみて「しこなせる」ようになるまで。S54・7・12

「今男」今・田・力。大きくなるためには今が力を受けられる時。今が大切。ここは大切にしなければというところを大切にすること。御結界奉仕中に睡魔が襲って来る。ここを大切にせねば。S54・7・17

心掛け。醤油一滴でも、タクワンひときれでも大切にする心掛け。茶碗をゆすいで頂く時のその楽しさ。いざという時、くよくよで頂く人、苦で頂く人、喜びで頂く人、修行精神旺盛で頂く人。S54・7・17

おおいなる願いを持てば持つほど、蟻の一穴でももらさぬように。S54・7・17

昨夜の霊祭のこと。霊が助かりたいと思っていても、その手立てを教えてくれるものがなかったが、合楽理念が教えてくれた。助かりたいと願っているから、急激に助かる。助かろうという意欲のない霊は、仏教的に言うなら地獄に落ちているようなもの。苦であることすら知らない。これが当たり前と思うている。苦の世が当然と思っている。S54・7・17

「楽しき心配」と色紙に書いて○○先生に差し上げた。信心向上に伴い、神様が心配されるような高度な心配。痛いけれどもこの心配の向こうにはどういうおかげが待っているかと思うと楽しいわけ。S54・7・17

和とは人間のもの。光とは神様のもの。和を願い、そこにはいやが上にも光を下さる。S54・7・17

自分の心の中にいやーなものがあることに気付く。それをつかまえて研き精進していくに限る。S54・7・17

千年万年先の人々のために合楽理念の意義付け。S54・7・17

親神様と遠くから慕うて来る人。総一っちゃん先生と呼ぶ地元の人。S54・7・17

和賀心を話すというても、言うだけの人ではね。自らそれを求める人ならそこに現れる伝わりようが違う。S54・7・17

有り難涙ほど心を清めるものはない。S54・7・19

同じ所をぐるぐる回りよるとが普通の人の信心。その証拠に年々有り難うなるはずがなりよらんだろうが。そして信心の枠に入って窮屈になるばかりで、意地悪な根性が育つばかりで、若い者からも愛されんようになる。S54・7・19

めぐりと仲良うする信心ぞ。そのことを有り難く受けて行くのが、めぐりと仲良うすること。S54・7・19

どんなに親切のようにあっても、本当に親切の安売りであっちゃならん。御取次頂いて願いに願っての上でなければ人間心を使っちゃならん時もある。人間心を使うのは不同の扱いをするようなもの。つい信者に泣きつかれると人間心を出して才覚を出したりすると絶対!間違いになる。神様より先になって、おかげをやろうとしたりする。とんでもないこと。親切でも神様が出されるような親切でなければならん。絶対ばい!神様は実に親切という今日のミニ御理解はそういう意味。S54・7・20

この世で役に立つでなければあの世でも役に立たない。S54・7・20

恋愛したらおかげ落とすと言うていた時代もあった。「白魚や石にあたりて消えにけり」白魚のような人。道ならんと思うておった私の思いに当たって消えてしまった。取次者の思いに神様が合わせなさる。たとえ本当でなくとも。そういう時代が昔の私にあったということ。S54・7・20

三代金光様。思うこともなくなり、欲しいものもなくなり・・空しうなり続けられた。結局、全身全霊を神様にまかせる。大坪総一郎に任せた修行生の皆さん。そこを確かにしておかねば。そこから出来ないところが出来るようになる。S54・7・20

第三者的に自分を見た時に『ああ、お育て頂いているなあ』と実感できるでしょうが。S54・7・20

合楽は「よかよか主義」が多い。それを「神ながら主義」にしてしまう。信心の節度がない。悪う言うとだらしがない。羽織をかけながら広前に入って来る姿なんかだらしがない。きちっとせん私(じぶん)がきちっとすると何か有り難いものが心に生まれて来るから。S54・7・20

