研修資料 2 (S54・1 ・5 〜S54・6 ・22 )
やってみて出来た、有り難い、という心でそれを抜かずに、その有り難さ楽しさを生々として育て上げる為に修行がある。S54・1・5
これが終わったら一服しようでなく、只今修行中という看板を掲げているのだから、自ら一服は求めず。一服したためにそこからガタガタッと崩れてしまうかもしれない。土の信心という以前にそういう信心を支える根本修行を大切にせねば。S54・1・5
信心が好きになる手立ての工夫がいる。神様の前に出ることが楽しうしてこたえんというように。S54・1・5
とにかく生神を目指すことですよ。それには馬鹿と阿呆になる素晴らしさを知ること。為には神前に出ることが楽しうしてこたえんようになること。為には支えとしての、自ら求めて一服はしません、を身につけること。S54・1・5
柔軟な姿勢をこそ体得せねば。S54・1・5
朝参りなら朝参りだけはという根性が信心の中にあって生神への精進のねじになる。S54・1・5
教会の方で催しを作っても人が集まらないなら何にもならぬ。周りからそういう働きが起こって来て初めて出来ること。S54・1・9
ちったぼうけっしまうほど(少しはのぼせるほど)信心に傾倒せねば。信心の中に生活があるというふうになれば生活も豊かになってくる。ばたばたせんでもおかげ頂くから。S54・1・9
自信をもっての話は助からん。神様のおかげを頂かねばどうにもならんというところから生まれてくる話なら束の間の話でも人は助かる。S54・1・10
信心ばっかしは似たもの夫婦ではいかん。S54・1・10
合楽の信心を頂けば心配はなくなるね。神徳を頂いておるということはなくとも。S54・1・10
貫かないから肥えない。S54・1・15
お取次は合楽理念をもってする外なし、とまで言っている教会でなければ比礼は立たん。自分の流儀が出たり、自分の力がでたりではつまらん。極めて純合楽理念でなければ。参考になる程度のものではでけん、ということ。S54・1・15富久信会
不自然なものがなかった。自然であった。叩かれようが笑われようがそこを大切にして来た所にひとりでにものが出来る土壌となった。五十人からの修行生もひとりでに出来てきた。S54・1・19
信心しておれば根が肥えるぐらい思うとる。絶対のものをそれを貫くというところから肥えていくことになるのだ。そこにひとりでにものが出来る事になって来た。S54・1・19
「組織を作る」が自然を押し返すこと。「組織が出来る」であって、自然に出来るものでなければ。S54・1・19
新しい行事、初めての企画。それがどんなに新しいものであっても、底辺に生々とした比礼があればそれが出来ていっていい。生々としたものがなければそりゃあ駄目だよ。S54・1・19
おかげを頂くから帰依するのではなく、その在り方に帰依する。これは合楽教会だけのごたる。S54・1・19
豊かな色彩とリズミカルな信心。S54・1・21
単純にならねば分からん。「後ろ手に括られて、すいませんとうなだれている形から、縄が解けて合掌の姿になるところ」を頂く。お粗末御無礼と思うていたことに「御」の字を付けたら合掌になっておかげの世界が広がった。縄を解くのが難しい。S54・1・21
本当なものからより真実(ほんとう)なものに、を教えられるけれども、分かっておってなかなか踏ん切らないのが合楽の信奉者。S54・1・21
過去の信心にこだわり過ぎている。先代の信心と。その上に自立していく信心であって先代も喜びのはず。予言者世に入れられずという言葉がある。だからもっともっと実証していくしかない。S54・1・21
(修行生お夢で、アメリカ人の会合で旗に「土の心」と書いてあったということに対し)アメリカ人にも分かるような表現ができるように工夫さしてもらい、深い信心にならせてもらわねば。S54・1・22
今はお徳を頂き力を受けることに専念しておる時。「水が無いから鯉が歩いているところ」を頂く。おかげには目もくれず、またおかげなしの時。白羽の矢が立っていることを自覚せねば。S54・1・22
