御理解 第五十節

 とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が
 肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ。

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地を肥やすとは
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 「常平生からの信心が肝要じゃ」とは、常日ごろ、しっかり信心をさせてもらっておく、ということ。「常平生からの信心が肝要じゃ」ということは、常平生から、地を肥やすところの信心でなければならない、ということ。ただ、常平生一生懸命拝んでおりますと。教会にはお参りはできませんけれども、うちから、しっかり拝んでおります、というのでは地は肥えません。
 そこで、「地を肥やせ」とおっしゃる『地』とは、どういうことかと。これは、いろいろに頂けるでしょうけれども、間違いなくこれが地だ、と言えることは、天地の『地』です。だから、天地への還元が地を肥やすことになります。

 次に間違いのないことは、先祖を大切にするということです。まあ仏教的に言うなら、供養とでも言いますかねえ。先祖は、いわゆる家の根である。その先祖の一番手近なところにあるのは親である。だから、親を大切にすることのできないような信心者では、信心者としての値打ちはない。親を粗末に扱っていて、よいおかげが受けられると思うたら当てがはずれる。

 次にまた、間違いのない「地を肥やす」ということは、いわゆる心である。この三つは、いよいよ間違いなく、地を肥やすことになります。
 そこでまあ思うのですけれども、なるほど天地への還元もよかろう、天地へ還元していくということ。この天地への還元だけを看板にしておるような宗教もありますね。いわゆるお供えです。さっさとお供えすることは、天地への還元だというふうに言いますね。

 先日から、私は何回もお話をしましたように、霊友会という新興宗教がありますが、相当に、全国に信者を擁しておるというくらいですから、ずいぶん実力があると思うのですけれども、これはもう徹頭徹尾、ご先祖の供養です。ご先祖の供養をすれば病気が治る、ご先祖の供養をすれば、運命が変わってくると、もう徹頭徹尾それを説いております。
 なるほど病気は治る、運命が変わるというても、人間そのものが変わっていない。いわゆる、人間そのものの助かりということにはなっていない。いわゆる、心の助かりなのです。そこで、私が一番最後に申しました心です、心を肥やすということです。

 心を肥やすということは、いよいよ心が豊になり、美しくなることです。心が豊かに美しくなってまいりますと、親を大切にしなければおられんのであり、先祖を大事にしなければおられんのであり、同時に、天地に対する還元を、させてもらわなければおられないことになってくるのです。まあそれを、お道流儀に言いますと、おかげを頂けば、御用をしなければおられないのである。
 お道の信心によって、おかげを頂いたら、本当に、ご先祖様を大事にしなければおれないのである。それはもう、やむにやまれぬ思いで、そういう心というものはつのってくるものです。それはもう本当に素晴らしいことです。信心が燃えてまいりますと、いわゆる心が、だんだん肥えてまいりますと、そうしなければおられないのである。

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一番根本になるものは心
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 先日から、久留米の佐田さんがお届けなさっておられます。私どもが、このようにして助かっておるのでございますから、やはり先祖も、どうでも助かってもらいたい。そのためには、どうでも今、改式しておかなければならない。もう待てないと言われる。お母さんも、「親戚やら、子供たちには、私が言おう。お寺さんにも、今までお世話になっておることのお礼を言うと同時に、こうして改式するからと話しにいこう」と言われる。とてもこんなことは、勢いのある時でないと、できることではない。
 その辺のところが、やはり燃えてきませんとね。心がいよいよ豊かになるというか、心が肥えてくるというか、そういう助かっていく自分が、もう自分だけの助かりでは、もったいない。先祖も助かってもらわなければならない。

