御理解 第六十八節
神参をするのに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはな
らぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがた
そうに心経やお祓をあげても、心に真がなければ神にうそを言う
も同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小
さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけた
りせんでも、人にものを言うとおりに拝め。
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朝参りこそ最高の修行
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お道の信心で修行というならば、最高の修行は、私は朝参りだと思う。朝参りを行ずるということ、これがもう表行の中でも最高の修行だと。だから「神参りをするに、雨が降るから風が吹くから」というようなことで、おろそかになったら、もうお道の信心でいう、一番素晴らしい表行が欠くことになります。
今朝も私、こちらへ出て参ります時、直子だけが出て来てまして、幹三郎が出て来ておりません。家内が起こしたけれども、昨日が少年少女会の「若葉の集い」で疲れて、もうどんなに起こしても起きません。それで、もう時間になりましたから、直子と二人で、こちらへ出て来ておりましたら、幹三郎が、出て参りました。
「もうそんならよかよか、寝かせておけ」と。これはまあ親の情ですよね。「昨夜も遅かったから、もう起こすな」と。けれども、私は、本人がそこのところの自覚に立っておるのだから、起こします。
本部から帰ってまいりましてからでも、まあ本部では、ゆっくりできないから、家に帰ったら、ゆっくりやろう、といったような気持を捨てて、帰ったその翌日から、父親といっしょに、朝の奉仕をさせていただこうという、その精神がありがたいと思うし、それが、神様が受けてくださる修行だと思いますから、これは、ちょっと酷ですけれども、「それなら、しばらくしてから起こせ」と、家内に申しておりましたら、間もなく幹三郎が起きてまいりました。まあ自分で起きてきたのじゃないでしょうか。
そういうときに、「もうよかよか、昨夜あんなに遅くて疲れているだろうから」と言うようなことではいけません。そこのところを、心を鬼にするということが、本当のことではないかと思うですね。もちろん、本人がそれを意欲していなかったらだめですねえ。無理に、強引に起こしても、どうということはありません。
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おかげのルート
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私の子供たちの場合でも、例えば朝の御祈念に出てこなくても、遅くなっても、何とも思いません。けれども本人が、私に言ったわけでも、お届けしたわけでもありませんけれども、それを、一途に思い込んでおるように見えますから、一日でも朝参りを欠いたら惜しいと思うのです。まあ、きつかろうけれども、日ごろの信心ができておるのに、雨が降るから、風が吹くから、と言うて怠ったのでは、その修行の影が薄くなるというか、いいかげんになる。
これはもう、いいかげんになるということは、おかげが、絶対いいかげんになるのです。これは間違いがない。だからそこに、何か心にかけさせてもらう、何か心に貫かせていただく、というものがいる。これは、朝参りだけではなく、これだけはというものを貫かせていただくということが、神様と、私どもの間に、まあ細々ながらでも、おかげのルートというものが、できるんだと思うのです。そこから、おかげが交流する。
どんなに素晴らしい桜の花のようなパアッーとしたような信心ができても、後が、パアッと散ってしまうような信心では、やっぱりそれだけのものです。そういうところを、今日は、「朝参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ」と、いうようなことに基づいて話しましたが、これは朝参りということだけではなくて、何か心にかけて、これだけはというような生き方をしておる人たちは、これを本当に、行じ抜かなければいけません。
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貫くことが大切
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昨日も婦人会の後が、いつものように研修会でございました。もうおしまいにしようという時間に、文男さん、高橋さん、高芝さんと三人見えられましたので、また、それから新たな信心共励をさせていただいたのですけれども、初めにあらかじめのところを、光橋ミツカ先生に発表してもらった。そして文男さんの話を聞こうということになった。
