御理解 第十三節

 神は向こう倍力の徳を授ける

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お徳を受けるための宗教
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 一生懸命に神様に向かう。「神様」と言うて、一歩でも神様の方へ足を向けてきたら、おかげをやると。この十三節には、「向こう倍力の徳を授ける」とおっしゃっておられます。金光様のご信心を頂く者はたくさんおりますし、何十年間、朝参りを続けたという人たちを、私は幾人も知っております。確かに何十年という信心が続けられるということは、たいしたことですけれども、確かに何とはなしにおかげを受けますね。
 けれども、ここには「倍力の徳を授ける」とおっしゃっておられますが、徳を受けておると思われない人が、まあほとんどというてもよいくらいじゃないでしょうか。だから、神様へ向かうということでも、向かい方があるということなんです。それはもう、一生懸命に神様へ向かう、言うならば、自分の全力を神様へ打ち向けて御祈念をする。やっぱり神様へ向かうことなんですけれども、なるほどそれでおかげを受けることは確かなんです。しかし、徳を受けておるとは思われないというような人が多い。

 もう私はね、金光様の信心は、おかげを受けるということと同時に、お徳を受けなければだめです。お徳を受けるための宗教だというてもいい、お徳を受けるために、教祖様は天地金乃神様のご依頼を受けられた。「取次助けてやってくれ」とおっしゃられても、私どもが、み教えを本気で頂かなかったら、取り次いでも本当の助かりにならん。こんなおかげを頂いた、こういう御利益を受けた、というだけでは、本当の助かりにはならん。天地の親神様の願いというものは、いわゆる氏子の誠からの助かり、これは、心が助かるというだけではなくて、その心に当然のこととして頂けれるおかげを、誠のおかげだと思う。
 心が助かっただけで、御利益が伴わなかったら、それはおかしい。ですから、私どもが誠の助かりを願わなければならない。それには、やはり誠の徳、神徳を受けなければならん。それなら、神様に一生懸命参りさえすれば、いいというものでもない。さまざまな表行、いわゆる火の行。水の行をして神様へ打ち向こうても、それでお徳を受ける、ということではなさそうである。
 打ち向かうことによって、おかげは受けられるけれども、徳を受けることにはつながっていない。結局、打ち向かい方が間違っていた、焦点が間違っていたんだということになる。

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めぐりが大きいだけ、おかげが大きい
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 昨日、善導寺町の原昌一郎さんがお夢を頂いている。分かりやすくいうと、天地に対する借金、神様に対する借金がある。借金を一万円持っている人、百万も千万も持っている人、場合にはそれを、めぐりというふうに申します。そこで、そのめぐりのために、借金のために難儀をする、苦労をする。神様へ一生懸命打ち向かう。そして、その借金払いのために一生懸命になる。
 ところが、「昌一郎さん、不思議なことばい。もう本当にめぐりが深いから、借金をたくさん持っているから、神様に対する借金払いを一生懸命させていただこうという気になって信心させてもらうとね、例えば、百万なら百万の借金をようやく払えた時には、百万円の徳を受けている。もうこれは素晴らしいことだよ」と言うて話したことです。

 だから、金光様の信心でいう借金払いは、百万の借金払いができた時には、百万の徳を受けている。一千万の借金を持っている人が、神様に対して一千万の借金払いをさせていただいた時には、もう一千万の徳を受けている。そうしてみると、借金は多いほうがよかったと後で思うくらいです。
 これは私も思います。もう少し修行が続いていたらと思います。けれど、仕方がない。神様からの借金は、こちらが百万円の借金を負うているのに、神様が二百万円もとられるはずがない。だから、めぐりが大きければ、めぐりが大きいだけ、おかげは大きいのであり、徳は大きく頂かれるのだ。
 これも昨日、昌一郎さんが頂いたことです。最近、お金はないけれども、店の改造でもさせていただこうか、という話し合いが親子でなされている。貯えとて、さらさらない。それでも始めようかと、まあ親子で話し合っている。そういう何とはなしの働きが周囲から起きておる。そこでお取次を頂いたら、始めたほうがよかろう、ということであった。どんなに考えても、お金がないのに建築を始めるというのですから、とてもできることではないのですが、私は、原さんたちが借金払いの信心修行ができていると思うたから、そのようにお取次させていただいたのです。
 昌一郎さんが無い命を助けて頂いた。もう本当に親戚の者は、お葬式の式服を持ってくるというほどにひどかった。誰も助かると言う者はおらなかったのですから。もうそういう時には、医者の薬やら注射やらは、神様が受けつけさせられませんでした。もういよいよという時に、注射液を持って来たけれども、どっこいそれが割れたか、こぼれたかで入らなかった。というように、受けつけさせなさらなかった。それが山でした。
 もう本当にお父さんが、夏の暑い時でしたが、月次祭を終わったところへ、それこそランニングシャツ一枚で駆け込んで見えました。「私のところの昌一郎は、半分は死んどります。半分はあきらめとります。先生、本当のことを言うて下さい」ということでした。私が、「本当のことを言うてどうするの、半分は死んでいる、半分はあきらめておるなら、もうそれでしまえとるじゃないか。そんなこと言わずに、あんた方の裏の畑に座りこんで、それこそ天地にすがりなさい」と申しました。
 その翌朝、蚊帳をひいて私が休んでおるところへ、夫婦でお願いに見えました。まだ御祈念前でした。「おかげを頂いて少し持ちなおしたようです。どうぞ助けてください」というお願いでした。その時、私はこういうお取次は初めてさせていただきましたが、「あんた達が、ご恩を忘れんために、一生信心を続けますという、その誓約をもって、神様にお取次させていただこう」と申しました。普通は、どんなにおかげ頂いても、あんた達が、やめるならやめてもよいという、私は姿勢なんですけどね。
 けれども、原さんたちだけには、私がそんなに申しました。これは初めてです。「もう一生助けて頂いた御恩を忘れるようなことは、いたしません。信心をやめるようなことは、いたしません」というのが原さんたち夫婦のその時のご返事でした。

