御理解 第七十八節

 神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろう
 て三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感になのうたの
 じゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにな
 い。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死
 んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬ
 から、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事
 達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受
 けることができるぞ。

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年まさり代まさりのおかげ
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 お道の信心をさせて頂く、折角させて頂くのですから、この御理解に有りますようなおかげを頂かなければ金光教の信心を頂いておる値打ちはない事になります。というほどしの御理解ですね。無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを頂く事ができるぞと、もう本当に願ってやまない切実なものを各々がここのところに感じなければいけない。本当に教祖がここにおっしゃっておられるようなおかげを頂きたい。
 だから、どうでも例えば、そんならここで信心の稽古をなさる皆さんの場合は、いうならば初代ということになりますから、ですから人間と身代と達者とが皆さん自身が今のあなたの代に頂けとかなければならないということになる。
 人間と身代と健康、しかもそれが三代続いたらとおっしゃる、ですからその三代続くことのための工夫とゆうものがなされとかなきゃならん。
 三代続いたらもうこれはガッチリとです、金光教のいうならば信者というか、お道の信奉者としてのいわば家柄人筋というものができ上がってしまうわけです。
 と、ここのところでは教えておられるのですから、これは子供の代におかげ頂きゃええという人があるが、そんなことじゃない。そんな人あるのですよね。自分がとうとう一生おかげを頂ききらんもんじゃから、子供がおかげを頂くために徳を残しておくというて、親は難儀しておるといったような人があるが、それはどこか間違っている。人間と身代と健康とが私どもの時代にできなければならない、そういうことになりましょうか。

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身代と人間と健康が三代続く真の比礼(ひれい・・威徳の意)
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 昨日、小倉の教会の御信者さんが私宛に手紙を下さってある。先日から青年信徒の信心実習が一晩泊りでここでございました、その時見えておられたらしいのです。
 その手紙の中にこういうことが書いてあります。「ただただ合楽教会の信心の頂き方に敬服するばかりでございます。今日の金光教は貴教会がすべてを代表されておられる気がします。親先生の真の信心から生まれたものと考えさせて頂きます。」ということが書いてあります。
 ただただ合楽教会の信心の頂き方に敬服するばかりでありますと、いわゆる信心の頂き方、私の話をしばらく皆さん聞いて下さったんですよね。
 ですから、私が真の信心とはいったような意味のことを確かにお話ししたと思うのですけれども、そのお話と今、合楽教会で現れておる御比礼とを見比べてです、これこそが合楽教会の信心の頂き方、いわゆる金光様の信心の頂き方がその教会教会によって違うということです。
 だから教祖の信心のどこをどう頂くかということなんです。
 なるほど皆さんがこれはお世辞とばかりは思えません。やっぱりそう感じて帰って下さったと思うのです。けれども果たしてです、合楽教会の信心の頂き方に敬服するばかりでございますと、今日の金光教は貴教会が代表されてあるという気がしますと、いうならば合楽のような教会がたくさんできたらこれが金光教だという意味なんです。
 果たして私どもがです、金光教の信心の頂き方が本当に皆さんから敬服されるだけのものを頂いておるだろうか、なるほどおかげは受けておるけれども、それだけではね、これは敬服されると、いうなら本当に自分の信心の内容というものを合楽自体がです、恥ずかしい思いをしなければいけないと思うのです。
