研修資料 4 (S55・1・1〜S55・12・27)

今朝から、神様から合楽理念について「写楽」と頂いた。写楽の絵はその時代にはあまり受けなかった。先に西洋の評価を受けて後に国内で認められた。合楽理念は助かりの理念。そして写楽の絵のようだ。海外から評価を先に受ける。S55・1・1元日祭

勤め時間なら勤め時間だけはきちっとすること。新聞少年でも朝早く出て来る。ましてお道の教師は。問題をどれだけ真剣に取組んでいるか、大切にしておるか。神の綱をただ握っとりますじゃいけん。たぐりたぐりして力がつく。布教に出るということでも、いつでも布教に出れますという生々とした信心でなければ。ちょっとしたことにでも心生々として取り組んでおると人の目にも止まるように、神様に目にとまらんはずない。相撲取りが取り組んでいないということに気付いて各々取り組まねば。S55・1・3

苦労と感じんですむ心の状態を頂いてないから、求めて苦をしとるようなもの。S55・1・5

どんなに修行を求めておるといっても、合楽のバスに乗せてもろうているのだから楽。だから自分から求めて楽をするなんて夢にも思いませんというぐらいの心がいる。普通の人の言う面白みとかは置いてしまわねば。有り難いで一日を締めくくれるような一日でなければならない。S54・1・5

心一新一心せねば本当の修行は合楽では出来ない。誘惑に負けん一心。合楽は清濁が同居しておるから。まずはここでの勤務状態。きちっとせねば。S55・1・5

「ねはんねんごろ」と頂く。ひらがなはみやすいの意。清濁一如の精神。S55・1・6

マンネリ化してはいけない。癖になっとるだけではね。みずみずしい信心の喜びが底に流れておらねば。S55・1・6

今朝から「耳納山のような山から曲がりくねった道を下りる。汽車の線路がそこまで見えておるがなかなか着かん。その途中は、洞穴生活の人間の様相のところを通って行く」というのを三回続けてお夢頂く。お徳の汽車に乗るまでが、「病気をしたらすぐに薬、争いがあるとあの人のせいで」といったことでは合楽理念は分からない。自然に委ね任せていく。自然に委ね任せての働きを体験せねば。そこまでがひまがかかる。その間を驚きと喜びで通って行く。そんなにみやすい有り難い楽しいものではない。心配はないという徳を受けるまでは通る所を通るでなければ。そこを「神様にはおそれいってしまう」で通って、食べさせずにはおかん、生かさずにはおかんという働きが始まる。S55・1・6

神様が金光教は「宗教以前の宗教」と言われるが、それは原始宗教ということではない。言ってみればモダンな原始宗教。S55・1・6

「水天一色風月無辺」空の青と水の青が一つになっているということでしょう。無限に自然に溶け込んでいく。S55・1・9

信心による道は道徳の道とは違う。一致するところもあるが、全然違うこともある。天地の法則に沿う生き方だから。S55・1・9

本当に「御」の字がつけられる信心。それを焦点としての辛抱でなければ。S55・1・12

開けてみれば愛、開けてみんでも愛。S55・1・13

悟り。悟りすまして涼しい顔の仏教的悟りは諦観。「あきらめ」ということ。悟ったところにはもうおかげの世界に住んでいる、ということでなければならない。開けてみても開けてみんでも愛だという悟りは、もっと輝ける世界に突入する悟り。S55・1・21

改まる喜びの体験をせねば。やっぱり翻然としての改まり。為にはどうでも信心が好きにならねば。S55・1・21

信心の白熱化。真っ赤に燃えるそのもうひとつ先のもの。そこには燃えているやら燃えていないやら分からんということになる。信心に皆がならないのも私の責任だという心の時は、赤々と燃えている時。そこから白熱化していって、燃えているやら燃えておらんやら分からないも同然という世界がある。S55・1・22

神様に詫びるからには、いっちごするめの内容が充分入っておるものであってお詫びが通る。(いっちごするめ・・・「一生しません」の意。)S55・1・21

神心の中には、神様を信じて疑わない内容がなければならない。S55・1・24

拝んだが最後、自分の我は抜かねば。つまり無条件。「於我無(おがむ)」。我を無くすることに於いて。S55・1・30

万事万端の上にお繰り合わせを頂くのだから、真心を自然と擁した信心となれているように思う。合楽の信者さんは。S55・1・30

「天地自然の働きと人間」調和の中に御都合お繰り合わせが頂けれる生活。天地のように生きる修行の生き方を頂いていく事こそ、天地との調和となろう。「流れる川のように」今日も一日リズムに乗りに乗っての一日であったと。S55・1・31

楽しうして有り難い修行でなからねば。深刻になって難儀に打ち込む人もある。S55・2・2

教会に老大夫の軸画(紫の教衣のような服を来た人物画像)があるが、月次祭に間に合うように紫の教衣を京都に頼んで帰って来たら、丁度、○○さんのおばあちゃんから軸のお供えがあったのがその軸画だった。S55・2・4

「経(みち)」と神様から頂く。神も助かり人も立ち行きと。自分も助かり人も助かりになる道を辿らせて頂いているのですから、神様がいよいよ助かられる道を確実に辿っていることにならねばならない。その過程が経(みち)。神仏が示現したもう御用に専念する。神様も示現に専念される。そういう在り方です。S55・2・6

