御理解 第二十八節
病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえを
するに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、そ
れで、水は濁っておるようなもので、信心も途中で止めれば病気
災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れ
るまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。
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おかげは降るようにあっている
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誰でもおかげを頂きたい。本当におかげの世界に住みたいと思うならば、ここのところの道理をよく分からせていただいて、なるほど、七分八分目で止めれば、いつまでたっても井戸がえはできない。「井戸は清水になるまで」というのは、おかげは、こんこんと湧きいずるようなおかげの頂けるところまで、という意味だと思うのです。もう本当にね、それこそおかげは降るようにあっているのですから。
そこで、大地のような信心、受けて受けて受けぬかせてもらうという生き方、天はもう限りなく恵んでおられる。その恵んでおられるものを、私どもが地の心で受けとめるということなんです。おかげというものは、もう本当に降るようにあっているのですよ。それを私どもが、頂ききらんだけのこと。大きなおかげは頂きたいけれど、大きな受け物ができていない。正確なおかげを頂きたいなら、やはり正確な信心をしなければならないように、それを私は信心の節度だと言うているのです。節度がなくてはね、おかげが受けられません。
御理解に「信心は大きな信心がよい」とおっしゃるけれど、大きな信心ということを取り違えますと、野放図なことのように思う人がある。「もうよかよか、それは神ながらだから」と言うてから、神ながらでないものも、神ながらにしてしまうような生き方。よかよかという生き方です。野放図であるということでは決してない。大きな信心というものは、もういよいよ自分が小さくなっていくことなんだ。自分という者を、いよいよ極めに極めていく。私ども取次者であるならば、もういよいよこの御結界の中にはまり込んでしまうことなんです。そこに、心は天地のすみずみにまで広がることができる、天地を自由自在に自分の心で使うことができるほどのおかげが受けられる。
もちろん大きなおかげを頂かねばならんことだけれども、その大きなおかげを頂くためには、自分という者を、いよいよ窮屈な場というか、窮屈なところへ追い込んでいくというか、追い込むそれが、またありがたいと分かる信心にならねばならぬ。
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信心は好きになること
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昨日、筑水地区の青年教師会の先生方の信心実習会がありました。ここで、みんな勢ぞろいされて、現場に向かわれて、そして、一日の実習が終わってから、また全員こちらへ帰ってみえられた。そして合楽の先生のお話を頂きたいというのです。しかし、私は「ありがたいなあ」と思いました。まあ、私の話は、たいしたことはないでしょうけれども、そういうことから、いろんな関係の先生方といっしょにお食事をさせていただいたんですけれども、いろいろお話をさせていただいた中に、とにかく結論として私が申しましたことは、「信心が好きにならなければいけないよ」と。
どうですか皆さん、御神前にぬかずかせてもらうというか、お広前に出らせていただいて、何か知らん、一遍でも多く拝みたいといったようなものを感じますか。信心が好きということは、決して拝むということだけではありませんけれども、神様の前は素通りはできない、通るたびに、何か拝まねばおられないほどのものを、神様に感じるおかげをいただかなければなりません。だから、まずおがむことが好きにならねばいけません。そして、やはり神様に好きになってもらわねばならない。
もう好きつ好かれつというところからしか、良いものは生まれてこない。例えば好きな人のためならば、どんなに自分を犠牲にしてもいとわないでしょうが。痛いと言えばさすってあげたい、かゆいと言えばかいてあげたい。これが好きな人に対する心情なのだ。だから、信心が好きにならなければならない。神様が好きにならねばならない。そこから、神様は私に何を求められるのであろうか、何を願っておられるのだろうか、というところに、神様のかゆいところに手の届くような信心をさせてもらうから、また私どものかゆいところに、手の届くような行き届いた、いわゆる降るようなおかげを頂きとめることができるのです。
