御理解 第三十四節

 ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰っ
 てから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うこと
 は道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者があ
 る。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れ
 ば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改
 めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。

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信心とは、神の一言に徹すること
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 「神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにする」。み教えを頂いておりましても、その、み教えを徹底して実行するということが、なかなか難しい。難しいけれども、「神の一言は千両の金にもかえられぬ」とあるのですから、その神の一言を、やはり徹底して頂くということが、信心だと私は思います。

 皆さんも、み教えを頂いてはおる。けれども、いよいよのところを徹底していない。そこに、極端な例をいうと、神を恨むようなことにまでなりかねないのです。お参りしたけれども、おかげを頂き切れなかったまでぐらいならよいけれども、かえって神様を恨むようなことでは、神も助かり氏子も立ち行く、ということにはならない。神様も助かってくださり、氏子も立ち行くことのためには、その神の一言を、私は徹底することだと思う。信心とは、徹しぬくことだと思う。
 例えば、一つの事を八分ぐらいまでなら、神の言うとおりにしているけれども、後の二分がおろそかになったり、辛抱ができなかったりしている。だから、それもこれもということではない。一言でも徹底するということを神様が教えて下さったのです。

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舟にも車にも積めぬほどの神徳
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 昨日、郷ノ浦教会の末永勇先生がご本部参拝の帰りに、ご信者さんを引き連れて、ここへ参拝されました。朝の三時半に、博多に着かれた。待合所は、夜中は鍵がかかって入れないから、寒いけれどもホームで待たせていただいた。それから、五時十五分の久留米行きに乗って、合楽教会に来られました。だから、疲れておられるわけです。それでも、せっかく合楽まで足を伸ばさせていただいたのだから、「何か頂いて帰らなければ」と、末永先生が信者さん方に言われたんでしょうね。

 ちょうど朝の御理解の終わっておるところへ参ってこられましたから、改めてお広前にあるテープで御理解を頂かれた。それから、朝の食事を頂いてもらいました。私は、茶の間に控えておりましたら、みんなでやってこられて、末永先生が、「皆さん、何か一言でも頂いておかなければいけませんよ」と言われる。けれども、私はお話をいたしませんでした。「今日の朝の御理解を頂いて、皆さん何か一言でもよいから心に残ることがあったですか」と私が申しましたら、それぞれに今日の御理解の中から、頂きどころは違うけれども、やはりひとところをしっかり頂いておられた。
 それだけ頂いておられればもう結構。それだけ頂いて、それを行じられたらおかげを受けますよ。それだけで、合楽に足を伸ばさせていただいただけのおかげを受けますよ」と言うて、お話をせずに、ただお茶を上げただけでした。たくさん知るとか覚えるとかではないのです。その一言を、ありがたいと思うことに、徹することです。日々の御理解の中に、それぞれ信心の程度によって頂きどころが違いましょう。私は、ここと思うて強調しておりましても、それが意味は分からなくても、私が話した枝葉のところでも、ありがたいと思うたらそれでいいのです。あれもこれもではない。一言でいいです。それを今日一日徹底させていただくおかげを、こうむらせていただいたら、「みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある」とおっしゃるおかげが頂けるのです。
 ただ、御利益が頂けるとはおっしゃっていない。その御利益の頂ける元であるところの神徳が受けられるおかげが頂ける、とおっしゃっておられる。それが、舟にも車にも積めぬほどのことになってくるのですから、おかげを受けなければなりません。徹しぬくということです。

