御理解 第三十三節
お供え物とおかげは、つきものではないぞ。
===========================================
----------------
信心は御用なり?
----------------
お供え物とおかげは、つきものではない。「信心は御用なり」というように、私どもは聞かせていただいておる。御用すればおかげが頂かれると、御用すれば助かると。お供えをするということも、やはり御用なんですよね。御用をさせてもらう。けれども、「お供え物とおかげは、つきものではないぞ」と教えられるように、御用とおかげは、つきものではないということも言えるわけですね。御用とおかげは、つきものではない。
これは、まあ私自身の体験から申しましてもそうでした。なるほど、おかげを頂くようにあったですけれどもね、やはり本当のおかげにはなりませんでした。一生懸命、教会の御用をする。一生懸命お供えさせてもらう。いわゆるお供え物とおかげは、つきものではないと、こう仰せられるが、やはりお供え物とおかげは、つきものではないと言いながらも、やはり、おかげを受けた時代もありましたけれどもね、それは本当のおかげにはなりませんでした。ですから、特に今は、口を開けば御用ということが言われますけれども、これはよく考えなければいけない。はっきり教祖様は、ここにおっしゃっておられる。お供え物ということは、御用ということとも言えるのです。ですから、御用とおかげは、つきものではないということ。真心があれば、おかげが頂けるというわけです。木の葉一枚でも、氏子の真があれば、神はそれを受けると仰せられる。
そこで、今日は、この第三十三節を、三十一節、三十二節の中から、いろいろ検討していきたいと思う。御理解第三十一節に、「信心する者は、木の切り株に腰こしをおろして休んでも、立つ時には礼を言う気持ちになれよ」。信心させていただく者は、それこそ木の切り株に腰を下ろしても、立つ時には礼は言う、その心持ちが大事なのである。どうでしょうか。信心させていただいたなら、そういう心持ちが、心の中に育っていきよるであろうか。
今日、皆さんは自転車で来た人もあろう、自動車で来た人もあろう。この雨の中に、雨ガッパを着けて傘を差してお参りした方もありましょう。木の切り株のように、たいして何の役に立たんようなものに対してでも、それを使うたのですから、腰を下ろしたのですから、「立つ時には礼を言う心持ちになれよ」と言われるのですから、おかげで、この傘のおかげで濡れんで済みましたと。このカッパのおかげで濡れずにお参りができました。自動車のおかげで、自転車のおかげでと、まあ数限りがありませんよね、お礼を申し上げる対象というのは。だから、信心させていただく者は、その心がけがいるんです。そういう心がけがいつも自分の心の中にある。お礼を言う心持ちがですね。
------------------------
神様いただきますという心
------------------------
次に三十二節に、「女が菜園に出て菜を抜く時に、地を拝んで抜くというような心になれば、おかげがある。また、それを煮て食べる時、神様いただきますというような心あらば、あたることなし」。この三十一節から三十二節に移ってまいりますと、それが少し進んだ感じがいたしますね。これは礼を言う、その心持ちだけではない、地を拝むということ。お野菜を抜かせていただく時でも、まず抜かせていただく前に、大地を拝むようなとおっしゃる、そういう心になれば、おかげがあると仰せられるのです。だから、夢おろそかにできないところですよね。
皆がおかげを受けたいわけですから、木の切り株に腰を下ろしても、立つ時は礼を言うような心持ちを、まず、自分の信心生活の中に頂かせてもらう。いわゆる感謝の心ですよね、すべてのものに感謝する心。次には、女が畑に出て、野菜を抜く時に、自分が作ったのだから、自分が取ってくるという頂き方ではなくてです、まず大地を拝めとおっしゃる。なるほど、種はまいた、肥料も施した、けれども畳の上に種をまいて、肥料を施したところで、大根も白菜もできはしませんよね。
なるほど、大地を拝めと言われることが分かる。大地の御恩徳に対して、大地を拝むという。おかげでこのような見事なお野菜ができましたと、大地に対して拝む、お礼を言う心持ち。これは野菜だけではありませんよね。紙一枚使わせていただくでもそうです。次にはまた、それを煮て食べる時、神様いただきますというような心あらば、あたることなしと仰せられる。ここのところが素晴らしいですね。
私どもは、やはりいろいろ、例えば体の上にでも、腹が痛んだりすることがありますね。風邪を引いたりいたしますね。そこには何か、やはりお粗末ご無礼があってのことでございましょうけれども、それはそれとして、その風邪を引いたということを頂くのです。