神様が十全の働きを表して下さるには、それなりの神ながらの生き方が出来ておかねばそういうことにはならん。S54・7・21

人が助かる事の為にはひと修行せずにはおれないというぐらいの心が育ってこねば。あつう祈らしてもらうところからそういうことが出来てくる。S54・7・21

心行。ここが私がだらしないというところを心行をもってする。S54・7・24

人に感動させるほどのものは、一線上に出ねば。それには学理学説は何の役にも立たん。むしろ邪魔するもの。S54・7・24

おかげが頂けたり、頂けなかったりするのは、神様の心に触れたり触れなかったりするから。S54・7・26御理解

有り難いと感じさせる内容をこちら自身が受けておかねばならん。S54・7・26

「うっかりさんとちゃっかりさん」(信徒会費未納者に対するお知らせ)54・7・27

「ツタンカーメンの黄金のマスク」を、明日のミニ御理解を思うた時に御心眼に頂く。神様をそのくらいに頂いていったら世界に広がる。「我、神とともにあり」と言うたっちゃ神様の方が好きなさらん。(ある高名な先生のこと。)だから「悩みは絶えず」であり、経済、肉体の悩みは絶えずだった。取られちゃならん、落としちゃならんという頂き方、大金を懐中にしておるような頂き方なら間違いないよね。S54・7・30

あの世に行くにも神様のおかげを頂かねば成就せん。○○さんが粟粒結核の重体から助かった時、「白木作りの宮殿のような所に吹きやられている時、向こうから大きな風が来て吹き戻された所が、自分の寝ていた布団だった」というのを本人が頂いている。S54・7・30

「心で憎んで口で愛すなよ(神訓)」とあっても、その人を心から好きになる手立てとして、口で愛すということはせねばならない。嫌いな事柄も同じ。嫌いを嫌いと、摘み切るような事は、いかにも正直なようであって助からない道。嫌いであっても好きになるための口で愛すから、その人がおらんと寂しいぐらいまでになる精進がいる。S54・8・2

金光教で言う「和」の心は「素直な心」。S54・8・2

心の中の汚さは何かの時にとっさに出て来るから、それをつかまえて改まっていくことが信心。たとえば、商売仇が儲かると歓迎せん心が人にはある。これが神の気感に適わん。とっさの時に出る、表情、心。S54・8・3

元日の心が演出しなくても出るようであって本当なもの。為には日々の改まりの繰り返しがいる。朝起きれなかったとかじゅつなかったというのは、昨日が元日のような心でなかった、大晦日のような一日の締め括りが出来ていなかった証拠。日々を新な心で。S54・8・3

金光大神の教えの中に合楽理念がすっぽり入る時、金光教の信心の偉大性は発揮される。S54・8・5

葬式のための宗教があるかと思うと、結婚式のための宗教や、病気治し災難除けの宗教もあれば、○○先生のような特異な存在もある。合楽は「浩」、「法念」と神様から頂く。「浩」とは、「さんずいへん」に「告げる」ということ。「さんずいへん」とは、自然ということ。「天地自然が告げる」ということ。「法然」とは、「天然の法則」ということ。合楽では、そのことを「天の心」とは、「地の心」とはと、法則として説きつくされている。明らかにしている。そのことを身に付けさせんが為の合楽教会である。人が助かりさえすればの助かり具合が次元の低い所に、○○先生の所のように、痛いのが治ったというおかげは束の間のもの。それを下さりもするが、その後にはすぐ神の心を分かってくれ悟ってくれの一念しかない。そのことを明らかにする使命が合楽教会にはあるということ。S54・8・6

法則はその人の信心内容によっても変わってくる。例えば「御」の字をつけていくのも、内容が分かって当てはめられるのであって、大人も子供もいっしょくたにできない。S54・8・6

