御理解 第八十八節

 昔から、親が鏡を持たして嫁入りさせるのは、顔をきれいにする
 ばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔
 を人に見せぬようにして家を治めよということである。

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代まさりのおかげを頂きたい
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 家を治めよということは、心を治めよということである。家を治めるというならば、心が治まらなければいけません。この御理解を頂きますたびに思うのですけれども、これは娘さんが、嫁入りするときに、言うて聞かせてやるお話であろうと思います。でも、この御神意というか、深さというものを、ここから少し頂いてみますと、大変な御理解だと思うですね。

 私は、八十八節というのは、もう限りなく、おかげの上におかげの受けられるみ教えだというように申しますが、おかげを受けるということではなくて、おかげにおかげの花の咲くほどのおかげというのは、徳を受けるということなのです。お徳を受けないと、いわゆる、おかげの上におかげ、言うならば親の代より子の代というようなおかげになってこないのです。
 だからどうでも皆さん、せっかく信心させていただくのですから、本当におかげの花の咲くような、親の代より子の代に、いや孫の代にと繁盛していくような、おかげを頂きたいもんだと願います。皆さんも、それを願わなければいけないと思います。それで、「悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよ」というところを、心を治めよというようにして、ここに焦点を置いて聞いていただこうと思う。
 皆さん、こんな事を思われたことはないでしょうか。確かに、お徳を受けることに一生懸命になって、あられぬ修行もさせてもらい、お徳を受けたにいたしましても、それでお徳が残るとはおっしゃられても、子供や孫が、親のような信心を、また、してくれるだろうかと。
 これは私、大坪総一郎ということでも良いですよ。今日、ただ今、このようなおかげを頂いておるが、果たして二代が、三代が、私と同じような信心修行ができるだろうか、いや、それを受け取る力が、果たしてあるだろうか。お徳が残るとはおっしゃるけれども、これは大変なことだなあ、子供に信心を伝えておくことは大変なことだなあと思う。何かちょっと不安な感じがする。
 せっかくお徳を頂いて、心の上にも、形の上にも、ありがたいおかげを頂いておっても、これは自分一代で終わるのではなかろうかと。「この世にも残り、あの世にも持ってゆけるのが神徳じゃ」とおっしゃるが、果たして、その神徳というものを、子供が受けてくれるだろうか。だから、これは子供も大変だなあ。子供も、そのお徳を受けるための信心が大変なことだなと思う。これはもう、自分一代で終わるのではなかろうかというような不安が、ちょっとかすめる。

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お徳の受け渡し
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 私、昨日の朝、いつものように、控えで、三十分間じっと、朝の祈念の時間まで待たせていただいている時、フッとそんな事を考えた。いわゆる「あの世にも持ってゆけ、この世にも残しておける」とおっしゃる教祖のお言葉を、ちょっと疑うことになりますよね。そしたら、御心眼にね、小さなロウソクの使いかけを頂いた。

 昨夜、月次祭が済んで、私と秋永信徒会長と高橋さん、久富さん、文男さんでしたか、愛子もおりましたでしょうか、四、五人でテレビを見せていただいておりましたら、いろんなロウソクが画面に出てきました。そしたら、今朝頂いておったお知らせに気づかせていただいたので、「とにかくテレビは消してしまいなさい」と言うて、テレビを消させていただいて、一時半ごろまで、一生懸命話させていただきました。
 私が朝三時半に出てきて、そこに控えておる時に、合楽でおかげを受けておるおかげを、子供が孫が、受けるためには、大変な力がいることだなあと、ふっと思うた。そしたらちょっと不安になった。どこどこ教会の初代はああいう大徳であったのに、二代になり、三代になり、寂しくなっていく例は、いくらでもあるのです。だから、それと同じようなことになるとするなら、これは寂しいことだなあと思うた。そうしたら、御心眼に、ちょうど半分位のロウソクを頂いた。いわゆる使いかけのロウソクなんです。

 そして、その三十分間、いろいろ懇切に、神様から御理解を頂いた。例えば、信は光なりとか言うでしょう。信心は、心に光を頂くことだと。ですから、その大きな光なら光が、私の心の光が、一生燃え続けるといたしましょうか。そして、私が亡くなるということは、その光が消える事になる。ところが、残るというと、何が残るかというと、その燃え残りのロウソクが残るのです。光じゃなくて、ロウソクが残るのです。徳が残るのです。
 だから、「もとをとって道を開く者は、あられぬ行もするけれども、後々の者は、そういう行をせんでも、みやすうおかげを受けさせる」ということなのです。そのロウソクの受け渡しということ、いわゆる親が残してくれたそのロウソクを、また受ける。ただ、これに火を点ずるということだけが、二代の仕事、三代の仕事ということである。
そこで親がです、まず私がです、信心とは、このようにありがたいものと、自分の心が治まっておらねばならんのです。