 そういうところを通っているのですから。無い命を助けていただいて、しかも一人息子ですから。それから、二十何年の間にも、数限りない、もう本当におかげと言わなければおられないおかげの中に、いわば日々が、おかげの中におかげを頂いておる。ですから、あんなこつを神様に約束しとったから、また参らなくてはならないではなくて、もう現在のところでは、原さん一家の信心は、もう参らなければおられないところまで、信心が伸びてきている。
 本当に日々がありがたい、その日暮らしをさせていただいておるけれども、お金はひとつも貯まってはいない。いや実際は、無いのである。けれども、必要な時は必要に応じて、まあ原さんの信心の程度ではあるけれども、三人の娘さんが嫁入る時には嫁入る時で、ちゃんとおかげを頂いているから不思議です。宅祭りをする時には宅祭りをするだけのおかげ頂くから不思議です。

 そういうところから、神様の絶対のものを、だんだん感じられるようになってきた。これは自分たちが思い立ったのではない。周囲から「原さん、どうでもこうでも、ひとつ店の改造をしたらどうか」ということでお伺いされた。そしたら、始めたらよかろうということであった。
 なぜ私が、そう言うかと言うと、息子の命を助けていただいたという借金があるとするなら、それに対する借金払いが、できたような感じがするから、私はよかろう、と申しました。もう百万円の借金払いができたなら、神様のほうには、百万円の貯金ができていると、私は信じたからそう申しました。その事をお夢に頂いているわけなんです。

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お道の教師としておかげを受けられたら結構です
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 「神は向こう倍力の徳を授ける」と、これが徳になっておる。まあ打ち向かい方は、さまざまあります。そこで、私の事を思わせていただくならです、皆さんとひとつも変わらない打ち向かい方だった。けれども、だんだんおかげ頂いて、そして今度は反対に、もうにっちもさっちもいかないようになった。
 親先生は、もうその事で一生懸命お願いしてくださった。私は、商人になりたい、の一念でしたから、立派な大きな商売をさせていただいて、大きな御用に立ちたいというのが願いでした。ところが、右と願えば左、左と願えば右、という事になって私が気づかせていただいたのは、神様の願いというのは、いったいどこにあるのだろうかと思うようになったのです。これはひょっとすると、私どもが商売繁盛願うたり、こうしてください、ああしてくださいと言っているけれども、私のような者にでも、大坪総一郎にかけられる神の願いというものがあるに違いない、と気づいてきたからです。
 それから親先生にお取次をするお願いの仕方が変わってきた。私に対する神様の願いが、どうもあるとしか思われません。そこで神様の願いが成就することのためならば、どんな修行でも黙って受けようということになってきた。

 今から思うてみると、この考え方が一番間違っていなかったようです。その時分、親先生が、もうとに角商売がにっちもさっちもいかなくなった私のことを、三代金光様にお届けになった。私は、「お繰り合わせをお願いします」とか何とかというお言葉だろうと思っていたのです。親先生もそれを期待しておられたのです。そしたら金光様は、「お道の教師としておかげを受けられたら結構です」とおっしゃったからですね。もうびっくりしました。
 もう一生懸命の修行になってまいりますと、みんなが「やっぱり、あんたは学院に行かなければならないだろう」とか、「金光様の先生にならなければならないだろう」と言いますけれども、「これだけは、もう絶対ない」と打ち払っていた。もう親先生あたりの修行を見ておりますから、とてもあんなことはできないと思うとりますから。
 そしたらもう青天の霹靂です。「お道の教師としておかげを受けられたら結構です」と。それからやっぱり二十年近く、さまざまな問題があって、教会にもなれない、教師にもなれなかったけれども、その金光様の一言があったばかりに、私の信心は支えられたというてよかったです。そこから、人がしたという修行なら、どんな修行でもさせていただこうという修行に入り、それから神様へ打ち向かうというても、「どうぞ大坪総一郎の願いが成就いたしますように」ではなくて、「神様が私にかけられているその願いが成就いたしますように」という願いになってきた。