「女が菜園に出て、菜を抜く時に、地を拝んで抜くというような心になれば、おかげがある。また、それを煮て食べる時、神様いただきますというような心あらば、あたることなし」と仰せられる。それはね、例えばそれを頂くという気になれば、なるほど風邪は引いたけれどもね、当たることなし。御用ができんといったようなことがあるはずがないということ。
-----------------------------
糖尿病という名の神様のご都合
-----------------------------
私は、体が弱いですから、いろいろあります。まあ糖尿病、腎臓病、それこそ足が全然立たなかったという時代が何年も続きました。けれどもね、いわゆる神様いただきますという心で頂いとりますから、すべてがおかげでした。あれがもし信心がなかったら大変なことでしょうね。あの足が何年間立たなかったんですから。けれども、おかげでね、御結界を奉仕させていただく御用だけは、よりできたわけである。立つことができないのですから、やっぱり座っとかなければいかん。だから、「おかげで御用ができます」とその足が立たなかったことを拝んでおる。
これは、糖尿病においても腎臓病においてもそうである。これは、お話をすると大変長くなりますけれども、本当にお礼を申し上げねばならない事実を感じるのです。ですから、糖尿病様々であり、いうならば、糖尿病とは、医者がつけた名であって、「糖尿病という名の神様のご都合」として頂いておるのです。だから、糖尿病というて、薬一服頂くこともいらなければ、それこそ甘い物でも辛い物でも、頂かせていただいておるということになる。だから、当たることなしということになっておる。
そのために、御用ができんというようなことはない。風邪を引いてから鼻水が出る、ゴホンゴホン、少しは熱があるようである。けれどもね、御用に差し支えなかったところのおかげを頂いたら、ありがたいでしょう。それでも、やっぱり頭が痛む時には、まだまだその風邪そのものをですね、神様いただきますという心がないからであります。その風邪を頂きますという心あらば、当たることがないとおっしゃるんです。
昨夜、少しばかり食べ過ぎたから、胃がせくのだろう。昨夜、ちょっとぞくっとしたと思ったら、まあ薄着をしとったから風邪を引いたのだろう、というのではなくてです、まあ直接の原因はそうかも知れませんけれども、もう風邪を引いた以上は、自分のところへ、その風邪という難儀がきた以上はです、それを「頂きますという心」になればとおっしゃる。素晴らしいでしょう。頂きますという心あらば、御用に差し支えることはないというのである。
欠勤届けを出すことはいらんということ。けれどもやはり、欠勤届けでも出さなければおられんほどに痛んだり、苦しかったりする時にはです、そこで分からせていただかなければならないことは、「ははあ、これは受けようが間違うておるな、頂きようがおろそかだな」と分からねばいかんです。
「神様いただきますというような心あらば、あたることなし」このへんになってまいりますと、この三十一節から三十二節にかけて、もういよいよ信心の佳境というかね、妙境が開けてくる感じがします。信心とはありがたいなあと。こういう難儀なことでも、これを合掌して受けられるということは、何とありがたいことであろうか。しかも、その難儀なことが難儀なこととして、当たることがない、さわることがないということに至っては、いよいよもったいないことだということになるのです。そうですね、みなさん。
-------------
和敬静寂の心
-------------
ですから、まずひとつ木の切り株に腰を下ろしても、立つ時には礼を言うような心持ちを、本気でけいこせねばいかん。ある方がこの御理解を頂いて、「もう本気で、乗ってくる自転車にお礼を申し上げようと思います」と言う。そして、さあ行こう、と思うて自転車を出す時には、もう忘れてから、「今から乗らせていただきます」と、お願いも何にもせずに乗ったことを気づかせていただいて、その場で降りてから、また自転車を拝む、「忘れとりました」と言うて。そして、ここへ着かせていただく、もうその時には、すでにお礼を言うことを忘れておる。まあ一遍実行してごらんなさい。本当に忘れるのですよ。
この六月三十日の大祓式の時に、今年の例えば自動車なんかの、交通事故からまぬがれることのためには、このことを皆さんが実行するなら、絶対おかげになると、私が申しましたことがございますね。私は、あの大祓式の日に、神様に、せっかく自動車がたくさん並んでお祓いを受ける、はらえつものを出して、そのはらえつものを祓うていただいた。それだけでも違うけれども、それで完璧ということじゃない。祓うていただいただけで、もう事故に遭わないということは絶対ない。だから、心がけとして、「どういう心がけにならせていただいたら、おかげが受けられるでしょうか」と、いうことを神様にお願いさせていただいたら、「茶の心」と頂いた。