信心を好きにならなければいけない。それなら、好きになるためにはどういう信心をしなければならないか、もう限りがありませんでしたけれど、そういうお話をさせてもらった。
例えば、今日二十八節を頂いておりますと、この二十八節は、八、九分でやめようと思うても、やめられないというほどのものにならなければならないことだと思うのです。「元気な心で信心せよ」とおっしゃるから、元気な心で信心させていただいていたら、神様のお心も分かり、お心にそうことが、どんなにありがたいことか、尊いことかが分かる。元気な心で信心させていただきよるうちにそれが分かってくる。
いわゆる信心が好きになってくる。だから、その元気な心で、せっかく信心させていただくのですから、焦点を間違えないように、ここなら絶対というところをしっかり定めてからの、元気な心での信心でなければいけないことはもちろんですね。
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全教一新
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昨日、最後に若先生が言っておりました。「どうでもひとつ、こういう甘木教会もなければ久留米教会もない。合楽教会もない。もう本当にお道の信奉者一同が、特に若い青年教師が、時々はこういう会合を持たなければいけない。教会間の手続きが、さわるということがない、そういうものをつくり上げていかなければいけませんよ」という話をしておられました。
本当に、これが私どもの青年時代に、もしこのような雰囲気があっておったら、もっともっと甘木教会の初代の信心を頂いていたに違いないです。何か、行ったらいけないような雰囲気があったんです。ですから、若先生が言うような雰囲気をつくっていく。「世界は一つ」と言う人さえあるのですから、教団人が一つになるということは、神様の願いなんです。「全教一新して」と、三代金光様はおっしゃっておられたが、私は、全教一新して、ということは、そういうことだと思う。
私が、そういうことを若先生が言っている時に、私が神様からお知らせに、「林洋文堂」「林洋文堂」と頂くんです。林洋文堂というのは、月々の「おかげの泉」を印刷される印刷屋さんなんです。いわゆるおかげの泉。私が今日頂く、もうおかげというのは、それこそ降るようにあっておるように、おかげというものは、それこそ湧くようにあっておる。だから、おかげの泉なんです。もう清水が限りなく湧くように、おかげの泉である。
林洋文堂ということは、林という字は木が二つ書いてあるでしょう。今若先生が言っておることは、もう合楽もなければ久留米もない、もちろん甘木もなければ博多もない。お道の信心をさせていただいて、しかも同じ年ごろの人たちが集うて、本当に金光大神の信心を頂き、また人へ、それを伝えていこうというような、終生、金光大神に命を捧げた人たちばっかりの集まりなのだから。本当に助かられる道があるならば、助かる道をどこへでも行って求めることが本当なのだ。
私は、林ということは心を合わせるということだと思いました。木が二つでしょう。洋文堂の洋は、太平洋の洋が書いてある、あれはひろいとも読みます。それこそ洋々たる、広々とした、それこそ海原のような心。そういう心で交わる。文という字は、あやと読む。あやということは交わるということです。
今日の青年教師の方たちの信心実習の最後のしめくくりが合楽教会に持って来られることになった。ありがたいことになるなあ、と私はその時に思ったのです。もうとにかく、心が合わなければいけません。
例えば、夫婦兄弟でも同じですよ。二人の心が合わなければいけない。しかも、お互いが大きくならせていただく、豊かな心にならせていただくことの研修をしていかなければならない。片一方だけが大きかったのではだめなんです。やはり、みんなが大きくなることのために精進させていただかねばならない。
「まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ」。その元気な心でさせていただく信心の焦点が、いよいよ豊かにならせていただこう、大きくならせていただこうと願うならば、私どもの願いであるところの限りないおかげが、豊かに大きくなっていかないはずがない。ここのところに焦点を置いて、お互いの信心は精進されなければいけないと思うですね。
