人間と宗教
人間は古来から、文学や哲学や道徳あるいは宗教に、人間とは何か、人間は何のため生きるのか、そしていかに生きるべきか、ということを繰り返し問いながら、人間の生きることへの問題を解決しようとしてきました。
とりわけ宗教はその問いの答えにもっとも近いものを持つものとして人類の歴史とともに歩んできました。
人々を困難に耐えさせ、失意の心に希望の灯をともし、あるいはまた、人間の善意の指針を示してきたのが宗教でした。
しかし、同時に世界の宗教の歴史は争いの歴史でもありました。人間が助かる、幸せになるためにあるはずの宗教が、かえって個人を不幸にし、窮屈にし、命の犠牲すら生んできたことは、中世ヨーロッパの宗教裁判や世界各地での数々の宗教戦争に例を見るまでもなく、今日に至ってもなお紛争の背景には必ず宗教が介在するなど、それはどうにも拭うことのできない事実です。
けれども、人類はけっして宗教を放棄することはありませんでした。また、これからもないでしょう。なぜなら、どんなに科学が発達しても経済が発展しても、宗教という心のより所を抜きにした文明では、人間は幸せになり得ないということがはっきりしているからです。どんなに生活が豊かになり、自由となっても、宗教心という心がなくては、いつあやまちを犯し、自分や他人を不幸にするかもしれない、人間の弱さを知っているからです。
そして何よりも、命の根源というものに振り向かせる感性というものが人間にはあり、その解を宗教に求めようとするからです。
人々は、よりよい宗教の発展を求め、より本当の宗教をそこに探そうとするに違いありません。そして、人間が生きることにつきまとう問題への答えを求め続けるに違いありません。
しかしながら、人類はそれを発見することができるのでしょうか。
ここに、そのことへの一つの答えを現した人があります。金光教合楽教会初代教会長大坪総一郎師は、平成六年(一九九四)に八十才でこの世を去るまで、全生涯を通してそのことを追究し、やがて一つの答えを明らかにしました。
それは、思想的にも宗教的にも、あるいは文学や哲学から言っても、新しいものであり、それでいて遠い昔の、文明が生まれる以前の、なにか懐かしいもののようでもありました。
また、それを理解することは、易しいようにも難しいようにも思えました。
けれども、それは、乾いた砂に水がしみこむように、しだいに周囲の人々の心の中に広がっていったのです。
ここで師の生き方を、かいつまんで話してみましょう。
たとえば、師の信条は、『不壊(ふえ)の和の心』ということでした。どんな場合でも壊さない和です。それは受動という姿勢が基になっています。徹底して受ける、という生き方から生まれる、争いのない世界です。
人間は、怒りそのものに正当性を持つと限りなく争いを求めていくものです。民族、宗教、利権、それらをめぐって、果てしのない争いを繰り返して来たのが人類の歴史です。たとえば、記憶に新しいオウム教の事件を見るまでもなく、およそ半世紀前の世界大戦では、日本は国家神道体制を基に二千万人を越える内外の犠牲者をつくったのですから。
大坪師はこう思っています。『元来、宗教は、和が基本である以上、争いを絶無にするのが、その本質である。争うことは、それ自体が宗教を放棄したことになる』と。(以下『』内は大坪総一郎師述)
悲しいまでの人間の愚かさ弱さ。私たちは、そのことを歴史の中に嫌というほど学んできたはずです。
だからこそ、師の信条はまた、『我、無能無芸無才にして、ただ信あるのみ』ということでした。無限の存在の前では、人間の有限の可能性は無に等しいものです。つまり、自分が無能だと分かるから、無力だと分かるから、無限のもの、神にすがらずにおれない、神を信じる心一つがあるのみということなのです。
実際、師の叡知はまるで神のようでした。またその寛大さは天地のように大きいものでした。
それは、世間で言う、苦労人の分別や寛大さとは肝心要のところで違っています。師の人生は、普通で言うなら血の滲む苦労の連続でしたが、苦労を苦労とせずに神から与えられた修行として、積極的な姿勢と精神をもって「受ける姿勢」を貫いたところに、開けてきた世界観でした。例えば、なぜ人は生まれ生きるのかという問いに対しても、「人間はこの世へ魂を清めにきた」という明快な答えを持つに至りました。また、師の前では、問題が問題とはなりませんでした。どんな問題を前にしても、「神愛」として尊びこそすれ、悲嘆の元にしたり、周囲を責める材料とはしませんでした。
『私はおめでたい男です。私は天地の愛を信ぜずにはいられぬ男です』
この言葉が師の信条をよく物語っています。そして人間が解決を求めて止まない貧争病の問題も、そういう生き方から自然と真善美整う幸福への道に向かうことを自らの人生をもって証明したのです。
師の生き方、それは、人類文明発祥以前の原始の人々が、自然のすべてに意味を見出して拝礼し、いわば見神したことに共通するものがあります。自然と共に生き自然と共に臥す、だからこそ自然の恩恵を余すことなく受けとめられる。もちろん、現代に生きた師にとっての自然とは、山や川や森だけではありません。
私たちの身の回りに起きてくること。すなわち「成り行き」そのものが自然の働きであり神の働きであり、すべての事柄を見神の対象とするという生き方でした。
それは、思想で言えば、前代未聞の平和思想、心理学で言えば、安心と歓喜の心理、哲学で言えば、解放の宗教哲学、文学芸術で言えば、新しい自然主義とでも言いましょうか、医学で言えば未来の健康学、経済でいうなら、自然発展の経済学であり、そして宗教で言えば、宗教以前の宗教ということでした。
人間が人間らしく幸せになる。これが宗教本来の目的なのですが、天地自然と離れては人の一生は成り立ちません。その働きなくして人の幸福もありえません。天地がまるで自分一人のために働いて下さる。「天地が自由になるほどの生き方」、それは、天地自然の働きを大切にした師であってこそ初めて言える言葉でした。また、実際にその世界に住んだ方でした。そして、誰でもがそこに至る道が明らかになったのです。
『毎日の新聞に記載されている記事に心をかき回されないで、現在のこれらの世界の動きを超えて、在る所の世界にとらわれず、あらしめんとする天地の力に託して天地の大道を闊歩したい』(大坪師の言葉)
確かな道・誰もが歩める道
過去の宗教が解明できなかったものに、難儀観があります。たとえば、大病を患い医者も匙を投げたとします。そこから、ほとんどの人が、神仏やそれに類似する精神論的なものに頼ることをするようです。しかし、そこでいわゆる御利益や効果が現れなかった場合、必ず次のうちのいずれかを言われるでしょう。