何とか生々とした心の工夫をして、練り出しもさせて頂いて、私どもの願いをそこに置いて、神様の願いと私どもの願いが一つになる時、火花が散るような体験もさせて頂くことになる。S55・2・6

三味線の調子に、本調子、二上がり、三下がり、とある。信心の調子もそう。それが一体となって神の喜びであり、人間らしい生き方もそこにある。それを、いつも本調子でなければ、と思うから清く貧しくになる。つまり、いつも本調子でということが実際できんから悔やんで貧しうなるということ。S55・2・9

「喜びで開けた道だから、喜びでは苦労させん」と。教祖はそこを純朴に説かれ行じてこられた。合楽はそれを、喜ばにゃ馬鹿らしい、こうすれば喜べるといったことを教える。S55・2・9

助かるための教典。合楽教典が要る。S55・2・9

商売下手と言われるぐらい信心上手でありたい。店長でありながら店に行けん、社長でありながら会社に行けん、いや行かんですむ力を徳を頂いとると。神様の働きが本当に起こってくれば、人力では及びもつかんことになる。商売のやり方を上手になろうではなく、いよいよ信心上手になっていくこと。商売繁盛をお願いしておかげ頂いただけでは栄枯盛衰になる。信心に見合うたおかげでなくてはならないということ。S55・2・15富久会

頼んでおかげでなく、ついて来ておかげ。(神に頼んでのおかげよりも、自分の信心に自ずとついて来るおかげが本当のおかげ。)S55・2・17

難儀な時に心を開いておかんと、次の難儀もやはり難儀と感じてしまう。おかげを頂いて治ったでは力を頂くことはどうするか。「難儀はないという見地に立っての、修行として受ける」に修行成就ということになる。S55・2・20

難儀を不動の心で頂けば極楽。そこから神様に答える合楽世界を目指す。凄まじい神様の働きも起きて来よう。S55・2・21

「神に向かう楽しみ」と頂く。そういう精進をしておけということ。S55・2・21

「死んだ気で励め努めよ徳もつく道も開ける人も助かる」。昔、信者時代に神様から頂いたお言葉。福岡から借金の断りに久留米へ毎回行っていた時、今度ばっかりは断る理由が見つからん。今日は行かずに、甘木か本郷の教会に御参りをして帰りたいと神様にお願いをしたら、神様が「本郷に行け」と。しかし途中で道が分からんようになって池に出る行き止まりの道に出た。そこでもう一度お願いをした時に頂いた歌。死んだ気になって横着なような心となって、どうせ命までは取りゃすめえという心持ちになってということでもある。S55・2・21

合楽理念をもってすれば、ノストラダムスの大予言も天中殺も関係ない。天地が自由になるという世界。S55・2・21

大道無門。大道に門なし。合楽道は大道無門。S55・2・27

天地の真理法則に添うだけで願わんでも頼まんでも幸せが足ろうていくと言うだけではぴったり来ん。氏子幸せにせずにはおかん天地の働き神様の願いがあるから、ということを入れんと一般には分からん。(まとめに対し)55・2・27

「『はい』の一言は我れ死するも同じ事」と○○先生が頂いている。「はい」がいかに命懸けでなければならんかということ。このことは「はい」だが、このことは「はい」で受けられんではいけないということ。S55・3・5

心根に魅力のある教師にならねば。ファンができるほどの。S55・3・5

御神米と同様、信心のおうつりを返しておかにゃ。思うようにならなかった時のお届けに対し「お供えを包んだ風呂敷は返してないところ」を頂く。一生懸命の祈念・お取次の姿を見れば、右左はどうでもよい気がするという感じを信者に持たせる程の常日頃の信心のお返しをしとかねば。S55・3・6

お粗末だ、御無礼だ、と感じたらお詫びだけでなくお詫びのための一修行が出来ると、心にひっかからずに平静心、瑞々しい心がうまれる。S55・3・12

「誰に見しょとて」(誰かに見せよう、認められよう)がない。神様と私だけの世界に徹する、広げる。S55・3・14

教会だけは日勝り月勝り年勝りになっておる。只事ではない。いよいよ神様が世に出たいと思うておられることを感じる。過去の宗教では助かりようが無かったという事。ここに助かりの元となる合楽理念と充実した信心生活と内容が表されていっておる。合楽発展の比礼の内容を明らかにする。S55・3・16

過去の信心ではおかげは受けておるがお徳は受けてない。徳を受けねば海外布教とか出来るものではない。誤魔化しでは徳は受けられん。心に受け止めるもの。いかに形は素晴らしくとも心の内容が伴わないなら徳は受けれない。S55・3・16

身も心もあなたのものということにならねば。ある修行生のことを願っていたら、「浦島太郎が、亀にも乗りえず自分で海にも入っていけず、心迷うているところ」を頂く。腰掛は嫌だよ。身も心も任せてそこから手にも足にもならせて頂こうという一念を燃やす。喜び合うた世界から神願にこたえ奉る次の世界への飛躍が求められる。S55・3・17

神願にこたえたいとの願いは持ちながら、その都度その都度の日頃の問題の中で、神様と交流も出来ず、喜びの世界にも住めず、それでお役に立ちたいと願ったところで、役には立たんということ。S55・3・17

