御理解 第六十八節
神参をするのに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはな
らぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがた
そうに心経やお祓をあげても、心に真がなければ神にうそを言う
も同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小
さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけた
りせんでも、人にものを言うとおりに拝め。
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信心には、辛抱と真心がいる
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信心には、辛抱するということが大切だと。最近、根性ということが言われますね。根性が要ると言われる。形や形式でおかげを受けるのではない。例えば、大祓詞や心経を、ただ大きな声を出してあげなくてもよいし、拍手も無理に大きな音をさせるにはおよばぬ、小さい音でも聞こえると、おっしゃる。小さい音でも聞こえるということは、心の中に思うただけでも神様には通じるということなんです。この御理解は、信心をさせていただく者には、まず辛抱が大事であること。「小さい音でも神には聞こえる」とおっしゃるように、小さい音でも大きな音でもいいでしょうけれども、「真がなければ」と言われる真心というものが信心には要求されるわけです。
例えば心の美しい人が、どんなによい信心をするというても、辛抱が貫かれなかったらだめです。また、辛抱強く、根性はしっかりしておっても、その思うておること、言うておることに真が欠けておったら、それは神様にうそを言うようなものですから、神様には通わないというわけです。
だから、本気で辛抱するということなんです。辛抱強い、辛抱の徳を身につけるということです。同時に、いよいよ心の内を改めて、思うことも行うことも、神様に喜んでいただくようなおかげを頂かなければなりません。そういうことを、ここでは教えておられるんだと思います。
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喜久代―喜びを取ったら、クヨクヨになる
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昨日末永先生が、ここでお届けをするのに、「今朝からお夢を頂きました」と。そのお夢の中に、中村喜久代さんと、関りつおさんが出てきたりするわけです。中村さんがその当時、とてもそういう御用はできそうにもない時に、一生懸命に御用をなさった。しかも、年限を切ってお供えをなされていた。
その当時、私は、ご本部へ月参りをさせてもらっていた。中村さんは、親先生がおいでになられるところには、もうどんなことがあってもお供えをさせてもらうということで、ご本部参拝だけではなくて、どこへ参りましても、いっしょに付いて見えておった。もちろん、ご本部参拝は、必ず月参りを欠かされることはなかった。
あるご本部参拝の時に、奥城でお礼をさせてもらっていたら、中村キクヨという片仮名の名前を、漢字の「喜久代」と頂いたんです。本当に熱心な信心をするから、これは一つの御神格だと思うた。片仮名から漢字になったこともですけれども、その喜久代というのが、喜び久しいという字ですから。それを思っていたら、これに対して、神様から御理解を頂いた。その御理解は、「喜久代から、喜びをとったら、クヨクヨになるぞ」ということであった。
中村さんは、一生懸命の信心によって、分かりやすくいうなら、神格を頂いた。一段と信心が進んだ。そのおかげを頂いたけれども、喜びをなくしたら、後はクヨクヨになるぞと。言うならば、不平不足を言うたら、喜びは消えてなくなるぞ、喜久代ということにならないぞ、不平不足があってはならないぞ、という御理解を頂いたことがありました。末永先生は、昨日のお夢でそのことを頂いておった。
これは中村喜久代さんだけの専売特許ではなくて、お互いがそうなんです。誰でもそうなんです。どんなによい信心をしていても、どんなに信心がありがたいと言っていても、不平不足を言うたり悔んだりしたら、もう喜びというものは消えてしまう。だから、口には言わんでも、心の中に不平不足がいっぱい起きておるときには、いわゆる、クヨクヨになっているのですから、それではおかげを受けられないということを、私どもは知らなければいけない。