自由無碍の世界にあって神人共栄の世界に住める。S54・8・6

金光教の「和賀心」を考えていないも同然の、腹立て教師、教会長。S54・8・7

滅ぶ寸前のラマ教。仏法僧の僧を大切にし過ぎた、と。S54・8・7

難儀があるわけでもない。これといった問題を抱えているわけでもない。私の行は、楽はせんぞの行と心行のみ。S54・8・7

「夕暮れにたどるは我が家の細路」(部屋までの廊下伝い)54・8・7

大きく御用に立たんと腹を決めた時には、もうリズムが、間違のない神様の働きが、始まる。S54・8・8

教えを行じないで信心することほど難しいものはない。S54・8・9

成り行きを願わなければいけない。願った以上は絶対受けねばならない。しかも人間としての精進が怠られてはならない。教祖の生きられ方。例えば、お米を供出されるその姿。良い方から良い方からお米を出していかれ、高いお金で買おうという働きにまでなった。それが教祖の場合たくまずして出来られたということだよね。S54・8・9

教祖金光大神の在られかた、生き方の研究よりも、教祖が残された教えを頂く方が良い。教祖が生麦を俵に詰められるのを見て、そのまま真似をして失敗した人があった。「形の真似は出来ても、心の真似が出来ぬから」と。結局、教えを頂いていくことが助かりの手だてだ。そこには、教祖のような方でなくとも助かれるということ。S54・8・17

大祭の比礼は参拝者全員が浴している。それが形に表れたり表れなかったりはするが。S54・8・17

どんなに、ふうたらぬくい、だらしのない人であっても、やはり辛抱力は求められる。難儀を強う感じられるような時でなければ、辛抱になかなか踏み込めないが、泣く泣くでもの辛抱のあかつきには、辛抱と言わずとも、辛抱せずにはおれないほどの信心の身につきようとはなる。(ふうたらぬくい・・ぼやぼやする。気の弱い。)54・8・17

椛目時代、暑い中に御結界でしっかり辛抱させてくださり、下がっても着物を脱ぐことを許されず、しっかり辛抱させてくださった。只今修行中の看板を掲げている間は、よそを見てはいけん。S54・8・17

神徳、人徳、金の徳、物の徳、健康の徳・・・五つの徳。神様を大切にせねば、人を大切にせねば、金を物を、健康への心遣いを大切にせねば、それぞれの徳は足ろわない。しかも、五徳(ごとく)のように、火の中にさしこまれておっても、じっと辛抱できねば。だいたい、神徳を受けるほどの人は、他の徳はみなついておるということだよね。S54・8・17

お水を大切に、ものを大切にと。しかし、使わずにはもったいないというのもある。これは最近私が感じていること。S54・8・18

語れば喧嘩にもなろう争いにもなろうというところを、黙って治められていることの有難さ。その心の豊かさ、嬉しさ。そういうものが溜りに溜まって、無口で人が助かるほどのことになると思う。S54・8・18

心もとない、ということがあってはならん。S54・8・18

人に大丈夫という安心感を与えられる、尊厳にして重量感あふるる金光様の先生ぶりが身についてこねば。金光大神の手代わりなのだから。家にあっては、お父さんがニコニコしてあるから大丈夫、というぐらいの安心感を与えきらねば。S54・8・18

神様を信ずる重さを深めていきたい。S54・8・18

天地の心に基づいて照らし合わせること。そこに答えは自ずと出てくる。自分の思いを通そうとする人が多い。それを願うことが信心と思うている。これではいけない。S54・8・19

弟大作の出征のときに門を作った。それが出来上がったのと、百万遍するお数珠というのがあって、近所をめぐる習慣があったのが、それが門をくぐったのと出来上がったのが同時だった。数珠だからやはり不安を感じた。本当は、自分の心の使い方一つで、生き死にが自由に避けられる。神ながらで受けるか、縁起でもないで受けるか、おごりとばして縁起を担ぐか。(大作氏は昭和二十年七月三十日戦死)54・8・19

本当の一心なら、その場でおかげになる。「一心一発」。おかげにならんの一心が本当の一心でないということ。神様からご覧になっての一心、潔さ。S54・8・20

斬新な表現と流れの良さ。しかも旨みのある、祝い目出度の表現をもって合楽理念を説いた。S54・8・20

問題の解決ではない。その味わいが濃くなるのだ。S54・8・21

全部「峰打ち」だったことが、今日の合楽の御比礼のもと。切り捨てるんでなく、生かしてきた。全部生かしてきた。それをなくしたら、さぞ良かろうと思うところも、難儀様として頂いてきたということ。どんなことでもやはり真剣。それでいて殺さない。切り捨てない。S54・8・23

