研修資料 6 (S57・1・2 〜 S57・10)

霊徳を受け神徳を受け神になる。霊光神徳かねそなえられねば。S57・1・2

金光教が素晴らしいと過去の人等が言って来たところは、迷信を言わない、お供えをせよと言わない、そして三代金光様の存在。合楽理念で言う前代未聞開闢以来ということになると、いよいよ素晴らしいことになる。S57・1・5壮年部会

他宗派との違いをはっきりと体認しておくこと。S57・1・5壮年部会

これだけの有り難さか、どれだけの有り難さか。それを試す働き乱す働きは、金光教の信心をさせて頂く限り一生あろう。結局、もっと大きくなってくれ、もっと豊かになってくれの神様の働き以外にない。S57・1・5壮年部会

合楽理念に基づかんと合楽は尊いということが言えない。S57・1・5壮年部会

イメージアップそのものが、まず大きな改まりだと思う。我情我欲を言わねば生きていけんという観念からのイメージアップ。イメージチェンジではなく、イメージアップ。S57・1・10

自分の心の中にうごめくおかげの頂けない心を取り除いていく精進。S57・1・19

神心を目指す時、慈悲心も愛の心も自ずとついてくる。S57・1・19

自分の心が何とはなしに有り難く喜びで見れる、ということを焦点にせん限り何年信心しても同じこと。S57・1・19

取次者自身がおかげに左右されない生き方を分かっておらねばならない。S57・1・19

肝心要は「心」。私一人の心を治めずして家庭が治まるはずはない。家庭が治まらずして国が治まるはずはない。国宝級の作品がボストン美術館展で展示されたが、同作者の作品が合楽に何点かある。金にあかして集めたものは一つとてない。皆が集まったものです。私の心ひとつに集まった。S57・1・20

朝起きて顔を洗う。すっきりとする。あゝ起きてよかったあ、と思うものですよ。朝の時間を大切にすることが素晴らしいと体験することだ。S57・1・20

問題はその時にどう心が動いたか、どう受けたかだ。入学試験の不合格御礼や車の接触事故御礼のお届けがあった。その時頂くのに「狩野常信が描く山水画」を頂く。大河に船が一そう浮かんでおり、そこに一人の仙人のような人が見事な絶壁の山々を眺めている。常信、常の信心が試される。山(修行・難儀)を、むしろ一幅の絵の図柄とするように、そしてそれが後世に残る名品となる。S57・1・20

お酒好きがいい加減のところで止めきらん、体に障る、それでは神様へ御無礼だが、「飲み過ぎの内容が有り難いという心で頂けないなら、もう飲むな」と頂いた。何事も、有り難い、で頂けるのが人間が人間らしいということ。「酒のカンビン、中もないのに、炭団のところに突っ込んである」の情景もあわせて頂いた。これではカンビンそのものも割れてしまう。S57・1・22

信心の名品。後世にも残るような信心。常信の絵が素晴らしいように、神愛として受けきっていく内容の素晴らしさを表す。取次者なら、いよいよ私はあの時にこうい受け方をしたら徳に力になったと、人にも伝えられる内容にしておかねばならんのだから。S57・1・22

どういうきつい時でもハイハイしながらでも朝の御祈念に出てくるというのが私の生き方であり、又それが信心の名品だと思う。S57・1・22

心で感じられたことが身をもって表されんなら何にもならん。S57・1・22

真の道は限りなく広く、限りなく狭い。そこを感じていくところに天地人一如の世界に触れていける。S57・1・23

生活そのものが御用。我情でなく我欲でするのではなく、御用です。S57・1・23

○○君(修行生)がここ二三日家に帰っている。朝起きが出来ん。お母さんに「朝起きが出来んでここで修行する資格はない」と言ったとたん、神様が「良子」と。良い子だからそこはお前が願っていかねばと言われた感じだった。S57・1・29