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極楽は、地獄の釜の底を踏みぬいた向こうにある
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 福岡教会の三代、吉木辰次郎先生のお話を、ずいぶん頂きました。先生は、お話も、ずいぶん名人であられましたが、内容を持っておられましたから、もう、いつ頂いても、ありがたいお話でした。その中に、「極楽というのは、地獄の釜の底を踏みぬいた向こうにしかないぞ」とおっしゃっておられました。
 極楽は、ただお風呂にでも入って、「ああ、極楽、極楽」と言ったような中ではない。それは本当の極楽じゃない。これが地獄の真ん中だろうか、と思うような中にあって、そこを頂きぬかせていただいく。それこそ一生懸命の一心を持って神様に向かう。「一心とは迷いのないことぞ」と教えておられますように、神様の教えてくださるそのことを、これが今修行の真最中だと思うて、どんなに苦しい時でも、そういう思いで、そこを頂きぬくとき、地獄の釜の底を踏みぬいた向こうに極楽はある、ということになるのです。「蓮のうてないの上、『ありがたい、ありがたい、ここが極楽じゃろうか』と言っていたら、もう一週間もしていたら飽くじゃろう」とおっしゃった。そういう極楽ばかりが続いていたら。
 さあ今日はお芝居見物、明日はどこどこ温泉、さあ明日はどこどこにおいしいものを食べに行こう」といったようなことが、ずっと続いておったら、本当に飽きがくるでしょう。極楽というものは、決してそういうところにはない。そのもう一つ向こうの方にあるんだ、と教えておられた。

 これは、福岡教会初代の吉木栄蔵先生が、もう一つ話のようにしてお話をしておられたというお話。もう一つ話というくらいですから、いつもそのお話をしておられたということでしょう。
 ご自身が、「自分のような無学の者が、福岡という学者の多い町に布教させていただいたんでは、どうだろうか」と心配の余りにお伺いなさったところが、「ばかとあほうで道を開け」と金光四神様はおっしゃった。それは大変な難儀苦労をなさいました。もうお亡くなりになるまで、月に一週間の断食を続けられた、というように、「表行にかけたら、吉木栄蔵の右に出る者はおるまい」と、金光四神様が仰せられたほどの厳しい修行をなさった方です。ですから、そういう修行に徹せられることと同時に、ばかとあほうということに徹せられたところから、現在の福岡教会の御ヒレイがあると思うですね。
 もうそれこそ自決を覚悟されて、死ぬところまでも徹底されたんですから、そのばかとあほうになり切っておるという話をこよなく、ありがたいものとして頂いておられたに違いない。だから、初代がこの話を一つ話のようにしておられたと、三代目の吉木辰次郎先生は私どもに教えておられた。

 善導寺の三井教会の奥さんのお里が福岡教会ですから、三井教会のご大祭たびに、もう必ず吉木先生のお説教でした。ですから、もう、いつも同じお話ですけれども、信心の内容を深めておられましたから、確かにありがたかった。何遍頂いても、ありがたかった。しかも、今から私がお話をしようと思うお話なんかは、もうそれこそ何回聞いたか分からない。
 今日はあの話がなかったと思うと、ご直会の時、いっぱい機嫌でやって見えてから、私どもの前に座られ、また、その話をされていました。けれどもやはり、ありがたかった。それは、初代が徹底されたことと同じ意味のことだったからだろうと思うのです。

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関西のおかげの頂き頭
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 これがもう関西のおかげの頂き頭だ、と言うて、そのお話をしておられたということです。大阪の、あるご信者の中に、あんまさんがおられた。娘さんと二人暮しであった。あんまをなさりながら、親子二人の生活ですから、まあ細々とした生活だったでしょうねえ。それで、いつもお得意さんを回りなさる中に、大変な分限者、いわゆるお金持ちの家がありました。そこの、ご隠居さんに大変気に入られて、いつも碁の相手をするというぐらいに、大事にされておられたということです。
 その日も、隠居所のほうに通されて、隠居さんの碁の相手をしておられた。そして終わって家に帰ると、すぐに使いの者が来て、また、すぐ来てくれということでした。何事だろうか、と思うて行かれますと、今までとは、ちょっと雰囲気が違う。
 そのご隠居さんはお金持ちですから、ある方にお金を貸しておられた。そのお金を、ご隠居さんのところに元利そろえて支払いに見えた。ちょうど二人で碁をさしておられ、その碁に熱中しておられましたから、その受け取った金を、そこに置いたままで碁を続けておった。そして碁が終わった後にその金が無いことに気づかれた、というのである。「誰も、ここには入ってこなかったのだから、あのあんまが、日ごろ裕福でないから、まあ欲が出たのだろう、あれが持って行かなければ、持って行く者はおらん」と言うことで呼びつけられた。正直にこうだったと言えば、まあこらえてやろう、というところで、内々話をなさった。