潔い心を出さねば、天の心にはなれないということ。S54・8・23

信心の間口を広める。そして深める。S54・9・2

教えの言外の言を感じてピンきたところを、本気で実行しあたるなら、必ず不思議な不思議な働きが始まっていく。S54・9・2

力と技。力とは祈念力、信じる力。技とは心の切りかえ。午後からの御結界奉仕は二時からと、神様から言われているが、今日は十一時から出てきた。これは技だよ。S54・9・4

「大学目薬はしみません」と頂く。信心の大学生ということ。どういうわがまま勝手でも言える、日ごろからの神様との仲をつくっておけということ。S54・9・4

天地のリズムを聞き通しに聞いておると失敗せんですむ。S54・9・4

「重松」。昨日から御結界に十一時からついたら、初参拝の方があった。これを見ても神様が十一時からの奉仕を受け取ってくださった感じがする。改まらねばという思いと、せずにおかんという働きが重なってということ。S54・9・5

願っていることをくすぶらせずに、火を点ける工夫。S54・9・5

ありありと心に映る生きた感動、生きたお話でなければ、人に伝わらない。S54・9・6

過去の宗教は、背負いたくもないのに、自分から求めて十字架を背負っている。過去の金光教のめぐり観も同様。合楽理念はその場で、めぐりの輪を解き放てるほどしのもの。S54・9・6

神様に向ける情感がいつもみずみずしくたぎっておらねば、ピシッと神様のチャンスを取れん。S54・9・6

金光様の先生ぐらいよいものはない。人が助かる事だけを考えとけばよいのだから。衣食住は神様まかせで人が助かることだけを考えているのだから。信者と一緒になって心配しよっちゃおかげになっても徳にはならん。S54・9・7

御取次頂いたらその人の人間心のなくなるほどの御取次でなければならない。S54・9・7

親が子を思う心。そのままでは凡情となりがちだが、そういう条件のない切実心を他人に向けて神心となる。その神心に神ながらのものの見方頂き方がひとつになって本当に人が助かることになる。いわば、神心をもって自然力に頼む時、自然に成るという最高のおかげとなる。S54・9・7

余念がない。人が助かることさえ出来ればという、そのことしか念がない。余念がない。昨夜、テレビで、外国未開の地の一家があっていた。食べ物はトカゲ。捕まえようとしている場面。捕まえそこなったら一日食べられん。それを見ながら、思わず金光様金光様と祈っている自分に気がついた。また、阿蘇山噴煙で見物人に死人が出たと。すぐに霊の助かりを思う。S54・9・7

一心に願うといってもがむしゃらに願うのではなく、真心という合鍵をもって、スイッチひとつで発動するモーターのように、おかげの扉を開けるという成就の仕方でなければならない。そういう内容をもって「人の難儀がみすごせない」という信心とならねばならない。S54・9・7

「蟻」のお知らせは力を受けていくということ。「蟻」を「すがり」とも言う。蟻地獄ならいよいよ力を受けている時。S54・9・8

神の権威にかけて凄まじい働きを見せて下されの祈り。S54・9・8

御用させて頂こうという弾んだ心に神様が特別に働いて下さる。S54・9・8

「にせもの我」の自覚。そこから本当の修行生はと、にせもの我が求めていくことにならねば。結局、常住座臥。座り蕪。三代金光様の真似が形でもできたら本当のものと思う。内容はそこに伴うてくるだろう。間違いのない焦点も自ずと違えることもなくなろう。にせものと言ってもにせものぶりが違うおかげを頂きたい。S54・9・9