ひたむきな信心、ひたむきな人がいる。けれども、どこに何にひたむきになるか、その本当のものを与えていない。合楽なら、ひたむきの焦点が定まっている。和賀心を目指し、生神になることの精進が、合楽世界に住まわせて頂きながら、感動と喜びを味わわせて頂きながら。S54・1・23
おかげを頂くのが有り難いのはもちろんのこと、信心を頂くのが有り難いということになってきたら真の信心の入り口。S54・1・24
話をするに、自分の話があってもよい。こういうおかげの中で信心さして頂くことになり助かるようになった、というぎりぎりの話はいつ出てもよい。そこから話が進展していくような話し方もよい。S54・1・24
金光教のことを願っていたら、「水が酒になり、酒が酢になり」と頂いた。反応がないのは信者にこびるからだ。今の金光教は、丁寧親切愛の心をもって、といっても酢を飲ませようとするも同然。運動新発足とは始めからやり直しということだろう。ならば元の水にかえって酒を作っていかねば。それを酢いものだから、それでも飲まそうと愛の心もって、などと言う。S54・1・26
懐かしむ心。慕わしいというか、懐かしむことが拝む心になる。自分の合掌している心にほろりとする心。そういう懐かしむというような情念を蓄えておくと、さっさと×(バツ)を+(プラス)にしていくことが出来る。S54・1・27
本当に信心の芯所にふれた信心でなければ。いくら熱心に御用ができます、御本部参拝ができますといっても続かないよね、子孫に。結局、楽しいもの有り難いものが、御用を道楽のように有り難いでなく、信心の有り難さでなければね。S54・1・30
頑張らにゃ、でなく、そうせずにはおれん、私の信心、教導でなからねば。S54・1・30
教えを説く者自身がどういう信心をすれば、に取り組まずに、どうすれば信者が集まるかということばかり考えておるのが今の宗教のようだ。S54・1・30
心尽くしがマスター出来て、もちろん応用もね、信者の出来ていることが一通り出来て教師の信心だよね。S54・1・30
こんなにも楽しうして嬉しうして有り難いと言えれるような修行が出来ていかねばね。S54・1・30
この人はもう大丈夫だ、この人は放っておいても進んでいく、と神様が思われたときが安心。神様の苦い思いが心に響いてくるような状態では安心ではない。神様が思うておられるような人は、悲しませるようなことはやっていない。出来んながらも神様が喜んで下さるようなことが出来ていきよるといった内容でなければ。そのレベルは自分の心の安心。信心がこの頃楽しうなってきた、有り難くなってきたということ。S54・1・30
人間心を使う時は、使わんならん後先の事情が必ずあり、起きて来る時だよ。S54・1・30
表行(苦行)には限界があるが、心行には限界がないから限り無いおかげお徳につながるのです。限り無いおかげにつながっていく為に表行全廃。心行の楽しみが湧いて来なければ、信心が一段と深まることにならん。S54・1・31
残念ではいけない。念が無い、表裏が無い、「無念無相」でなければ。S54・1・31
行き詰まりを感じた時、そこを疎かにせず一心にうち向かえば、そこから梯子を二階にかけるような働きが始まる。S54・1・31
心を傷つけられたり、汚されたりするのは、成り行きを大切にすることに徹していないから。自然との対決(成り行きとの勝負)。ひっぱりごんぼうという遊びがあった。ひっぱりごんぼうと言う草の茎をからませて引っ張りやっこをする。切れた方が負け。あれは、よくしごいてならしておかんと切れやすい。自然との対決において、心をいつもならしておかんと負けてしまう。S54・1・31
心行の油断は心行していない証拠。S54・1・31
土の信心に徹する。土ヘンに成るで城。土になれば銘々の城が出来ていく。神様におすがりして人に頼んだりしないことが土の信心。人事的なものをかなぐり捨てるところから絶対信が生まれ、これだけは私の範囲だという「城」ができていく。S54・2・1
本当に心行が出来ている時は甘い考えなんか起きて来ない、崩れない。S54・2・2