 ところが、実を言うたら、もうそれこそ寝耳に水である。身に覚えのないことである。「これだけ日ごろ、お世話になっておるのですから、いくら貧乏いたしましても、そういうようなことはいたしません。私は、金光様のご信心をさせていただいておるから、そういうことだけは、決してご隠居さん、いたしません」と言われる。けれども、聞かれない。「とにかく、お前がそんなことを言うなら、警察の問題にする。しばらく時間をやるから、家に帰ってよく考えて、もう一遍出て来い。それまで警察には言わないから」ということであった。
 そこで、帰られてから、一人娘にその話をされた。「ご隠居さんは、あの気性で、もうとにかく、私が盗ったと思い込んで言い張られるのだから、警察にそれを言われたら、私だけしか、いなかったのだから、やはり嫌疑は自分にかかってくるに違いはない」と言ったら、「お父さん、それはひとつ払いなさい」と言うことであった。そう言われるなら、それを払わせていただいて、ご隠居さんが気がすむなら払おう、ということだった。払おうと言うたところで、こういう貧乏所帯でどうして払おうか、と思案された。
 例えば、昔は金をつくるといえば、娘を苦界に身を沈めさせてからでも、まとまった金をつくるというのが、貧乏人の金づくりだった。ほかにつくりようがなかった。いよいよ思い惑われたけれども、娘がそう言うてくれるから、それなら、ここはひとつ本気で人から、ばかと言われても、あほうと言われても、身に覚えのないことだけれども、娘の言うとおりにしようと思われた。いわゆる、教えに徹し行じられたわけです。

 それから、とうとう娘さんは、遊廓に身を沈められることになった。それから、しばらく日にちが経ってからのことです。ご隠居さんから、ぜひ、また出てきてくれと、言うてから使いがあった。今度は、前とは様子が違うわけです。それこそ丁重にお迎えが来た。行かれると、ご隠居さんが、それこそ下座に手をついてあやまられた。
 「あの時に、私がああして言い張ったが、実は今日、誰々さんが碁を打ちに来たから、それなら一番やりましょうか、と言うて碁石をひっくり返したところが、碁石の底にお金が入っていた」と言われた。碁に夢中だったから、持ってきた金をそこに置いたつもりが、碁石入れの中に入れていた。ご隠居さんは、「よもや碁石の底に入っておるとは思わないものだから、あなたが盗ったとばかり思うておったが、とんだ濡れ衣を着せてすまんことじゃった」と。
 そうすると、あんまさんは、「それは、分かってよかったですけれども、実は取り返しのつかない事になってしまったんです。あの金は、娘が遊廓に身を沈めてつくってくれた金なんですよ」と話されましたから、もうそれこそびっくりされた。
 そして、「それは私が話をつけるから」と言うて、さっそく請け出された。そして改めて、そこの一人息子の嫁さんに所望された。その娘さんは、その大身代家の嫁さんになられたというお話なんです。

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心の内を改めることが第一なり
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 本当に教えを頂き徹せられたわけです。その先に、夢にも思わないようなおかげになったのです。ここのところがどうでしょうかねえ。「神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある」と。それを中途半端なことであったら、どうでしょうか。「私は盗らん」、「いやお前が盗った」。「そんなら警察問題にする」、「さあしてください」と。例えば警察問題になったら、それこそ、「これほど信心しておるのに、神様はよそを見ておられるのだろうか」と、神様を恨まなければならないことになる。

 これは、極端な話のようですけれども、やはりこれは実話なんです。その当時の関西のおかげの頂き頭のお話です。おかげというものを、例えば相撲の番付にするならば、両横綱を作るならば、これは関西の横綱だと言われるほどのおかげ話として、吉木栄蔵先生がなさっておられたということです。
 ご自身もやはり、「ばかとあほうで道を開け」という四神様のみ教えに徹せられて、現在の福岡教会の御ヒレイがあるのです。み教えに、「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ」とある。
 今日のみ教えに、「心の内を改めることが第一なり」とあります。ですから、たとえ、ばかと言われ、あほうと言われても、いや、それが泥棒と言われても、腹を立てるな、神が顔を洗うてやる、と仰せられているのです。ただ、神様が、いつかは顔を洗ってくださるだろう、というだけではなくて、私はそういう時に、人から悪口でも言われるような時には、本気で自分自身を見極めることだと思うです。