座っているだけで、ほんの些細な小さなことにでも神様の働きを実感できれることの為の研究に専念すればよい。S54・9・9

神様がお礼を言われるような信心を取次者修行生は目指さねばならん。その心ばえを頂きたい。S54・9・9

出来るという、これは出来るの「これは」が危ない。S54・9・10

「腐った枕木に犬釘を打ち込むところ」を頂く。本気で信心修行を求めそこに打ち込むでなければ決まらん。おかげ信心に終わる。本当の信心を求めてしかもそこに打ち込むであって本当に決まっていくことになる。S54・9・11

国の犠牲になった霊。これは本当に無念だったろう、残念だったろう。戦犯の人もまたそうであったろう。無念残念という霊様は皆お呼びさしてもろうての秋季霊祭を頂きたい。(今日の繁栄はあなた方のおかげですと、御霊に、自分たちの死は甲斐あるものだったと、悟ってもらう、御礼の祭りでなければ。慰霊という、慰めの祭りではいけない。)S54・9・11

「値高の骨高」「名高の骨高」・・鯛のこと。鯛は値が高うて骨が大きいから骨を買うようなもの。(おかげ信心はかえって高くつく)S54・9・17

はまらねば楽は生まれん。信心にはまる時、和楽路(わらじ)ばきの信心。「わらじ履き」とは一生懸命ということ。S54・9・20

外に伝えられたが教祖なら、内に伝えられたは三代金光様。S54・9・24

孫の守でもしよるような気持ちで子供のことを祈っていけ。子供のことで悩んでいた○○さんが、親が子の犠牲になろうとするならどういう信心をすればと、思い悩んでいた時に、御心眼に「親先生が飴を持って孫たちと遊んでやろうというところ」を頂いたと。子供の身代わりになろうという心ではなく、孫に飴玉をねぶらせて遊んでやろう、といったぐらいの心であれということ。S54・9・26

神様への常夜灯をつけておるのは、何時お参りがあるや分からんから。S54・9・30

本当に親神様だなあという実感が交流するなら、わざわざそんなことお礼お詫びする必要がない。願っただけでよいはず。その思い込みが出来るまでが、お礼でありお詫びである。S54・9・30

教典の探究。教祖は嘘を言っとられんというところまで行じ探究せねば。しかも探究したらみやすうなる。S54・10・9

ひとつのみ教えの広さ深さを、一節毎の芯所が他にこんな説き方している所はないというところをまとめたら面白かろう。S54・10・9

「用心しなされよ、信心に実がいってきたら、神様からのお試しがありますよ。」と教祖は仰ってあったと。S54・10・9

神様との交流は空中ブランコの呼吸の如し。危ないようでみやすい、面白い。恐怖心を取って、観念を取って、一二の三でなく、呼吸を合わせて。これは説明も教えることも出来ないもの。S54・10・9

修行時代、布一寸、下駄一足、買う気がなかった。下駄拾いは修行としてやったごたる。買えんけんじゃない。一心を立てれば出来んとかないとかおかしいとか云うことない。そして神様が集めて下さるのだからこんな楽しいことない。試されたとかいう思いもなかったごたる。勇気と楽しさをもって取り組まねば。S54・10・9

けちんぼうの精神でなく、神様の御物という精神でなければ。神様の御物だから大切にするということ。S54・10・9

観念を取ることの為の一心を立てれば素晴らしかろう。S54・10・9

「三角関係(不倫)は許されるのではないでしょうか」というお届けに対し、「水道のパイプが破れ、それを修繕して噴水としているところ」を頂く。噴水は排水をきちっと取ってあるが、破れはそこらあたりがビチャビチャになる。破れ、傷を、癒してそれから噴水にするならよし。なんでんかんでん人間らしゅうということではない。三角関係で迷惑をかけている所があるのだから、その傷を癒す手立てがまず要るということ。S54・10・11