文男さんが、こういうことを言っているですね。「私がどうも不思議でたまらないことは、合楽の方たちが、おかげを頂いていないということです」と。まあ、おかげを頂いておりますから、こうして信心もできているのですけれども、文男さんから見ると、おかげを頂いていない感じのする人が多い。その理由がどこにあるだろうかというわけです。
文男さんは、皆さんのように朝参りもできておりませんし、夜のお参りもできていません。けれども、月次祭、同時に、何かの会合とか、信心共励とか、または、地方の信心共励会には、もう、こうと決めたらこの人ばっかりは、絶対です。田主丸や土居と何ケ所か決めて行っていますが、これはもう、長年のことですけれども、どんな事があっても行っています。
例えば、ここへ来たならば、必ず私の足を揉ませていただくと決めているんです。だから、それは夜中であろうが、ここへ着いたら部屋にやって来る。これだけは、貫くわけです。それで、これはまあ、文男さんの信心ですけれども、例えば、腹を立てんと決めたら、それを貫いております。ここのところが、文男さんの信心の素晴らしいところなのです。貫くところから、よどみなく、おかげが交流するわけです。その中でも、今日私は一番素晴らしい修行は、朝参りと申しました。
金光教でこの朝参りを抜いたら、私は本当の金光様の信心のありがたさを、日々頂くことはできないと思うくらいです。私は、みんなに言うのですけれども、「朝の一時間というものは、昼の三時間ぐらいに匹敵するよ」と。だから昼寝してもよいから、朝参りをするというのも、ひとつの方法として、あるわけなんです。私は、その朝のすがすがしさ、というのが、その日、一日の原動力ともなるようなものを、朝の御祈念には感ずる。それだけではなくて、今日私が申します、神様が、一つの形の行、表行ということで、受けてくださるわけです。
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片岡千恵蔵
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昨日は、その表行ということについて、表行と心行とが一つになって、初めて良いものが生まれるというようなテーマで、信心の研修をさせていただいたんです。それなら、表行とは、どういうことなのか、心行とはどういうことなのか、と。
これは、昨日の研修会の時に頂いた事ですけれども、文男さんが、一生懸命にお話しをしておりました。「私は皆さんのように、朝参り的信心はできないけれども、家でこの事だけは頂き続けておる。言うならば、教えを本気で行じておる。そこに、私が、日々頂いておるありがたさとか、また、それにつながるおかげというものが、あるのではなかろうか」と、自分でも言っております。そうしたら、私の御心眼に「片岡千恵蔵」と頂きました。
ははあ、今、文男さんが言っておることは、片一方の信心、心行の意味においてできている。「心行は女性的なものだ」と、昨日、そのことも頂いたんです。女性的な信心ですから、産みなすことの働きがあるんです。
例えば、「もう本当に、不平不足は絶対言わんぞ。もう腹は絶対立てんぞ」と言う。これは、初めの間は、辛抱がいりますけれども、体験が生まれてくるでしょう。産みなされてくるでしょう。ですから、もうその事が楽しくなってくるんです。文男さんの場合、そういうものを感ずるですね。腹を立てない。人が腹を立てねばおられないようなときに、ニヤッとしているような感じです。これがおかげ頂くもと、といったような頂き方をしているようです。だから、「皆さんは、それができないところに、本当のおかげにつながらんのではないだろうか」といったような事を言っている。だからこの事に徹しなければいけない。
「私は、皆さんのような信心はできんけれども、これに徹しておる」という発表をしておりましたら、「片岡千恵蔵」と頂いた。片ということは半分という意味だと思うですね。岡ということは、まあ修行ということでしょう。山を修行というのですから。半分の修行。だから、これにもし、あと半分の修行、朝参り的信心ができたら、もうこれは絶対徳を受けるでしょうね。
千恵蔵とは、千の恵みの蔵と書いてあるでしょう。だからこれは文男さん自身が、そこに一念発起をして、朝参りでもしなければおられないものができた時から、これは始まることであって、それをすすめたからといって、できるもんではないですよね。ですから、そういう意味のことは話しましたけれども、この片岡千恵蔵ということは話しませんでした。けれども、頂いたのはそう頂いた。せっかく一生懸命お話ししておるのに、皆さんの前で、「あんたの信心は半分ばい」と言うわけにもいきませんからね。
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朝参りは素晴らしき表行
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皆さんは、朝参りだけは一生懸命できておる。それは、お道の信心では、もう素晴らしき表行だと思うです。しかも、雨が降るから、風が吹くから、というようなところをいとわずに、いや、そこを辛抱しぬいて朝参りができるならば、これは表行です。これに徹するならば、絶対です。けれども、これとてもやはり、片岡千恵蔵です。