・因縁(いんねん)論
「過去や前世に何らかの不都合をした、想った、ことの報いであり、また、そのことの現象である。あなたの場合それが大きい」と。
これは心理学をよそおった精神論的なものにもあるようです。
・宿命論
「そもそも人生というものは苦である。」あるいは、「人間は本来罪あるものであり、そこに、生きることに苦しみは付きものである。」と。さらには、「だからそのことにこれ以上とらわれないようにしなさい」あるいは、「懺悔をし、これ以上の罪を犯さないようにしなさい。」と。そして結局は、「死後の安らぎの世界に住むことを信じなさい」と。
・障り祟り論
「何らかが障害となっており、それを取り除かねばならない」と。
その場合、死霊や生霊などの霊障と称するものや、また家屋の構造や方角、姓名判断上の不都合などを理由とする運勢占い的なものがあります。
・責任論
「まだ信仰(努力)が足りないのであり責任はあなたにある」、として、そこから様々なものが求められます。繰り返しの祈り、金銭や奉仕や伝道活動、肉体を責めさいなむ特別の修行など。
以上のこれらには共通していることがあります。
それは、頭から「難儀」というものは「マイナス」であり「闇」であり「恐怖」であり、「困ったこと」としていることにあります。
つまり、難儀そのものが消滅しない限り、やはり、困ったことは困ったことであり、プラスに相対する「マイナス」であり、「闇」は「闇」として存在し続けるということになります。果たして難儀というものは永遠に消滅するものでしょうか。
それに対して、難儀を「プラス」にする人々もいました。宗教心や深い人生哲学によって、人生の苦労や困難を、「自分には必要なものだった」「そのことがあったおかげで今日の私がある」という答えを出す人々もいます。
しかし問題は、それが単なる自己満足に過ぎないのではないか、または、たまたまその人だけが結果としてそういう答えになったのではないか、つまり誰にもそう思えることなのかどうかということです。
はっきりとした手応えと、誰でもがそういう思いに至れる、そして実際問題として、人間の幸せのための必要条件などが整ってくるような、そういう道付けが必要なのではないでしょうか。
先にあげた、難儀へのさまざまな理由付けでは、何の解決にもならないでしょう。そこで人々はたたずみ、迷い、再び苦悩するしかないのです。
人間が人間らしく幸せになる。それは誰でも歩めるものでなければなりません。
修行と称して、肉体をいじめたりするものは、まず病人や子どもはできません。家庭を捨て、世間と断絶するという生き方も、非人間的なものです。また、あるかないか確かめるすべもない死後の世界などを盲目的に信じることも、現実世界に生きる人間として受け入れ難いものです。
この道を行けば確実という絶対のものであり、また誰もが至れる普遍性がなければなりません。
「成り行き」と「神愛」
結論から言いますと、合楽理念では、「難儀」もまた神愛であり、あなたを助けずにはおかない、幸せにせずにはおかない、神様の働きであり、起きてくること一切が神愛であると説きます。すなわち、成り行きそのものが神の働きであると。
そのことを明らかにした合楽理念のルーツは、さまざまな不幸に出会い難儀を味わった金光教祖が、その人生の「闇」とでもいうべき様々な問題に真っ正面から取り組み、ついに「あれもおかげであった、これもおかげであった」と結論したことにあります。さらには、そのように思える心の状態を「和賀心」と称して、神=天地自然という認識の成立とともに、神すなわち天地自然の恩恵を十分に受け止める心のありよう、生き方を、神と人との共存共栄という観点から確立したことにあります。
しかもそれは、「家業の行」という、日常生活の成り行きとの関わり合いにおいての生き方であり、誰もがその気になれば取り組むことのできる普遍性を持ったものでした。
なぜ成り行きが神の働きなのか、なぜ難儀が神愛なのか。また「和賀心」とは何なのか。そのことを明らかにした合楽理念とはどういうものなのか。
それは、けっして机上の理論ではなく、実生活の中での長年にわたる繰り返しの実験とそこから生まれた実証の積み重ねによるものです。
まさに金光教祖の開明性に始まり、そして大坪総一郎師による生涯かけての、そのことの繰り返しの実験と実証によって結実することになったのです。
合楽理念はどのようにして成立したのか。それには、終戦直後の日本にさかのぼらねばなりません。
昭和の時代に
合楽教会初代教会長大坪総一郎師が、まだ金光教の一信徒であった青年時代、親に孝行したい一心で北京に渡り、酒造会社の支店長として成功をおさめていたのが、敗戦によって裸同然になり、家族四人で日本に引き揚げてきたのは昭和二十一年五月二日でした。生家がある現在の福岡県久留米市草野町椛目(かばめ)の里は、空襲こそまぬがれていましたが、年老いた両親ともどもその日の食も欠くような困窮さが待ち受けていました。
さらにそれに追い討ちをかけるように、弟の戦死の公報が届き、妹の主人も病死するという不幸が続きました。
『敗戦と同時に日本全体がみじめになってまいりました。その中の一人として、私もその敗戦のみじめさを味あわせて頂いて、そのみじめさに立った時、結局、私自身が間違った信心をしておった、という事に気づかせて頂いた。』
間違った信心、それは、御利益だけを求め自分の都合だけで神に手を合わせるような信心。たとえそれでおかげを受けても、結局は水泡に帰してしまうことを大坪師は痛感したのです。
『それから私はね、いわば本気での信心がなされることになってきた。そして神様にお願いをした。「両親が亡くなりましたら、又その翌日から元のもくあみに戻って結構ですから、どうぞ両親がおる間に、白い米の御飯とは申しません。それこそお粥さんでもよいから、腹一杯、食べさせられる、親と子に食が与えられるならほかに言い分はなか、そういうおかげを頂きたい」と。ところがだんだん本気での信心の姿勢が向うてまいりましたら、今までとは話の頂き方が違う。受け方が違う。本気で道を求める。本気で偉い先生の話を聞こう、読もうという姿勢になってまいりましたら、これは親以上の親のあることに気づかせて頂くようになりました。もう徹頭徹尾、教会、親先生(教会長の通称)ですね。自分たちのことより教会の発展の為に、一生懸命、祈らしてもらう信心に変わらせて頂いた。』