 信心とは、ありがたいもんだなあ、尊いもんだなあと。うちの親父は、あのような場合でも、ひとつも驚かなかった。あのようなときでもいつも喜んでおった。信心とは尊いもんだなあと、渡しとかんでも分からせることだけは分からせとかねばいけない。信心というものが、ありがたいものだということを。ですから、親が亡くなったら、信心とはありがたいもんだなあと、信心を子供が受け継ぐことになる。
 そこに、また火が点ぜられるのである。その光を持ち続けることができる。また、それを三代に四代に伝えていくだけのこと。だから、いかに信心が生き生きとして喜びがなければならないかということになる。

 うちの子供やら、孫やらが、私がしたような修行はとてもできまい。そうすると、もし合楽に頂いとる徳というものがあるなら、その徳を受け継ぐことはできないのではないかと、私の心の中に不安がかすめたのです。ちょうど、ロウソクを渡していく、光を渡すのではなく、ロウソクを渡していくようなもんだと御理解を頂く。そうしてみると、なるほど、みやすうにおかげが受けられるということになる。ただ、そのためには、信心が何になるかと、信心なんてつまらないというような与え方ではなくて、とにかく、信心はできなくても、信心とはありがたいものだなあと分からせとかねばいけない。
 今日の御理解でいうと、信心によって、いつも、うちの母の場合、うちの父の場合、治まっておったなあと、信心とは尊いものだなあと分からせておくだけはいる。いわゆる、言うて聞かせることも、して見せることもいらんけれども、そういう信心をいつも家庭の中に頂いておかねばならない。それが、いつの間にか、信心とはありがたいものだなあということを、子供たちが分かってくれるようになる。そこでロウソクの受け渡しができる。
 神様に心が生き生きと向かう。生き生きとしたその心で向かえば、例えば修行はできていなくても、それに火を点ずることができる。親の時と同じ光を頂いていくことができるのです。ですから皆さん、私が昨日、不安に思っていたこと、皆さんが徳を受けられても、その徳を受けてくれる子供がおらんなら、せっかく頂いているのが自分一代で終わるなら、何かつまらんような思い方をなさって、徳を受ける信心に、はずまないなら、それは大変な損失なのです。だから、私どもは、どこまでも徳を受ける姿勢を作っていく、ということの信心に、ならせていただかねばならないのです。

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徳は子ならず、子は折々の信心
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 皆さん、お分かりでございましょうか。徳というものは絶対に残るもの。もう二十何年か前に頂いたみ教えの中に、「徳は子ならず、子は折々の信心」と頂いたことがあります。「徳は子ならず」とは、どういうことであるか。
 私はある教会の事をお願いさせてもらっていました。大変、徳を受けられた教会である。ところが、息子さんの代になって大変にさびれている。そこのところをお願いさせていただきよりましたら、二十四孝の筍掘りのところを頂いた。ですから、親が残してくれるもの、私どもが求めて求めてやまないものがここにあるのです。やはり、それを子供が掘りおこす素直さがなければだめだということです。徳というものは必ず残る。ロウソクにしても、火がついたままではない。親が亡くなったときには、その光が消えるけれども、もうすでに渡したときに、信心とはありがたいものだなあと、親の信心を慕わしく思う子供であるならば、すぐ火は点ずる。だから、火を点ずるぐらいは、子がせねばならない、孫がせねばならない。
 本当に、親の言うておることを素直に聞いて、それこそ、この寒中に筍があるはずはないけれども、親が掘れと言ったから掘ろうといったような、素直心だけは必要なのだ。そこに、私どもが求めてやまないものがある。そこに、ちゃんと徳が受けられるのだ。だから、徳はどうでも頂かねばなりません。

 合楽に御神縁を頂いている人たちが、お徳を頂かせていただくことに本気にならねばいけません。そのためには、日ごろ、心を治めることに、教えを頂いていることをもとに、いつも自分の心を治めておく。いわゆる土の信心です。「治める」とは、「シ」(サンズイ偏)に「ム口」(無口)と書いてある。例えばそのことを、神様のお計らいとして、御事として、自然に受けて、それを「ム口」とは、黙って受けていくという、土のような信心が要求されるわけですね。だから、徳を受けるということに、ひとつ本気で取り組まねばいけません。そして、心が治まって、いつもにこやかな和賀心でおれるような、そういう信心を願いとしなければいけません。そういう信心に、姿勢を向けなければいけない。
 そういう信心は、できてしまうということがない。それでいつも、自分の表情を鏡に映して、腹立たしい顔をしておらぬか、閻魔様のような顔をしておらぬか、顔が何となく、ずるそうな顔になっていないだろうかと思うて、心を大事にしなければなりません。