朝参りを表行とするならば、それに文男さんが言うところの心行ができれば、いよいよ絶対です。それこそ、不平も言わない、不足も言わない、腹も立てないというような頂き方が徹せられるときに、ここで言われているところの、成り行きを大事にしている姿なのです。その事を、御事柄として受けておるから、腹も立たないのです。
文男さんの場合は、月の内どうでしょうか。「合楽に」と言うて、参ってくるのが、まあ十日ぐらいのものでしょうねえ。言うならば、そんなら皆さんの三分の一しか、表行はできていないわけです。普通でいう表行は、この人は非常にできる人です。例えば、断食をするとか、水行をするとか、あらゆる事を、若い時から非常に文男さんはやりました。
だから、今日は、そういう意味を表行と言わずに、朝参りを表行と言っております。だから、その朝参りが、いよいよありがたいものになり、尊いものになり、いわゆる楽しいものになってくるときに、もう片岡千恵蔵、半分のおかげを受ける、受け物ができたというてもよいでしょう。まあ、できておるということでしょう。それには、貫かなければいけません。
それには今日、幹三郎のことを家内に申しましたように、遅くまで、「若葉の集い」の後片付けの御用をさせていただいておったのですから、なるほど疲れておることはよく分かっている。だから、「今日はもうよいから起こすな、一日ぐらいよいから」と。これでは信心にならんのです。だから、私は本当に、ここの修行生たちをはじめ皆さんにも、ここのところの節度をキチッとしていただきたいと思いますね。そこで、もしできないときには、お詫びの印に、といったような信心ができなければいけないことになるわけなんです。
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金光教的信心の情操
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昨日、研修会の半ばで頂いたことです。最近は、信仰的情操ということを言われます。宗教的情操なんです。金光教で言う情操というのは、どういうところから生まれてくる心の状態を、一番最高の情操というかと言うと、天地の大恩を感得させてもらうということです。天地の大恩を分からせてもらうということです。そこから生まれてくる心が、金光教的情操なんです。素晴らしいですね。
甘木教会の初代は、天地の御恩徳を説きもされ、ご自身がその御恩徳の中に浸って、いつも喜びに浸っておられただろうと思われますね。だから、そういう喜びに浸っておれたから、すべての事が、ありがたく受けられなさったのだろうと思う。
皆さんが、朝参りをして見えられる。夜のしじまを破って、白々と夜が明けてくる。そういう情操の中に、もういよいよ天地の御恩徳、その情景に合掌しなければおられないものが生まれてくるでしょうが。それなら、暑かっても寒かっても、それが天地の御恩徳と分かったら、その暑い事に対して、寒い事に対して、合掌する心が生まれてくる。私はこれを金光教的信心の情操だと思うですね。
天地のお働きの素晴らしいこと。それこそ「天然の美」ではないけれども、空にさえずる鳥の声、峰より落つる滝の音、といったような、そういうことの中に、天然の美というか、天地の働きそのものを、「まあ、何と素晴らしいことであろうか」と感ずる心なんです。それなら、暑い寒いもやはり天地の御恩徳なのですから、神様のお働きなのですから、その暑いも寒いも、そういう頂き方ができるということが、信心の情操なんです。
そういう情操を高めながら、そういう情操をいよいよ深い密なものにしていきながら、朝参りの表行ができさせてもろうて、決して腹は立てんぞ、といったような心行ができるならば、この男性的な表行と、女性的な心行とが一つになるのですから、そこからよいものが生まれてこないはずがないことになるのです。
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改まることが男性的なら、本心の玉を磨くことが女性的な信心
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「改まることが男性的なら、本心の玉を磨くということが女性的な信心だ」というような表現でも、昨日頂きました。改まるということには、やはり潔さがいるのです。だから男性的と呼ばれるんです。心行というのは、文男さんが、現在修行しておりますように、自分の心ひとつに黙って受けていくというような、何とはなしに女性的な信心です。
例えば、主人が外で一生懸命働いてくる。気分の悪いこともあっただろう。仕事中には、イライラすることも、腹の立つこともあっただろう。けれども、じっと押さえて帰ってくると、家内がそれを、フワーッと受けてくれる。私はそうだと思うんですよ。そのフワーッと受けてくれることが心行なんです。どんな事であっても、それこそどんなに疲れて帰ってきておっても、家内のフワーッとするような心で受けとめられると、もう疲れが取れたように思う。だから場合には、駄々っ子的な、わがままも言ったり、それこそ、よそではにらみつけられないから、家に帰ってから、家内でもにらみつけねばと、いったようなこともあるけれども、「ははあ、今日はお父さんがいよいよ疲れてきているな」という頂き方なんです。「どうしてそんなににらむの。私もいっしょに頑張っているのよ」という生き方ではいけない。それでは心行にならない。心行を女性的な信心と表現されたのも、なるほどと思うです。