教えを行じることの楽しさ有り難さを皆がめんどくさがっとるようです。苦しい時にはすがってお願いせんならんという頂きかたが日本人の風習のようです。そういう意味では下から上へ流すが如く難しいことになる。S55・3・17合楽会

人情的同情的にするから人の輪が広がっていく、とは根本的に違う神情教。人から笑われても神様から笑われちゃならんという生き方だからひまがいるけれども、それでなければ神様の本当の働きが現れることにならん。S55・3・17合楽会

少年少女会の大会テーマお伺いに対して、「苦楽を共に」と頂いた。苦しいと思うそのことを大切にさせて頂く。修行させようという働きがいつもあっておる。構えをつくっとかんといけない。修行生の○○先生が、ご心眼に頂いておるのに「口にむりやり南瓜(カボチャ)を入れられるところ」と。この辺では、カボチャのことをボウブラと言う。「馬鹿」という意味。無理にでも馬鹿と阿呆にならせようとしてある。修行をさせようとしてある。楽しいばっかりではない、苦楽を共に一緒に頂きぬくことが修行になる。S55・3・18

福岡愛宕山時代、十二時から愛宕山停留所側から御参りして、一生懸命に御祈念していたつもりが気が付いたら真後ろを向いていた。どんなに眠たくても御神前に出たらピリッとするような神様を頂きたい。レールの中で御祈念しとるつもりで。S55・3・19

成就しない時ほどそのお届けに対して真から御都合とお礼の言えれる心。それが出来んとならん。S55・3・20

言うて聞かせては信心の形骸化。S55・4・19

人が見て助かるような修行生部屋。S55・4・19

難儀と言いよるのを即おかげと受けられる信心。ころっと受けられる内容をつくらねばならん。S55・4・24

「願う氏子におかげを授け理解申して聞かせ」の理解(教え)が、力を徳を受ける理解しかないのは合楽の独壇場。S55・4・25

修行生皆が海外布教を志すと聞いて、神様に有り難いことだとお礼申していたら、「弓は立派、矢は短い、これでは翔ばん」という意味のことを頂く。満月のように引き絞れる為に矢が長いものでなければならん。それには、矢もたてもたまらんほどの熱願が信心の上に表れてこねば。矢の如くという一途な願いを貫かせて頂かねばならん。S55・4・25

栄城(栄える城)のために、打ち込んでも打ち込んでも打ち込みがいがないような時でも打ち込んでおかねば。(布教に出て城を築くことになる)55・4・26

大願の為、大修行は当たり前。S55・4・26

一切が神愛と分かる時が常持。そこから矢もたてもたまらんという心はやる大願を立てての修行に合楽の世界。S55・5・4

取次者は爪の長いことを言うな。欲を放せということ。S55・5・5壮年部会

死活自在の神様。がつんとやっといて、しゅーんとさせといて、そしてそれを生かしなさる。人の心を殺したり生かしたり自在。そしてそういう上げたり下げたりして育てていきなさる。S55・5・5壮年部会

平櫛田中翁が「忍ということは万徳の基」と書いている。辛抱ということは全てにそう。合楽理念に基づいたらそんなに辛抱せんでいいかというとそれは違う。S55・5・5壮年部会

表行(苦行)をしている時は不思議に周囲に腹立たしいものを感じていた。表行は、「わしが、わしが」になってしまう傾向がある。S55・5・5壮年部会

北京時代。中国は文字の国。家一軒一軒が高い塀と厚いドアがあり、縁を黒色中を朱で素晴らしい書体で塀に字が書いてある。「積善の家に余慶あり」とか「君子自重」とか。「君子自重」は塀に向かって小便かけるのに呼び掛ける言葉。「積善の・・」は、類は類で集まるようにと。この程度でしょう、平櫛田中さんの言葉も。「和なれば天下泰平」「忍は万徳の基」とか。積善の家に余慶あろうが、信心による御神徳でなければ、あの世にも持っていけこの世にも残して置けるものにならん。けれども御神徳もやはり和がいるのであり、忍がいるということ。S55・5・6

見易いようで難しい。心行ひとつだから。御祈念でもいい加減にするようではね。表行をするぐらいの決意をもって心行する。心に頂き続けておかねば。誤魔化そうと思えば誤魔化される。そういう中に忍という字をもって取り組んでいく。S55・5・6

信者はお参りなくても、楽しう嬉しうなれるリズム働きいっぱいあっている。S55・5・6

生活がかかっておるということがかなぐり捨てられて、両手をあげる。修行生はすぐ出来ること。S55・5・6

「まいっちょ食べよ」が「我」。そして翌日は腹をこわす。S55・5・6

人を頼まない。神様を杖につけば間違いがない。人が頼りにならんとは思わないが、ただすがり頼むのは神様御一方ということ。S55・5・7

おかげを受ける前には、それの妨げとなる働きがある。お参りならお参りしてはいけないのではという働きがある。そこを押してでも参るところにおかげになる。そこんところで妥協したり、そこんところで回り右したり、挫折する。信心に度胸がいるのはそこんところ。S55・5・7

「先生」と言わねばおれん「先生」は神格。皆が何時とはなしにつけていった信者さんの「先生」55・5・7

私が頂いているところをそのまま頂けれるようにならねばいかん。いつもこちらがにゃんにゃん(噛み砕いて)して食べさせよる。テクニックというならそこが取次のテクニックではあるけれども。S55・5・7