親孝行がエスカレートしてくる。これは限りのないもの。一生が修行ということにもなってくる。親に喜んでもらいたいの情念がつのってきたら、その為の修行はいとわんというのが本当だよ。親に孝行したいの一念が、楽はしませんの修行になったら楽はさせずにおかんの働きになって来る。S54・2・2
親に孝行したいが修行はしだごだ(いいかげん)では「神に、親に、けつをまくるようなもの」と頂く。S54・2 ・2
本気で取り組み出したら今までの家業の行が行になっていないことに気付く。家業の行が結局、人が助かることになってくるということ。S54・2
・3
お道の先生は、人が助かることの為の祈りが家業の行。S54・2 ・3
表行(苦行)全廃は教団の前面に押し出されねばならぬ教えだ。S54・2 ・3
私の祖母が言っておった。私が五つの時、私を抱きしめながら「この人は私が死んだらお棺の中に一緒に入ってくると言うですけん」と。神様はそういう情念を持たれた神様でもある。S54・2
・4
人間が燃えている時はそんなこと止めときなさいと言いたくなるようなことをするもの。それを本当に止めさそうというのは人間心。S54・2
・5
小便所だけの教会。大きなことは受けないような活力の不足した今の大概の教会がそうでしょう。教会長の性格が御結界に表れるねえ。「活力」。活かす力。根本になるものであり、いかに教会長が生々と神様と交流しておるかということ。家庭においても同じ。S54・2
・5
本当のつかみどころをつかみ、伝えていかねば。「ピンセットの先で摘むのではなく、元のところでつかんでいる」ところを頂く。いかにもたくさんつかめそうだが、かえってつかむ事ができない。筆の先を持つより、上の方を持った方が自由自在に字が書けるということ。S54・2
・6
繁盛不繁盛でぶつぶつ言うようでは値打ちがない。人間の才覚をもって幸せになろうというのを捨てきって、神様のおかげを頂かねば立ち行かないということにならねば。S54・2
・6
どういう問題でも「ワンタッチ」。即ち心ひとつ。私が研く他なし。ワンタッチでおかげを頂かせるようにならねば。S54・2
・7
痛い痛くないは自由自在の神様と実感し、確信をもって御取次出来るようになること。S54・2 ・7
神様からのフィーリング的お知らせ。自分の心にだけは感じとめれる頂きようでなければ。S54・2 ・7
運命を愛し運命を生かすことだ。私の欠点を生かすことだ。どんな場合であっても有り難いという答えを出していく修行しかない。私の欠点のおかげで修行が出来ていくことだ。S54・2
・7
昔、三代金光様が御祈念の座で御祈念中、それを板戸の格子越しに覗いたことがある。金光様の後ろに一本のローソクが灯りそれが神々しいまでの雰囲気をつくりあげていた。(肉眼へのお知らせ?)54・2
・7
神様の御演出の中での役割を自覚し、おかげを頂いた落としたに神様の御演出を感じ、そこに徹していく。他人の頂いた落としたは「神様の御演出は素晴らしいなあ」と思えるが自分が落ちる時は怨み妬み不平でありがち。台本どおり演技しぬかねばね。S54・2
・7
自分のアクの強さ醜さは気に病むことはない。それをとっ捕まえて、それによって研き改まっていくことに使う手立てをこうじればよい。S54・2
・7
段取りがあるからね。それを踏んで行けば良し。S54・2 ・7
精進が豊かになっていると、体験ができ、それが更に次の精進の励みになる。S54・2 ・8
難儀を沢山抱えている程お徳が大きいのだから。それを分からんから不平が出、不足が出るということになる。そこにどうでも生きた宗教が要る。S54・2
・8
「心ひとつ」で、ということが万民に分かる手立てを考えるのがお互いの責任。為には我が身におかげを頂いて、ということ。S54・2
・8
自然の働きにゆだねて、成り行きに任せることほど素晴らしいものはない。私が放任主義だから、神様が働かれんはずはない。自然の旋律に乗っての私の生き方が周囲に、修行生に、子供に、信者にあらわれている。自然に醸されてくるのが一番素晴らしいんだ。S54・2
・10
自然のお気付けをお気付と知らないうちに信心の調子が狂ってくる。S54・2 ・10