例えば、その事柄をもって磨いていこうとする生き方が、本心の玉を磨いていくということです。そのために、天地の大恩を分からせていただくことです。それこそ、お炊事場でちょっとコックをひねれば水が出る、それこそコックをひねればお湯が出る、というような、恵まれた環境の中に生活させていただいておる。そのことがもう、ありがたくてたまらないという、家庭の状態がなければ、主人のイライラ、モヤモヤを受けとめることができません。
いわゆる金光教的信心の情操をいよいよ高めていく、深めていく。それが、本心の玉を磨くことと同時に、表行をさせてもらう。今日は皆さんにそれを朝参りと聞いていただきました。
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御祈念のありがたさ
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「人にものを言う通りに拝め」とおっしゃる。拝むということ、もう信心に、拝むことぐらい素晴らしいことはないと思うですね。一心不乱に拝んでおるということ。御祈念の時間は、眠ってもよい時間のように思っている人がありますね。「親先生が一時間御祈念なさる、はあ一時間は眠られるばいな」と、もうじっくりと腰を据えて、いびきをかいて寝ておる。これでは、本当の信心のありがたさが分かっている人とは言えません。
だから、これは私はひとつの方法論ですけれども、御祈念をする時には、必ず合掌した手と、額との間を、指一本ぐらい開けとかなければならない。言うなら、汽車のレールの中で御祈念しているような気持ちで御祈念することです。いつ汽車がゴーッと来るか分からない。だから、それくらいの張りのある御祈念でなければ、今日私が言う御祈念のありがたさというものは分からない。
一生懸命、一心不乱に御祈念をする。もう願う事がいっぱい、お礼を申し上げる事もいっぱい、おわびをしなければならない事は、なお多い。私どもが、だんだん信心をさせていただいたらそうでしょうが。だから、その御祈念の時に、そこのところのおわびやら、お礼やら申し上げるのですから、もう限りがない。そこから、限りない信心の喜びというものが感じられます。だから、そういう意味で御祈念は大事になされなければいけません。
それこそ「人にものを言う通りに拝め」とおっしゃるのですから、人にものを言う通りに、こまごまと神様にお礼を申し上げる。またはお願いをさせてもらう。おわびをさせていただく。そこから、良い御祈念ができた時のありがたさという心で、天地の大恩も天地の御恩徳も感得するんです。そういう心でキャッチしていくんです。だから元になるものは御祈念からです。
とりわけ朝の御祈念に、すがすがしい雰囲気の中で、いっしょに御祈念をさせていただく。もう大祓詞でも奏上させてもらっている時には、本当に何にもない、欲も得もない状態で、大祓詞が上げられるなんて本当に楽しいことですよ。そういうさまざまな角度から、信心のありがたいというものを分からせてもらい、天地の中に充ちあふれておる、充ちわたらせておるところの神様の御働きを心に頂いて、ありがたいなあと受けとめるのですから、暑いもありがたければ寒いもありがたいのです。
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表行とは形の行、心行とは心の行
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そういう心で、今日私が申します表行心行に取り組むのです。表行とは形の行、心行とは心の行。その表行を、今日は朝参りと言っております。「雨が降るから風が吹くからえらい」と思わずに、朝参りができる、たった一つの表行と頂くことなんです。水をかぶることもいらない、断食をすることもいらない。朝参りが最高の表行です。だから、その表行をひとつ貫かせていただく。しかもそれが、ありがたくなり、楽しくなっていく信心です。
そして心行です。いわゆる和賀心時代を創るという和賀心を目指すことです。例えば、文男さんたちの場合、不平を言わんで済むとか、腹を立てんで済むおかげを受けておる。その心こそ和賀心だと思うのです。
いろんな事がある。腹の立つようなムカッとするような事もある。痛い思いをする事もある。けれども、それを受けていくということが、心行だと思うたら、それを不平不足を言わずに、腹を立てんで済む修行をさせていただくことを、今日は心行だと聞いていただいたですね。
だから、その表行心行をピッタリ頂きとめていくために、御祈念のありがたさを味わえと申しましたね。その御祈念のありがたさ、その味わいをもって、天地の大恩、天地の御恩徳を分からせてもらう。それこそ私どもの周囲に充ちわたらせられておるところの神様のお働きを、そういう心でキャッチしていく。それをお道でいう信心の情操だと、聞いていただきましたですね。 どうぞ。
昭和四十七年(一九七二年)八月二十六日 朝の御理解