 だから今日、私はここのところで思うのです。打ち向かう倍力の徳を授ける、とおっしゃるのはこれだなと思うた。だから、どうぞどうぞと言う、お願いだけの信心では、何十年たっても、私はお徳は受けられないと思う。それは願わなければおられないことばっかりなのです。ですから、願わなければおられない、また願うことを神様は待っておられる。

 けれども、その願いが、神様の願いが私の上に成就する、いわゆる神の願いが地上になるということです。そういう願いをもって神様に打ち向かう時に、もうこれならば絶対に、十の力で向かえば必ず二十の徳を受けるだろう、二十の力をもって向かうならば必ず四十の徳を受けると、私は確信をもって皆さんに聞いていただけるのです。

 「神は向こう倍力の徳を授ける」と。一生懸命お参りしておられる、もう何十年とあちらは朝参りが続いておる。なるほど、それこそ「神様、金光様」と言うて何十年と続くなら、もう何とはなしにおかげは頂くのです。これはもう条件には及びません。金光様の信心を何十年と続けておる人たちを見てごらんなさい。もう特別のことはないけれども、もう何とはなしにおかげを受けているです。やめれば仕方がない。けれども、続けておる限りおかげを受けますね。けれども、何十年続いておるというて、お徳を受けていないところを見ると、それなら打ち向かうというても、打ち向かう焦点、打ち向かい方があるんだということになります。

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商売をするなら、取次者の精神で
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 昨日も午後から、日曜たびに吉井から杉さんのおばあちゃんがお参りして来ます。七十九歳になられるそうです。まあ元気でお参りされる。それで、信者控室でお茶をあげておりました。上野先生と末永先生二人でお話相手をしておりました。そこへ私が出てまいりましたから、まあ一緒にお話しをしておりましたら、先生方が次々と集まった。六、七人ぐらい集まりましたでしょうか、「いやあ、今日は先生ばっかり集まってから」と言うたことでした。もう一生懸命信心話をさせていただきました。
 最後に、むつや呉服店の信司さんがやって来た。「はあやっぱり石井先生が参って来られた」と言うたことでしたけれども。「信司さん、ここでひとつ考えねばならないことは、あんたは、教会の娘を嫁にもらわねばならんほどに、あんたのところはめぐりが深い。だから、もう金光様の先生になったと思うて商売をしなさい」と私が申しました。

 「もし私が今商売をするなら、大変繁盛することだろう。金光様の教えに基づいてお商売をするのだから、もう絶対、繁盛すると私は思う。というて今さら私が商売人になるというわけにはいかない。信司さん、あんたは金光様の先生になりたくないだろうけれども、教会から嫁をもらわなければならないという、そこに気づかせていただいて、金光様の先生になったと思うて、人が助かりさえすればよいというのが、お取次の精神であるのだから、お客さんに喜んでもらえばよいというように、本気で道の教えに基づいて、信心で商売しなさい」と言うて話したことです。
 お商売をさせていただいくなら、そういう向かい方なんです。「どうぞ、むつや呉服店の大繁盛を」と願うてもいいわけです。けれども、それはどこまでもお客さんが喜んでくださりさえすればよいという商売の精神がいるのです。それはそのまま、神様が喜んでくださらないはずがない。だから、神様が喜んでくださるための商売になるわけです。
 そういう信心で向こうたら、もうこれは絶対お徳が受けられる。「今日もどうぞ、むつや呉服店が商売繁盛のおかげをいただけますように」と言うて願うなら、お道の教師になったと思うて頑張れ。その精神で商売をしなさい」と。それならば、もう絶対お客さんが喜んでくださる。神様も喜んでくださる。そういう向かい方なら、今日の御理解でいうならば、必ず倍力の徳を受けられるということです。いうなら、ソロバンを捨てるということです。
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あの世への誕生
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 昨夜七時過ぎでしたか、最近私が座っていて立つ時に、右足がグキッとなるくらい、とても痛むのです。それで昨夜の御祈念の時に、そのことをお願いさせていただいておりましたら、今、黄色いあやめがいっぱい咲いているでしょう。そのあやめが、もう花が枯れて、そして下から、また小さい花が咲くでしょう。そういうところを御心眼に頂いた。
 どういう事かと思わせていただいたら、先日から私が「私も手にだいぶんしわができて、ずいぶん年を取ったなあ」と言った時のことを頂くのです。もう考えてみると、そうだろうと思うのです。こちらは若い気持でおるが、もう六十歳ですから。私どもが若い時には、六十歳の人といえば、もうおじいさんに見えておりましたですからねえ。本当にこちらだけは若い気持ちでおるが、本当にしわができるようになった。
 それで、私はその時思いました。だんだん年を取っていくと、まず四十肩といって肩がこったり、目がうすくなったり、耳が遠くなったり、歯は総入れ歯をしなければならないようになるのですよ。だから、これは私たちが死ぬるまで年を取ったための支障というのはできてくるわけなんです。それは、いうならば、あの世へ行く準備が一歩一歩できておるわけなんです。だから、この事は、神様にしっかりお礼を申し上げねばいけないということです。