 というのはです、私は今日七十八節のここの所が頂けた時に初めてです、皆さんから敬服されるに値する教会だということになるのです。
 今日の御理解、昨日もここでしたですねえ、どうでもです、やはりここの所を頂いてもらい、いやこれからの合楽教会はここからの所をです、いわば本当に敬服に値するだけのおかげを頂かせてもらわなければならない。
 だから親子孫と三代、しかもその続くということが身代と人間と健康とが揃うてというのですからどうでも初代であるところの私ども、いわゆる皆さんがです、人間ができなければならん。身代もできなければならん、健康でもなからなければならない。そのおかげを私どもが頂いてそれを今度は子供にまた孫に渡すことの工夫がなされなければならん。だからまず頂かなければならん。

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五つの願い
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 そこで昨日の御理解を引用致しますとです、昨日はここの御理解をこのように初めて頂きましたがです、神様のおかげを知らぬから互い違いになってくるとおっしゃる、神のおかげを私どもが頂かねばならないまづ…。
 ただ神様のおかげというものをです、話を聞かせて頂くとおかげの中にあるのです。実際は人間障子一重がままならぬ人の身でございますから、そこからすがらなければおられないという切実心が生まれて参ります。その切実心を以ってです、私どもが神様におすがりする所にです、説明して聞くだけではない、話して聞くだけではない、実際に神様のおかげなればこそというおかげを頂くことができる。
 ですから、そのおかげを頂かなければ、しかも繰り返し繰り返しやはり頂かなければおかげという実感は生まれて参りません。だからどうでもおかげを頂かなければならない。おかげを頂くからこそ神の大恩が分かるのでございます。
 大恩を知れば無事健康で子孫も続きと、いよいよ私どもの願って止まないことのおかげになってくるのです。だからおかげを頂かなければです、もう度々のことながら恐れ入ってしまうと、昨日例えば勢を揃えた信心、どうでもここのところのおかげを頂かなければならない。現在、合楽が勢を揃えてお日参りができておるというなら佐田さん一家、久富さん一家くらいだろう。
 とにかく私は今日のこの手紙じゃないけれども、本当に敬服される事はいらんけれども、あれがやはり金光教の本当の生き方だ、だからこそああゆうおかげが頂けれるんだとゆうおかげを現すためにです、もう金光教の信者としては当り前のことをね、当たり前にさせて頂くという、またそれを行の上に表しておられるという事を、今度○○教会にお引き寄せを頂いたことによって、私が分からして頂いて来ただけのことでもです、皆さんのお日参りがしかも家族が勢を揃えて信心ができておる、あそこにああゆう御比礼があるんだと分からして頂いた。
 私が今月そのことを言い出してから、勇さん所の家庭の上に、また佐田さんの家庭のうえに現れておるおかげというものは本当にやはり度々のことながら恐れ入ってしまうというおかげになってきておる
。すさまじいです。私がお取次させて頂いて、本当に教祖様は嘘はおっしゃらんなあ、家族が勢を揃えてしかも日参りのおかげを頂いたら、こういうおかげにもなってくるなあということを実感しなければおられません。
 親が持っとるけれども子が持たん、家内は信心するけれども主人が信心がない、本当に子供がちょっと手伝ってくれただけで動くことがありましょうが、重い物でも持つときに…。
 例えば車をです、どんなに一生懸命引っ張っとっても、ぎっしり動かない時がありましょうが、子供が一人ちょっと押しただけで車が動きだすでしょうが、もうこの道理ですから…。
 家族が勢を揃えた信心、しかも昨日はこれだけは家族の者が全部切実に願わなければならないこととして、昨日聞いていただいたように先ず何というても体の丈夫を願え、次には家内に不和の無いことを願え、家庭円満を願え、家繁盛子孫繁盛を願えと、もうこれは繰り返し繰り返し、子供でもです、年寄りでも家族中の者がそのことを一心に願わなければならん。しかもその願いが真実の御用ができますことのために願うのです。
 健康も、いうなら家繁盛も子孫繁盛も、家庭に不和の無いという事も、神様にお喜び頂けるような御用にお使いまわしを頂く事のために願うのです。だから真実の御用ができますようにと願わにゃならん。いうなら神様にお喜び頂けるような御用が本当にできますようにと願わなければならない。