金光教とはなんだろうか、信心とはどうすることなのだろうか。それらのことを本気で求めていった時代です。もちろん生活の糧も得ねばなりません。
『そこで、福岡市に出てまいりまして、無資本で商売をはじめました。やがて繊維を主に扱う「金桝商事」という名の会社を作り、経営者である私を含めて四名の者が働けるようにまでなりました。そのころの一年間は、もうまるで置いたものを取るように次から次へとおかげを頂いたことでした。当時、皆に給料を支払ってしまいましてね、残ったもの全部が教会へのお供えというのが、私の主義でした。』
教会への毎日の参拝、岡山県金光町にある金光教本部への毎月の参拝、金品の献納、奉仕活動、困っている人を教会へ導く、あるいは各地で開かれる信心研修会への積極参加、そしてどこまでも教会と先生を中心としたいき方になるなど、たちまち金光教の真の信者の手本のような信心になっていきました。そしてあちらこちらの教会から「話をしに来てください」と声がかかるようにまでなっていったのです。
商売は発展し、その目覚しいおかげの現われ様に、自分は「商売の神様」とも呼ばれるようになって、大きく金光教発展のためのお役に立ちたい、との願いも持つようになりました。
いわば、順風満帆の時代でした。
しかしそれは長続きしませんでした。逆風が吹き始めるのです。
逆 風 時 代
『ひとかどの信心が出来、ひとかどのおかげを受けるようになる頃から慢心が出る。信心は、さらに更に深め広げてゆくものである。』
昭和二十三年六月のある日、大坪師は盗難にあいました。次には当時の金額で六十万円もの負債をかぶらなければならなくなりました。しかもこの頃から、今まで順調にいっていた商売が坂道を転がるように落ち込んでいきました。
しかし大坪師の心には「これほど信心するのに、どうしてこういうことが起きてくるのだろうか」という思いは全くなく、「これはまだ自分の信心がたりないからだ」と、さまざまな信心修行に取り組んでいくのでした。
『私はいつの場合でも、神様を絶対のものとして行動しておったことですね。そして、おかげを受けられんのは、こちらの信心が間違いだというところに、いつも焦点を置いて、修行がなされ、また修行の、信心の工夫がなされておったという事です。』
金銭的に困窮している時代でしたが、師は月に一度の本部参拝を何とか工面して続けていました。そういう中の昭和二十四年五月二十七日でした。
本部にある教祖奥城(墓地)で、大坪師は初めて神の声を聞いたのです。師の感激はたいへんなものでした。
それからは何をするのでも、道を歩いていても、すべてが神様の指図を受けてそれを忠実に守るようになりました。それゆえに、神様と人間心の板ばさみにあって大変苦労することもありました。たとえば、教会の先生は右と言われる、しかし神様は左と言われる。やむなく左の方をとるために先生から敬遠されるようなこともありました。
やがて、この頃から大坪師の周囲で人が助かるようになり始めました。福岡で買った小さなバラック建ての家には慕ってくる人々と共に祭典も仕えられるようになりました。
いわば「真の信者」から一人の「宗教者」となっていった時代です。
しかし、それでも大坪師の商売は落ち込んでいく一方でした。
「自分には商売の才覚がある、腕がある」という思いも打ち砕かれ、結局神様のおかげを頂かなければどうにもならないのが人間の正体であることを痛感したのもこの頃でした。
当時師は、食事は一日に一椀のお粥だけという修行に取り組んでいました。それは敗戦後引き揚げてきて、両親にも不自由をさせている自分のふがいなさに、「自分は食べる資格もない、着る資格もない人間である」という深刻な自覚から始まったものでしたが、さらに修行は過酷になっていきました。その上の断食から断食という修行に、体はくの字に曲がり、つぎはぎだらけの背広姿に破れかばん、靴も履きくずして下駄履きという姿で行商に、あるいは神様の言われるままに、福岡博多の町を東に西に歩く姿が見られました。しかし一家は貧乏のどん底でした。次から次へと難儀な問題も大坪師ひとりの上に起きてきました。
『そういうような(神様からお知らせを頂くという霊的な)事には触れていったけれども、私の心に安心がうまれたり、おかげにつながる、という事はなかったんです。そして、あらゆる難行苦行の限りもつくさせて頂きましたけれども、私自身、助からなかったです。』
ついに大坪師は修行というものに行き詰まったのでした。
神の声を聞くからおかげになるということではありません。人がまね出来ないような修行をしたから助かるということでもありません。少なくとも大坪師の場合はそうでした。そこでまたいやおうなしに信心の工夫がなされることになりました。そしてそれが、師にかけられた神様の大きな願いでもあったのです。
四 年 半
昭和二十五年十一月、福岡県久留米市草野町椛目。大坪師は福岡から実家に戻ってきていました。夫婦、両親、妹、幼い子供たちと九人家族の生活。唯一の生活の糧であった商売も止めて、そこで奇妙な生き方を始めていました。
お金を貸してくれと言う者が来る。「はいどうぞ」と、財布ごと渡す。病人を預かってくれという者が来る。「はい」と預かって無償で世話をする。どういう問題、どういう事柄も、たとえ無理難題であっても、それだけは受けない、ということがありませんでした。「これ、お願いします」、「はい」、「これ下さい」、「はい」、「これ、ちょっと預かって下さい」、「はいはい」。まるで馬鹿か阿呆です。
ついに狭い小さな家には十人を超える病人が同居するようになり、金を乞いに来る者の姿も跡を絶たないことになりました。
これが、大坪師の信心の工夫による新たな修行でした。
そのことに当たって師は、神様に次のような誓いを立てていました。
『どうぞこれからは、右になりますように、左になりますように、というお願いはもう止めました。私のような者でも、天地の親神様の願いというものが、かけられておるに違いないと思いますので、神様が私にかけられておられる願いが成就するためならば、右になろうが左になろうが、一切、不平は申しません。不足に思いません。私の上にどのようなことが起きてまいりましても、受けさせて頂きます。ですからこれからは、神様の願いが成就されますよう御願いいたします』
起きて来ることを修行として受ける。それは、かつて誰も考え付かなかったものではないでしょうか。
果たしてさまざまな事柄が怒涛のように訪れて来たのです。しかし、師の「受ける」という姿勢は徹底していました。