○○教会の初代が、「自分の物は何ひとつない、一切が神様の御物」という悟りの中から、そこに親のものは子のものとして、神様が言うことを聞かれた。私にもそういうところがたくまずしてあったようだ。北京から引き揚げてきて仕事がない。体を遊ばしているのが勿体のうしてこたえん。知った所に二三日ぐらいで泊まりがけで働きに行った。それで五升のお米をお礼にもろうた。その時は教会へお供えしようと心に決めとった。家に帰ると母が、その米ば貸してくれ、と言って来たが、でけんばい、これはお供えするとだから、でお供えしたことがある。私のものは神様のもの。だから神様もまた私のものとして、おかげ下さっとるのです。S57・2・3

御の字を付けずにはおれないというところまでその内容を頂きたい。刀剣研ぎ師の本阿弥日州氏の文章に、刀を刀と言っていない。「御刀」と言っている。それを聞いた途端に感動を頂いた。御の字を付ければおかげを頂くから御の字を付けるのではなく、本当に神様の御物御事柄だから御の字をつけるのです。S57・2・3梅の実会

感動と感服。S57・2・5

とにかく、願いを一回りづつでも大きくしていかんと修行が苦になる。信心が育つとは、中身のある祈りが段々大きくなること。S57・2・4神愛会

「松に緑の梅にも春 竹に雀の踊りつづけん」57・2・5壮年部会

御祈念中、鼻水がスタスタ落ちる。鼻紙を下に敷いていたら。「紙を使わず神を使え」と頂く。願うたら御祈念中だけは鼻水が出らんごとなった。一心不乱の時間だからおかげになる。願うからには真がなからねば。一心がなからねば。S57・2・6

風邪のことをお届けしたら「洗礼」と頂く。洗礼を受けたことが御礼でなきゃ。風邪が治ったから御礼ではない。S57・2・6

手の届かぬものに、踏みつぎをしてでも手を出すのがおごりがましいこと。自分で求められるものに手を出してもおごりがましいことではない。細い道でもしだいに踏み広げて、大きなおかげにも手の届くおかげを頂きたい。S57・2・7

「真実一途」。これが本当のことと思い込んだら一途だから進歩がない。「真実一路」でなからねばならん。より本当からより真実(ほんとう)を求めての一路。S57・2・8

神ながらに決まったものは貫かれねばならん。よしそこに人間心使わねばという時には本当にコントロールが出来ねばやりそこなうです。S57・2・8

信心の確立を願うなら背水の陣を敷かねば。信心の気骨といったもの。S57・2・8

「つきゆきの(月雪)情かさねて敷き松葉」。月の光は無常感(無情)。雪は清浄。月と雪との情と情とを重ねて庭の趣としている。心と心が通うもの。そこから神様からのお知らせなども頂けれるようになる。かゆい所に手が届くような心、行い。心が角いなら角いなりに心が通う手立てがそれです。日々の改まりというが、悪いところを改めるということでもあるが、そういう日々心空しうしていく心掛けが第一ということ。S57・2・9

ぬけた世界。信心しよるからそう思わんならん、ではじゅつない。ぬけてしまうということ。そこに楽が生まれる。S57・2・10

「信心のある者とない者は、親のある子とない子ほど違う」と言うが、それは霊の世界へ入ってからは、いよいよ分かる。S57・2・11

今の仏教でどんなに手厚うしても霊は助からん。寺にこういう病気だからと行っても相手にされんようにね。霊肉共に助かる働きを持った生きた宗教でなきゃ。S57・2・18

昔、馬車馬がいたが、口に篭をかぶせたり目庇をつけたりして、道草食ったり余所に目がいかんようにしてあった。けじめがいる。人間らしいといっても、人情的なものを殺していくということ。けっしてしたい放題ではない。S57・2・19

日航機事故。合楽に御神縁ある人が助かった。けれども身代わりの方がなくなったと。神様にお礼とも何とも割り切れない感じで御祈念しておったら「ざくろがひき割れているところ」を頂く。神様の赤裸々なまでの願い思いがそこにあるということ。ざくろのことをなぞなぞで、「障子一重に小僧千人」と言っとった。一人が助かったので千人も万人も助かるもとに、という神様の深遠なまでの願いを聞いたような思いがした。S57・2・19