 この四つの願い、これは私共の願い。次には神様の願い、いわゆる御神願です、神の願い、いわゆる今合楽で申しておりますこれだと思うのです。天地の親神様の願いとゆうのは世界総氏子の身の上安全だと思うのです。人間が幸せになって行く事だと思うのです。それには合楽で今申しております、和賀心を私の心の中に家庭の中にそれを世界に自分の縁にまかせてこれを広げて行こうという運動です。
 だからそうゆう運動の一端にもです、御用にお使い下さい、いうなら運動員の一人にならせて頂きたいという願い、これは神の願いに応えるとゆう願いです。

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家庭円満を願うからには人を責めません
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 そこでです、ただ今申しましたように体の丈夫を願えと、この五つの願いというものは繰り返し繰り返し願わなければならん。しかも勢を揃えて願わなければならん。
 体の丈夫を願う。そこでそんなら体の丈夫を願ってです、私は大酒大食は絶食の元と言われるのですから、体の丈夫を願うからには体の丈夫になるような私は教えを実行しなければいけんと思うのです。
 私は今日はね、御祈念の時この五つの願いというのを一番にさせて頂いたんですよ。そして体の丈夫を願えと、そしたら夕べ私がお夜食をしている状態を頂いた。もうお夜食とゆうのは、自分の命を切り売りするようなものだとさえ言う人があるのです。ところが私は胃が大変丈夫ですから、おかげでどんなに昨夜頂いておっても、なにしろ爽快な感じがするくらいです。
 これは胃の調子のおかげを頂いておるというて、胃が強いからにまかせてです、夜食をする。これはもうタベを境いにです、私はもうお夜食を止めたと思いました。願うからにはやはりそうでしょうが、。
 どうぞお金がもうかりますようにもうかりますように、お金が貯りますようにといって無駄使いするなら、おかげ下さるはずはありませんよね。
 同じですいかに体の丈夫を願え願えと毎日毎日一家中で願っておるというても、食事の頂き方がお粗末であったり、しかも大酒大食をしたり、お夜食なんかを頂いてどうも今日は胃の具合が悪いとゆう事を操り返しながらです、体の丈夫を願うという事は、これは神様への冒涜です。
 私は今朝本当にそれを思いました。どうぞ見ておって下さい。私がなかなかいやしんぼうですけれども、もう夕べを境いに私はお夜食を止めた。私は神様の前に誓うわけじゃないけれども自分の心の中に誓うた。願うからにはそこんところができてこそ初めて体の丈夫のおかげが頂かれる。元気にまかせて、いうなら命の切り売りになるようなお食物の頂き方をしては、いうなら不節制な事はしていけないという事です。
 家内に不和の無きが元なりと、どうぞ家庭が円満に今日も不和のない一日であります事を願うのです。これはもう皆さんだって、家庭の中に不和のあるくらいいやな事はありませんよね。家庭の中で仲良う睦まじゅう行く事程幸せな事はありません。もうそういう家庭にしか本当のおかげは頂かれません。
 あんたはそっちなら私はこっちというように夫婦がです、行き方が違っておって、夫婦が円満なという事は言われません。もう例えば夫婦が一心同体であるように同じ思い、同じ行の中にあるような行き方にならなければ、だからそうでないならそれを願わなければなりません。
 そこでそんなら願うからにはどうあらねばならんと思いますか、最近合楽で皆さんが日々体験しておられる、もう責めるという事は絶対すまいと、人を責めるという事は絶対すまい、どうしてお前はせんか、あげん頼んどったつにどうしてと、どうしてとゆう事を言わない事にしよう。こうして私を神様が修行させて下さる。こうしてお育て下さるというような頂き方にならして頂こうとゆう。
 家庭の不和、どうぞ家内に不和のない事の願い、家庭が円満でありますようにと言うて願うなら責め合う事があって円満とは家ませんから、その代りにこの修行をしますと、もう絶対に責めない事にしなければなりません。これは絶対です。時々はあるとゆうような事ではもう駄目なんです。れが血に肉になってしまうまでもう責めまいと決めなければいけません。親が子を責める。子が親を責める。主人が家内を、家内が主人を責め合う。そういう家庭をいば、不和の家庭とゆう事になります。いや口で言わんでも心で責めとる、それでも駄目です。どうでも願わなければならない、家族勢を揃えて願わなければならない。
 同時に家繁盛、子孫繁盛、これを願わしてもらうならばです、いかにあることが子孫繁盛家繁盛か、例えば商売なら他所より高く売ったり、お客さんにサービスが悪かったり、これでどうぞ商売繁盛をと願ったって、おかげの頂けるはずは絶対にありません。家繁盛、を願わせて頂きながらです、ふらふらしてから遊んどるのが好きといったような事でです、おかげの頂けれるはずはありません。本当に自分の仕事に忠実にあらなければいけない。それを修行として、どうぞ家繁盛を顕わせてもらうならばこれはもう絶対のおかげなんです。