めぐり(観念の重積)を無くするには、与えてやまない心、無条件、潔い心がいる。S54・10・12

「元日の心」これいっちょに取り組んでも面白い。その手立ても取り組むところに次々に分かってくる。S54・10・18

修行生、足の痛みのお届けに。「歌舞伎、奥州安達ケ原の三段目」を頂く。悲しい場面の象徴的演目であり、雪を降らせたりしての悲しみの見せ場の演出効果が優れているお芝居で、演出に応えれる演技が役者に求められる。神様の御演出に応える演技をすることだ。神様のこれほど手の込んだ御演出と分かるところにお礼の心がつのってくる。そこが頂きとめることが出来るようになるまでは何辺も同じ所を通らんならん。S54・10・19

罪深い。めぐり深い。そのことが「迷信」ということです。S54・10・19

一切が神愛。ここをふんまえてからが信心。S54・10・19

自由無碍に朗らかに楽しく徳を受けていく。S54・10・19

元日の心。有り難いという答えが出ればよい。結局、大晦日の心が要るのです。S54・10・28

京都竜安寺とかにある手洗い鉢に刻まれた「吾唯足るを知る」の文字を思っていたら、神様から「吾唯足らざるを知る。限り無く足ろうていくおかげを頂くために」と頂いた。足るを知るではいけないということ。今のおかげに安座しておってはいけない。限りなく進展していかねば。S54・10・31

求道とは、光で照らしながら進むということ。手探りなら何をつかむか分からん。S54・10・31

「小さいことにこだわらず、大きなことに驚かず、天地のように生きたい」の「天地のように生きたい」が一番だいじなとこ。S54・11・2

「師匠が弟子から投げられて、赤飯炊いて祝う」と言うじゃないか。師匠を越えねば駄目だよ。S54・11・2

自然にとけこむとは、その自然の働きに有り難ーいと思えること。自然にとけこむ時、自然を生かすことになる。S54・11・6

昨日の午後の奉仕。有り難い心にひたっていたら、「あやめの花」を頂く。あやめには実がない。花だけ。私の「有難い心」もその程度だろうと思ったら、ここに、人が私に傘をさしている写真があるが、それを神様から指差して頂く。安心の傘を自分で持つというのでなく、神様が傘をさして下さる、借り物の安心ということ。しかしおかげで油断なく信心できる。そして一生借り続ければ私のもの。S54・11・6

自分が持っている徳でなく、神様がよりそうて下さっていたということ。一生借り続ければはじめてあの世で大安心のお徳ということになる。S54・11・7

うかつにしておってお粗末なことになるのも、おりがましいことになる。S54・11・7

報恩の念を起こす時に、自ずから湧く喜びその力が、そのまま徳にもなりあの世にも持っていけるということ。S54・11・8

合楽理念による愛の心。S54・11・8

十三日会御祈念時「ニュー大谷誕生」と頂く。いうならば新しい金光教の誕生ということ。それは、道徳教になりかけている金光教から、本当におかげの受けられる金光教への復活ということ。S54・11・13

○○教会は最高の人情、合楽は最高の神情を使う。それがいつもピッタシこない。「刺身をとろろ昆布で巻いて食べるところ」を頂く。人間心で言われてもこちらは神情で受けるコントロールが要る。それは、神情人情からませるのでなく、神情をもって貫き、そこに有り難いの答えを出していくこと。S54・11・14

しよい時に稽古はずうからしとかにゃ。S54・11・14

「神米ー開業」と頂く。しんまいの心でいけば神業は開かれる。いつもしんまい(一年生)の気持ちで布教当初のころおかげを受けたことを忘れずという心。(修行生南米布教の再渡航に際して)54・11・20

お話をする姿勢のことをお伺いしたら、「芸」と頂く。自然に云え(言え)ということ。今、実感していることから話させて頂くのが一番スムースに話せる。苦しい腹の立つことでもよい。S54・11・20

吾無力と分かった。そこに、じっと寝とるのでなく、精進を心する。S54・11・21

神様のおかげを頂かねば立ちいかんと本人に思わせながらの布教でなければ。S54・11・21

「なかなか皆が信心が分からないと、子供の中に修行生に信者の中に、せっかくこれだけの事を頂きながらどうしたことだろうか」ではないと本当に思う。「私がもう一修行させて頂かねば」だけ。S54・11・23