重体患者が助かる教会でなければ。教会長がいよいよ有り難うなっていくところに、周囲がそれに潤うことになる。比礼のもとはそこ。S54・2
・10
安心の傘が崩れ破れる時がある。濡れるなら濡れてもいい、腹をくくって破れた傘の柄を杖にしてでも歩いていく時に頂けれるのが本当の安心の傘。S54・2
・10
穂に穂が咲くような、周囲の目を引き付けずにはおかんおかげを頂くには、信心に勢いが要る。何よりも元気な心が要る。苦しい、きつい、そういう時こそ元気を奮い起たせて、勢いのある信心をする時である。S54・2
・22
私が特別のおかげを頂いているといっても、信者時代からの、人とほんのちょっとした違いの信心から。例えば、十日間の修行を決めたら、もう一日余分に、神様まけときまっしょ、でして来た。いわば、人が「人」べんなら私ゃ「行」にんべんという行き方。旅行に出たら出たで、旅先の旅館で必ず近くに教会がないかを尋ねてお参りをしよった。いつか黒崎に行った時、旅館の人が知らなかったので、朝早く線路近くを歩いていたら、朝参りしている人に出会うて教会にお参り出来るおかげを頂いたことがあった。親教会の奥城には必ず会釈して行きよった、とかのちょっとした違い。人に義理を欠くことにはなっても神様に義理を欠かぬ生き方ということ。ある時、友人が戦死していることが分かりお悔やみに行ったことがある。一晩中の話になって、翌朝、自分の家を素通りして教会に参った。今日は疲れているから今日は欠けてもよかろう、といったことがない。ただちょっとしたところで御無礼して日参を欠く。神様は責めなさらんが、それでは穂に穂が咲くおかげにはならん。輝きをちらっとでも見せる信心。ピカッと光る時、そこに神様が目をつけ給う。S54・2
・22
出来る堪忍なら誰でもするが、ならぬ堪忍をするが真の堪忍。「忍」という字は刀の下に心と書く。我慢我力になってはいけん。どこまでも信心辛抱からの堪忍でなければ。S54・2
・22
発表の態度。どげん素晴らしいこと言うても、確信とはきはきとした姿でなければ伝わらん。発声法ひとつでも、とおるような、およたれん(うろたえない)、せきこむことのない。これは私の癖だからと改めんのはいかん。ひとつ耳納山の方に向かって、大声でお説教の練習でもするかね。S54・2
・22
今の教師は、どうしたら信者が助かるだろうかならまだましだが、どうしたら助かる方法があろうかとそればかり。めぐりの深い(観念に縛られた)私でありどうすれば私が助かるかという私への向かいがない。S54・2
・24
目に見えるとこよりは目に見えないところを大切にするんだと、合楽の人達はこれに徹することにならねば。S54・2 ・28
黙って治めるのはそのまま神情、そのまま地の心。どこまでも自分の心に向かうということ。S54・2 ・28
改まるといっても、生きた神様の働きをまずは知らねば改まれることではない。S54・2 ・28
拍手の時の一心。死生をとおしての一心。何を言われても振り向かぬ一心。この三つの一心。S54・3 ・1
「地」という字の「也」の字の跳ね上げが勢いよく跳ね上げているところを頂く。仏教の諦観的な信心ではせいぜい「鳴きも得ず飛びも得ずして不如帰(ほととぎす)」金光教も人情教ではそうなってしまう。人情もあってよいが、神様の働きのお邪魔にならんように。邪魔になる人情は使うてはいけん。使えば限りあるものにしてしまう。そして「土」篇の「也」のはねあげを勢いよく貫いて行く。どこまでも偉大な「我」であり、偉大な「情」即ち大我大欲に生き抜く。そこには、ぐずぐずしたものではなく、力強いはねあげて行くものが要る。より大きく心が肥える為にも。今こそ、この事で大きくなっていっておるんだという勢い。S54・3
・1
神様のささやかれるような声でも感じ信じられる敏感な心の状態づくりに精進せねば。心がいつも神様に向く心行。S54・3
・1