例えば、商売時代の借金がある中で、ある所から当時のお金で一万円ほど借りていたことがあり、その借金取りが度々きていました。師は、その都度言われるままに返済をしていました。当時の師のもとには、師を慕って訪れる人が増えていましたが、その中に、返済の様子をよく見ていた人がいました。それで借金取りがあまり繰り返し来るので、師に、
「だいたいいくらぐらい借りてあったんですか」と尋ねました。すると
「あそこには一万円ほど借りていた」とのことです。
「冗談じゃないですよ。もうざっと計算しても五・六万円ほどは返していますよ・・・。こんど来た時は、私がきっちり断ります」とその人は言いました。すると師は、
「いらんこと言いなさんな。取りに来るしこ来らせんの」という毅然とした返事でした。その人は呆れてしまいましたが、その時、誓いを行じることの厳しさをあらためて心から感じたと言います。しかしその後、借金取りは来なくなりました。
余談になりますが、そもそも商売を止めた大坪師はどうやって借金が返せていたのでしょうか。
大坪師のもとには、助かりを求めて様々な願いをしに来る人があり、師はそのままを神様に祈り、それによって人々がおかげを受けるという事になってきました。ですから、そのお礼にと、金銭を差し出す人もありましたが、大坪師はそれを固辞していました。そもそも金光教には会費や祈祷料などがありません。どこまでも自主献納に任せるのが金光教祖以来のしきたりです。椛目の家には神様の小さなお社が祀ってありましたが、さい銭箱も置いてありませんでした。それで参拝する人たちは、お金を火鉢のそばにある木炭入れの木箱に入れるようになりました。すると、建具屋をしていたある信徒がそれに気づき、さい銭箱を作ってお供えしたので、人々は初めてそこにお金を入れるようになりました。大坪師はそのさい銭箱をひっくり返して中のお金を洗いざらい渡していたのです。
預かった病人はほとんどが結核にかかった人でした。中に粟粒結核という結核の中でも大変な重病状態の人もありました。師は休む時は、その人に腕枕をして同じ寝床で休みました。師の家族には小さな子供もいます。その子守りをしていたのも比較的に元気な病人でしたがやはり結核でした。結核は感染力の強い伝染病ですから、普通ならとても子守りをするのを許すはずはありません。けれども、大坪師はそれも黙って見ているだけでした。
中には、こんなこともありました。
師は人から家に祭られている神様の祭典を頼まれることがありました。そこで食事が出たのです。師の好物である「うどん」です。当時としては珍しい白い小麦粉で作られた麺と、かまぼこやちくわが色とりどりに入っていました。ところが、蓋を取ってよく見ると、うどんのつゆが入っていないのです。けれども師は黙ってそれを食べました。しばらくして、台所のほうで「つゆを入れるのを忘れていた!」という声があがりました。急いで師のところに駆けつけましたが、その時はもうほとんど食べ終えた状態でした。
「まあ先生、ちょいと言うて頂けばよいのに」
「それが今私は、お位牌さんになったつもりで、死んだ気になって何でも受けるということをしておるもんの。うどんにつゆが入っていないというて、お位牌さんがもの言うはずなかもん。・・・・ばってんつゆの入ってないうどんぐらい食べにくいもんはなかばい、あははは」
笑い話のようなエピソードですが、「すべてを受ける」という師の修行が、いかに日常生活で起きて来るものまで徹底していたかをよく現すものだと思われます。
さて、こういう修行に師が取り組みだして、次々と奇跡が起き始めました。さまざまな問題を抱えて参ってくる人たちが、次々と救われるようになったのです。金銭問題、商売、人間関係、病気と。先ほどの粟粒結核の人も全快して就職ができるまでになりました。やがて近隣の人々の噂になりはじめ、ついには椛目の小さな家は、門前市をなす状態になり、大勢の人が集い始めました。たちまち有志一同の願いによって「金光教椛目神愛会」という会が結成され、まるで一教会の様相を呈し始めました。
そして、やがて世界が一変するほどの重大な真実を発見する時が来ます。
『そういう事が続いて丁度四年半目に、神様からお知らせに、「ほうれん草」を見せて頂いて(こう説明されました。)あのポパイが食べると、力が湧くというやつです。例えてみれば私のこのような生き方は確かにほうれん草を食べたように隆々とした力を受けてきた。しかしそれはちょうど畑から引き抜いてきたばっかりのを、今迄は、ひげもとらず、泥がついてジャキジャキするような食べにくいものでも、又は赤い枯れ葉でも、みんな頂いてきたようなものであった。しかし「それはあまりの事であるから、これからは、要らないところは取って滋養になるところだけを頂け、力になる所だけ食べよ。むやみと病人を預かるな、生きてこない金のやり方をするな」というような意味のお知らせを頂いた。
ところがもうそれっきりでした。お金を借りに来る人もいなくなり、病人さんを預かってくれといったようなものも全然ないようになり、ただ入って来るのは本当に信心修行がしたいと言うて来る人ばっかりになりました。いわば私の上に起きてくる事柄がすっきりとしてきたのです。
そして初めて気付かせて頂いたのが、真実の道ここにありという感じがした。
何故かというと、天地の親神様が一人一人に求め給うというか、起きてくる問題は、神様が求め給うのだよね。いうなら、各自の上に起きてくる様々な問題こそ神様の心の現れなのです。天地の親神様と私共の関わり合いというのは、天地自然の働きと、私共の日常茶飯事の中に起きてくる、その自分との関わり合いをです、それを神様の御働きと見、またそれを神愛と見るという、徹底した頂き方です。そしてその頃から、成行きを尊ばせて頂くということを言い出した。』
成り行きそのものが神様の働きであるという大発見でした。
そして更にそのことを検証することが繰り返し繰り返し続けられていくことになります。いわば実験実証の時代です。
貧、争、病 の検証
成り行きそのものが神様の働きであるということ。そしてそれは、その後四十年間にもわたって、大坪師の生涯の実験・実証の課題として取り組まれることになりました。
そこから次々と明らかになったことは、日常生活の中のなにげない事柄も、経済的に逼迫するようなことも、人間関係も、病気という問題も、そこには神様の働きが息づいているということでした。
風雨や地震などの天変地異を「神の働き」と言う人は多いでしょう。また、自然の恩恵、神様の働きによって、私共は生かされて生きている、と説明する人もいるでしょう。しかし、日常茶飯事に起きて来る事柄、例えば味噌汁が甘かったり辛かったり、あの人がああ言った、こう言った事なども含めて、これとても「神様の働き」と大坪師が見極めていったのは、いかに、小さな成り行きを大切し、そこに神を実感し、そこから現れてくる間違いない実証を見逃さないかということでした。