 もう私がこれは今日は当り前の事を言っておるんですよ、願うからにはそうあらなければならないとゆうのですから、ただそんなら願っただけではいけんという事。

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真実の願いには光がある
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 だから願うからにはそこん所の修行ができずしてです、いわば子孫繁盛になるはずがありません。
 しかもそういうおかげを頂いたあかつきには、その頂いた健康をもって、また財のおかげをもって、また家族勢を揃えてです神様にお喜びを頂けるような御用に奉仕させて頂けれる行き方、ですからこれはもう、人間の本当の願い腹の底からの願いです。いうならば、真実の願いです。
 私は真実の願いというのは何か高度なですね、自分の事なんかはいっちょん願わん、人の事ばっかり願うといったような事が私は真実の願いだと今まで思うておったけれども、そうじゃあないです。もう人間の心の底から、もうそれこそ叫びたいほどしに願って止まないものが、私はこの三つだと思うのです。
 健康でありたい、家庭が円満でありたい、家繁盛子孫繁盛でありたいという願いはもう切実な願いならです、これが真実の願いでなくて何であろうか。その真実の願い、それにもう一つ、そのおかげが成就したあかつきには、それによって神様の機感にかなう事に全て行使される事になる時にこれがもう真実の願い、その真実の願いには光りがあるとおっしゃる神様は…。
 真実の願いには光りがある。その光に照らされて、自然に全ての事が成就する。ここになって来ると素晴らしいのです。ここんところを行じさせでもらうところにです、初代である私共がまず人間と身代と健康とができてくるであります。

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人間の心に潜む「あいうえお」
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 昨日おととい壮年部会でした。ここさえ願っとけば家内に不和のなきが元とゆう事、いやそれだけではない人間関係の上にも素晴らしい事になってくるなとゆう事を、久留米のKさんが発表しておりました。
 先だってから、妹が嫁入っておる所から電話が掛って来た、妹婿から、家内が具合が悪いからと、具合が悪いというよりは何かこう毒薬を飲んだと言った。びっくりして兄弟揃って単車で行ったというのである。
 ところがなるほど、そこに意識不明になって寝とる、妹は…。そしたらそこの主人になる人、または姑親になる人、それから出戻りさんが一人おられる、その姉さんになるのと三人で、もう行ったが最後、妹の名を言うてですね、もうこげな人はなかと言ってもう悪ロをいっぱい言うた。
 皆さんどうでしょう。「そげな悪口の段の、ここに仮死状態になってもう死んどる、病院に連れて行く事が先じゃないか、何ごつ言いよるか」というような気がするです、誰だって。しかも肝心要の主人がですよ、こげな事してもろうたけん家名に傷がついたと言うたそうです。
 そしてそこまでになる過程をこれが悪いからというて、しかも親、子、出戻りさんの姉さんというのと三人でもう移り変りに、もうこれ以上は言えんというくらい言ったそうです。悪口を…。
 妹はそこに死にかかっとる、そこんところが日頃信心頂いておると有り難いですね、黙って生神金光大神様生神金光大神様と言ってその心の中に唱えさせて頂きながらです、それを聞いておったと、ところが御心眼にね「あいうえお」と頂いた。そして御理解にですね、こうゆう事を神様から頂いたと。「あいうえおのあは愛情、いは意地根性、うは疑い、えはえこひいき、おは思い上り、人間にはこの五つのものが誰にでもある」と頂いた。そうゆうさ中に。
 人間のこの愛情とゆうのはね、信仰で言う愛情ではなくてから、孫を可愛い可愛いという時には目の中に入れても痛くないと言うでしょう、ああいう愛情。だからよくない愛情の事。いわゆる人情から生れてくる愛情。人間にはそういう愛情とそれから意地と疑い、えこひいき、思い上りというものが、人間にはこの一つが欠げてもだから人間失格だといっておる。