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神様の厳しさと優しさ
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 そこでお互いが、恵比寿様のように、いつもにこにこ、にこやかにしておることはありがたいですけれども、いつもにこにこしとるのでは、顔にしまりがないようで、やはりいけないですね。
 皆さん、私たちがご本部参拝しておるときに、三代金光様の前に出ると、金光様が実に厳しいご表情をなさいましたですね。これはもう、合楽の者だけは、憎うてたまらん、とおっしゃるのではなかろうかというようにあったですね。ところが、その厳しいご表情に接すると、心がもう、ひきしまっておりました。

 お徳を受けるということは、いつも、にこやかな心でおれることです。けれども、そのにこやかな心の内容というものは、私は神心だと思うですね。お道の信心でいうところのにこやかさ。お道の信心の柔らかさ、いわゆる和らぎ、賀ぶ和賀心というのは、神心なのです。だから、神様は決して、いつもにこにこ大黒様のように、笑うてばかりはおられない。鉄は熱しておるときに叩けと、これが神心なのです。
 本気で信心させていただきたい。本気で修行させていただきたい。一生懸命に燃えているときに、神様が大黒様のように、にやにやしなさるはずがない。だから、私どもの内容においても、それがいるのです。もう腹が立ってたまらなくて、顔が真っ赤になっておる。にがい顔をしておる。腹が立ってたまらないから、表情がにがい顔になっているのではなくて、神心をもって、厳しい表情にならせていただく。それを受ける者が、それこそ、無言の中に、ひきしまるような思いを与えれるほどの内容をいただきたいのでごさいます。

 昨日、いろいろそういう信心話をさせていただきながら、秋永信徒会長が、こういう事を言われる。昨日○○さんと信心話をさせていただいた時です。もうこの人は冷血漢だろうかと思うような人です。金を貯めることには、もう天才的なものを持っている。話を聞くと、実に冷酷無比である。例えば、高利貸しをするという人たちはそうである。
 それはもう、催促すると気の毒だから、もうたいがい利息だけで元金ぐらいはもろうているから帳消しにしておこうなど、そんなことを言っていたら、高利貸しは立ち行きませんよね。取るものは取ったがうえにも取る。差し押さえしてからでも取る。それで○○さんは金に不自由したことはないという。

 その事を聞きながら、私は思いました。自分自身を考え、私もそういう冷酷無比なところがあるですね。皆さん、感じられることがあるですか。私はそれで、秋永信徒会長に申しました。「そういう心が天地の神様の中にもあるよ」と申しました。神様の心の中に、冷酷なまでの心がある。優しいことが神様なら、叩かれることも神様だということなんです。

 それから、その事をいろいろと、昨夜からやすませていただいても、その事を思い続けた。本当に天地の親神様の心の中に、もうそれこそ冷たい、それこそ氷のような心が、おありになるかと思うと、また、たぎる様な心もおありだということなんです。そこで、信心を頂くとは、私どもの心の中にも、そういう神心が育っていくことなのです。例えば一例に、こういう事を聞いたことがあります、と言うて、秋永さんたちにもお話しさせていただいたことなんです。

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冷酷なまでの神心
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 甘木で修行なさった先生が、やっと布教に出られることができた。毎日お参りもない中に、ようやく甘木に参拝させて頂けるお初穂と、片道の汽車賃だけできた。それで、矢も盾もたまらん思いで、親教会である甘木教会にご参拝になった。そして、このことを親先生に申し上げた。「親先生、本当に今日は、お初穂と片道の旅費だけが、おかげ頂きましたから、もう矢も盾もたまりませんで、お礼参拝させていただきました」と。そして、「恐れ入りますけれど、帰りの汽車賃を貸してくださいませんか」と言うたら、返事をなさらなかった。そして、次々に参ってくるご信者さんには懇切に御理解はあるけれども、その方は夕方までとうとう待たされた。
 「本当に、ああいう事を申し上げねばよかった。歩いてでも帰ればよかった、申し上げるんじゃなかった」と思うけれども、お願いしているから、帰るわけにはいかず、お広前でちゃんと夕方まで待っておられた。そしたら、お取次を終わられた甘木の先生が、当時の一銭銅貨ばっかり持ってこられた。そして、憎たらしくてたまらんという顔で、参拝者の前で、一銭、二銭、三銭と言うて、ずらりと並べられたということです。

 何という冷酷な先生であろうか、と思うでしょう。そんな事は信者に言うことはいらん。「立て替えておこう」とおっしゃらなかったわけです。その先生は、ようやくお初穂ができた、汽車賃ができたから、やむにやまれん気持から御礼参拝された。恐らく帰りの汽車賃は、一にも二にもなしに師匠が喜んで貸してくれると思うていたが、どっこい夕方まで待たせて、しかも銅銭ばっかり、一銭、二銭と並べて、人の前で恥をかかせるようにして、しかも、にこにこしたような顔ではなく、厳しい顔でそれを渡されたということです。そこに本当は、師匠の思いがあるのです。この人が真実、助かることのためなら、そういう人の前で恥をかかせるような事もまた、神心なのです。