ところが、私どもは言葉には出さんでも、心の中に不平不足を思い続けておるようなことはないだろうか。または、とっさに起きてくる不平不足がありはしないか。そういうときに、私どもが、「ああ、こんなことでは、せっかくの信心が崩れてしまう。せっかく、信心辛抱させてもらいながら、信心辛抱の徳を受けていっておるその徳が、なくなってしまう」と思うて心に感じたり、思うたり、言うたりしておることを改めたり、お詫びをしたりすることが、必要なんです。
「小さい音でも神には聞こえる」とおっしゃるのですから、どんなに小さい事であっても、自分の心の中に感ずることが、ありがたいこと、ありがたくないことと二つに分けるならば、おかげの受けられる心と、おかげの受けられない心とそのどっちかがあるわけです。ですから、おかげを頂けるほうの心、不平不足のない心を、いつも心の中に頂きとめていく精進が必要だということになります。
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不平不足は、小さくても神には聞こえる
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昨日私、お手洗いに立たせていただいた時、玄関にいっぱい泥が上がっている。先日、安部野教会に参拝させていただいて、隅々まできれいにしてあるのを見て来たばかりですから、それが、もう大変乱雑に見える。それでお手洗いに行って、それを見て帰りがけに廊下を通らせて頂いている間に、私が思ったことなんです。今、不平不足に思うたことが、こんなことではおかげにならん、と思うたわけです。
ですから、例えばどんなに庭がきれいにしてあっても、人が集まってこなかったら寂しいことです。例えば、泥が上がってもいい、それだけ、お参りが次から次へとあっているから、泥が上がっているんだ、と思いかえさせていただく。そうすると、それはお礼を申し上げることになるのです。そういうふうにして、自分の心は、いつも不平不足ではない、ありがたいという心に替えていかねばなりません。
「どんなに小さい音でも神には聞こえる」とおっしゃるのだから、どんなに小さい不平不足でも神様には聞こえている。いわば見通しでおありになるということです。「お参りして来てから、汚れているなら、泥を掃く気持ちはちょっと起こらんのだろうか。こんなに修行生もいるのに、どうして気がつかんのだろうか」と思っただけで、私が御結界へ座ったんでは、おかげにはならない。思いかえさせていただいて、御結界に座ったとたんに、それと同じような意味のお届けがありましたから、そういう生き生きとした御理解も説いてあげることができました。
もう瞬時でも、自分の心の中に不平不足が起こったら、その心はおかげの受けられない心です。例えば、おかげの受けられる心が育っておっても、その不平不足だけ差し引かれることになったら惜しいことですから、すぐ頭を打ち振って、「こんなことではいかん、こんなことではいかん」と思いなおさせてもらって、ありがたいお礼を申し上げられる心に切りかえていく精進がいると、私は思う。
小さい音でも神には聞こえる。どんなに小さいことでも、自分の心の中に感じたことがありがたいことである場合には、それが些細な事であっても、神様に喜んで頂き、感動が感動を呼び、こちらに感動が返ってくる。そういう心がおかげを頂く心です。そういう心の精進と同時に、「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ」と言うておられるように、信心する者は、辛抱が大事だということを説いてあるのです。その事もやはり末永先生が頂いておる。
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本当のおかげが成就するために
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末永先生のお夢に、関りつおさんが現れておる。関ということは、関所の関である。りつおというのは、ここでは立ち上がるという意味でしょうねえ。本当の意味においてのおかげが、ここに成就するときに、例えば十のおかげがここに成就する時に、九分九厘までおかげを受けておっても、そこで挫折したら、もう十にはならないのです。
昨日、「もうあんたがここで修行するようになって何年になるかな」と言うたら、「もう六年になります」と。「もう六年にもなるの」。もう合楽の信心もひととおりはマスターできておるはずである。ただ合楽の信心の生き方がこうだ、あり方がこうだ、ということを覚えただけではいかん。親先生は、言われる時には、必ずこのことだけしかおっしゃらん、ということも知っている。それを覚えただけでは何にもならん。