 ですからこの人達は人間だからそういうのも無理はないと思うたと、素晴らしいですねえ、そういう中にあってから、私は本当にKさん有り難うと言うてお礼を申しました。そういう例えば妹はですよ、そこにもう死ぬか生きるか分からん状態にあるのですよ、その悪口をですよ、親と主人と出戻りの姉さんが三人で、しかも私の方の家名に傷がついたが兄さんどうしてくれるかと、こう言うたと。
 けれどもこれは人間としては、口にはいわんでも皆んながそれを持っておるんだと、あいうえおに表われてくるようなものを持っているんだと、だからそれが人間だから、人間ならばやはりそげんもあろうとこう思った。だから心の中にその人達を責めようとは思わなかった。
 それから、その穏やかな心で聞くしこ聞いて次の善後策をこうじた。おかげを頂いた。それからその後は、夫婦の者が、私の家内はお前でなからにゃできなかった、いいえ私の主人はあなたでなからねばできなかったというようになって、現在このような商売繁盛のおかげを頂いておるという発表を致しました。

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人間の「あいうえお」を脱却して神格化
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 どうでしょうか、私共が人間関係のそれは家内に不和の無きが元なりという事でもですよ、人間だからそうゆう事は当り前だと、それで私はそれを覚えやすく数字で「一に愛情、二に意地根性、三に疑い、四にえこひいき、五に思い上り」これをそなえているのが人間の心の中にあるのだという事。
 けれども信心というのはわが心が神に向かうのを信心というのであるから、この例えば愛情も、意地っ張りも、疑いも、えこひいきも、思い上りも無くして行く事が信心だという事、わが心が人間じゃない神に向かって進んで行くというのが信心なのです。
 だから無茶苦茶な事を言う人がある時でも、ああこの人は人間だから、やっぱりそれは言いたいのが当り前、というような頂き方ができたらです、これは家庭の上にでも人間関係の上にでも本当に素晴らしい事だろうとこう思う、それだけのそこにゆとりがあるという事は…。
 お互いはそんなら、自分の心が神に向かって行くのを信心というのじゃとゆう信心をさせて頂いておるからです、例えば今頃からも申しますように愛情の掛け過ぎはいかんから、孫を抱きたい。抱きたいけれどもです、私は抱かないとゆう厳しい修行をするといったような事をいいましたね。
 意地という事は、人間は意地がある。だからそれを例えばよい意味合いの根性にして行かなければいけない。お互いが疑い、えこひいき、思い上りがあるところにです、これは人間誰しもがそれを持っている、備えておるんだ。
 それを一つ一つ人間から脱脚して、わが心が神に向かって行くという行き方こそが金光様の御信心なのですから、そういう信心にならなければです人間ができて来ない。人間と身代と健康とおっしゃる、そうゆう生き方から人間ができてくる。
 さきほどから申しますように健康の事を願うなら、大酒大食をして無茶苦茶に食べてからどうぞ今日も健康でと体の丈夫の事を願うとゆう事は、これは神への冒涜だ。願うからには、私が昨日を境に夜食を止めたというようなです、改った姿でこれを願わなければならない。
 家内に不和の無きが元という事はただ今申しますような事、人間関係、とにかく責めないという事、今合楽では皆さんがこれには一生懸命取り組んでおられる。大きい事小さい事もう責めない。どんな小さい事でも、どうしてかという事は言わない。そういう心こそ神の機感にかなうとゆう事は、いわば人間を失格して行く事です。そして神格化して行く事なんだ。信心とは…。
 人間にある汚い物を取り払うて行く。その中に例えば責めるといった心を自分の心から取り除かせて頂く所からです、そういう精神をしておる姿が神様の機感にかなう心なんです。神の機感にかなうた氏子が少いと仰せられる、合楽で信心の稽古をさせて頂く者はここに焦点をおいて神の機感にかなう私たちでありたいという願いを持つという事になります。

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勢をそろえた信心
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 そこで初代である皆さんが、初代の時にです、人間と身代と健康がしかも家族揃えてできるというところからこれもそんなら子に孫に伝えるという事。
 そこで昨日私が申しましたように、金先様の御信心は、どうでも家族がもう家族ぐるみの信心にならなければいけないとゆう事、お願いをしてもおかげにならんならです、主人が信心しとるなら家内に頼まにゃいけん、子供に頼むがよい、そして家族ぐるみの信心にならなければ、勢を揃えて信心をせよとゆう事ですから、これは金光教の信者としては当然、そこはそうあるのが当り前当然の事。