一つ積んでは父のため、二つ積んではを、心の鬼でガチャッと崩す。腹立ては心の鬼。S54・11・23

「渦巻き」。何かある度に大きうなれ、つまりつながっておれ、ということ。S54・11・25

迷っていてはいけん。どうでもと心を立てねばおかげにならん。行くなら行く。行かんなら行かんとはっきり決めねばおかげにならん。(修行生の布教のこと)54・11・26

大吉、ただの吉と、いろいろあるが、大吉のおかげが受けられるのがこの道の信心。その日暮しの生活ができるだけでも有り難いが、貯金をつくっていく大吉のことができねば。S54・11・26

夢でもおろそかに出来ない。夢の中にでも信心の稽古をさせて下さる。寝む前には御神夢を頂くよう願って寝む。自分の信心の方針は自分で頂けるようにならんとね。S54・11・27

どんなに優れたものを持っていても、一遍は私と同じところまで下がっていくか、進んでいくかして、私の信心を頂いてそこから向かわんと。私と同根になる稽古をせねばならない。S54・11・27

教祖御理解に「信心するものは驚いてはならぬ」とあるが、信心を深めておると、日頃びくびくしておるようでも、驚かねばおられないような時に却って心が落ち着いていることが出来る。私がそう。三男の肉腫の時も、姪の心臓麻痺の時もそうだった。日頃は夜の御祈念の時でもびっくりすることがあるが、驚くことはならぬぞとは、そういう意味のようだね。S54・11・27

ほとばしるようなお話、にじみでるようなお話でなければ。S54・12・4

堂々たる信心、修行を目指さねば。御祈念ひとつでも人が耳にしただけで助かるような、堂々たる底力のある御祈念。取次者として絶対要るもの。姿勢にしても。

S54・12・5天然自然の美しさの中に神を見るのは当たり前のこと。醜の中や我情我欲の中にすら見神出来ていくのが合楽理念。S54・12・5

人・仁・神。今の金光教は人情教だが、人の人ではなく、仁のようだ。神になる過程のように思う。(仁・・博愛、思いやり、万事の善、一心の徳)54・12・5壮年部会

本気で取り組まんと、御無礼ということになる。皆が御神願御成就を願っておるのだから、わざと腹の立つ事や寂しい悲しい事が起きてくる。それが、神願が成就していっておることなのだから、それを信心で取り組みもせずに、いい加減にしていては御無礼なことになる。成就した時、合楽の世界ということになる。S54・12・7

合楽理念は簡単にして明瞭と。簡単というそのことを行じていくにしたがって明瞭になるということだろう。信心が信心を教える。S54・12・7

話を聞いて助かるだから。残る話、おかげ頂く話であること。話をして自分も助かるという話を頂きたい。S54・12・7

髪が映えるように花を挿すかのような神様の働きが万事の上にあるよ。○○先生が布教地へ着いて、○○さん宅に行ったら、先にこちらから持っていったお社が片付けてある。親先生の写真も片付けてある。○○先生思わずカチンと来たがすぐに心穏やかになった、と。「結い上げた日本髪にサンゴの髪飾りを挿すところ」を頂く。受け入れられんような悲しいことやら寂しいこと、腹立つことが起きてくる。それが黙って穏やかに受け入れられて、自分の信心に花を添えることになる。S54・12・8

「神様が応えて下さる真の信心」ということ。世間によくある、お伺いや、お尋ねと同一ではない。S54・12・8

「共演」と頂く。合楽建設の為の修行がどの程度なされているか。これだけは合楽建設の為の修行としてという、共演とまでいかなくとも助演というぐらいまでは、修行もさして頂いたというチャンス、徳を受ける大チャンスが今だ。いろんな思いつき形で何かをなされねば。S54・12・11

人間の親切、神様の親切。あまりにも違う。人間の親切は、神様を半死半生にしよるようなもの。S54・12・11

神様の仰せのままに仕まつるという生き方。操り人形となりきれること。それには神様の前に全面降伏ということになっていかねばならない。出来るようで大変難しい。出来たかのようで、自分の思い考え力を捨てきれてない。S54・12・11