茶の心というのは、お茶をする人の心という意味でしょうね。茶の心とは、昔から「和敬静寂」という。「和」は平和の和である。「敬」は敬うである。「静」は静かである。「寂」というのは、静まり返ったというような時に、寂という言葉を使いますね。いわゆる落ち着いた上にも落ち着いてという時なんですね。そういう心がけがないとです、お茶はできんのです。せかせかした心、険しい心ではですね。
だから、昔の武士なんかが、戦場に臨む時にはね、自分の心がどのくらい落ち着いておるかということのために、お茶をたてる。その点前を間違える。一つ点前を間違えたら、もう先に進まれんのがお茶です。その点前が一つ一つ静かにできる。ああ自分は、心が落ち着いているなあと分かる。それから出陣したといったような話が、たくさんあります。
だから、例えばそういうお茶をする時の心持ちといったようなものはできんにしても、自動車に乗るとき、ハンドルを握った時、「和敬静寂、和敬静寂」と言うただけで、おかげになると、私は申しました。
「金光様、金光様、和敬静寂がありません。和の心もない、平和な和らいだ心もない。本当に神様を敬うという心もない、人を敬うという心もない。静かな心、寂の心はなおさらない。けれども、どうぞおかげを頂かせてください」と和敬静寂を唱え言葉のようにして唱えさせていただいて、金光様を唱えるならば、絶対、交通事故は起こらんよと、私はその時に申しましたでしょう。
なかなかそれでも実行できません。実行できない証拠に、もう追突されました、追突しましたというのが何件もあるのです。「あんた忘れとったろう」「それがもう忘れとりました」。コロッと忘れとったと。例えばそれは、みやすいことのようですけれども、本気で取り組んでみると、やはり難しいんですよ。
-----------------------
難儀は神様からの賜り物
-----------------------
今日、私が申します、木の切り株に腰を下ろしても、立つ時には礼を言うような心持ちさえあれば、信心者の心持ちということが、始終、心の中に頂けておるのです。ありがたいですよね。すべてのことに、いちいち合掌することはいらない、心で合掌する気持ちなんです。自動車を乗り捨てるというように申しますけれども、乗り捨てるというような心ではいけない。降りる時に、ありがとうございましたと、それはもうそのまま、自動車が生きておるもののようにして、挨拶をかわすような心持ちがあればおかげになると思うね。本気で皆さん実行してごらんなさい。
そこで、だんだん進んでまいりますと、野菜を抜く時に、大地を拝むような心が頂けます。例えば一枚の紙を使わせていただいても、だから、あだやおろそかにはできません。
二、三日前、本部から修行生の方が帰ってまいりまして、本部から預かったものをお届けしておりませんからというて、一昨日遅れてお届けをしました。そしてから、それだけ出せばよいのに、立派な封筒に入れてお届けに来た。こんな立派な封筒なら、まだ使えるのです。だから、私はもったいないから、中身はすぐ出させていただいて、封筒のほうは、事務所のほうへ返そうと思う。こういうことがです、いわば拝む気になったらね、この封筒一枚が、ここまでできてくるまでには、どのくらいの神様のおかげに恵まれて、できてきておるかが分かるんです。
だから、使わねばならん時には、絶対使わねばできませんけれども、ただ何でもない時には、こんな物を使ってはならん。どうでも封筒に入れなければならないならば、まだ使い古しの封筒もある。これは大地を拝む心がないからです。
この野菜は私が作った。私が種をまいた。なるほど、肥料も施した。これは、私が買うたんだと、買うたんだから、おれの物だから、どんなに使おうがよいじゃないかと言うたら、信心はもうそれまでなんだ。信心とは、そこが信心なんだ。それからというて、このほご紙一枚でも、もう包装紙でも、空箱でもためてから、もう、とうとう大掃除のときには焼かねばならないようなこともありますね。問題はその精神なんですよ。始末倹約せよというだけではない、その精神が尊いのです。
菜園に出て野菜を抜く時、神様いただきますと、大地を拝む気持ちになれば、おかげがあるとおっしゃるのですから、教祖様は決してうそはおっしゃらんです。
そして、みんなは「おかげが頂けん、おかげが頂けん」と言う。こんなお粗末なことをしていて、おかげが頂けるはずはないじゃないかと、まあ言いたいところです。だから、その反対の言葉を借りると、そういうことではおかげにならん、ということにもなるわけなんですよ。