昔のお徳を受けられた先生の所で修行した人たちが、布教に出るというその寸前には、もう大変な厳しい修行があった。例えば、師匠が弟子をそれこそ血の涙の出るような、また場合には理不尽なことを言うて弟子を苦しめる。修行をさせて、鍛えなさる。それを見事に頂きぬいたときに、「さあ明日から布教に出よ」というようなおかげを頂かれたという話を聞いております。
ここの場合は、私はそういうふうに申しません。だから神様が、もちろんそれと同じような働きをしてくださるのですから、ここが関所というところ、ここがもうそれこそ心の関所だと思うところ、もうここから辛抱ができんというところ、そのところを、いわゆるりつおさんです、立ち上がってそこを越えさせてもらわなければ、いわゆる神様の十のおかげにはならんのです。せっかく七・八分まで来ておりながら、あと一つ二つで、いつも元に逆戻りして堂々巡りをしておるようなことはないだろうか。実を言うたら、皆さんの場合には、それが多いのに驚くくらいです。
それは、このごろから言うように、決心が本当にできていないからではないか。教祖様のご伝記を見せていただきましても、教祖様の御神格が次々と進まれて、それこそ生神金光大神と、天地金乃神様から御神号を頂かれ、「神が一礼申す」とおっしゃるほどの素晴らしいご信心、御神徳に進まれたというのは、ほんのわずかな年限ですよ。もう三、四年くらいかかっておられるでしょうか。
ですからもう私どもが、もうそのことに取り組んでしまっておったらできんことはないのです。例えば私の修行中に、どういうことであっても、受けるというように決めさせていただいたら、もうその決心ができておるから、受けるとか受けないといったようなことは全然ない。もう、一切を受けるということに決めてしまっておるのだから。決心なんです。今から考えても、それが一つも難しかったとは思えなかった。必ずおかげを受ける。
もういよいよ峠というときには、もう息が切れるようにきつい。もうきつくなったときには、すぐそこに頂上があるときだと分からせてもらって、そこの関を、乗り越えさせてもろうたところにおかげがあるんだ、というようにお夢の中にお知らせを頂いておる。
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辛抱の徳と、おかげの受けられる心
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惜しいでしょうが。せっかく十を目指しておるのに、七、八ぐらいのところで、また、ふり出しに戻って、元のところから始めなければならないなんて。なるほど繰り返し繰り返しのおかげは頂いておりますよ。健康のことを願えば、健康のおかげも頂いておるし、金銭のお繰り合わせを願えば、金銭のお繰り合わせも頂いておる。それだけのことです。
もう健康のおかげなどは願わんでもすむ、金銭のことだけは、もう願わんでもすむほどのおかげに飛躍していかなければいけないでしょうが。おかげの跳躍とでも申しましょうか、本当のおかげの世界に跳躍するおかげをいただくためには、私どもがそこのところを頂きぬかなければいけない。そこのところが、「雨が降るから風が吹くから」と言われる。例えば、どんなに雨風と思われるようなことに直面しても、もうお参りするんだと決めておったらお参りしぬかねばいけない。いや、そういうときほど、かえってありがたいものが頂けれるんだということです。どうしようかと迷うようなときに、そこを信心でふんぎらせていただいた時に、「ああ辛抱してよかった。お参りしてよかった」と。その心がおかげを頂く心なんです。
この六十八節は、二つの事を教えておられると思うのです。その一つは、辛抱の徳です。だから、その辛抱のところに根性が要るわけです。そこのところを辛抱しぬかせていただくと、それが一つの徳ということになる。辛抱の徳になる。そうすると、その事はもう辛抱せんでもすむ、ただあるものは、ありがたいものだけだということになる。辛抱の徳とはそういうものだと思う。
信心させていただく大事なことは、そういう辛抱です。信心辛抱、信心辛抱というけれども、信心辛抱しぬかなければ、信心辛抱にはならんということです。ここまでは辛抱するけれども、これから先は辛抱できんというのは、辛抱じゃないということです。ここまで信心辛抱、そこに「辛抱こそ身に徳を受ける修行」ということになる。