人間氏子しか、お徳も信心も頂けない。だから神様は人間に頼ってこられるのであり、他の動物の命をもって人間の生きる為とすることも問われないのだ。同様に、神様は一人が犠牲になっても、そこから千人も万人も助かるようなことになってくることを願われている。その願いの深遠さ。S57・2・20

○○さんの今朝のお届けに、朝参りの一心を立ててからこちら一度も病で伏せったことがないとね。かつては、この人が伏せると私が心配するくらいの健康状態だった。それが全くなくなったという。確かにおかげを頂くですね。一心を立てると。S57・2・24

私が青年時代から、金光教のここが素晴らしいと思っていたこと。宗教書が大変好きだったから様々な宗教の本を読んだけれども、他宗は宗祖教祖の神観霊観が非常にあいまいだと思った。金光教祖の場合、信心を進められる過程が石橋を叩いて行かれた感じ。一遍にぽんと行かれん。そこを他宗は、急に神がかりしたとか、一遍に触れておられる。危ないなあと思った。金光教教祖はその点間違いないと思った。ただ教えそのもは、泥くさいなと感じて、もっとよいのがあるならと思っていた。S57・2・24

不精の虫。どこを一ついい加減にすることも出来ん。もうよかよかというちょっとしたそこが、一日を締めくくってそこを詫びていかねばならない。金光教の神髄ともいう和楽の路は一生懸命。どんなところも疎かに出来ん。許されねば前に進めんというぐらいの生き方でなければ。S57・3・2

より真実の事を説明する時は、否定ではなく、ここにより真実のものがあるのだからという表現がいい。太陽の光の前には蛍の光はないも同然という表現なんかそう。S57・3・2

本当の事を学んだことを確信をもってしかも自分の実証を交えて話していく。S57・3・2

一生懸命とは実意丁寧。実意が身につけば楽。S57・3・4神愛会

○○先生、病気の信者さんから鳥かごを預かってくれと言われて断ったところ、お参りも止められて今は入院生活をしてあると。○○先生「ここを受けておけばよかった」と心にひっかかった、と。そういうことにひっかかったり気にするようではお取次にならん。人が助かりさえすればの精神を発揮する時。入院しとこうが信心すまいが関係ない。助かりさえすればの精神を発揮する時だ。S57・3・4神愛会

人情でお取次しては大きくなれん。自他共に育たん。S57・3・4神愛会

実感を話すと伝わるものだ。S57・3・4神愛会

素直に合点する。信心しておっても疑うて聞かぬも同然というところありはせんか。S57・3・10

年をとると自然と角が取れて丸くなるが、それは丁度柿が熟して甘くなるようなもの。枝から落ちればそれまで。信心によって甘くなることは干柿のようなもの。即ちあの世にまで持って行けれるもの。S57・3・11

お御馳走を目の前に出されて、それを食べるのは信心ではないというような思い方をする時、神様はいよいよ悲しい寂しい思いをされるだろう。過去の宗教はそんなふうだった。合楽理念に基づけば、かくおかげの受けられるという信念に満ちてくる。S57・3・15富久信会

欠点短所に生々と神様が現れて下さる信心が合楽理念。S57・3・15

信念に満ちあふれた生活。それが信心生活。積もり積もって絶対の信心の確立とはなる。S57・3・16

信者が右と願うても左となる。その時はっきりと「おかげです」と言えれる、しかも答えとしてそう言うではなく、神様の働きを実感するから言えると、そういう取次者でありたい。S57・3・16

教祖の信心の中には、詫びるというものが見当たらない。怠慢を詫びることはない。怠慢を気付いたら詫びるのではなく、怠慢であっては神様の喜びが頂けないから願うでよい、願わねばならん。怠慢というて責められる神様ではない。S57・3・17