信心は心がけでするもの。でないと惚れ惚れとするものが生まれて来ない。心がけておる人。神様も魅力に思われる。人も惚れ惚れとした思いをする。人助けのプロを目指すのですから。身に付けようとする日頃の稽古、心掛けが大切です。戦のプロである侍。日頃は禄を食んでいるが、いざ戦という時には戦のプロとして出て行かねばならない。為には、いざという日に備えて日頃から腕を磨いておかねばならぬ。S54・3
・2
慢心の出る程のおかげを頂いて、そこを慢心を出さんようにするところがよいところ。S54・3 ・2
始末倹約と大切は違う。大切にするところからの手光りのするものは何とも言えん良さがある。美がある。華美に流れてはならないとはそういうことだから。S54・3
・2
やれ眠たや、やれ腹立たしい、やれ何々だという時、今こそ徳を力を受けている時だと思うたらシャンとするというようにならんとね。S54・3
・3
お繰り合わせを願って早く立ち直れるコンディションを願うこと。S54・3 ・4
人を神と見、物を神様の御物と見、事柄を神様の御事柄と頂くなら、寿を司るおかげになって来る。S54・3・4おかげを求める心をはずして、信心を求め頂いていくのが、おかげを受ける極意。S54・3・5
お話は出来んでも神様に向かえば信者はついてくる。皆、信者の方を向いて教導ばかり考えている。おかげばかり向いているのをそのおかげを一つ外して信心を頂くのに向かう。S54・3・5壮年部会
陰陽五行説を説いたところで、易者に金持ちなし。S54・3・5壮年部会
少しはましな自分を発見していって、ああ去年に比べたらとお礼の申せる心になっとかんと、つまらん自分つまらん自分で、へたーっとなるよ。S54・3・5壮年部会
陰の人が土の信心をすると陽が、陽の人が土の信心をすると陰が、とそれぞれ足ろう。S54・3・5壮年部会
金光教の信心は行き届くということだから、行き届いた信心、徹し貫く信心にならねば。S54・3・5壮年部会
若い時のような体があれば修行が信心が出来るのに、という信心じゃつまらん。心ひとつで総てを創るのだから。S54・3・5壮年部会
合楽理念は簡単です、明瞭です、しかもおかげが確かです、と。「明瞭」を説こうとすると椛目合楽三十年間の教えをひもとかねばならんごとなっとる。S54・3・5壮年部会
黙々として信心が出来るならこんな有り難いことはない。黙々として進めておっておれれる自分が有り難いということである。滋味豊かに黙々として。S54・3・5壮年部会
御の字がだぶっているところを頂く。御の字をつけよう、いやこれはいかん、と複雑なものにしてしまう。成り行きを尊ぶ頂くと腹を決めて徹すること。徹することに決めたら楽。それが出来んならまだ神様を信じきっとらんことを悟らしてもろうて、そこからの信心に打ち込む。S54・3・8
ほんとにそうだなあと思うことが次の信心の姿勢になる。S54・3・9
感じたことは生々として人に伝えられる。S54・3・9
難儀に気を取られて、分かっているが信心ができんということは多かろう。神様にそれは任せて一心発起が出来ねば修行は出来ん。S54・3・10
霊徳はよりはっきりしたものにするように。為に心を大切にしたうえにも大切に。S54・3・15
徳を積ませることに開眼させねばならぬ。宗教家の使命。S54・6・5
権威を持った人の言葉には力がある。本気で信心の勉強をしている人の言うことは強い。S54・6・5壮年部会
信心しながら真の信心を頂こうとせず、豊かに美しくもなろうと目指さないなら信心しておる者の屑。S54・6・5壮年部会
年寄りになってお気付けを頂いたらどんこんならんでしょうが(どうにもこうにもならないでしょう)。一年一年有り難うなっていくことを目指さんならこれもどんこんならん。S54・6・5壮年部会
嫌な成り行きを起こさん為にも改まれ。S54・6・5壮年部会
自分が高められれば、それに見合うた人材が集まる。S54・6・5壮年部会
潔い心はそのまま力です。S54・6・5
無意識のうちに人の心を傷つける。根本的に改まらねばね。S54・6・6
自己嫌悪を感じる時は心が荒れておる証拠。心を放任するから。S54・6・7
金光教の独自性ということ。中でも、金光大神自身が、宗祖教祖等ある中で独自な生き方、それも人間らしい生き方をされたということ。S54・6・7