 そこの所が、そのある教会では見事にできて行っておるという感じですねえ。しかも日参りで、日参りというのは日に何遍と決まっとらん。昨日〇〇さんなんか五回参っておる。しかも朝の御理解を四回頂いたというように、どれだけ参ってもよい。それをです、だから生活の一部にせずにです信心の一部。私共がね金光様の信者としては、信者とゆう事はです、信心の中に生活があるのです。そういう事になり切ることがです、子供が孫が一諸に信心するから、もう絶対子供に孫に信心は伝わって行くでしょうが、子もまた孫もいうならば人間と身代と健康とを目指して信心をして行く事であろう。
 そしておかげを頂いておる、そのおかげをもってです、世の中のお役に立たしてもらう、神様にお喜び頂くような御用に奉仕させてもらう、しか天地の親神様の願いである、御神願成就の為に奉仕させて頂くとゆう行き方になるならば、もういよいよやはリ日勝り月勝り年勝り代勝りのおかげが頂けれる。
 そういうおかげの頂けれる信心を頂いてです、初めて例えば、合楽教会の信心の頂き方に敬服するという事になるのじゃないでしょうか。
 そういう信心を頂いてからこそ、初めて敬服されるというか、実をいうたら当り前なんです。
 その当り前の事が大変なおかげを頂いておられる。そのある教会あたりの場合には信者さんの中にいっぱいそういう信心者がおられるという事なんです。
 だから朝参りをする時には、一人参ると女中さんまで参る。会社の社長さんが参って来ると社員の方達までが一諸にお参りをする。勢を揃えて信心をする。
 願っても願ってもおかげが頂けない事があるならです、一人でもちょっと持ってもらったらおかげになるかも知れんのですから、たとえそれが番頭さんであろうが、社員であろうが、頼まにゃならん。明日の手形がどうも落ちんごたるから一つあんたもお願いをしてくれ、加勢をしてくれというて頼む。社長が頼むから、やっぱお参りをする。お参りをするとその女中さんも社長さんもおかげを頂くからいよいよ有り難い世界が広がって行くという行き方。 そういう私は信心を合楽が頂いてこそです、おかげが頂けれるというならば、当り前の事ですけれども、合楽教会の信心の頂き方が素晴らしいなあといい、いわれる事になると思うのです。私が今申しました事はね、その気になったらみやすくできる事ばかりなのです。
 神のおかげを知らぬから互い違いになる。神の大恩を知れば無事健康で子孫も続きとおっしゃる、そういう生き方にならせて頂く時に初めて生まれてくるのが、もう本当にこんなおかげ頂いてよかろうかと。

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金光教を地で現す合楽教会
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 先日の壮年部会の時久富繁雄さんが言っておられます。本当に先日たまたま家族中の者でテレビルを見せて頂いて後で話した事ですが、もう本当に俺かたぐらい、今有り難い事はないね、家庭も円満に行きよるし、一家中が信心させてもらうし、本当に思いもかけないこのようなおかげ頂いて本当にもったいない。これでよかろうかというて話したと、こう言われます。
 そういうおかげを知る時にです。その神の大恩を感じんわけにはまいりません。その恩にいかにして報いるかという心も生れてまいります。
 だからそういう生き方にです子孫も続くのです。続くだけではありません、代勝りのおがげが約束されるわけです。金光様の信者信奉者としては当り前のことなんです。
 そんならこの七十八節がです、金光様の御信心を頂く者が当然当り前な事として頂けれるおかげをここでは説き明かして下さってあるとこう思うのです。だからこういうおかげを頂けれる事の為の信心の工夫を各々させて頂かなければならんと思う。
 「一家中で日参りなんてん、私どんな遠かけんそんなわけにはいかん」と言う人もありましょう。けれどもね、それはできんといやできんのです。けれどもできんならそこに一つ工夫したらどうですか。
 昨日私はある方に申しました。あんた方にお賽銭箱を作りなさい。そしてお初穂袋を買いなさい。一ケ月三十枚のお初穂袋を、そしていつも御祈念させてもらう時にお賽銭箱にお賽銭を入れる、そしてお初穂を奉らして頂いて御祈念をなさい。
 これは工夫ですよというてお話をした事でした。それはそのくらいの事は金光様の御信者としては当り前の事なんです。特別の事じゃないです。そこまで頂かなければ金光様の信者信奉者とは言えんのです。
 そこに致った時に初めて、金光様の御信心をです、辞で表わしておられる教会、辞で表わしておられる信者とゆう事が言えると思うのですよね。どうぞ
昭和四十七年(1972年)十二月七日朝の御教話より