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本当のことを思い込ませていただくけいこ
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それはもう何十年と日参りをしているというても焦点が違う。昨日も、青年教師のある方が言っておりました。「先生、思い込みということはどんなものでしょうか」と。私は、「思い込みということはおかげにつながることですよ」と申しましたことです。
「実は学院で一年間、金光様のお通りになるお道を、毎日、清めさせていただいた。それが、そうさせていただいているうちに、だんだん何かしらないけれども喜びが湧いてきた。そして、金光様がお通りになるお道を清掃したり、きれいにすることに専念させていただいたら、おかげを頂けるという思い込みが、だんだんできてきた」と。「けれども、帰ったら、そんなこともなくなった。これは、学院だけのことで終わったんですけれどもね」と、その方が言われるから、「それなら、親先生のお通りになるところをきれいにしたらどうか」と申しましたことです。
「素晴らしいことだね」と。そうなんだ。そこで、信心とは、だんだんその思い込みから、より本当なことを思い込ませていただく稽古なんです。私の知っている方で、もう四、五十年ぐらい、その教会のお便所のお掃除を毎日なさる方がある。その方はどういうことを思い込んでおるかというと、「もう私はほかのことはできないから、これさえしておればおかげを頂く、病気はせん」と、思い込んでおられる。事実何十年間と病気をしたことがない。思い込みなんです。
思い込むということは、もう信ずるということなんです。神は、信ずる者を、また信じなさるのです。だから、それだけの思い込みではいけないでしょうが。思い込みが、もっと広い大きな、もう間違いのないところへ、ひとつの思い込みができれる信心なんです。それで、現在合楽では、「もう和賀心さえ目指せば、おかげが頂けるという思い込みを一生懸命つくっているよ」と話しましたことでした。
これならもう絶対です。これは世界中に広げていけれる普遍性を持っておる。一生懸命拝めば、おかげが頂けるとか、一生懸命御用すれば、もう病気はせんとか、そういう思い込みですら、おかげが頂けれるのであるから、和賀心になれということなら、もう絶対です。教祖金光大神が、もうとにかく、いつも自分の目指しにしておられたであろう和賀心、和らぎ賀ぶ心、いわゆる生神金光大神の境地なんです。
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お道の信心の神髄は和賀心
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昨日私は木山教会の矢野岩次郎先生が書かれたご本の中で、「どこを折っても、ひょっとこが飛び出す」という御理解を聞かせてもらったんです。これは、もう金光教のご信心の神髄なんですよ。長い飴の棒に仕込んである。どこを折ってもひょっとこの顔が出てくる。金光様のご信心をさせていただく者は、どこを折っても、いつでも、どんな場合であっても、飛び出してくるのは和賀心です。
だから、それを目指すということ、それに精進するということです。私のような信心でも、それに焦点を置いて信心させていただいていたら、おかげを頂いて、だんだん、人が笑おうがそしろうが、私の和の心は崩れない、いよいよ頑丈になっていく。教祖がおっしゃる和というのは、普通でいう和とは違う。平和の和とか、そういうのではない。もう崩れないもの。不壊のもの。その和の心が壊れないというのが、金光教祖がおっしゃる和なんです。賀は祝い賀ぶとおっしゃる。いつも赤飯でも炊いて祝いたいような心、それこそ、おめでとうございますと言いたい心なんです。
そういう心を目指させていただく。実を言うたら、教祖様のみ教えのすべてが、この和賀心を頂くことのためのみ教えというてもよいのですよ。だから、これを思い込むということは、大変なことなんです。しかも、これならば、アメリカの人に伝えても、ソ連の人に伝えても、どんな人たちに伝えても、「和賀心にならせていただくことが、いよいよ人間の幸せですよ、幸福ですよ」ということが言えて、また合点させれることなんです。金光教の信心の素晴らしいところはそこだと思うんですよ。
しかも、和賀心には、おかげが降るようについてくるんです。和賀心の精進をすると、それこそ泉が湧くようにおかげが頂けれるのです。それを頂きとめれる心が和賀心なんです。しかもその和賀心が、いよいよ豊かに大きくならせていただくことなんです。和賀心がいよいよ大きく育っていく。そのために、私どもが信心さしてもらうのであります。