そういう心になれば、おかげがあるとおっしゃるのだから、そういう心にならなければいかん、おかげを頂きたいなら。しかも、それを煮て食する時、神様いただきますという心があれば、当たることなしという。ここが素晴らしい。それは、大根なら大根を煮て食する時だけじゃない。
私どもに与えられるもの、それは困ったことだって、この難儀だって、それは与えられたものです。これは、もう私に与えられたもの。例えば、私が足が立たないとか、糖尿病とか、いわゆるこれは私に与えられたもの。だから、その足が立たないことをありがたいとお礼を申し上げる。糖尿病であることにお礼を申し上げる。そして、そういう気になれば、なるほど糖尿病にならなければ困ることがある。足が立たないようなことにならなければ、できないわけがある。ここまでが、だんだん分かってくるのです。
---------------------------------
絶対、お徳につながるお供えの仕方
---------------------------------
信心というのはね、それなんですよ。信心とは、お参りさえすればよい。お賽銭をポンとあげて、いくらかお初穂を包んで、それで拝んで帰る。お願いして帰る。なるほど、それでもおかげを受けますけれども、それは金光大神のお取次の働き、いわゆる金光大神のお徳によっておかげは受けます。
けれども、私の信心、ここのところは私の信心と言えるでしょうね。信心をさせていただくようになったら、木の切り株に腰を下ろしても、お礼を言うような心持ちが、いつも自分の心の中にある。いわゆる神恩報謝の心がいつもある。ありがたいと思うとりますということになる。そのありがたいと思うとりますということが、今度はそれを頂きますとき、大地を拝むような心が生まれてくる。
この紙一枚でも、神様の大変なお働き、この大根一本でも、お天道様の光のお恵み、大地の御恩徳がなければ、この大根一本が育たんのだ。人間の知恵、力や畳の上では作られん。大地の恵みを受けなければ、大根一本ができんのだと思うと、その大地を拝まなければおられないように、やはり紙一枚でも、拝まなければおられないことになってくるのじゃないでしょうか。
そういう心持ちになれよ、とおっしゃった。そういう心になれば「おかげがある」と仰せられるのですから、これについてくるおかげは、もうそれこそ数限りないおかげが続いてくる。そこで信心生活とは、いよいよありがたいなあということが分かってくる。
しかも、それが、だんだん進んでまいりますと、神様いただきますという心が生まれてくる。それは食べ物を頂きますということだけではない。与えられた食べ物を頂きますというときだけではない。あなたの前に難儀な事が起こっておる。それは、神様があなたに下さってあるのだ。だから、そのことを神様へ、「糖尿病様、ありがとうございます」ということにもなるのじゃないか。
そういう心あらば、当たることなしとおっしゃる。そのために、家業ができんようなことは絶対ない。ここのところを、本気で実行させていただくところからです、このへんのところがいよいよ分かると思う。お供え物とおかげは、つきものではないということが分かると思う。
三十一節も、三十二節も、お供え物とも、御用とも言うてはないでしょう。それでも、おかげがあるとか、当たることなしと、はっきりおっしゃっておられるでしょう。そして、この三十二節のです、いわば一切すべての物を、神様いただきますというような心でいけば、当たることなしというおかげが受けられるから、いよいよありがたいと思うとります、その心が一つの衝動ともなってくる。
お参りさせてもらわなければおられん。お供えさせてもらわなければおられん。御用の一つもさせてもらわなければ、相すまんということになってくる。そうなってきたところの御用、そうなってきたところのお供え、これはもういよいよお徳になると思うね。これはね、もうお徳になるはずです。だから今、私が申しましたようなところを抜きにして、いくらお供えしたところで、いくら御用を頂いたところで、おかげは受けても、お徳には決してなりません。
それは、おかげを受ける一つの理由はあります。お金もどんどんお供えすれば、やっぱり百円より千円、千円より一万円お供えすると、やっぱりそれだけのおかげは頂くです。特に、商売人の方なんか、そこがはっきりしています。それはひとつの天地の理にかなうことなんです。
けれどもね、それでは、本当の信心生活とは言えない。今日、私が申します、三十一節、三十二節を例にとって、今日はこの三十三節を分かっていただこうとしておるわけです。三十一節、三十二節のところを分からせていただいて、どうにかしなければおられないという、その心が、お供えの形になったり、御用の形になって現れてくる。それが、そのまま徳になるんです。
---------------------------------