もう、願うと御礼だけでよかばい。本当は願い一本でよい。願いよると改まらずにおれんごとなるから。S57・3・17

成り行きの中に起きてきた事だから、責めることも詫びらせることも要らん。問題が問題にならん心。そこまではひとつ布教に出るまではそういう実力を頂いてほしい。生けにくい心の花を自由自在に生ける稽古。S57・3・17

「こんなことではいけない」というその時に、それでは神様が入ってこれんから、お詫びではなくお願いをしていけばよいのだ。改まる力もないのに詫びてばっかりだから、いよいよ心が落ち込む。S57・3・17

合楽の教勢がグラフになって出来てきとる。中に二回ほど落ち込んどる所がある。私がお詫びの信心に焦点を置いて、お詫びするところにお礼お願いに通じると言っていた時代。お詫びがかなっていない証拠に落ち込んでいる。私は今は願い一本。お礼お詫びをせんこともないが、お礼の足りないお詫びぐらいのもの。S57・3・21

水子供養のこと。「おたまじゃくしから手が出たり足が出たりしているところ」を頂く。たわいもないことを怖くもないものを怖がっているということ。神様はこの世に出て来るまでは魂ある人間としては認めてはおられない。次に「土に帰す」と頂いた。土に帰るのだ。良し悪しは別として。それを良心の可責で自分の心を自分で罪あることとしているからおかげにならん。ここを、神様がそう教えて下さったんだからと頂いてすっきりするところにおかげになるのです。そう言われるけれどもと、けれどもを付けては徳にもおかげにもならん。S57・3・24

人間を縛っていく宗教は明らかに間違い。S57・3・24

私は参って来た人に住所も聞かん流儀。S57・3・24

霊祭に対して「だっこもへっこも」と頂く。抱く子も這う子も家族中で、という意味。霊祭はそういう御参りの出来るお祭でなければならん。S57・3・24

「信じなさい」でなく、それぞれが自分の体験によって信じられていくから。S57・3・25

取次者の力。信者が霊様に玉串を上げている時に、霊様は向こうを向いておるところを頂く。ただ玉串上げればよいのではない。また取次者もただ玉串上げさせればよいというのでなく、向こう向いていてもこちらを向かせるぐらいのお取次が出来ねば。S57・3・25

○○先生が頂いてあるのに「徳の上に座れ」と。私を踏み台にしてくれるのは有り難いが、腰掛けは嫌だよ。私の信心の上に座れだ。ここで修行しておって問題が問題となっているなら、まだ私の信心をマスターしておると言えない。私(自分)の上に起きてくること全てを神様の働きと、本気で頂けることだ。合楽理念を粗削りではなく、丁寧に身につけていくこと。S57・3・25

元気な信心、心とは、やりやりやり出すというのではなく、その芯が神様と生々と通うていること。S57・3・25

本部仮斎場時代に、三代金光様が祭典参向中につと立ち止まって、小さなわらしべを拾われたのを目の前で見たことがある。その繊細なお心。そして世界中のことを願いますと仰るから。そんなにも繊細であってはじめて大きな信心が生きてくる。繊細でない大きな心はいつかドーッと崩れていく。S57・3・25

○○さんは合楽ではいつもほめられ役。成り行きを尊ばせて下さいの何年もの信心。この頃、町内の婦人会の人間関係のことで夜も眠られんとお届けがあった。あんた達ならどうお取次するの。(某修行生言う。神様が一回り大きな信心を求めておられると言います、と。)それではこたえんごたる。そこで私はおごりました。「日頃のあんたらしくもない!放任しとってよか!」と。取次のテクニック。時に叱ることも要る。この人はいつもほめられ役が、怒られてピシャッと姿勢が出来たごたる。S57・3・25

「願い」と、こうならねばならないの「思い」は別。こうならねばならんと思うから夜も眠れんということになる。たとえ願い通りにならなくても、たとえば世界平和のこと、自分の願いはどこかに入っていきよると思うから。S57・3・25