それは、やはり苦しいときは苦しい。これほど信心するのに、ということもあります。けれども、それこそ、今こそ七分目、八分目の井戸がえがなされ、それこそ汚いものが、どんどん上がっておる時だと分からせていただいたら、それも、またありがたい。そのためには、そこの本当のことが分からせてもらって信心が好きにならなければならない。もう好きになったら、いがぐりを股にはさんでもよいということにまでなるのです。
「はあっ、もう信心していて、どうしてあんな貧乏が続くのだろう。信心していて、どうしてあんなに次々と、難儀なことが起こるのだろうか」と言われるようなことがありますけれども、そんな事に耳を貸してはならない。今こそ、私のほうでは井戸ざらいができておるときなのですから。しかも、その井戸ざらいをさせていただきながら、自分の心の中に、本当のことの思い込みがいよいよできていくということです。
例えば、「御用すれば助かる」というくらいの思い込みですら、その人が御用に一心に打ち込むと、やっぱりおかげを頂いているでしょうが。だから、これは枝の枝、葉の葉なんです。ですから、私どもがその和賀心という絶対のものへ、焦点を置くことです。苦い事もあろう、臭い事もあろう、辛い事もあろう。けれども、それを、和賀心を育ててくださるための神様の御神意だと思うから、それを御事柄として受けられるのです。
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徳とおかげがいっしょに頂いていける道
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「病気災難の根が切れる」と。いわゆるめぐりのお取り払いを頂く。それも楽しく、ありがたくお取り払いを頂きたいね。「やれ痛やという心で、ありがたし、今みかげをという心になれよ」とおっしゃる。信心して、変わった事が起こってきたら、おかげと心得て信心せよと言われる。お願いをさせていただいて、反対に熱が出だしたということがありますよ。信心させていただいて、次々と難儀な変わった事が起こってくるようなことがある。それを、ありがたいと心得て信心させてもらう。だから、いよいよ水が清まっていく。その後は、それこそこんこんとした水が湧きいずるようなおかげを頂くことができる。
同じ徳利でも小さい徳利がありますよ。だから、せっかくならば、一升徳利でなければいけない。一升徳利というのは、私の一生ということです。しかも徳と利が、いっしょに頂いていけるという信心なんです。もう此方金光大神様の信心は、絶対、徳とおかげがいっしょに頂いていける道なんです。ところが、おかげだけは頂いていっておるけれども、徳は伴わないというのは、思い込みをもっておかげを頂いていますけれども、焦点が違うからです。
御用すれば助かると思い込んで、御用すれば、確かに助かる道ができてくるのです。けれども、徳は受けられない。
例えば、久留米教会の初代とか、甘木教会の初代あたりが、それこそ御用ということには大変な力を入れられました。けれども先生方の場合は、今言う自分の豊かな大きな心、いうなら和賀心が、もうやむにやまれん心となって、あの御用になったから、御用がそのまま徳になったんです。もう御用というのは、させていただかなければおられない心であり、それが真心なんです。
御用すれば助かる。助かるために御用するなんておかしな話です。おかしな話でも、それを思い込めば、お便所の掃除を何十年と続けておれば、病気をせんですむおかげを受けられる。けれども徳にはならんのです。
そこで思い込ませていただくならば、本当のところ、「金光教の信心はもう世界無比」と最近私が言うておる、無比の信心に私どもがならせていただくために、教祖金光大神が天地書附にお示しくださるような和賀心を、刻々願うていくという信心です。
そこで、和賀心をいよいよ頂いていくためのみ教えが、この教典のすべてというてもいいと私は思います。しかも和賀心が、私の心から、私の家庭、私の周囲に、さらに世界中の国々にまで広がっていく願いを立てさせていただく、そういう大きな信心を目指す。
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窮屈な中に味わいができる
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大きなおかげを頂きたい。そのためには、いよいよ自分という者が反比例して、小さくならなければいけない。大きな信心とは、野放図ということでは決してない。いよいよ自分という者をある意味では、がんじがらめに、自分でくくって窮屈になっていく。その窮屈な中に味わいができてくる。