 私はその事を聞いて、素晴らしいと思いました。改式したいと言う願いは、前々からあっていましたけれども、まだ時期じゃない、時期じゃない、ということでした。ところが、最近お母さんが、どうでも早く改式をしたい。子供たちには私が納得をさせる。お寺さんにも私が行こう。今度の宅祭りの前には、どうでも、改式だけはしておきたい」と言われる。
 御神前の間を一部屋造らせていただいこう、というお届けもあったけれども、それも時期が、まだ早いとお知らせを頂いた。そこで現在の仏間を壊して、そこに霊舎を造って、お宮をお祭りしたりする所に変えようということであったけれども、それもいけない。ただ、今、神様をお祭りしておる一間床の床の間に、神様とみ霊様をお祭りするようにさせていただいて、また新たに、神様の部屋を造るというときには、もっと堂々とした、おかげの頂けるようになって、堂々とした新たな神様とみ霊様をお祭りしたがよかろうと思うのです。まあ、神様からお許しをいただくところをみると、そう思うのです。

 そこで、さっそくそれにとりかかっておられるわけですけれども、信心が、だんだん分かってこられているのです。信心が分かってくるということは、信心が頂けてくるということなんだ。信心がもう血や肉の中に入ってくるのです。一家中が、ありがたくなってくるのです、もちろん一家中でそれに反対する者は一人もいないけれども、子供たちやら親戚やらがあるから、その者たちにも、やはり納得させねばならない。それをおばあちゃんが、「私に自信があると、お寺さんも今度改築があって、相当金額の寄付を言うてきているから、その寄付を最後に、これで改式させてもらうからということを、私が言いにいこう」と言われる。

 偉い、と私は思いますね。これは、本当に自分の信心が肥えて、お道の信心が入っていかなければ、言えることじゃないです。自分が本当に助かっていきよるんだから、先祖も助かってもらわねばおられんと言うのです。お道の信心によって、いやお道の信心によらなければ助からない、と確信しておられるわけです。また事実がそうなんです。

 ですから、「地を肥やせ」と言うその『地』と言うことは、根ということであろうが、天地への還元も、先祖への供養も、心のほうが肥えてくるならば、それはなされなければおられないことになってくるのですから、一番根本になるのは、心だということになるわけです。

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心の確認
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 そこで、最近若先生が、だれ彼なしに説いておることは、「心があることを認めるか」と言っております。あなたに心があるかということを認めるかと。心の確認である。心の確認ができたら、絶対信心にならなければおられんのである。教えを頂かねばおられないのである。
 「心が確認できずに、ただおかげだけを願っている信心ではだめだ」と、「まず、あなた自身に心のあることを認めるか」と、最近若先生は、そうゆうことを言っておりますね。何か感ずるところがあって、自分自身も、ようやく心の確認ができてきたのかも知れません。素晴らしいことだと私は思うですね。

 私が今朝、御神前に出らせていただきまして、神様からお知らせに頂いたことは、「心が変われば、人相が変わる、心が変われば手相が変わる」と。私なんか、ずいぶん手相が変わったです。これは心の確認をしておるからです。しかも、その心の確認ができたら、その心が、いつも穏やかであるように、ありがたくなれることのために精進する。そのために、改まることに一生懸命になる。心が確認できたのですから、その心を大事にしなければおられなくなってくるのです。
 心を大事にすることに関心がないなら、あるといっていても、まだ心があるということを確認していない証拠です。「おかげは和賀心にあり」とおっしゃる、その心にあるのですからね。心の確認がまずできなければいけないのです。もう本当に、心の確認ができたら、心はそれこそ、大事に大事にしなければおられません。
 悔やむ心、不平不足を言う心、心配な心、それこそ、ずるい心、汚い心、横着な心、心というても、たくさんありますよね。そういうような心を、取りはずしていくというか、それを改まっていくというか、そうしなければおられないのです。心を大事にしなければおられない。だから、手相も変われば、人相も変わってくるのです。いわゆる運命が変わってくるのです。

 私は、最近若先生が感じておるであろうと思うのですけれども、心の確認を、まずしなければいけません。心があるんだということを。それは、医学上では分からんのです。摘出することはできません。内蔵の一部と言ったようなものじゃないです。けれども、確かにあることだけはあるのです。それをいよいよ確認するということ。心があることを確認する。