○○さんがお知らせを頂いているのに「天地金乃神、生神金光大神、大坪総一郎、一直線」と。屈折がない。過去の宗祖教祖のされた信心修行は、神様に届くことは届いているが屈折していっている。神様の働きを働きとして本当に粗末にしない、大切にさせて頂く時に神様と一直線。S57・3・30

自分の心の中に感ずるものが、有り難い楽しいものにならねば。たとえばめんどくさいと感じる。そこに本気で取り組むと必ず楽しいもの有り難いものが感じられるから。「打ち取るは難し されど妙賀哉」S57・3・30

心の中に生じる小さいことを本気で取り組む。それが出来る自分が有り難くなってくるんです。S57・3・30

「自分のことと下り坂は急がん者はない」というが、取次者精神は自分のことより人のことを祈り願われるでなければ。S57・3・31

祈っておるそのことに手応えがあればそれでよい。相手が御礼参りをするしないは関係ない。人が助かりさえすればの精神です。S57・3・31

金光教の原点は御取次にあるのではない。教えが原点です。S57・3・31

御神訓に、「天にまかせよ地にすがれよ」とあるが、天にまかせよという信心はなかなか出来ておらぬ。地にすがるは出来ても。お徳を受けるのはまかせきることにある。神様を信じておるといっても、ここまではまかせられても、これから先はまかせられぬということではね。S57・4・3

いつも神様は私を中心にして働いておられるという頂き方。そこを大切にして安心が生まれる。痛いかゆい苦しいも、私中心の神様の働き。S57・4・18

死生観の大きなイメージアップの手立てはないものだろうか。死ぬるということがお礼を申し上げねばならんことという観念に変わってくる手立てはなかろうか。こんなにも有り難いめでたいことなんだと。そこに別離の情の悲しさはあっても、祝い目出たの若松さまよという程の有り難いことなんだと。S57・4・23

御祈念でも稽古されねばつまりません。神様が受けて下さったか受けて下さっとらんかぐらいは感じられる手応えがいる。為に、嫌だなあ、めんどくさいなあと思う事柄が、有り難くなれれるまで取り組む信行心行がいる。いやだ、めんどくさい、を押し頂いて有り難くなるまで、そういう行をさせて頂いての御祈念に手応えあるものとなる。朝の目覚めも有り難いことになる。S57・4・23

自分の力ではどうにも出来んから一心が立つ。自分の力では出来ないからという心で一心発起するからおかげになる。座ってすがる頼むではなく、そこに一心発起することだ。そこから力も頂けるおかげも頂ける。一心発起してすがる。S57・4・26

成り行きの一番強いとを取れ。S57・4・26

道理に合った神ながらの生き方から天衣無縫のおかげになる。小さいながらも神ながらの天衣無縫の働きを頂いていきたい。感じる稽古をすることに心を置いておくとそういう働きが受けられる。S57・4・30

人事的な一生懸命なくして神ながらの働きはない。研修に出て来ない者は誘い合わねば。それが神ながら。これは放っておくのが神ながらだろうか、ここでひとつ声を掛けるのが神ながらだろうかと。そこには、とにかく親先生に喜んでもらいたいの一念に絞った時にそうせずにおられなかったという信心が要る。S57・4・30

天地への還元。それは神様にお供えだけが還元ではない。税金の払いであっても、必要品を購入するでも、支払いが出来て有り難いという心が伴えば、それが天地への還元になる。問題は「惜し気」をつけないこと。S57・5・1

とにかく、おかげ渡しの名人にならねばいけん。結局、力だ。それからお話して伝えていく。S57・5・1

宗教によって迷い、宗教によって苦しんでいる人がたくさんいる。あってはならない宗教が多い。S57・5・1

一生懸命。それは、神様に喜んでもらいたい為の、眠さもきつさも預けての、というところに疲れない。S57・5・1

イギリスとアルゼンチンの戦争の事をお願いしていたら「お礼を申せ」と頂いた。世界真の平和の為の戦争になることのお繰り合わせを願うていくことがいるようだ。ただ平和になりますようにだけでなく。S57・5・2