その事を、今日強調しておるのです。ここの天地巖にしめ縄が張ってある。そして、この岩は生神金光大神、こちらは大坪総一郎、それ等にも注連縄が張ってある。それは、もう、しめ縄から一歩も外へ出られないほどに清めていこうということです。それこそ、われとわが心が拝めれる心というのは、決して野放図なことではない。もういよいよ自分という者を窮屈なところに持っていくという信心なんです。
ここのところは、いろいろ説明が足りないと思いますけれど、例えば皆さんが日参りをさせてもらうということは、もうそれだけあなたを窮屈にされたわけなのです。だいたいなら、まだ寝ておってもよいでしょうが、それを一日に、一時間でも二時間でも自分を窮屈なところに置いておられる。そういう信心が、もっともっと窮屈なところに置かれれば置かれるほど、おかげは偉大になってくる。それが、また楽しくなってくるのです。それがありがたくなってくる。
せっかく、「まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ」とおっしゃるのですから、元気でいよいよ繁盛し、日勝り月勝りのおかげを頂いていくことのために元気な心が必要である。その元気な心で、ただ信心するということは、その中に、そのうちには信心が好きになるだろうという、神様の願いがこめられてあるのです。
だから、信心が好きになるためには、いよいよ豊かな大きな心を目指させていただいて、昨年あたりにこういう問題が起こったら、私は震え上がったでしょう。ところが、一年後の私は、「これはありがたいと受けられるということは、何とありがたいことか」ということになってくるでしょうが。それはもう、信心のなかった時には、大変腹が立ったことだろう。ところが、腹の立つどころか、お礼を申し上げておりますというような心が育ってくるからありがたいのです。
だから、御用すれば助かる、という思い込みでは、そういう心が全然育たないのです。やっぱり、人から笑われた時には、信心のない者と同じぐらいに腹を立ててしまう。ちょっとした問題を問題にしてしまっておる。
和賀心には、もう問題が問題でなくなってくる。そういう問題を、自分の心の中に治めていけるのですから楽しいのです。「元気な心で信心せよ」というのは、ただがむしゃらに元気で信心する、というだけではいけない。もう間違いのないところに焦点をはっきりと定めて、信心させていただいておれば、楽しくなってくる、ありがたくなってくる。「信心をすれば一年一年ありがとうなってくる」とおっしゃってあるのに、一年一年ありがたくなっていないなら、おかげは頂いておっても、絶対、焦点が間違っているときです。
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信心の焦点を定める
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最近、私が言うように、生神金光大神と唱えるときに、昨日の生神金光大神と、今日の生神金光大神は、その内容が違うのです。だから、生神金光大神の働きが、変わった働きとなって表れてくるのである。十年前の生神金光大神も、十年後の生神金光大神も、同じ事であってはならない。そういう心を持って、焦点を間違えず、元気な心で信心させていただくところから、いよいよ信心が好きになる。いよいよ信心が好きになりますと、もう暑ければ暑いでありがたい。寒ければ寒いで、ありがたい。もうそれは本当にそうなんです。
例えば私どもが、ここへ座らせていただいて、まあ今は冷暖房でこうしていますけれど、椛目の時代なんかは、もう一日座っていると、それこそ座布団は、じゅくじゅくになって、もうそれこそ熱いような汗を背中に感じるぐらいでした。けれども、前からは、ありがた涙が流れていました。
そういう窮屈な、そういう難儀な中にあって、ありがた涙がこぼれてくるということは、もうそれは大変なことなのです。生神金光大神は、そういう信心、そういう道を教えられたと思うのです。
元気な心で信心するのは結構ですが、どうぞひとつ、焦点を間違えずに、本当に信心が好きになるおかげのいただけれるところに焦点を定めて、信心を進めてください。そうするうちに、井戸も清水になるでしょう、「おかげの泉」ではないですけれども、もうそれこそ湧きいずるようなおかげも頂けれるでしょう。
神様は、おかげは降るようにやってある、とおっしゃるのですから、それを受けとめる心が、今日私が申しました大地の心なんです。大地の心とは、受けて受けて受けぬいていく心です。そこから、楽しい信心、ありがたい信心が生まれてくるのです。 どうぞ。
昭和四十七年(一九七二年)六月八日 朝の御理解