師匠の受け売りではなく、自分自身が分かって血肉になって、それでもこう師匠は言われた、と言う方がよいようです。S55・5・7

合楽から布教ひとつ出るにも他教会から悪う言われたり冷たいあしらいを受けたりと、様々な障害がある。そのことに対し、神様から「ひとりでにものができることのために」と頂いた。S55・5・7

信心の錯覚。「嫌いな人を自転車に乗せてよろよろしている」お夢。信心が高められておらねば、人を乗せるというても、「即、行じる、有り難く頂く」と言っても出来るものではない。自分の信心を錯覚しないように。S55・5・8

運命の岐路には神様の大音声がある。S55・5・8

素直に喜ぶ。テレビで野球選手がインタビューに答えて「素直に喜べん」と言っていた。おかげをおかげと感じきらん。素直に喜ぶということ。あちらは馬鹿んごと喜びなさると言われるぐらいの、喜び上手でありたい。S55・5・9

分かったら、やはり心だけれども、体でものいわさねば。心ひとつで分かったら、体で表すということ。辛抱力を養うていくことだ。分かったところを実行に移していくだけの、己に勝っていく克己心がなからねば、お徳は受けられん。自分の身を慎むでも、窮屈な中に広い大きな味わいが分かってくる信心でなからねば。S55・5・9

落ち込んでからの迫力。素手では上がらんという根性。S55・5・9

節。そこを合楽理念をもってすれば楽。それを楽にせずに、そこから折れたりひしがれたりしていっておる人がほとんど。S55・5・9

おかげの頂き過ぎや誇張がおしめり(雨)につながっとる雰囲気も感じる。S55・5・9

ふかぶかと改まって、お礼をする、お詫びをする。形の上に改まって心を改まったものとする。それであってはじめて神様と通う、お詫びが許される、お礼が届く。S55・5・9

神様をないがしろにするから闇の心、闇の世。S55・5・9

頭で分かり心で頂き体で行じる。S55・5・9

自然に生き、自然に還る。その道中とても自然な生き方。そう、道を化していかねばならない。教祖に帰れとはそういうこと。度胸がいるです。超常識の世界。S55・5・10

なるほど人情より神情の方が、常識より超常識の方が素晴らしい、得だ、本当だという実験実証をさせて頂いておかねば力にはならない。S55・5・10

今は神情一本の時。コントロールは神情を芯にして。修行生は。S55・5・10

十三日会の発展が合楽の発展につながる。S55・5・13十三日会

一切が修行と分かり行じてはじめて一切が神愛と分かる。S55・5・13十三日会

無言実行実証。実証が伴うて本当の無言実証。S55・5・26

「白の藤の花」。藤の花は下へ下へと花を咲かせる。つまり、お詫びお詫びの謙虚さではおかげにならない。その姿は素晴らしいが、同じ「ふじ」でも富士の山を目指すぐらいの大願がいる。S55・5・28竹葉会

まず隣のことを祈れ。天下国家のことを祈るよりも。S55・5・31月末御礼信話会

一番の目的は生神を目指すこと。為の様々のお取り払いの、お鍛えの、修行が起こってくる。それを、おかげ(御利益)を焦点とするところに信心が難しいものになってくる。S55・6・1

感情でかっかしとる時にはもの言うちゃならん。必ず自他共に助からんことになる。いかに寛大な豊かな心でないといけないか。腹立ちまぎれの時なんか絶対ものいうてはならん、ね。S55・6・2

度胸ひとつ。大安心でなければ道がひらけんということなし。○○先生の布教は、勇猛心というか、信心の度胸のごたる。S55・6・2

神様の仰せには背かれんという生き方が真。S55・6・4

確信の生活、それが安心の生活となる。S55・6・4

「パンの極楽、お米の合楽」○○先生が頂いている。S55・6・4

自信のある人はおかげを受けない。人間心が強うなるから。自信喪失して初めて無限の神力にすがるということになる。S55・6・10

先んだってからの修行生のことのお知らせの弓に対し矢が短い事に対して、「そこを詫びていけ。そこを御取次にすがれ」と頂いたから。S55・6・10

御取次を頂いておかげを頂く、から、教え行じておかげ頂くということにならねば。御取次を願い、御取次を頂く、神様の願いを伝える、氏子がそれを守って頂いたおかげが本当のおかげで、それが積もりに積もってお徳になる。S55・6・16

本当なもの。それは、小さな、ささやかなところに表れる。こんど合楽教会と印刷入りのスリッパのお供えがあったが、丁度十五日の教区見学で礼拝棟入口の見学者へのスリッパとして使わせて頂いた。まったく神様のあつらえだった。S55・6・17

地の心によって受物をつくり、天の心によって清められ、日月の心で神様の心をキャッチしていく。S55・6・17

おかげの実感。きわだったままになるおかげ。我無力を心底から悟るところから。S55・6・17

神様のおかげで今日一日立ち行っていることを分からねば。そこから受けものを大きくしていく精進、清めていく精進。その信心意欲が出てこねば。S55・6・17

その日暮らし的でも、天地とつながっていると実感されると次の信心が楽しみになってくる。又、神恩報謝の念も強うなる。S55・6・17

信徒の○○さんが、かつて自動車にひかれた時、その車を運転していた者も怪我をしたらしいが、その人に、先に見舞いの果物を送ったと言う。普通なら、その神経が分からん。けれども神様はそういう人を好いておられる。S55・6・19