迷信打破の宗教と言われる金光教にも唯一の迷信と思えるものがありました。それは教会間の「縄張り意識」とでも言うようなものです。
ある時、岡山県金光町にある金光教本部に月参拝を続ける椛目神愛会に対して、月参拝をしてはならないと親教会から差し止めがありました。神愛会を、異端のように見るある教会からの横やりが親教会に来たからです。
神愛会の皆が、度重なる誤解と中傷にまたかと怒り悔しんだことでした。これが、過去の宗教ならどうだったでしょう。そこを押し通すのが本当だとして、極端な例えではありますが、いわゆる「迫害問題」やあるいはもっと極端に言うと「殉教」「聖戦」などということにもなっていたかもしれません。
しかし、大坪師は「これが神の働き。そこにはもっと大きな神願が成就する」と言ったのです。その一言によって本部参拝を断念した皆は自主的に、参拝したつもりで旅費を積み立てはじめました。
そして数年後、金光教の教会として正式に発足せねばならないということになりました。それについては親教会に近すぎるからどこか別に移転せねばならないという、またも縄張りの迷信が幅を利かせました。地図の上で親教会と隣の教会の中間に事務的に線が引かれましたが、そこは周囲に人家もない田んぼのど真ん中という場所でした。今の椛目の家は、なんと言っても大坪師の実家であり、大勢の信徒がこつこつと神様の広前として改築増築を加えてきただけに、その話に憤慨する人々も多くありました。しかし、大坪師はこれもまた神の働きとして受けました。
何人もいる土地の持ち主と交渉をしたところ、なんと一晩で話が決まりました。合わせて千五百坪の土地を購入し、さらに深田でしたのでトラック数百台分の土盛りをすると、その総額がちょうど旅費の積み立てと同じ金額になりました。さらにその頃、周囲の村が合併することになり、地名も「合楽」と定まったのです。
また、教会設立に伴い、大坪師が金光教教師の資格を得なければならないために、本部にある金光教の教師養成機関である金光教学院に入学する問題もありました。一年間全寮制で在学せねばならないために、毎日のように大坪師を頼みとする多くの信徒らが動揺しました。しかし入学を決意して願書提出のために健康診断を受けたところ、「糖尿病」であることが分かりました。たまたま本部ではその前年に糖尿病の学院生が心不全のために死亡するということがあり、そのこともあって学院入学は却下されました。それで特例として、検定試験のみによって教師となる道が開けたのです。まさに「糖尿病」という名の神様のご都合であったと、大坪師は確信しました。
教会建築も進みいよいよ移転というとき、大坪師は「神と人間が拝みあい合楽しあうところ」と「合楽」の意味を示し、人の目で見れば理不尽と思えるような成り行きが、このように神願が大きく成就するための働きであり、「貧」も「争(人間関係)」も「病」も神愛であることを確信をもって人々に語り始めました。すなわち、神様の、人間を助けずにはおかない、救わずにはおかない、そのやむにやまれぬ愛が、さまざまな事柄となって私どもの上にあっているのだと。人間は、そのことを悟り神様の心に添った生き方をしていくのが本当であると。そして、これこそが、過去の宗教が、人々が、求めてやまなかった答えではなかろうかと。
大坪師の中で金光教の信心の独自性もはっきりとしたものになってきました。また、金光教祖の教えにある、「天地日月の心」こそが金光教で言う「神」すなわち「天地金乃神」の御心そのものであり、そして人間がそういう生き方に取り組んでいくときに、自ずと開けてくる心、それが「和賀心」であると。
和賀心、天地日月の心、神の心
和賀心
金光教師としてまた、合楽教会長として、まだ二年程しかない昭和四十五年の三月八日、大坪総一郎師は夜中に目覚める度にこみ上げてくる感動に首をかしげました。いつものように朝の三時半に起床して着物を着替えている間も、控えの間に出てからも、どうにも押さえようのない有り難さが心にあふれてきます。それは生き生きとしたはずむような喜びでした。何か特別のことがあるわけでもない。何かを思い起こしているわけでもない。それなのにこの有難さは何なのだろうか、と。
やがて感動いっぱいの御祈念を仕えた後に、金光教教典を開いたところ、「天地書附」を頂き、その裏ページの白紙のところに目が止まりました。
天地書附は、金光教祖が自ら筆を取って信徒らに渡した唯一のものです。そこには、
「生神金光大神
天地金乃神一心に願え
おかげは和賀心にあり
今月今日で頼め」
とあります。
なかでも「和賀心」という心。これの解釈をめぐっては、今日までさまざまな議論が金光教でなされてきました。
大坪師はこの時、初めて確信しました。いまの自分の心の状態、これが「和賀心」であると。何かを貰ったわけではなく、原因があるわけでもない。いうならば何もない白紙の状態。それでいて有り難くて有り難くて仕方がないという喜びの心。なるほど、これが和賀心なのかと。
『世はまさにコンピュータ時代を迎えた。それに対して和賀心時代を願え』
その頃からの大坪師の教えでした。どんなに科学が発達しても人間の幸不幸の鍵は人間の心にあるのであり、それも和賀心にあるのだと。その和賀心を育てていくことのために金光教の信心のすべてがあるのだと。大坪師の新しい心境でした。
昭和二十五年以来ていねいに取り組んできた「成り行きを尊び 成り行きを大切にする」という生き方。そこにいつのまにか心の成長が出来て行き和賀心が育っていく。そこから以下のことが次々と明らかになっていったのです。
天地日月の心
金光教祖の教えに、「天地日月の心になること肝要なり」というのがあります。
金光教で言う神様という方はどういう方ですかと問われたら、天地自然の働きそのものすなわち、「天地日月の心のお方」ということになるでしょう。
その内容は、
「天の心とは、地上に降り注ぐ天の陽光・慈雨のように、無条件に与えてやまない美しい心、いさぎよい心」
「地の心とは、一切を黙って受けて受けて受け抜く大地の心」
「日月の心とは、正確無比なこと日月のごとく、実意丁寧の心」
ということです。
これが神様の心であり、金光教で信心する者は、このような心、すなわち神の心を心とすることが肝要というのです。
