研修資料1 (S51・7・6〜S53・12・29)

成り行きを受けるということは、そのまま受けるのではなく、善処して受けるということ。そこに成行を願うということが要る。S51・7・6

ある人お夢を頂いているのに「大きな河があり、向こう岸に合楽教会がある。河は満面の水をたたえている。よし、泳いでも渡ってお参りしようと心に決めた時、水中に大きな岩が出現し、河幅いっぱいに広がり、歩いて参れた。また、途中に大きな岩が立ちふさがり、人ひとり通れるかどうかという隙間があいている。よし、体を細くしてでも通り抜けてやると決意した時、大岩は隙間から二つに大きく割れて教会への道を作った」とのこと。要は決心しだい。楽だが楽とならぬも決心がないため。S51・7・7

話を聞いて助かるから、話をして助かるへ。S51・7・7

御取次を頂く。それは手付けを打つようなもの。必ず変わった働きが起きてくる。この手付けを流さぬよう本人に信心が入用。S51・7・7

帰依するとは、良いところも悪いところも全て頂くということ。良いところだけ頂こうではいけない。S52・10・17

修行といったら、何かあられぬ行でもせねばならんか、といった思い込みをまずはなくさねばならない。S52・10・17

お互い一人一人が神定めの人という使命感に燃えるべきだ。S53・2・15

観念が邪魔になる。「雨が降るから御参りが少ない」これがすでに観念。S53・6・15

○○師のお話は純然たる宗教哲学。「見ること。見ること。自分を見ること」と言われているが、これは必ず行き詰まる。又は、人間とはこうしたもんだと、ドライになる。生きた手本を基にして、生きた教えの鏡に照らされての「自分を見ること」なら素晴らしい。S53・6・18・合楽会

(ある盗癖のある人の「ピストルを打つ音が三度したところを頂きました」の話に対し)仏の顔も三度までと言うことがある。再々お気付けを頂きながら改められない時は仏の顔も三度まで。気が付いて改まった時には、すでに手遅れ。神様が相手にされないという事がある。S53・6・18合楽会

今日も一日神様の御気感にかないますようにとの繰り返しの祈り。S53・6・24

一切が神愛、神願なのだから、一切が神様まかせ、右左はどうでもよいという白紙の境地が白楽の世界。そういう境地で他人のことが祈られる時に天地の御発動が始まり、組み合わさった歯車のように進展して神願成就の合楽世界になっていく。S53・6・27

神様に、こういう願いをしてもよいのかなあ、という願いがある時がある。そういう時は童心で願え。童心になって願え。童心には勝てんと神様は仰る。S53・7・7

困っている人を助けるというても、自分で自分の金をばらまいてはねずみ小僧と同じ事。やがて捕まる。自分の金ではない、神様のお金である。S53・7・8

「無技巧の技巧、即ち捨て身」(大阪講演に際し)53・7・8

人が助かり信者が育つことをもってお礼とし、朝から晩までの御用をもってお詫びの印しとする。お礼お詫びがそういうふうに切り替わってこねば。S53・7・9

『合楽教会大発展の御神願が御成就にあいなりますように。合楽教会信徒会長はじめ総代幹部信者信奉者一同の上に本日もどうぞ家業の行が心行をもって出来ますように。日参的教聴が出来ますように。その信心からどうぞ日勝り月勝りのおかげが頂かれますように、そのおかげをもって信心の真が表されますように。信心の真を表す功徳によって代勝りのおかげへ受け継がれ、貧争病のない真善美に輝くおかげの世界が着実に広げられて行きますように、どうぞお願い申し上げます。身も心も合楽教会に預けた修行生一人一人の上にかけられる神様の願いが御成就にあいなりますよう、修行成就修行成就御願い申し上げます。』(親先生の御祈念の一節)53・7・11御理解

助かりの原理が助かりの理念に基づいて把握できた時に安心の傘。S53.7.11

昨日の私と今日の私は違う。演出を加えても、そこに改まりが伴わなければ。S53・8・7

「ホロホロと鳴く山鳥の声聞けば父かとぞおもう母かとぞおもう」山鳥の鳴く声に人の姿を思い、一寸の虫に五分の魂を感じる。その豊かな情感をもって人の身の上のことを願うから、その人に信心がなくても、願うことをしない人であっても、鮮やかにおかげを受ける。S53・8・8