薫り、粘り、味わい・・納豆。愉快なまでに高めていく味わいと、何となく人柄の上に徳の薫り、そして粘り。S55・6・19

ある人が布教に出ている○○先生のお夢を頂いている。「○○先生が飛行機に乗っている。阿蘇山の上空で気流に巻かれて墜落死。お棺に入って合楽に帰って来る。生きてはいるが口がきけない」と。それを聞いて神様にお願いをしていたら「大願を立てているなら身を慎め」と頂いた。また、「勧進帳の弁慶富樫の問答の場面で、弁慶が、俺が通れんはずはない、けやぶっても通るぞと言っている」情景をを頂く。慎みということ。我れ生神の自覚の反面、我れ無学の百姓の自覚に立たれたのが教祖。それで、どういう心掛けにならせて頂いたら、とお伺いしたら、「○○先生が下をうつむいて、その形がきまっているところ」を頂く。下うつむくとは自分の足元を見る、自分を見極めるということ。そこに、これほどするのにという心は湧くはずもない。神様のおかげでさして頂いているということになる。両面が育たねば。辞を低うした生き方におかげが集まる。S55・6・21

電気の点けっぱなし、修行者として神様を取り外している時。といって、床の間とか点ける時は点ける。必要ない時は点けん。そして、そこに点いときゃ気になって気になってというのが、いつも神様を心にかけるということである。S55・6・24

物を軽う見たらおかげはなし。S55・6・24

軽う見る。人によって自分の心を使いわける。これではいけない。清も濁もないはず。能力、知力、徳、なにものにも惑わされず、軽う見ない。物でも事柄でも御の字をつけて、すべての人を大切に、の心掛けが要る。S55・6・24

一口で言い切れるような、一口で感じさせるような、言葉の言えれるように。S55・6・24

脇から見ておかしくても、その人が真心なら木の葉一枚でも真心。S55・6・27

薪で炊いてままになる、から、合楽は電気炊飯器でままになりよる。天地の発動を頂いて。真心ひとつから助かって来た今までの金光教から、天地と直結したスイッチひとつで助かる世界が合楽世界。かといって、内容には真木で炊く内容もある。S55・6・27

スイッチ、プラグの差し込みは、地なら地の心を貫いた所にある。S55・6・28

大きな願いに小さな心使い。S55・6・28

親鸞上人も「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとえに親鸞一人がためなりけり」と言っている。自分一人のために神様がおられるということ。S55・7・2

素人じゃビールのレッテル向こうむいとったら銘柄は分からん。本当に味の聞き分けの出来る人でないと。おかげもまたそう。おかげをおかげと実感する。しかし合楽のこれだけの働きの中におったら分かるはず。S55・7・4

くやむ心におかげはなし。S55・7・5

おかげの実感が実意に表される時、おかげの実感と言えれる、見れれる。S55・7・10

虫がつくと伸びない、縮む。太らんと思うたら虫がついとったと。信心が伸び悩んだら虫がついていると思うて二代三代が気付く限り合楽は伸びて行こう。S55・7・18

感じなければね。天地との調和というても、調和だけじゃ生みなされん。交流がなされねば。神の願いが氏子の上に成り、氏子の願いが神願成就となるように。そこに交流ということになる。お互い、そういう情感を通わさねばおかげにならない。S55・7・25婦人幹部研修会

信者と取次者の仲がようなればよいということではない。そこに神様が一枚加わらねばならんということ。S55・7・26

極楽な上にも極楽な世界。そこに罪悪感があってはならんのだ。頂く。有り難く頂く。S55・7・29

神様が一番お嫌いなさるのは、人の心を傷つける人。ブスッと怪我させる人。S55・7・29

魅力ある教師と。どこがそうか。力を受ける。力にやはり魅せられるのでは。S55・8・5

布教に出たらすぐに大向こうから拍手のおこるような、又、これさえ持てば大丈夫という、はやりにはやり確信にも確信でける信心を充分練っておくように。S55・8・5

眠たいから寝る、でなく、さあここが辛抱のしどころと辛抱させて頂くところに不思議なお繰り合わせがあって力となる。そういう体験を積み重ねた上にも重ねていかねば。S55・8・5

お道の教師はいよいよ自分の体であって自分の体ではない。蚤にも食わせんごと大事にせねば。S55・8・5

神様には勝てぬと、要はそういう力を受けるのが、取次者の目指さねばならぬことではなかろうか。S55・8・5

(久留米市長から天気のお願いがあっていた、久留米市主催の「水の祭典」の時に雨が止んだことに関し、親先生の絶対信を感じた、との司会者の言に対し)私の外出時には雨が止むよう神様と約束が出来ているが、しかし、それを信じての絶対信ではない。私の場合、雨が降ろうが降るまいが、困ろうが困るまいが、それを合掌して受けたところには必ず素晴らしいものが生まれるという信、絶対信ということです。S55・8・5

忠義の弁慶を富樫が通すようなのが今までの合楽だったようだ。しかし寝ながら煙草盆を足で引き寄せるようなことではいけん。これだけはきつかっても日々成就させねばという当然の修行あっての、その上での合楽理念のマスターということ。S55・8・7