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心は確かに通う
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 二、三日前、お届けがあっておりましたけれども、昨日は、実際、実物を見させて頂いて、なるほど、魂という世界があって、お互いの心である魂というのは、こういう不思議な働きをするものであるかと、目の当たりに、昨日見せていただきましたですね。椛目の内田さんところの三番目の息子、左官をしておりますが、嫁さんをもらって今、久留米のほうにおります。その息子が、仕事で、小倉のほうへ行って一カ月余り。嫁さんのほうは、ずいぶんとお腹が大きくなって、妊娠のおかげを頂いております。家の方で、嫁さんが一人で待っておるわけです。
 先日、椛目にやって来て、「お母さん、ちょっと不思議な事がある」と言うて、何かこう持ってきた。それは、掛け布団のカバーなのです。まだ新婚の家ですから、自分のところには、墨やら硯はないのですよ。それなのに、掛け布団のカバーに、もうすっかりそのまま、裸の姿が写っておる。本当にびっくりするです。まあ、描いてからでも、とてもできないと思う。それで、何か落ちて、染みが付いたのではなかろうか、何でだろうかと、いろいろ調べたが、そんな心あたりが全然ない。もう、とうとう気持ちが悪くなってから、もう寝らずに、あくる日お母さんのところへ持ってきた。

 そのお届けがあっておりましたけれども、私はそんなに心を動かされなかったのですが、実物を見てから思い出したことがありました。幽霊写真というのがありますよね。私は実際に、久留米教会の総代の池松さんという方から見せて頂いたんです。東京の大学に行っておった息子が急死した。お父さんとお母さんが撮られる写真に、パッと入って来た。三人写っておった。
 だから、魂の世界を否定するということはできない。それはもちろん、魂の世界をうんぬんすると言えば、もう信心を、うんぬんするのと同じことですけれどね。まだ新婚の夫婦が、いわば一カ月も別れておって、それこそ、もう一生懸命に主人のことを思う。「ああ、どうしているだろうか」と家内が主人のことを思う。主人がまた家内のことを思う。いわゆる思いです、心が通うた。その心が一つになったんですね、そこに不思議な現象が現れたわけです。

 掛け布団のカバーに写った一人の形は、ちょうどお腹が大きいようにできている。もう一人は、裸体の姿で写っている。そして、その横に、黒く固まりのようになって、ちょっと足がこうあるといったような感じ、それはおなかの中の赤ちゃんのように見える。私はそのことを、本当に不思議な事があるもんだと思うた。けれども、内田さんたちが、何か悪い事のお知らせじゃなかろうか、と言うて心配されますから、そのことを私は、神様にお届けさせてもらいましたら、「林」という字を頂いた。木(気)を二つ書きますね。
 心が二つです。二人の心がつながった。思い思われる、そういう心が、そういう一つの現象を現した。一つのまだ、なんやらかんやら分からないのは、おなかの中の赤ちゃん。親子三人の心がそこに現れている、それはどういう都合かわかりません。どこにでも起こるということでもありません。例えば、ここでオイサミなんかを頂くのも、何のために、どうゆうことなのか、分からないです。そのようになぜ、そういう不思議な現象があるかということは分かりませんけれども、それで、心が通うということは、または、心があるということは、認めなければいけないでしょう。
 私は、どうでもこうでも、これを写真に撮らせようと思う。昨日、持って帰ったけれども、ちょっとそこに置いときなさい、と言うときましたから、確かにそこにあるはずですから、帰りがけにどうぞご覧ください。私はこちらから見ましたから、逆さかに見とるわけですけれども、こちらから見たほうが、本当に人体と感じられるですね、反対から見たほうが。例えば、そういう不思議な事を通してから、心が、魂があることをお互い分からせてもらうわけですけれども、信心させていただいて、本心の玉を磨くということは、本心の玉、いわゆる、自分の心を研くということ、清めていくということです。それも、心の確認が、まずなされなければ、清めることも、磨くこともできません。