そういう修行をさせていただきながら、もう一つは、私の心の中に感ずる状態。「小さい音でも神には聞こえる」ということは、自分の心の中に感じたり思うたりすることだけでも、神様には聞こえるのです。神様に響くのです。ですから、ありがたいことを思わせていただいたら、神様に本当に通うた感じがする。感動が湧いてくる。そういう例えば、日々の上にどれほど感じるか分からない。
私が、一つの例でいつも言うように、いつでしたか、お風呂に入らせていただいた。その日は、一番最後に風呂に入らせていただきましたら、散らかしたままで片づけてない。「誰が入ったのだろうか」と思うたら家内であった。それでも、私の心が穏やかである時には、その後でも、きれいに洗うたり、流したり、または、いろんな洗面道具でもきちんと片づけて上がってくる。家内の使う洗面道具が置いてある。そんな時に、一つの口上を言うかわりに、私の心の中に、ちょっと思うのです。家内があんなに背が小さいでしょう。だから、「高い所に、ひとつ上げておこう」と。そうすると、家内は取ることができない。その時に、家内が「自分が乱雑にしとったなあ」ということが分かるように、高い所に上げておこう、というような心では、おかげの受けられない心なんです。
そこが、どんなに乱雑にしてあっても、それを清めさせていただけることが、ありがたいのです。しかも、せっかく置いてやるなら、家内の届く所に置いてやるという心の状態の時におかげが頂けるのです。そういう時に、オイサミがあったり、また、そういう心に、神様が感動されるかのように、感動が返ってきたりする。その楽しみがあるから、信心はありがたいのです。
ですから、その感動が起こってくる、感動が湧いてくるほどのおかげが頂かれるのに、それとは反対に、今申しますように、「また、こんな乱雑なことをしないように、ひとつ、わざとでも上の方へ上げておこう」といったような心では、せっかくのおかげも、崩してしまう心になるのです。もうささいな、ささいな心なんです。「もう下駄でも何でも、ぬぎ散らかして上がってから」と言って、それをそろえたところで、それは信心ではないのです。そろえさせていただくことがありがたいと思うて、そろえなければおかげにならんのです。
例えば、そういう厳密な自分の心の状態というものを、いつも見極めさせていただいくような心の状態。そういう心が、神様に聞こえるというのです。「神には聞こえる」と。神様がそれを見逃しなさらん。それがおかげの受けられる心なんです。
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神様に通う御祈念
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昨日は、末永先生のおじいさんに当たる、壱岐教会の初代教会長先生のお立日であった。亡くなられて、もう四十四年になられる。お立日には、必ずなけなしのお金でいろいろとお供え物を整えさせていただいて、そして「四時の御祈念に併せてご挨拶をしてください」ということであったから、夕方四時の御祈念に併せて奉仕させていただきました。
弟の紀久男さんも、今、日田市におりますから、そこから参って来ました。それから、田主丸町の石井信司郎さん妹婿たち夫婦も、親子三人連れで参って来ました。それが式年祭というのではないのですが、ただ、お立日だというだけで、こういうふうに思いをこめさせていただいて、霊様に、お礼を申し上げる。それが信心なんです。
昨日も、ちょっと久留米にお供え物を買いにやらしていただくと言うて、車に乗らせていただいたら、とたんに、ラジオから壱岐のニュースが聞こえてきたというのです。おじいさんの霊様が、甘いものがお好きだったから、甘い物の一つでも買わせていただいて、と思って行きよる。その心に、霊様が働いてござるものを実感するわけなんです。
昨日、その事を聞いてもらったんです。信心させていただいて、御神前にぬかずかせていただく、御祈念させていただくということは、自分の心の中に思っておることや、自分の願っておることや、また、唱え言葉であっても、神様が、それをいちいち聞き届けておってくださるほどのおかげをいただかなければ、信心している値打ちも御祈念しておる値打ちもない、と私は申しました。
ただ、片便の願い捨ての様な願いをがむしゃらにするだけではね。み霊様でもそうです。み霊様が、甘いものがお好きだったから、辛いものがお好きだったからと、例えば甘な辛なの一つも準備させていただいて、み霊様にお供えをさせていただく。そこに、み霊様の喜びやら、み霊様の苦しみやら、み霊様の悲しみやらが、伝わってくるほどの御祈念でなければ、信心の値打ちはないと思います。