 あるわ、あるわ。自分の心の中に、乞食根性がある、泥棒根性がある。もちろん厳密に自分の心というものを本気で眺めさせていただくときに、人から悪口を言われるはずだ、というようなものが内容にある。そこから、心の内を改めることが第一だ、というふうに、ここでは教えられたのではないでしょうか。
 そして教えを一言でもよいから徹しぬくことです。神の言うことを頂きぬくことです。十のものを八、九分まで行っても、十の向こうのほうにしか、おかげがないのだから、それこそ地獄の釜の底を踏みぬいた向こうにしか極楽がないように、そこのところを辛抱しぬかせていただいて、おかげを頂いていかねばならない。それに徹することなのです。

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信心辛抱を楽しく
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 昨夜の御祈念の後に、桜井先生たち夫婦がここでお届けをされました。二人にお話をしたことでした。その御祈念だけでもありがたい、もうそれこそ血の涙が出るようであっても、それを「金光様、金光様」と言うて辛抱することも、ありがたいけれども、その御神慮というものを、少しでも分からせていただいたら、信心辛抱が楽しくなってくるのです。例えば、本当に泥棒をしたこともないのに、身に覚えがないことだけれども、満座の中で恥をかかせられるようなことがあっても、神様がこんな修行をさせなさるが、こういう修行をさせなさるところを見ると、その先のおかげが楽しくならなければならないということです。神様は、それほどに間違いのない神様であるということを信じて、おかげを頂かねばならないのです。
 神様が、どういう修行を求め給うても、そのときは苦しいけれども、この修行を成就したならば、神様がどういうおかげを下さる思いであろうかと思うたら、心が躍ってくる。ありがたい心になってくる。

 昨夜、「信心辛抱を楽しく」という御理解を頂いた。だからこそ、徹せられるのです。徹しぬかれるのです。その徹しぬいた、そこに神様の真意があった、御神愛があった。「神様はこういうおかげを下さることのために、こういう無茶な、非道な修行を、させられたんだなあ」と分かってくる。だから、そこを徹底するということです。

 十のものを八分までは、神様の言うとおりにするけれども、後の二分のところで、自分の良いようにして、本当のおかげにならない。そして、神を恨むようなことになっては、神様も立ち行かないし、私どももなお、立ち行かないことになるでしょう。私どもがその気になったら、神様はそこのところを信心辛抱がさせていただきよいように、教導してくださるのです。

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回れ右をするより、ほかに手はない
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 昨日も、ある方が、福岡の秋永由喜子さんのお導きでお参りして来ました。聞かせてもらうと、本当にもらい涙が出るほどの深刻な問題である。けれども、今のままではおかげにならない。そこで、ひとつ回れ右をしなければいけない。けれども、向こうの方へ突きぬけたい。突きぬけられる道があるならば、突きぬけたいという願いです。
 それは、ちょうど透明ガラスにトンボが止まっておるようなものです。トンボが、向こうの方へ行こうと思うて、逆トンボを打っている。向こうは見えているけれども、ガラスですから、ここは回れ右をするより、ほかに手はない。それを知らずに、とにかく「どうぞ神様、このガラスを突きぬけさせてください」といったような願いなんです。その回れ右をするということは、今のその方のためには、それこそ、もう死んだほうがまし、というような問題があるわけなんです。

 そういう苦しいときには、今仕事のほうもやめておられるならば、福岡のほうからは便もあることだからお参りしておいで。苦しいときには、一人でも参っておいで。部屋に暑い太陽の光りが入ってくる、そのときにはカーテンを閉めると、その陽をさえぎることができるでしょうが。あなたが、どういう苦しみを持って来ても、そのときに、私がカーテンを引いてあげるようなおかげを頂いたら、また少しは心が楽になって帰ることができる。苦しくなったら、また出ておいで。そいう暑い陽が、いつもあなたの上にばかり照ることはない。けれども、そういう苦しいときには、神様のおかげを頂いて、お取次を頂いて、カーテンを閉めさせていただくようなお繰り合わせを頂いていきよるうちには、涼しくもなるだろう、影にもなってくる。ここは、苦しいだろうけれども、ひとつ回れ右すべきだ」というてお話をしたことでした。