「天の心」は、与えるという心ですから、例えてみれば、愛の心・慈悲の心、あるいはまた奉仕の心であり、報恩の心でもあり、なんらかの与えるというものが伴う親切の心とも言えます。ここまでは、愛や慈悲を説く過去の宗教が大切にしてきたところです。しかしながら、最も重要なのは、「地の心」でした。成り行きを大切にする、黙って受ける、という実験が積み重ねられて明らかになってきたのは、成り行きそのものが神の働きであり、また神の愛であることを信じられるからこそ黙って受けることが出来るという、過去の宗教に欠落していた重要点でした。この心に欠けていたからこそ、難儀の原因をいたずらに追求しては迷路に踏み込んだり、あるいは見当違いのたたりさわりなどという言い訳になったり、また迫害などに対しても争ったり殉教の道を選ぶなどの悲惨事が繰り返されてきたのです。
教祖金光大神が迫害を受けたときの対応は見事なものでした。
まだ江戸時代末期の頃です。その頃の度重なる山岳信仰の修験者の暴力にも黙って耐えるだけでなく、「これくらいのことを神様が払いのけられるのは簡単なことであり、それをなさらないのは神様がやりなさるのじゃと思うてわしはいっこうに腹は立てん」という、まさに大地の心そのものでした。
国家神道体制厳しき明治の世に移って、役所から布教禁止を命じられたときも、すぐに神前を片づけ裏に控えました。あまりの素直さに役所も「内々で拝んではどうか」との打診がありましたが、金光教祖は「それではお上にご心配をかけてあいすみません」と返事をしました。「金光は丁寧すぎてどうならん」と役所側も呆れてついに自分たちが責任をとるから布教を再開してよいと、許可が下りることになりました。この時に確定したのが、先ほどの「天地書附」なのです。
金光教祖は、助けを求めて来る人を救わずにはおかない愛の心、慈悲の心の人でした。しかし、その底辺には土(どろ)のように黙って受けていく大地の信心が大きく貫かれていたのです。そしてこの生き方から、豊かな土壌に豊かな大地の実りがもたらされるように、結果として都合のよい事柄となっていくということを体験していったのです。
表行全廃・心行一本
合楽教会の前身である椛目の広前のころ、人々が大坪師のもとを訪れる理由は、助かりを求めてというだけではありませんでした。一つには師の人柄のすばらしさ、そしてその「お話」がなんとも言えない魅力に満ちたものでもあったからです。幼少のころから好きだったという歌舞伎や浄瑠璃に精通しておられた師が、それらを交えて語られる教話は、抹香くさい説教などというものとは違って、人々に言い知れぬ感動を与えるものでした。
それが合楽教会に移転したころからガラリと変っていきました。
毎朝祈念後に、参拝者を前に、金光教教典をひもとき、その一節を読み上げてから、それを解き明かすように、あるいは探求するように、深くて高度な、いわゆる「難しいお話」となっていきました。それで現教会長である大坪勝彦師がこう進言したことがありました。
「昔のようにお話を聞いただけで誰でも感動していたようなそんなお話は出来ないのでしょうか、今のお話は少し難しすぎます」と。
それに対して大坪師は『いつまでも幼稚園のような信心ではいけないように、教祖のみ教えの一節一節は、たいへん高度で深いものであることが分からなければならない。そしてそれを追究している今のお話は、これはもう、いうならば金光教千年の計とでもいうものだから、皆のためだけではなく、いつか本気で勉強しよう、研究しようという人が出てくるに違いない。そのためのお話でもあるから』という意味の返事をしました。
大坪師の毎日の教話。それは、日々の成り行きの中に起きてくるさまざまな事柄と神様との係わり合いを基に、当時の金光教教典の百八十八か条のみ教えを、ありとあらゆる角度から深め広めた教話であり、それは、テープに記録されたものだけでもゆうに八千日分は超えるものとなっていきました。
そこから次々と明らかになってきたもの、それは一言でいうと「金光教の独自性」ということであり、過去の伝統宗教が答えを出すことができなかった別世界でした。
金光教教祖はそれを「神と人とがあいよかけよで立ち行き」と説き、大坪師は「神と人とが拝みあい合楽しあう合楽世界」と表現しました。ともに意味は同じです。
では、天地金乃神が金光教祖に託された、神と人とがあいよかけよで立ち行く世界、すなわち合楽世界に住むためには、どうすればいいのでしょう。
まずは、表行(わぎょう・・・水行や断食など難行苦行のこと)が全廃されなければならないということです。
表行という、「修行」と称して、火の行、水の行、断食行、などの難行苦行を観念とする信仰があまりに多いようです。実は大坪師も、かつてはありとあらゆる表行に取り組んできた過去がありました。福岡での貧乏のどん底にあったあの時代です。それが突然、全廃を宣言し、教会の修行生にも禁止したのは、昭和四十九年七月のことでした。
『(表行をするという)そういう自力だけの信心から、(神様を信じるという)他力の信心へ向かわねばならない。そしてその自力は心行に取り組むことに向けて、いよいよ成り行きを尊ぶことに全力をあげなさい』ということでしたが、それは、かつて大坪師が、夏冬を通して風呂には入らず、水行だけですませるという修行に取り組んでいたころ、ある信徒が風呂桶のお供えをしたということがあり、その成り行きに込められた神様の情愛を思って風呂桶にすがって泣いたという、かつての体験から、わが身を痛めてでもという人間の取り組みを、実は親心として悲しく思われていた神様のお心の発見を思っての全廃でもありました。
金光教祖は、「水をかぶって行をすると言うが、体にかぶっても何にもならない。心にかぶれ。寒三十日水行をすると言っても、それは体を苦しめて病気をこしらえるようなものである。家内や子どもの病気のために水をかぶって、一週間日参をしても治らなければ、氏子の体に傷がつくだけである。水をかぶったから真である、水をかぶらないから真がないとは言えない。食わずの行をするのは、金光大神は大嫌いである。食うて飲んで体を大切にして信心をせよ。」とはっきりと宣言しています。しかし、金光教内でも未だに表行に取り組む人々があることも確かです。どうしてそのように変わってきたのでしょうか。また、なにがそういうふうに変えさせたのでしょうか。
いつのまにかしみこんでいる伝統的な信仰にある修行観、穢れと清めの考え方。金光教祖はそのことを厳しいまでに否定した方でした。そしてそれは、人間を縛り窮屈にする、人間性の否定をもたらすような信仰観念を捨て去って、誰もが取り組むことができる、人間らしい生き方の宣言でもありました。