「感無量」と頂く。神様の感無量。S57・5・9

神様が私中心に働いて下さると分かるところからの絶対信。S57・5・9

信心のない者を驚かすような予言や、霊徳的なもので神様を分からせたのでは、本当の悟りということに触れていかない。それぞれが自ら取り組んで心を開いていくということでなからねば。S57・5・9

執念にも似た情念を燃やせ。そこから神様の方が燃えなさる。S57・5・23

弥次北道中のにわかに、ある国に行って茶店に入り団子とお茶を注文した、弥次さん北さん。あまりのおいしさに次々と食べていくと、茶店の女将が嬉しそうに「あれが一分これが何文、あ、また食べたからこれで何分と」計算しだした。これを耳にした弥次さん北さん、えっそんなに高かったのかと食い逃げを決め込んだ。隙を見て逃げ出すとやっぱり見つかって追いかけて来る。ところが女将は「食べただけの代金を持っていってくれ」と言う。つまりそこの国は、食べただけ店の方が逆に客にお金を上げるという国だったのである。それを知らない弥次さん北さん、とうとう逃げてしまったという。神様と氏子もそうじゃなかろうか。大きなおかげを欲しいと願うから神様が下さろうとされる。それを逃げてはしないか。S57・6・15

○○さんの場合、こうといって信心というより、することなすことが神様の機感にかのうているから商売が繁盛している感じ。五十年ほど前、叔父と伯母が久留米がすりを買って金沢で行商をしていたが、叔父伯母が言うことには、夫婦喧嘩した日は売れん。だから歌を歌うていく。そのうちに心が明るくなって売れていくと。顔で笑って心で泣いてというのはおかげにならん。心を豊かに育てていくのを先決とせねば。S57・6・15富久信会

テレビで小鳥専門の写真家のお話があっておった。一瞬一瞬を大切にする執念ということを言っていた。生きた取次。瞬間瞬間を大切にしていくところに臨機応変のお取次が出来る。今思うていた、今見ていた、それと関連するお届けといった内容で。一瞬一瞬を大切にしていく執念を燃やすこと。S57・6・17

「真の信心をする氏子が少ない」とはどういうことか。真の信心以外の信心とは即ち乞食信心。これは信者だけではない。おかげが欲しい欲しいの乞食信者。信者が欲しい欲しいの乞食教師。真実のことが分かっても、行じないなら、乞食でもない真でもない、中ぶらりんの虻蜂取らずのことになる。S57・6・18

「合楽と○○教会の扇子の要がつながっているところ」を頂く。○○教会の初代は天地金乃神様を大きく頂いておられる。これが合楽と肝心要が合うている所と思う。窮屈な神様にするか、大きな神様にするか。S57・6・19

平静心。それは神様が私を中心にして働いて下さるこの成り行きであり、「馬鹿と阿呆になれる修行」なのだからという確信。信心の確立とはそこ。S57・6・28

○○教会の信者さんの娘。嫁に行って十五年。ここ十三年間主人に二号さん出来ていて、もう別れると言う娘さんに、金光様はこう言われるから辛抱せい辛抱せいで、とうとう娘さんが気が触れ出した。「教え」が手かせ足かせで押さえつけるではいけぬ。本当に助からなければ。S57・7・2

神様の御演出を全うする。全身全霊を神様に捧げているのだから、神様からどういう役に使われようが、善役悪役に使われようとても、文句は出んはず。不平はない。どういう役にもつかせて頂き、その時その役に成りきって演技すること。S57・7・6