天地岩の石組みのうち、金光大神岩の前の山形の岩を富士の山に見立てて頂く。私の心の反映と。S54・6・8
(天地岩庭にて)「好いた水仙、好かれた柳」と頂く。人間、性に目覚め、死ぬまで目覚めっぱなしがおかげであり、神の気感にかなう。生きる喜びを謳歌出来るのがおかげ。S54・6・8
日参、教聴、心行、家業の行、合楽理念の実験実証。・・・ただ聞き流しですねぇ。それに気付いて出来出したら楽しいんです。つづりもせず、ばらばら。結局、私の教導の不行き届き。S54・6・8
椛目時代に、おさい銭は天地への還元、お初穂は金光大神への手土産代わりと、頂いたことがある。もちろん取次の働きで浄化されて還元にもなるが。還元が出来ないと土地が痩せてくる。S54・6・10
「神に至る」その過程は、「幽霊の正体見たり枯尾花」の連続です。怖いと思うちゃならん。より真実なものにしていくにはやはり勇気が要った。見極めようという姿勢が大切。S54・6・10
十全の教えが整い、いよいよ広く大きくなる修行を願うているから、おかげも大きく広くなるように、と願っていたら、「鎌(強引の意)の刃がぽっと取れて柄の棒に辛抱と書いてある」ところを頂く。強引な願いはすな、道が広がったところを歩けばよし、ということ。S54・6・10
「叱られた、ばちがあたった」というのは丁度、三味線のバチが当たったようなもの。バチ当たりだけならジャンジャンいうて喧しいだけ。二上がり三下がりと糸の調子を合わせ、竿を押さえるとこは押さえてはじめて良い音色が出る。起きて来たことに対していつも信心の調子が合わせられて、信心の喜びと驚きを日々感じられるようでありたい。S54・6・10
信心にはいそいそとしたものがいる。S54・6・13
「一切を修行と分かり、一切を行じて、一切が神愛と分かる」。一切を修行で受けるから、一切が神愛と分かる。素直だからおかげを受けるというのは小さい。それを底の抜けたように馬鹿のように素直になるところに豊かな大きな心となってくる。その為の一切が修行ということ。S54・6・18
教えを頂く姿勢。居眠り半分やら他んこと考えとって入るはずがない。S54・6・18
自分の内容がにじみでてくる話、自分が助かるための話。S54・6・21
心行に徹底した一日でありたい。誤魔化そうと思えばどれだけでも誤魔化せる。心行していたら気が付かないところに気が付いてくる。靴でもきちんと揃える。そしたら、後の人が気持ちが良かろう、というのが心行なのだから。これが疎かになったら合楽は骨抜きになるよ。S54・6・21
ある、高徳な先生が、酒をかんがんと熱かんにして晩酌しておられた。ある時、神様から、「今日は一升のかんつけで飲め」とお知らせを頂かれて、その通りにされたところ、失態を演じられた。そのことを一生の不覚とされたと。神様から許されたからといって、やりよると調子に乗り過ぎることがある。本当の意味での交流をしておかんとやりそこなう。S54・6・22
昔、車を曳かせる馬には口篭がつけてあった。道草を食わんようにとのことから。行き着いた所には餌がちゃんと用意されている。信心は脇目をふっちゃいかん。卑しい心はいつもかつも出してはならん。良い行儀を目指したら良い信心が生まれてくる。信心と行儀は大きく関わる。S54・6・22
歌舞伎舞踊の、男の人が女舞をしているところを頂く。女形という。男でも身に付けば柔らかい線が出てくる。信心もまた踊りの基本を作るような信心修行が大切。ぎこちないものになってくることのないように、日頃しっかり稽古しとかにゃ。しみこむほどの繰り返しの稽古ができて自然と出来るようになる。たとえ合楽理念が頭で分かっても、心は自由自在にならんの。稽古ができとかにゃ。昔、中村歌右衛門の福岡公演の時、花魁(おいらん)姿で、花道から本舞台に向かってニコーッと笑うところがある。もう身震いする程の色気を感じた。それを感じさせる芸の力の素晴らしさ。信心も身につける迄の稽古を惜しんではならない。S54・6・22
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