傘の柄を杖につく時もある。S53・8・9

信心の真を形に表して代勝り。S53・8・9

本気で信心を分かろうとすれば、神様が分からせよう、見せようとされる。S53・8・19

合楽教会での修行は朝起きでない横にならんでもない、成行です。くノ一修行です。S53・8・21

最低限神様と交流ができておくこと。目の粗さが交流したり交流しなかったりになる。目の詰まった信心。日月の精進なんかその気になればどれだけでも出来ていくのが合楽での貴方達。S53・8・21

こういう助かりを見たことなしの驚異、驚きが明らかにされている所からの情念。S53・8・21

親の信心の徳、親の素質を受け継ぐ。合楽の温室の中でせいいっっぱい稽古しておく。信心始めて十年の間に基礎をつくっておかねば。信心の若いうちに合楽理念で武装しておくこと。S53・8・21

神様を逃がさなければ人も逃げんと確信しきっている。それでも逃げる人はこら放っておくに限るといういきかた(○○氏の商売の心得)。S53・8・21

フィーリング。これはおかげになる、これはお徳になる、といったピンとくるフィーリングがいる。S53・9・1

辛抱出来んような腹立たしいことであっても、腹の底ではニコッとする心までにはならねばならない。S53・9・2

合楽に起こっておる神様の御発動が、お互いの場で同じ働きがなければならん。それには無条件の傾倒が要る。しかも合楽ではこれだけ傾倒させる内容を発揮しているのだから。S53・9・4神愛会

商売人にとってお金お客は大切なもの。お道の教師にとって御結界は大切なもの。家内にとって台所は大切なもの。大切なものを大切にせんから、いつまでも心眼が開けない。S53・9・4神愛会

合楽理念+霊徳=鬼に金棒。S53・9・4神愛会

生きた働きには、なでさすりする手もあれば、ピシャと叩く手もある。S53・9・4神愛会

黒人白人の取次者が出てこねば。人情柄が違うから。S53・9・5

やる時はぱあっとやるが、やらん時は全然だめ。そういう人は金光様の先生に向かない。貫きとおすこと。どうでもこの貫きとおすことができねばね。S53・9・5

お知らせを頂くとは、神様のものもの話(内緒話)。自分だけに頂くのだから感動をもって有り難く頂かねば。S53・9・5

助かり、安心は限り無い。自分の安心、一家の安心、世界の安心。ビリグイ、マットグロッソを思い世界布教を思うと頭がいっぱいになって眠れない。これではいけない。もっと広く大きく助からねば、と思ったことでした。S53・9・5壮年部会

心行とは暑い寒いを言うてはならぬ、不平不足を言うてはならぬ。S53・9・5壮年部会

合楽の場合、お知らせを頂くのが当たり前になって、頂いたことに対し冷淡になるね。S53・9・5壮年部会

(ある先生、合楽に傾倒したことで、信者幹部が他教会に移りそこでよい御用ができている事を聞いてもやもやすると。)こういう人情を乗りこえねば本当の信心にならん。S53・9・5壮年部会

じわが寄ってくるような。(芝居などで、たくさんの人々のほうと云うため息にも似た声が舞台に寄ってくるをいう。)53・9・5壮年部会

天地のリズムも時にはしんねこで。(四帖半でしっぽりと三味線の爪弾きを聴く。ねことは三味線のこと。)53・9・5壮年部会

私の口跡を体得しておかねば。私の口調そのままに出来た時がおかげ。S53・9・5

世界真の平和が金光教において願われることこそが大切だ。金光教の発展を願ってもね、それは大した事ではない。S53・9・6

かりそめのことに心を動かすな家の柱と立てられる身は・・・小さなことですぐに腹が立つ。まだまだちいさなことを自覚し、大きくなれる修行をせねば。どういうことがあっても心を動かさないことを目指す。S53・9・7