(今夏は雨が降らず水不足)四時の御祈念の頃からおしめり。おしめりを心からお礼申し上げていたら、「高ぼくりの下駄をはいて歩いているのが雨泥で歩きにくいことないか」というような情景を頂いた。お願いしておかげを頂いた。けれど、待ちに待ちのぞんだおしめりのおかげでころぶかもしれん。おしめりで困る人もある。だからその困る人のことを願えと頂いた。天地日月の心とはそういう行き届いた心と思う。(翌日○○さんより電話。雨で車がスリップして事故になるところが、おかげで無事だったと)57・7・7

○○さんが御祈念中に頂いておられるのに、「教祖生神金光大神、大坪生神金光大神、一体云々」と頂いておられる。S57・7・15

人から憧れられるようになったら間違った信心はできない。S57・7・15

夏期信行にあたって頂いたことに「信心のしつけ」と。着物にしつけをするように。S57・7・20

理屈に合った表現をすると力が失われたものとなる。S57・7・21

一切が神愛と言えるから神様の御都合と言えるのである。過去金光教が言うてきた、ただ御都合ですよと言うのは、どういう御都合かと聞きたくなる。S57・7・26

金光教で言う安心。それは、こんな事までこういう些細な所まで神様の働きがあっておることの実感が、積もりに積もっていくこと。S57・7・27

大きな心の裏付けに、神様を信ずるが故の、がいる。ただよかよかならドライになる。S57・8・11

金光教祖の辿られた道は、前人未到なんです。教祖の教えの前には、いかなる宗祖教祖もかたなしです。前代未聞であることを分からねばなりません。その道をお互いは歩いているんだ。過去の宗教家の追従をまったく許さない所を歩き、体験し、人々にその前人未到さを説いていける信心を頂いていかねばならない。厳密に言うと、未踏ではない。未到ということ。S57・9・1

「寂しさも おかげのうちなり 秋紅葉」。寂しさをしみじみと有り難く頂いていくことが、つぎのおかげにつながる。S57・9・4 神愛会

誰も、ほめられて気色悪くは思わない。けれども、そこで調子に乗ることになってはいけない。そういう時ほど心を引き締めていかねば。人から悪く言われたり、笑われたりする時は、阿呆のように笑っておってよいけれども。S57・9・6

貫かねばならないところは貫かねば。後から思って、ほんとに貫いていてよかったと思うです。貫けなかったことを思ったら、歯が欠けたようにあるです。辛抱していてよかった、その有難さが積もりに積もって辛抱の徳になるのです。S57・9・7

神様から許される、許されないということについて。不思議なことですが、自分の心に引っかかることがない内は、神様も心にかけられない。けれども、裏をかくようなことであったら、ついには神様にかかる。また、これを誘うような心の引っ掛かりも、積もり積もって出て来る。S57・9・7

問題を問題としない生き方とは、辛抱力の上に立ってのこと。それでなければ、ただのいいかげんになる。S57・9・7

一度、神様の信用を落とすと、元の信用にまで戻るまでたいへん骨が折れる。落とすまでは、神様もいろいろと催しがあり、暇もかかるが。S57・9・7

「自分本位の信心から、神様本位の信心へ」と教導する教導者自身が、もうひとつ上の信心が出来ておらねばならない。S57・9・9

縁談は心のつりあい。「つりあわざるは不縁の元」というのは、お道の信心をしている限りウソ。そこに好き好かれる間となっておればよい。本人達の心が一番大切ということです。S57・9・9

合楽の流儀。足ろうた信心だから、足ろうたおかげを受けておるのではない。本当からより真実(ほんとう)を求めて一段一段近づき進んでいるところに、出来てなくても出来たかのようにしておかげを受けているということ。だから、いつも、より真実のことをと願っておかないと、神様からの「愛のささやき」が聞こえない。どんなにささいな不祥事であっても、不祥事と気づいたら、より真実のことへ改まっていく姿勢。これが、うちの流儀です。そういう意欲をもっておると、神様が必ず出来なくても出来たかのようにおかげを下さり続けるです。S57・9・11

心を自由自在につかうというよりも、自ずとそう思えてくること。S57・9・30

「合楽理念の根本は健全な心」S57・10


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