我無力といっても、(信心の)自信喪失とは違う。絶対の神様と分かって絶対の我無力と到った時を言う。常日頃、実意な信心をさして頂いて、神様の間違いなさも分かって、我無力の自覚も段々出来てきて、そしていよいよそこに極まるを言う。だからそうとう信心が出来ねばならんということ。S54・12・11

元○○教だった人。読んでいた○○教の本等を焼きます、というお届けに、「過去帳に書き付けてある文字を線で消して、帳消しにするところ」を頂く。過去の罪や因縁を説いて縛る宗教があまりに多い。お道に入信することはそれから解き放たれるということ。S54・12・19

感じれられる教えが生々とある。だから、見るだけ聞くだけでなく、狭い心ながらも感じていかねば。S54・12・19

神徳霊徳備わっていく信心でなければ、投げ出してしまいがち。おしめり(雨)を詩情で頂くと詩や句になるのだろうが、神情で受け止めれば、神の実感ということになる。S54・12・19

(教祖御理解第七十七節「人の悪口をよう言う者がある。そこにおったらなるだけ逃げよ。かげで人を助けよ」に対し)その人はこういう良いところがあるもんの、という言い方でもよい。悪口言いよった人がハッと気付くことがある。S54・12・20

心が育ってくると、人の悪口をただ言わんということでなく、なるほどそれもそうでしょうという心、または、祈ってあげたい心となる。S54・12・20

神様から「キリストも十字架から降ろしてやらねば可愛そう。釈迦も蓮のうてなから降ろしてやらねば退屈しておろう」という意味のことを頂く。合楽理念が世界をまかりとおるようにならねば。それにはどうでも皆が力を頂かねばならん。S54・12・21

「神より上になるな」とはあるが、神様と同質になることが生神ということ。自分が思うのではなく、神様がそう思うておられるな、ということがある。神様と不離一体のもの、それを願っていくことが生神になることだと思う。S54・12・21

鏡があっても暗うては写らん。どんなに素晴らしい教えがあっても、自分の心に光がないなら感じない。S54・12・21

我の強い人、我よしと思う人、必ず孤独になる。S54・12・21

年寄りを大切にすることの内容が敬うということにならねば、とってつけたようなものしかならん。S54・12・21

親から叩かれて,息子が思ったことに、この頃は年寄ったのだろう、叩くその手も弱く感じられる、悲しいことだ、という話がある。S54・12・21

御心眼に「穴に誰か落ち込んでいて、片一方の手だけ出すから引き上げられん。両手を出させると簡単に引き上げられた」というところを頂く。S54・12・22

修行生の○○先生六十五才誕生日御礼お届けに「今を喜ぶ」とお書き下げ。今そのものが有り難いという、全てが御礼の対象ということ。喉がかわく、そこに水があることが有り難い。今この時を有り難くという心。今を喜べておるかどうかという理屈っぽいものでなく、今こうしておることが有り難いんだということ。S54・12・22

御の字がついたものは我欲とは違うことになる。S54・12・24

「節を生かして削る」と頂く。例えば竹の節を生かして削りに削ってそれを茶杓として生かす。人生の節。S54・12・24

黙って治めるから心豊かに大きくなる。いくら進言助言であってもそれは言うたことになる。いままでだったら目に余ることも、黙って治められるというその内容が「今を喜ぶ」なら、いよいよ心豊かに大きくなる。「黙っておれれることが有り難い」ということが「今を喜ぶ」になる。あんなことでよいだろうかと、心の中で思うなら「今を喜ぶ」にならん。S54・12・27

ある婦人、出産日になっておるのに産気が来ず、教会の御神米を一粒づつ頂いていたが産気が来ず。私の「最後の一粒迄にはおかげ頂くが」との話に、一遍に全部頂き、すぐに産気のおかげ頂いたと。S54・12・27


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