 何のために黄色いあやめを頂いたのだろうかと、後から考えてみたら、黄色はいつも今が真ん中というときに頂くのです。おかげになるかならんかという中間の色です。赤が信心の情熱とか、紫が安心とか頂くでしょう。色別で頂く時に、黄色を頂いたときには、ちょうど真ん中という時です。はあ、私たちがお国替えのおかげを頂く時でも、今中という気持ちであの世に行くのです。私はそれを頂いてから、金光様のみ教えというものが、素晴らしいことを知りました。
 ですから、目が薄くなりましたからどうぞよくなりますように、歯が悪いのでどうぞよくなりますように、というのではなく、もうそれは、お礼を申し上げねばならないことです。しわが寄ってくるということも、神様にお礼を申し上げねばならないことです。もうあの世に一歩一歩近づかせていただいておるあの世への誕生が、一歩一歩近づかせていただいておる印だから、お礼を申し上げなければいけない。それを、だから成長と言うてもいいわけです。

 黄色いあやめの花が咲いた。花が落ちた。しばらくすると、落ちた後にまた、花が咲く。二度花が咲いた、と言うでしょう。人間は、そういう時があるのです。そうしながら、だんだんだんだん憔悴し、枯れていくわけなんです。そして、また来年芽が出てくる。いわゆる、あの世へ芽が出るわけなんです。
 ですから、それは成長を遂げておる姿なんです。腰が痛くなったとか、足が痛くなったとか、もう年を頂かしていただいておる印なんだから、これは願うことではない、お礼を申し上げるべきだ、と私は昨夜気づかせていただいた。そのことを、みんなに聞いていただいた。

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徳を受ける決定版
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 だから、神様に打ち向かうというても、お礼を申し上げねばならないことに、それが不平不足であったり、それが願いであったりではいけないことが分かりますね。だから、そういう当然のお礼を申し上げねばならないことを、お礼を申し上げるような信心によって神様へ打ち向かうときに、必ず倍力の徳になると私は思うですね。本当のことが分かって、本当のことを行っているわけですから。
 もう六十歳にならせていただいたんだから、六十歳だけの健康を頂いておるということ。それを、まだ三十代、四十代のようにありたいというようなことは、それに反することなんです。しかも、あの世にお国替えのおかげを頂くその日まで、私たちは、その事のお礼を申し上げねばならない。なるほど、「死に際にもお願いせよ」とおっしゃるのはそのことなんです。その願えということは、死に際にもお礼を申せということなんです。死ぬ時が、あの世とこの世の、ちょうど真ん中なのだ。なるほど、黄色いあやめをもってお知らせを頂いたのは、そのことだなと思わせていただくのです。

 そういう向かい方。または神様の願いが成就することのために願う。お商売をさせていただいておるならば、むつやさんに私が申しましたように、お客さんが本当に喜んでくださりさえすればよいという商売、それこそ金光様の先生になったと思うて、そういう生き方でいけと。それが、お客さんの喜びになり、そのまま神様の喜びになるから、そういう打ち向かい方ならば、必ず倍力の徳になる。
 今日は、「神は向こう倍力の徳を授ける」というところを、そういうふうに頂いたわけですね。そして、これが徳を受ける決定版のように思います。今までは、ただ打ち向かいさえすれば、一足でも無駄にさせないというのは、おかげであって、お徳ではなかったと思うですね。
 お徳を受けるということは、神様の願いが私どもの上に成就することを願わせていただくという信心で、しかも、そういう信心が神様に迫力をもって向かわれる時に、倍力となって現れてくる。そして、百万の借金があった、百万の借金払いができた。その時には、もうすでに百万の徳を受けておるということです。これはだから私の信心体験からも言えることなんです。それを原昌一郎さんが頂いたお夢の中から聞いていただきましたですね。 どうぞ。

              昭和四十七年(一九七二年)五月十七日 朝の御理解