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信心とは、改まり磨くこと
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 「とかく信心は地を肥やせ」。その「地」と言うことを、まあいろいろに申しましたけれども、一番根本の地ということは、心ということです。とかく信心は心を肥やせということなのである。それにはまず、その心を肥やすなら、心を肥やさなければおられなくなってくるように、はっきり自分の心を、そして、自分の心の浅ましさというか、汚さというか、見苦しさというものを、まず気づかせていただいて、その見苦しいところを、汚いところを清めていく。いわゆる和賀心を目指させていただくというのが、それなのです。
 お互い、心というものを認めているようであって、確認ができていない。改まることに一生懸命でないならば、磨くことに一生懸命でないならば、自分自身を本気で見つめる心がないとするならば、まだ心を本気で認めているとはいえないですね。そして、人相が変わっていくことを、手相が変わっていくことを楽しみに信心させてもらう。もうそれこそ、ひとりでに物ができるようなものです。願わんでも、頼まんでも、必要なものは神様のほうが先回りをしてから、おかげを下さる。ひとりでに物ができておるのです。合楽の場合はそうです。

 「常平生からの信心が肝要じゃ」と言われる信心とは、「信心とは本心の玉を磨くものぞや」、「信心とは日々の改まりが第一じゃ」と教祖様が言われているように、その本心の玉を磨くということ、改まるということが、信心だと頂かねばいけません。
 拝んでいることが、参っていることが信心ではありません。本心の玉を磨くことが信心なのだ、日々の改まりに精進させていただくことが信心なのだ。そういう信心が肥えてくる、そういう信心が豊かになってくる。肥をせんでもひとりでに物ができるようなおかげを頂くために、ぜひ心の確認をさせてもらって、その心をいよいよ大事にさせてもらう、いよいよ磨かせてもらう、改まらせてもらう。自分はどこを改まったらよいだろうかというような、磨くとか改まる心が薄い人は、まだ心の確認ができていないと思わねばいけません。心の確認ができたら、そうしなければおられない、ばからしいです。いわゆる、心が安住の地に住む。どんな場合でも、ありがたい。悔やむ心も起こってこない、不平不足を言う心も起こってこない。もちろん人をいじめるという心はなおさらない。自分の心で人を傷つけたり、殺すようなことはなおさらない。そういう修行を、私はさせてもらう。

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確認した心をいよいよ大事に
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 最近は、梅の花の信心と頂いているわけですけれども、いよいよ梅の花の信心をさせていただくのも、その根底として、心の確認がされてからでなければ、できません。そこで、合楽地区の田中初美子さんが言われるように、「梅の花とか香りとか、実とか花とか皆さん言われるけれども、私の場合は、まだまだ信心が幼稚ですから、梅の木を育てるというところから、いかねばならないと思います。その梅の木を育てるためには、もう大便が一番です。もう梅の木だけは大便でなければいけない、と言うことを聞きましたが、もうそれこそ大便のような汚いもの、どういう難儀があっても、嫌な問題が起こっても、それで梅の木が今、育つんだ、梅の木に今、肥料をやっておるんだと思うて、頂いていくことにさせていただいております」という気持を、このごろお取次なさっておられますけれど、これは、やはり心の確認ができなければ、それはできません。
 心の確認ができたら、そのことをすることが、楽しいことになってくるでしょう。ありがたいことになってくるでしょう。もう間違いなく、その梅の木は大きく育つことでしょう。そして、たくさんの花をつけることでしょう。たくさんの花がつくことは、たくさんの実が実るということにもなるのですから。それぞれに、さまざまな工夫をさせていただいて、確認した心を、いよいよ大事にしていかねばいけないと思うですね。 どうぞ。

              昭和四十七年(一九七二年)四月十六日 朝の御理解