そこに筋金が入らないと修行がじゅつないものになる。食べんなら食べんと決めておけば楽。中途半端だから難儀せにゃならん。S53・9・7

節食修行は表行。してはいけない。S53・9・7

金光大神をたぐいまれな人として何処よりも誰よりも頂いている合楽教会。S53・9・7

神様を目的として焦点に定めているから、言うことなすことが神様を中心にした生活になる。S53・9・7

天地幽玄の気息に合わせ、宇宙の大霊と阿吽(あうん)の呼吸を通じ、大生命の流れの中で神秘的な体験を積むことを修行とする。S53・9・8

縦のつながり(親先生とのつながり)、横のつながり(信者同志の連帯)にならんと教会の力にならん。S53・10・6壮年部会

理念に基づいて話を進める。場あたり主義では流される。理念に基づけば、時には強引に押し切ることもできる。S53・10・5壮年部会

合楽の場合、完全主義で押し進めているから大きくなるまでひまがいる。S53・10・5

おかげ信心なり、拝み信心なり、そういう信心をしている人たちがみやすく真の信心を目指すことのできる為の信心の手掛かりといったものを作ってやらねば。S53・10・7

「熊谷陣谷。武士をやめて僧侶になったが、合戦の声を聞いて丸めたばかりの頭を手でさすり、武士への未練を表現するところ」を頂く。教師になって、たまには過去に、俗界にも後ろ髪引かれる思いがあるかもしれないが、そこは信心決心をもって乗り越えねば。S53・10・10

これだけの合楽理念が世にでるには、なるほどという実証ができていかねば。それが皆さんの使命。ためには親先生が喜ぶ改まりができていかねば。S53・10・10

私の場合、信心以外のことに心向けると必ず体に変調をきたす。神様とはりん気なお方。神様以外のことに頭突っ込んでぼうけていたら腹かきなさる面をもっておられる。そこに神様の願いを感じる。S53・10・21

根蕪とお道の教師は座りのよきを良とする。S53・10・24

ただ安心のおかげが身についただけではつまらん。やあっという意欲を出さにゃ。布教を願わにゃ。S53・11・3

信徒霊祭時、肩が痛む。時々あること。霊に関しているなら終われば痛みはとれる。霊祭後の直会の時とれる。霊様に向けての修行がいる。それは丁度、腰をもんだり肩を叩いたりしてあげるようなもの。日頃からの、霊様への祖先讃詞信行。S53・11・20

(霊祭)「あれがよかろうか、これがよかろうか、と思うた全部がお供え」と頂く。真心の思いというものは、霊に通う、神様に通う。S53・11・20

有り難いと。そこからの前進する姿勢がないなら、その有り難いの内容もお粗末なものであることを知らねば。S53・11・24

常識が身を食う。常識の親孝行ではならない。超常識の親孝行でなければ。○○さんお夢。「自分の子供たちが六地蔵となって、餅をついている。その顔を見れば鬼だったと。」親に似ぬ子を鬼子という。人間の目で見ればいかにも親孝行の子供たち。しかし、親の心が分かっての親孝行が本当の親孝行。(○○さんは、子供が信心になることを一番願ってある。)S53・11・27

物音も聞こえず眠気のつくはずもない神様との真剣勝負の交流であって、本当の一心の祈念と言えるが、それも稽古次第。物音が聞こえればそれも神様の下さったものとして、御祈念の内容にしていけばよい。問題は神様との交流がいよいよ深まっていかねばならないということ。S53・12・6

形の繰り返し。その心の進展。心は生神に向かって。形は同じ繰り返しであっても。S53・12・12

私の信心に神様が憑依してござるから、私が確信をもって絶対絶対と言うのです。S5312・12

宗教のセンチメンタルな部分を愛好しやすい傾向が一般だものね。(信心の真の感動でありたい)53・12・12

こう信心を頂いてこう行じたらこうおかげを頂いた、が商品見本。S53・12・13十三日会

山茶花。さざんか。茶山花ではない。「山茶花のこぼれて冷たき冬陽かな」。茶が先になって山になるのは徳につながらない。修行が、信心が先でなければ。教養を芯にした信心や修行は人が助かることはない。S53・12・18

神徳は限りなき信心の精進に伴う神様の御信用である。御信用だから油断が出たり慢心すれば取り上げられる。さあこの御用で一徳受けようと、言って受けられるものは徳ではない。一生懸命が込められたところに下さる報償のようなもの。それを徳と思うてきた。なるほど比礼(神の威徳)は上がっても家庭に問題が絶えないという教会が多いはず。S53・12・28

生神への精進がものいうようになった時、始めてお徳を受けたことになる。S53・12・29


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