限り無く詫びていったらちゃんと助からんごとなったというのは自殺行為。なぜなら助かろうとせんから。自殺した霊が助かりがたいというのは、やはり自分の心で自分を殺したということだからだろう。S55・8・10

お詫びに徹するは本当じゃない。お礼を申し上げるところにお詫びしている。神様に通うてもおかげにはならんことになる。○○教会の先生、墓前祭時に雨。「今日は御広前から拝ませて頂いた。おかげで足を汚さんですみました。」とお礼を申された。お祭に雨と、普通なら自分の不徳を詫びるところ。そこを有り難いで受けとられる。S55・8・10

その人がおかげをおかげと感じきらん、と。人じゃない。感じきらせない私だと、そのことによって取り組む。そこに助からんでも踏み台にするばい。助かっても踏み台にしていくばい。(取次者の姿勢)55・8・10

雨の日、風の日、照りの日、その時点で有り難しを言えれる。信心が進んでおらんと有り難うはなれない。自分中心の有り難さから神様中心の有り難さに深める。S55・8・17

信心とは結局心の使い方。椛目のあの小さな庭に大きな石が三つも入っているが、ただ積み上げただけではどうにもならんが、約束に基づいて入れてあるから何とも言えず素晴らしい。石とは意志。心の使い方一つで見苦しかったり、素晴らしかったりということになる。S55・8・18

人が本気になれない事に(大小含めて)本気になられる○○先生。S55・8・19

子供の頃から、穀物を大切にと、祖母からしっかり言われていたから、自転車を降りてでも拾いよった。運動会の時、線引きに使う石灰くずを米と思うて拾い、運動服にポケットがなかったから、口に入れたらびっくりしたことがある。しかしそれでもこりなかった。信心にはそれがいる。理不尽というところを通らせられても、それに懲りずについてくるところに神様が認めなさることになる。S55・8・19

改まっての、お詫びでなければならん。S55・8・20

シ+勇=湧。せっかく勇めば湧くようなおかげに成るところに、いつも蓋をしているように思う。S55・8・20

願ったら願い捨てて、あとは神様にお任せする。S55・8・20

障子一重がままにならぬことが分かっての信心には、障子一重の向こうのことがままになる。S55・8・20

親奥様のおかげで、という婦人。だいぶ前だが、その婦人が下の病で、着物が汚れているのを家内が見、洗濯してあげた。その人それ以来その病気が治った。家内のその間の祈り感じる。家内の底光りする信心。陰で人を助けるとはこういう事。S55・8・31

成り行きを合掌して受けるとは、その事を通して、又、信心を一段と進めていくということだよね。S55・8・31

合楽教会に満ちる奇跡、そういう事だけでなく、御飯がおいしう頂けているのが奇跡。そういう不思議を日々感じて心からのお礼がでてこねば。不平不足を言う暇がないほどのおかげをおかげと実感していく。S55・9・1

私が大黒様に似ていると言って、大黒様を祭る人があるが、それは、打ち出の小槌を頂く力を信心を頂けということ。S55・9・1

山登りの支度をする喜びいっぱい、楽しさいっぱい、という身ごしらえが月始めになければね。ただ出たとこ勝負ではなく。S55・9・1

親に安心してもらえるのが先決。親思う心に勝る親心なのだから。まずは天地日月の心になる信心の深まりこそ願え。神様の安心が私の心に照り返る。S55・9・2

「依りて整う」と頂く。合楽理念に依りて物事成就し、徳が、力が、整う。S55・9・5

神様のテクニック。真に有り難い時は、思わず「有り難い」と口に出る。次には自ずと行動せずにはおれないことになる。そういう働きかけがいつもあっておる。感じる。そしてこちらが動く。そこに交流ということになる。これが神様のテクニック。神様の働きを感じずして交流を言うは理論に過ぎない。こういう日日を締めくくってはじめて本当のお礼が出る。そうしたものが合楽には数多くある。私が神様のテクニックにはまってうっとりと御用している時なんかそう。S55・9・6

合楽理念に基づいて、どうかして神様の心を分かりたい、知りたいと、精進する。そこには神様がいよいよテクニックを駆使して迫ってこられる。「立田川むりに渡れば紅葉が散るし渡りゃな聞かれぬ鹿の声」。頂かなきゃ紅葉散らしただけになる。S55・9・6

お話を頂き生かす心、それがない方が悪いのか。話を頂かせて、おかげ頂いたと言うたり思わせたりする力が無い私が悪いのか。おかげを頂かすにそのテクニックがいるのでは。S55・9・7

もう絶望と云う時に、日頃いきいきとした信心が出来ておると、捨て身の信心が出来る。S55・9・7

きつい苦しい時には神様が交流を求めるテクニックを受けている時。それが悟れた時に元気が出る。S55・9・7

神様と私共の間柄。主従というより、親子というより、どこまでも夫婦愛のようなもの。そこに「生みなす信心」がはっきりと分かってくる。S55・9・7

伝えようとして伝わるものではなく、神様の働きを頂いてのことです。芯になる者のいよいよの信心が求められる。S55・9・9

神様のテクニックが生々と現れてこねば比礼ある教会ということにならん。今朝、西日本新聞に信者の○○さんが100歳の記事が載っていた。枝葉にまで親先生の言われること間違いないという事になろう。(今朝の御理解にその人の話が出る)これが神様のテクニック。S55・9・9