御神前に出て御祈念をさせていただいて、自分が申し上げておる事を、神様がいちいちうなづいておってくださるような心の状態になるから、御祈念をさせていただくことの、ありがたさも、または心の安心も頂けるのです。ただ、願うておけばよい、頼んでおけばよい、といった御祈念では、御祈念の値打ちはないです。
そういうおかげを頂くためにも、今申しますように、「小さな音でも神には聞こえる」とおっしゃる、いわゆる自分の心の中に小さいささやかな事であっても、思うておることが、行うておることが、神様に喜んでいただくような事を、いつも思い続けておるといったような信心がいるのです。そういう心の状態で神様に向かう時に、願いなら願いというものを、神様がいちいち合点して聞いておってくださるような実感が、生まれてくるのです。
だから、「小さい音でも神には聞こえる」とおっしゃるのですから、どうでも不平不足ではない、それとは反対の心をもって神様には向かわねばならない、霊様には向かわなければならない、ということが分かります。
そういう事柄と同時に、「神参りをするに、雨が降るから風が吹くから」と言われる、いわゆる関所です。どういう雨の関所があろうが、風の関があろうが、そこに立ち上がって、そこを乗り越えて行こうという根性が、信心には必要です。そこのところを通りぬけさせていただいているうちに、根性の徳とでも申しましょうか、辛抱の徳とでも申しましょうか、「その辛抱こそ身に徳を受ける修行」というおかげが受けられるのです。ですから、信心にはこの二つがどうでも必要です。そして、私どもが本気でそういうあり方にならせていただこうという、決心をしなければいけません。
今日も一日、不平不足は言うまい思うまいと決心する。けれども言おうとしたり、また心の中に不平不足が起きてきた時には、それこそ頭を打ち振って、不平不足の心を取り除かせてもらう。そして、その事にお礼を申し上げられるような心、それは、うそにでもよいからお礼の言えるような心がいるのです。
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神様は見逃しなさらない
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昨日桜井先生でしたかね、「先日の御理解の中に、うそにでも喜べとおっしゃったが、あれはどういうようなことでしょうか」というお伺いがあったのです。それにこたえて私は申しました。私が便所に立たしていただいて、玄関が散らかっているのを見て、「なんと乱雑なことだろうか」と思わんでもなかった。けれども、そういう思い方ではおかげにならん、と思うて、廊下を通る間には、もう私の心はむしろ反対に、お礼を申し上げる心ができていたのです。
うそにでも喜ぶという、だから、本当に喜べたら、なおいいけれども、例えば、そういうふうに思いをかえさせていただいて、真からの喜びが湧かないにしましても、不平不足を言う心がなくなって、「本当に考えようでは、反対にお礼を申し上げねばならないことであった」というところまでは、心を切り替えていかねばならんということを、桜井先生に聞いていただいたことでした。
ですから、そういうふうに、いつも自分の心というものを見極めさせていただいておくということは、別に重荷にもならないことなんですから、そこに、いつも心がけさせていただいて、この生き方で行こう、という決心をすることだけなんです。
けれども、それだけでは、まだいけない。信心にはどうしても辛抱が必要なんです。そうでないと、この関所を越えなければ十には、ならんのですから。例えば、いくら九と言うといても十ではないのです。十のおかげを頂くためには、九のところから、後戻りして、元のところから出なおすようなことを、繰り返し繰り返しするのではなくて、本気で信心辛抱をしぬかねばなりません。その関を越えさせていただく元気を、振い立てておかげを頂きますと、辛抱しぬいて良かったという喜びがあるのです。それが度重なっていくうちに、「身に徳を受ける修行じゃ」と言われる信心辛抱の徳が受けられるということを、今日は聞いていただきましたですね。
信心には、どうでもこの二つのことが必要なんです。辛抱のことと、自分の心の中にどういう小さいことでも、お礼が言えれるような心と。それを、神様は見逃しなさらない。もう信心ほど、ごまかしのきかないものはないのです。だから、もう絶対正確無比のおかげが受けられるということも言えるのです。神様は妥協なさらない。それなら、そういうことは難しいことかというと、そうではなくて、そのことに精進させてもらうと、そのことが、ありがたくなり楽しくなってくるのです。 どうぞ。
昭和四十七年(一九七二年)十一月十六日 朝の御理解