お徳は、人間幸福の根本になるもの
---------------------------------
そのお徳というのが、人間の幸せを左右するものなんです。人間の幸せ、人間が本当に助かるということは、お徳を受けなければ人間の本当の幸せなどという言葉は使われません。
ただ、お金があるから、健康だから幸せ、それは、まだ幸せのほんの序の口なんです。本当の幸せというのは、神様のご信用、御神徳を頂いて、はじめて本当の幸せだということが言えるのです。だから、そこのところが分からせていただいてのお供え。言いですか。三十一節、三十二節の申し上げましたようなところが分からせていただいてのお供え、そこが分からせていただいての御用。これならね、もうそれは千円のお供えなら千円だけの徳を受けるでしょう。それが一万なら一万円だけの徳は、もうそれこそ間違いなく受けるでしょう。
こうして参りよるから、やはり気の毒だから、お初穂しなければならんとか、そんなこと絶対ないです、金光様のご信心は。いくらあげなければおかげにならんということは絶対ない。それを三十一節、三十二節で示してあります。
教えを頂いて、こういう心になればおかげがある。しかも、当たることもないというほどのおかげになる。しかし、そこのところが、だんだん分かってくるところに、本当の意味においての、神恩報謝の心がそれこそ湧いてくるのである。それが衝動になってくる。それが朝参りでもさせてもらわなければおられんのであり、御用でもさせてもらわなければおられんということになる。それはそのまま、だから徳になるということを今日は申しました。
なぜ徳になるかということを少し申し上げたいですけどね。まあ簡単に言うならね、例えばお金だって、物だって、お米だって、お野菜だって、それは皆さんの命なのですよ。着物だって、衣類だって、衣類なしには生きていけんでしょう。食べ物なしには生きていけんでしょう。お金がなかったら生きてはいけんでしょう。生きていかれる、その生きるということを支えておるのですから、それはもう、そのままあなたたちの命なのです。その命を削ってお供えするのだから、これが徳にならんはずがないです。そうでしょう。
けれどもね、ただそのお供えに、命のお供えをしておるんだけれども、それが真もなければ真心もない、ただ、お参りするからには、やっぱりいくらか包まねば気の毒だから、というくらいなものであっては、何にもならないということです。いや、何にもならないことはない、おかげを受けるということにはなりますよね。
-------------
神恩報謝の心
-------------
それはね、一つの理があるのです。暑い暑い、どうしてこんなにむし暑いのだろうか。窓を締め切ってしまっているのだから、風も入らん。なるほど、こっちが開いとらんから。だから、こちらを開けて、あちらを開けるから、風が入ってくるのです。お金だけは、どんどんもうかりよるばってん、自分でがめつく、ためこんでしまうでしょう。だから、そのお金が生きた働きをひとつもしない。後からどんどんおかげを頂くということもない。それを例えて言うなら、そういう道理がありますから、お供えをすれば、そういう意味においてならおかげは頂く。けれども、そういう意味でのおかげではつまらん。
せっかく、自分の命をお供えしておるのであるから、それがそのまま、自分の命になる、いわゆる自分の徳になるというほどのおかげになることのために、三十一節、三十二節を本気で日常生活の上に現していくということなんです。そして、そういう心あらば、当たることなしというほどのおかげを頂くとです、いよいよ本格的な神恩報謝の心、それが、やむにやまれん衝動になってくる。参らなければおられん、家にじっとしておられん。雨を押しても、風を押してでも、お参りをしなければおられないという心がです、お参りという形になり、お供えという形に、御用という形になってくる。そこから初めて、それがそのまま徳になる。いわゆる人間の幸せの本当の土台ですね。あの世に持ってゆかれ、この世にも残しておけるというように、より尊いものはないというお徳が、だんだん頂けてくるようになるのであります。
だから、信心とは、だいたいは、そこのところを目指すことなんですけれども、目指す前にひとつ、今日、私が申しました、三十一節、三十二節のところをしっかりと頂いてもらいたい。それは、もういとも簡単なことだけれども忘れる。それを忘れんですむ、自分の血、肉になってしまうところまでです、ここのところを、いわば修養させていただいて、おかげを頂き、その心が、やむにやまれんという心になって、御用になって現せるおかげを頂いたら、それはそのまま徳になるということを今日は申しましたね。 どうぞ。
昭和四十六年(一九七一年)八月十二日 朝の御理解