神の気感に適う氏子とは神様に安心して頂く氏子になるということ。S55・9・9

「砂かぶりの所は立たん」と頂く。相撲の土俵近くの砂かぶりの所は招待者が多い。名もなき遠くの大観衆が歓声をあげて席を立つ。S55・9・9

どうでも分からねばならないことは一切が神愛ということ。上から読んでも幸、下から読んでも幸と分かること。それは困った、これはどうしよう、ということがあっちゃならない。S55・9・10

事の大小を問わず、批判悪口は天地の働きに逆行する。S55・9・10

「傘に髭がはえている」ところを頂く。心臓に毛がはえている。安心に毛がはえている。これでは信心にならん。いくら神ながらというてもそこに良心がいる。人間らしさばかり求めては取り違える。S55・9・16

ある教会の先生、信者がお社を返してきたのにもやもやして、下駄箱がわりにしとられると。合楽理念をもってするなら、いくらなんでも下駄箱には出来ない。神棚には神棚の桧。風呂には風呂の桧。棚には棚の桧がある。S55・9・16

「人ながら」。人間の努力精進がいっぱい出来て、その先に神ながらの世界がある。いい加減にする所を人間らしさとか御事柄として頂くのは安心に毛がはえているようなもの。S55・9・19

風邪・目汁・鼻汁・出さねばならんから神様出して下さる。出るもの全てにお礼を申させて頂く。そこが分かった時に神に向かう我が心ということになる。S55・9・20

頼るはだらしない。任せるは潔い。S55・9・20

「神に会おうと思えば庭の口へ出てみよ。神と交流したいと思えば合楽理念を実験してみよ」だよ。S55・9・22

「あなたを思うて飲む酒は」より、差し向かいで飲む酒にならにゃ。神様との交流。S55・9・22

稽古の先に楽しい世界がある。S55・9・24

「ほうずきの色ずきもまれえぐられて末は夫婦になるわいな」55・9・28

浮世はなれて奥山の、恋もりんきも忘れていたが、鹿の鳴くこえ聞けば恋しうてならぬ。S55・9・28

霊の了解あっての再婚がほんとう。S55・10・1

天地が息をひそめなさるような感じだった。私の昔の御祈念。御祈念中にじゃんじゃん電話がかかってきたり人声がする時は、私の方がリズム狂うたなという頂き方は今もある。S55・10・1

合楽理念が皆にぼんやりとは浸透していっているが、明確に行じている者は少ない。徹底していってるなら必ずおかげ受けとる。S55・10・1

御用一本では力とも徳ともならん。真の信心が分かってのものならなろうけれども。S55・10・1

人間心で御用、お供えを伝えていくようではいけない。またそれを喜ぶようではならん。自然の働きに便乗しての話でなければ自他共に助からん。S55・10・1

自分の心が合掌出来る心がたまには出てこにゃ、取次者は。S55・10・4

小さき物の中にいかに御粗末になっとることがあろうか。目が荒い。どこで御無礼があっておるかわからん。水ももらさん生き方。S55・10・8

合楽理念の真価が教団の目に止まり、合楽理念に基づく教団の動き活発にということにならねば。S55・10・8

平静心、一年中色を変えぬ松。S55・10・10

生花を活けるには器が大切。それを置く時のバックもまた重要、場所も考えねばならん。「心」という信心の器を創る嬉しさ、心に花を活ける楽しさ。成り行きを尊ぶ修行がみっちりと出来ておれば、自然のままの出来事から気付かんような小さい花にも似たものを配して奇麗にいけあげることが出来る。S55・10・10

めんどくさいと思うことに取り組まにゃ。ああせからしかということに実意をもって取り組まにゃ。S55・10・19

表行(苦行)は、これだけしておるからという安らぎも生まれよう。しかし、親を家の中に閉じ込めて外から鍵をかけてでも言うことを聞かせるようなもの、と神様はおっしゃる。S55・10・27

神様を信じきっての堂々たる御取次。好きでする芸道、好きでする精進。S55・10・27

一生が修行とは一日が修行。それの積み重ね。S55・10・27

よかよか主義は修行にならん。朝起きて顔洗わんでは修行じゃない。御飯を食べる、よかもんだけ、これは修行じゃない。手紙の返事出し遅れている、これは修行じゃない。そういう事を踏み行うていくのが実意。その気になれば出来ることである。S55・10・27

「鳥ならば飛んで行きたいあの屋の屋根に、木の実茅の実食べてでも、こがれて鳴く声聞かせたら、よもや嫌とは言われまい」。お役に立ちたい、立ちたいの一念。S55・10・28

大きな願いは大きな心でなければ願えん。S55・10・28

「和」だけは鉄筋コンクリート。中と外はスキだらけでもよい。どういう失敗の中にも神様を感じる。ゆるぎない和。S55・11・4

受け徳。受ける構えひとつで決まる。踊の振付師は役者には三回、芸者には五回、素人には手とり足とり教える。命を懸ける役者。顔ひとつで売れる手もある芸者。好きでやるいつでもやめる素人には手とり足とり。S55・11・4