師は、心行という事に対しての取り組みとして、「下駄をそろえる」という具体的なことから説きました。玄関に靴が脱ぎ散らかされているなら、それをきちんとそろえるのが心行だと。それも、片付け好きでしたり、脱いだ人を責める心があってはならない。『こうしてキチンと揃えると、後からの人が気持ちが良かろう、という心だよ。』という人が助かるための心遣いというものでありました。もちろん、どこまでも成り行きを尊ぶ基本の修行でもあります。常に神様との係わり合いにおいて、一切を見、一切を聞き、一切を行動する、それが心行なのです。
表行全廃・心行一本は、合楽理念の大きな柱です。
「此の方の行は火や水の行ではない、家業の行ぞ」(教祖御理解第三十節)
火の行、水の行に匹敵するような修行は、わざわざ山にこもったり道場に入らなくとも、実は、家庭の中に、職場の中にもあるものです。様々な事柄や事件など、それらを神様から与えられた修行として、心で取り組んで行くことこそが、心行・家業の行にほかなりません。
『修行におかげはつきもの。修行として受けるからおかげになる。苦労で受けては、ただの苦労で終わるだけ』(大坪師の言葉)
御 霊 観
大坪師の人柄を一言で語ると、師は実に思慮深い方でした。その思慮深さをもって何をするにも行き届いた心配りをし、一点一画をも疎かにすることがありませんでした。糖尿病を患っていましたが、その体調がすぐれない時には、それこそ腕を上げるのも大変なきつさであったと言います。しかしそんな時でも、たとえば朝起きてベッドから降りて毛布をきちんとたたまないということがありませんでした。
「きつい、めんどくさい」そういう思いが湧いてきた時ほど、よけい丁寧にすることを心がけていました。そういう取り組み方は、父君徳蔵氏から受け継いだとのことです。『父のたたんだ毛布はまるで板のようだった』との言葉からもそれが伺えます。
大坪師のそのような姿勢と心構えは、金光教信心への取り組みに対してはいよいよ遺憾なく発揮されました。教祖の教えに「細い道でも次第に踏み拡げて通るのは繁盛じゃ。道に草をはやす様なことをすな」とありますが、まさにそのとおりの姿勢でした。そして丁寧に一本一本草を抜いていき、いうならば道の修繕をしていったところから、かつてない世界が次々に開けて来たのです。
たとえば、「霊」というものをどのように見るかという、「御霊観」ということもそうでした。
昭和五十年六月二十日の朝、大坪氏は、数日来神様から色々と教えて頂いたことを『ある意味での爆弾発言とでも申しましょうか』と前置きして語り出しました。
『御霊様を拝むことやお祭りをすることは、どこまでも御霊様を尊敬するということです。同時にまた感謝を捧げるということです。それを例えば、先祖や御霊様にね、すがるとか願うとかということはね、これはたいへん御霊様としても御迷惑な事だということです。また拝んだから御霊様が働いて下さるということは絶対あり得ない、出来ないということです。・・例えば私共が小倉の桂先生や久留米の初代の石橋先生ら大徳を受けられた先生方(当時二人ともすでに故人。すなわち霊としての存在)へ私共がすがっておった事は、御霊様は大変お困りになった事だろうと思います。』
まさに爆弾発言でした。本教はもとより、全宗教で「霊の働き」を言わないところはないでしょう。いや、一般社会ですらそういう傾向があります。(「神様は信じないが幽霊は信じる」という人が多い奇妙な社会現象ではありますが・・)
「御霊の働きはない」。
それまで御霊と会話するなど、様々な働きを数限りなく体験してきた大坪氏も、神様からそう打ち明けられた時は、すぐには信じ難く、繰り返し繰り返し尋ね返したといいます。
すると神様はついには、「御霊に願うということは、死人を舞台に上げて、さあ踊れ、と言うようなものぞ」という意味の決定的な答えを示されました。
大坪氏の中で再び信心の練り直しが始まりました。
御霊の働きと思っていたこと。あれは天地のトリックであったか、と。御霊や先祖を手厚く祭るとご利益が現れるといった事実も、そういう親先祖を大切にする心が神様のお心にかなって、あたかも御霊の働きで不思議が現れたかのように、神様が演出をなさっていたのか、つまり方便だったのかと。
以来、大坪氏の中で「御霊観」がすっきりしたものになっていきました。そしてやがてこれが大変なことであることに気付いたのです。
『宗教革命の端を発するならば、こういうところから入って行かねばならない』のではと。
あらゆる宗教が、霊の働きを言い、仏教系はもとよりイスラム、あるいはキリスト教においても、たとえば、一九六四年のバチカン公会議で「悪魔とは堕ちた悪霊である」との確認がなされ、とりわけ戦後の新興宗教は霊のことを看板にしているぐらいです。
筆者も、このことは容易に信じがたいことでした。いや、信じたくないといった方がよいでしょうか。実際に亡き祖母が夢枕に立って親しく話し掛けて来たことなど、なによりも時を超え生死を超えて交流できることはロマンでもあったからです。
しかしながら、大坪氏の解き明かす御霊観は道理でした。聞けば聞くほどなるほどとうなずかずにはおれないものでした。そしてやがて筆者自身、神様の方便の世界がだんだん理解もできていきました。そんなある時筆者に、このような夫婦連れの相談がありました。
息子が新興宗教に入り、そこで「あなたの家には七代前の霊が怨みをもっていて、それを浄霊しなければ家は繁盛しない」と教えられ、そのため息子は浄霊を受けると狂ったように転げまわる状態が、もう何年も続いているというのです。
そこで神様にお願いしますと、当時筆者の子供が幼稚園児で、先ほどまでその子に「赤ずきんちゃん」の絵本を読んで聞かせていたその情景を示して頂いたのです。
このグリム童話は、お母さんからお使いを頼まれた主人公が狼に食べられ、後に猟師に助けられてそのお腹から無事に出てくるという話ですが、もちろん実際の話でもなければ、狼に食べられて本当に無傷のはずもありません。いわゆる、作り話です。
しかしながらそこには、教訓がこめられています。お母さんの言うとおりに途中で寄り道をしなかったらこういう災難にはあわなかったはず。親の言うことは聞くものだということを幼児に教えるための童話でもありましょう。
浄霊のたびに転げまわって霊が抵抗するという、いかにもそのように見えて、実はそんな天地のトリックなんですよ、教訓が込められた神様の演出なんですよ、ということを伝えると、夫婦は得心して帰りました。夫婦や息子がその後どういう取り組みをしたのか、それは知りません。けれども教訓として何かが伝わったのでしょう。それからすぐに息子のそう言う状態はなくなったということでした。