 ですからその辺のところを、行ったり来たりしていたのでは、このガラスを突きぬけられるはずはない。そこで、いわゆる千両の金にもかえがたい神様の一言を頂いて帰るということです。しかも、それを、ありがたく、楽しくなるところまで、お互いの信心を進めさせていただくからこそ、それを徹しぬくことができるのです。教祖様の、み教え、お言葉というものを、あれもこれも徹しぬかねばならないとするならば、いわゆる、神の言うとおりにする者は、いないというてもよいぐらいでしょう。だから、それなら今日一日、み教えのどこか一つでも徹するというけいこがいるのです。
 一つの問題があるなら、その問題に対して頂く御理解を、本気で行じることです。それは、血の涙が出るようなことであっても、それを徹しぬかせていただく中に、生まれてくるのが体験である。ですから、どういう苦しい修行の時であっても、この修行を頂きぬいた暁のことを思うたら、心が、ありがたくなってくる、晴れてくる、うれしくなってくる。

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氏子の喜びは神の喜び、氏子の苦しみは神の苦しみ
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 今日、私は本当にここのところを思うのです。確かにお参りでもさせていただいておれば、十のものは八、九分ぐらいまでは、皆さんが行じておられるでしょう。けれども、もう一つというところ、失敗しておられるのではないだろうかと思う。そのもう一つ向こうのほうに御神意がある。その向こうに極楽がある。ひとつここのところを徹しぬかなければいけません。
 「これだけ、ばかになった。もうこれから先は、ばかにはなれん」と言うたら、ばかに徹したということにならないのです。「もうこれは辛抱ができん。もう人間の辛抱にも限界がある」。そういうときにこそ、辛抱するのが本当の辛抱なんです。それもあんた一人でしなければならないというのではない。それこそ神様もいっしょ、辛抱してくださる。「氏子の喜びは、神の喜びであると同時に、氏子の苦しみは、そのまま神の苦しみである」と仰せられるのですから、神様も共に修行してくださる。苦労しておってくださる、と思うたら、神様相すみませんという以外にない。
 そこから、「神に一心とは迷いのないこと」ということを、信じさせていただけるおかげを頂きたい。同時に、「心の内を改めることが第一なり」と仰せられる。血の涙が出るほどの難儀、または、いろいろな難儀を感じるときに、人間というものは、いよいよ反対の方に、とことんおかげを落としていく人と、そういう難儀に直面したときに、本気で、「改まることが第一なり」と言われるように、本気で改まるところを改まらせていただいて、お徳を受けていくという人とがあるわけです。
 そこから、なるほど、「神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある」と言われるおかげが受けられる。ただ、願っておかげを頂いたというのは、それだけのことです。けれども、そのことによって、御神徳を頂くというおかげを頂いたら、もうそれは舟にも車にも積めぬほどの、いわゆる限りないおかげに恵まれることができるというわけであります。

 教祖様のみ教えの、あれもこれもというわけにはまいりませんけれども、せめて一言でも、徹底することです。例えば、吉木先生がお話しになる大阪での体験談ではないですけれども、その事に徹するところから、大変な財産家に自分の娘をやれる、また、娘も、そういう財産家に一躍おかげを頂けれるような、それこそ夢にも思わないようなおかげが展開してくるわけであります。
 神様が、こういうおかげを渡したいと思われるおかげを、私どもが頂きぬいたときに、神様のお喜びがある。また、私どもも、夢にも思わんおかげを受けて、ありがたいことになってくるわけです。
 だから結局、信心とは徹することです。徹しぬくことです。そこを、神様におすがりしぬいての信心辛抱ですから、信心辛抱を楽しくさせていただける道も、だんだん開けてくるようになるのでございます。 どうぞ。

               昭和四十七年(一九七二年)十月十二日 朝の御理解