楽を求めず。柿の木一本でもよい。目を楽しませてくれる物は我が周囲にあるものだけでよい。外に求めない。S55・11・11

人情を捨てたからそのまま神情ということではない。人情を捨てて、生神への精進に神情がついてくる。我と我が心を拝みたくなるような心を目指すということ。S55・11・12

本当は黙って頂かねばならん所を要領よくお届けお伺いして、そんなら一言言わねばならんの、というふうにお取次を頂く人がある。心の底に言いたいしたいがあるからお伺いになる。おかげの前後には必ず神様の働きがあるからこの難儀もおかげと頂けれるのです。本気で構えて御神意を正面から頂かねば。S55・11・12美登里会

この修行だけは貫いとります、神様が喜ばれることなら打ち込みます、といった内容もなく、神様が何とかして下さろうから、という程度の安心は、安心の傘を握っとるようで柄の下の空を握っとるようなもの。確信が確信にならん。S55・11・12美登里会

霊徳は神徳の前提だから大切にせねば。S55・11・15

「御司」御の字をつけるところにおかげを司ることになる。S55・11・15

店で言うなら店員丁稚小僧からたたきあげたのが初代社長なら、二代はそうはせんでもよかろうが、社長行だけはせねばならない。後々の者はみやすうおかげを受けさせるといっても寝たりころんだりしておってはできん。みやすうを間違えてはいけん。金光大神の後々の者である教師信者も、教師として当然の修行、信者として当然の修行が要るということ。S55・11・18

利害関係のあることは神様がおかげをやり難いようだ。利害関係のないことに、この神様はみやすうおかげを下さるようだ。S55・11・18

失敗をするのは大概同じ所だ。S55・11・18

なおく、ゆたかに、あかるく。S55・11・18

「評判が悪いのは、良くなる前提」とお知らせ。S55・11・19

家内中、勢をそろえた信心といっても、焦点が一つであること。願いが一つであること。しかもその願いが神願成就の願いであるような願い。金光大神の願い成就は「そちも助かりこちも助かり」と頂く。S55・11・21

神願成就の為の、願い、修行、満身の力をもってのものか。S55・11・21

「電信柱が長いのも、郵便ポストが赤いのも、みんな私が悪いから」が、椛目合楽を通して成長してきた合楽理念のルーツ。それによって研き、これによって改まるということ。S55・11・24

心の潤いこそ、しっとりとした心こそ、まずは何というても先決。S55・11・24

信心の節度。御祈念に遅れたら、ばーっと走ってくる、その内容。信心は気分でするものではない。S55・11・27

どういう難儀な中にあっても難儀と感じない心の使い方をすること。そこから神様を身近に感じる働きが受けられることになる。S55・11・27

心を変幻自在に有難い方へ使える稽古。S55・11・27

「小さい信心でよいから、修行でよいから、溢れるような」と頂く。そこに身近に神様が感じられてくるから。S55・11・27

合楽理念はそんなに難しいものだろうか、体得しがたいものだろうか、と思ったら「その気になったら誰でも受けられる。恋愛の心理が分かる者ならば誰でも理解できる」と頂く。S55・11・29

自然の中に溶けこんでいく。そこには、素晴らしい有り難いものばかり。溶けこんでいくことは、そのまま神様の働きを十全に活かすことになる。S55・12・2

酒飲んで騒ぐなら騒ぐで、二上がり、三下がりを合わせる。一本調子ではいけん。臨機応変に合わせていく。稽古するうちにいつのまにか合うていく。S55・12・2

「能の仕舞」を頂く。日々が神様への奉仕の生活。そこに天地との関わり合いが密になり、幽玄なまでの交流となる。結局、日々を空しうなる奉仕の心。S55・12・3

神ながらと言うが、合楽理念に基づくということだ。S55・12・3

神へ向かう修行。理不尽なまでの修行がある。神の世界にまで導いて下さることの過程、招待だと思う。有り難いと思えないところにまで有り難いと思うていく修行。そこんところをすっきりとして、人情を使わない。理不尽と思うような事こそ、有り難い、大きくなれるもとだ。この人からだけは悪く言われたくない、思われたくないというのは人情だ。そこをすっきりとせねば。S55・12・19

感謝の心には、お粗末にしてはならんという行いの裏付けが要る。S55・12・19

微妙な神様の働き。皆が研修に集まってくるのに、最初に入って来る人によって、いい研修、そうでもない研修と分かるような感じがする。お届け帳もそう。次の人の御理解が前の人の名前の中にあったりね。確かに参りよるのじゃない、神様から参らせて頂きよるとだよね。S55・12・27

「迷信」にころっとくる内容が、一切神愛とすきっとこんのだ。S55・12・27

「和風の徳」爽やかな風。家族の中に一人でもそういう人がいれば、家庭は和。そこにどんな木(気)が寄っていても、人が多くても。S55・12・27

原則となると難しいが、超原則となるとみやすうなる。そう難しう言わんでも、有り難うなりさえすりゃいいとだから、ですむ。S55・12・27

結局、自分を空しうしなければ身につかん。難しいのはそこだろう。自分の智恵、力を放して、からっぽになってからのもの。そこに修行がある。S55・12・27

あれもおかげ、これもおかげだったという、一切が神愛だったと感じての除夜祭なら素晴らしい内容となろう。朝日を拝む心より一段と高く夕日を拝む心。S55・12・27

「一生を捧げることは今日一日を捧げること」55・12・27


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