 なるほど、お互いが親切一つで助かるというが、信心でいう親切とは、普通でいう親切というものじゃない。お金がないならお金をあげる、というようなものじゃないということ。乞食が来れば、恵んでやるのが親切じゃないということ。恵むことによって甘え心をつくらせることが、何の神心であろうか。
 神様は、心ある人たちには恥をかかせても本当の信心をわからせようとなさるときには、冷酷なまでの取り立てもするようなところもあられます。高利貸しはとにかく冷酷無比、鬼のようにある。しかし、時には、その冷酷さが神の気感に適うわけです。本当に神の気感に適うわけです。

 私どもが、心を治める事の内容を、和賀心と申しました。だから、それは親切な心というてもよい、神心なのです。その神心には、そういう冷酷無比なところがあるのです。また、そういう心が育ってこなければいけません。
 願わくは、私どもは、心が安らいで、いつもにこやかでありたい。ということは、にやにや笑うているということではない。心がにこやかであることは、和賀心であるということは、ここのところを教えておかなければいけない、叩いてからでも教えておかなければいけないところは、叩ける心なのです。

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お礼の足りぬおわびこそ
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 三代金光様が、私どもをお取次くださるとき、厳しい顔をなさったのは、天地の親神様の厳しい一面を私どもに見せてくださったのです。合楽が憎うてたまらん、というのではなかったのです。より精進してもらわねばならない、よりおかげを頂いてもらわねばならないという御神意が、あのようなお姿をされたのだと、私は思うのです。
 同時に、私は、その事を考えさせていただいて、たいへんな事を発見させていただいたような気がします。「わびれば許してやりたいのが親心」とおっしゃるけれども、おかしいと私は思いますね。わびるということは、もう自分の罪状を認めたことになるのです。言うならばそうでしょうが。けれども、わびなければならんところは、わびなければなりませんけれども、私は反対に、むしろ、お礼を申し上げなければならないときに、おわびをしているのではなかろうかと思います。

 わびるということは、自分の罪状を認めたことになる。すみません、助けてくださいということは、心の底に呵責が残っておりますから、本当のおかげにはなりません。そして三代金光様が、「はじめの間はつろうてつろうてよう泣きました」とご述懐された最後のところに、「お礼の足りぬおわびばかりいたしております」とありますように、おわびはこれでなければいけないと思います。
 私は、その事を秋永信徒会長たちと話し合って休ませていただいて、その事を考え続けさせていただいて、ここのところに、思いいたらせていただいた時に、もう、おわびしてはいけないところに、私どもはおわびをしていたようですね。わびるということは、神様に罪状を認めておるようなものです。だから、自分もその事に苦しむのです。だから、金光教でいうおわびというのは、いわゆる、おかげを受けておることの、お礼の足りぬおわびでなければなりません。

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信心させていただく者の親切
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 大へんな事になりました。私どもは、どうでもお徳をうけなればなりません。お徳を受けなければ、合楽に通うてくる値打ちはないのです。そのためには、私どもが、どうでもひとつ、心を治めていこう。人に悪い顔を見せまい、見せてはならぬ。それを黙って御事柄として、成り行きを大切にさせていただくという信心に、徹しさせていただき、治まっておるというその内容が、だんだん高度のものになっていかなければなりません。
 「今日は親先生は腹を立てておられるのではなかろうか」というときでも、私の心の中には、神心が働いておるのです。それは、私がにこやかにしているときに、心の中に神心が働いておるときと同様と思うのです。本当にそうです。
 だから、皆さんも、子供なら子供に、うちの親父は怒ったことがない、いつもにこにこして、頭ばっかりかいているという親父ではつまらない。「親父は、何で腹を立てておるのだろうかと思うて、ひきしまらねばおられない内容の、厳しい顔でなければいけません。厳しい心でなくてはいけません。

 つまらん事で腹を立てたり、一喜一憂したものから超越した心が、ここでいう治まった心であり、そういう心が、お道でいう和賀心であり、そういう心が、お道でいう神心であり、そういう心から生まれてくる心を、親切というのであります。
 親切な心の中には、金を貸せというても、貸されんというのも親切です。それを私どもは、親切好きになって、それこそ乞食にでも恵んでおれば親切と思うて、そうすることは、信心のない者のすることであって、信心させていただいく者の親切ではないのです。 どうぞ。

              昭和四十七年(一九七二年)二月十九日 朝の御理解