合楽理念に基づく御霊観は、方便のない、より真実味のある御霊観というものです。いわば幼稚園の信心・宗教観念から脱け出ることを促すものでもあり、「因縁、悪魔、悪霊」といった恐怖の観念から信仰する人を解き放つものです。さらには、幽霊におびえ占いにこる現代人のナンセンスを払拭するものでもあります。合楽理念の柱に位置付けられたこの御霊観は、現代人の心にひそむひとつの闇に光を照らすものとなるでしょう。
金光教祖と合楽理念
「人民のため、大願の氏子助けるため、身代わりに神がさする、金光大神ひれい(威徳の意)のため。(明治十六年九月二十一日)」
七十歳で生涯を閉じた金光教祖逝去の十九日前の神伝です。教祖自らが記した手記「お知らせ事覚帳」は、これが絶筆となりました。
農家の次男として生まれ、十二歳で他家に養子にやられ、長じては義弟の死、養父の死、実子三人の死、当時の農家の大切な財産であり働き手でもある飼い牛の相次ぐ死、そして自身の大病、さらに神と交流するようになってからも、弟の自殺、山伏らによる迫害、棟梁の不正による宮建築の不成就、お上による神勤の差し止め、その上、家族の不行状、とりわけ長男による金銭のむしんは数十回にもおよび、また晩年のたびたびの病気など、人の一生はかくも苦難に満ちたものであろうかという、金光教祖の生涯でした。しかも、わざわざそういう記録を赤裸々に書き記して、読みやすいようにふり仮名までふって、後世に残したという事実。
普通、宗祖教祖と言われる人は、後世の人々によって美談の生涯記がつづられるものです。神格化されて雲の上の人として、ただただ崇敬の対象とされるものです。
金光教祖に対してもそのようなことがなされなかったわけではありません。何人もの手で、伝記類が作られましたが、その本当の姿を知る事ができる唯一の資料である、教祖自らが書き記した二つの手記(「覚」と「お知らせ事覚帳」)のうち、生誕から明治九年までを書き綴った「覚」の存在が明らかにされたのは教祖の死から二十七年後の明治四十三年でした。先の絶筆までの神からのお知らせやこまごまとした出来事を赤裸々に書き綴った日記様の「お知らせ事覚帳」にいたっては、つい近年の昭和五十八年、つまり教祖の死後百年たってのことでした。その間、口承伝承によるさまざまな伝記物語が、しかも美化され歪曲化されて伝えられてきました。しかしながら、それを突き破るようにして教祖自らが写実の教祖を現したのです。
これはいったいどういうことでしょう。
信仰とは、ただ天上の神を仰ぎ見たり、汚れた俗界に身をうずめた自分を戒めるだけの知恵でありましょうか。あるいはまた、苦しいときの神頼みでご利益を期待するだけのものでしょうか。
人の一生はきれいごとではすまされないものです。対人関係、病気、経済の苦労、家庭でのさまざまな問題と、いつの時代にあっても人間が抱える問題は尽きることがありません。家庭を捨て世を捨てて清貧隠遁の生き方をする信仰もありましょう。しかし、実際問題として人間は生身を持ち家族を抱え、社会生活を営んでいます。それが人間なのです。ではその生身の人間が人間らしく助かることはできないのでしょうか。
「わが身、わが一家を草紙(練習帳)にして、神様のおかげを受けて人を助けよ。(国枝三五郎の伝え)」
「生神ということは、ここに神が生まれるということであります。私がおかげの受けはじめであります。あなた方もそのとおりにおかげが受けられます。(徳永健次の伝え)」
直接の信徒に語られた金光教祖の教えです。
家庭を持ち、家族と共に生活し、さまざまな俗世間の問題から逃げることなく、またどういう困難なことに出会っても、黙って受けるという、古来まれな生き方からそのつど開ける道をしだいに踏み広げていったのが金光教祖の生き方でした。
人間が人間らしく助かるとはこういうことであると、宣言されたかのようなその生き方は、現に多くの人々を救い助け、教祖時代にすでに西は九州、東は大阪までに及び、藩主から武士、町民、農民、部落民とあらゆる階層の人々にいたるまで、およそ数万の信徒を教化していたという事実があります。
高橋富枝の伝えの明治十六年八月二十六日に、金光教祖が厚さ二寸余りもある、ひとつづりの帳面を手にし、「あなたは、神さまから、御教えのあったことを、書きつけておられますか」と、問われ、富枝が、「いえ、わたくしは、書いてはおりませぬが、おぼえております」と答えると、「わたくしは、こんなに書いておりますが、わたくしのは、無筆者のことじゃから、人に、お見せ申すことはできぬが、倅がおりますから、よいようにしてくれましょうわい。『ようも、ようも、こういうことが、できましたのう』と、けさほどから、何度も何度も、日天四・月天四(天地乃神の別称)が、そうおっしゃる。『よう、これまで、つとめてくれたのう』とおっしゃりますのじゃ」と、ほろほろ落涙された、とあります。
金光大神が現した信心は、かつての神観念、信仰観念を塗り替えるものでした。
神様からの教えとして、
「これより何事にも方位は忌まず わが教えの昔にかえれよ(神訓)」
というのがあります。
それは当時の人々があらゆる因習や観念に縛られていた時代に、中でも日柄や方位方角の迷信からの解放を解いただけではなく、その意味するところのもの、すなわち人間が作ったさまざまな考え方などを超えて、はるか原始の、天を敬い大地を拝み、自然すべてに神を見ていた時の世界にかえれとの、天と地と人との関わり合いの宣言とでも言うべきものでした。そこには罪もなければ罰もない、戒律もない、支配者としての神があるわけでもなく、ただただ神も助かり人間も助かるという、神と人との共存共栄、すなわち天地との共生という思想が散りばめられていたのです。
合楽理念は、そのことを詳細に、具体的に、かつ分かりやすく、現代的表現で説きあかすことになりました。大坪総一郎師の後半生は、金光教祖の教えとの毎日の取り組みでしたが、それはそのまま神様の心、天地の心の解明でもありました。もちろん、広大悠久なる天地を人間の心で完全におしはかるなど到底不可能でしょう。ですから、大坪師の目指したものは、どこまでも、人間が人間らしく助かることのための神であり、天地の心です。
人間が人間らしく幸福になる手立てとは。難儀の正体とは。神様とはどういう方なのか。人間はどうしてこの世に生を受けたのか、などなど、さまざまな人間の根源的な問いに対する答えの一つとして、大坪総一郎師はこれを「合楽理念」と称して、世に問うことになったのです。