御理解 第十三節

 神は向こう倍力の徳を授ける

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神様に向かう姿勢
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 いよいよ、今日から寒の入り、寒修行が始まる。これは、信心だけではありません。剣道や柔道をなさる方も、やはり寒修行という名目で、いわゆる日ごろのけいこにも、一段と熱を入れるという修行であります。
 毎朝こうやって、皆さん朝の御祈念にお参りになる。別に毎日御祈念に参っておられる方たちは、とりわけ寒修行中は、こうゆう修行するというようなことではないのですから、もう当たり前のことです。または普通はできんけれども、まあ寒修行の間だけでも、ひとつおかげ頂こう、というようにして、お参りされる方たちとあるわけです。暑いとか寒いとかと言う、暑い盛り、または一番寒い峠に、いわゆる暑い寒いを乗り越えての、それぞれ修行をさせてもらうということ。言うならば、苦しいうえに、もうひとつ苦労をしてみようというのが修行であります。

 これは、夏の修行でも、寒修行でも同じこと。夏の一番暑い盛りの午後一時の御祈念に併せて、夏の修行がありますように、寒修行は、やはり一番寒い朝の四時、五時から、皆さんがお広前に参集して、そして信心修行、言うなら御祈念修行をされる。というのは、ぬくぬくとして布団の中に入っておることが一番楽ですけれども、いわゆる寒い中に飛び出して、神信心のけいこをさせてもらおうと、自分から求めて、寒い中に飛び込んでいこうと云う修行なのです。

 私は、何のけいこでも、そうでしょうけれども、とりわけ信心は、それが火の中であろうが、水の中であろうが、それに飛び込んでいこうという意欲です。それが修行だと思います。そこで、それに耐え得る力を鍛える。言うならば辛抱力をつくるというのが寒修行であります。そういう、ひとつの勢いと、そういう潔さをもって、神様へ向かう。神様は向こう倍力の徳を授ける、とこう仰せられる。
 そこで、ここで思われることは、その倍力の徳を授けると言われることなのです。それで、これは、せっかく寒修行に、寒さを押して、こうしてお参りになるのでございますから、そういう形の上において打ち向かうということだけではなくて、心のうえにもです、神様へ打ち向かう姿勢が、要るのであり、つくらなければならない。

 皆さんが、このたびの寒修行に打ち向こうてくる、元気な心で、何が何でも、がむしゃらに、一月間の寒修行を成就させてもらう、または全うさせてもらうぞという、その意気込みで、一生懸命、寒さ眠さを押して、お参りしてくる。これは形の上のことですね、ですから、その内容というものが、心の状態が、神様へ向かわせていただく。しかも、倍力の徳を授けると仰せられる、その徳の受けられる心の姿勢というものが大事なのです。

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信心の香り
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 例えば、香炉ですね、香をたきます。なかなか香炉には名品が多いです。陶器のものであろうが、鉄のものであろうが、ずいぶん高いものですね、香炉というものは。私は、あの香炉が大変好きですから、たくさん頂いております。いろんな形のものを頂いています。床の間に花はなくても、よい香炉が一つあれば、それで、その部屋の気品をつくるというほどに、香炉というものは、何かそういうものを持っておる。もちろん、中には香をたくものですから、部屋いっぱいが、香の香りで何ともいえない奥ゆかしさというか、心が清まるというか、静まるような気がします。
 だからというて、例えばご飯茶碗に香をたいたらどうでしょう。ただ香りだけが目的じゃないですね、香炉は。だから芸術家たちが、その香炉を作るためには、あらゆる形の工夫をするわけです。いろんな形のがあります。気品あふれるのがあり、華やかさがいっぱいの香炉があります。だから、それは好みでございましょうけれども、それは、その形が良いというだけではなくて、その中に、やはり香がたきこめられてあって、部屋中いっぱいに香の香りが漂うというのでなければ値打ちはございませんよね。
 私は信心修行もそうだと。もう朝早くお参りしてきた、修行してきた。これは、いわば形のことなのです。その中に、馥郁としたというか、その香りというものが、私は大事だと思う。香がたきこめられておらねばならない。これを私は内容だと思うのです。
 もう朝参りして帰ったら、鬼の首を取ったようにして帰る、もう修行してきたと。例えばそれだけができましてもね、それはある意味では素晴らしいことなんです。けれども、問題がけいこなのです。ただ参るだけがけいこじゃない、参ってけいこをしてくるというのです。何のけいこかというと、信心のけいこです。ですから、参って行くときと、帰ってくるときというのは、心の状態から変わってくることにならなければならない。その事を神様は、歌舞伎の市川家の定紋とか屋号とかをもって、お知らせくださったのだと思うですね。

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徳の受け物
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 実は、私は今朝、御神前で御心眼に頂きましたのが、「三枡」、四角いのを三つ書いたのを三枡というのですが、これは、歌舞伎の市川家の定紋なのです。市川団十郎と、その一門の紋所なのです。屋号は成田屋といいます。そのことを頂いて、どういうことであろうかと思わせていただくのですが、成田屋、成田屋というのは成就の成が書いてありますね。田は田んぼの田です。田んぼの田というのは、これはおかげの受け物、徳の受け物。受け物なしには、おかげは受けられません。いかに種をたくさんもっておっても田んぼがなかったらできませんから。一反よりも二反、二反よりも一町持っておれば、それだけ収穫も多い道理です。

 だから、田と云うのは、おかげの、または徳の受け物だと頂かねばいかんと思うのです。徳の受け物、それはそうですよね、お酒を買いに行くにも、手のひらを出してお酒下さいといってもいけません。今はもう一升瓶詰めばっかりですけれどもね。昔はそうではなかった。やはり二合半徳利、五合徳利、一升徳利だった。徳利を持って行かなければならん。しかもその徳利というても、油やら、醤油やら入っておったのでは、いくらゆすいでも駄目です。酒屋が入れてはくれません。「だって、油の臭いがプンプンしよる、これはいかんですよ」と言うわけなんです。醤油の臭いがしてもいかんのです。いわゆる中が汚れとってはいけないというわけなのです。
 清めたもの、きれいな清めた徳利を持っていって、初めて、一升なら一升のお酒を入れてもらえるのです。けれども、一升徳利を持っていって、「これに一斗下さい」と言ったってこれは、かなわぬことなんです。願いだけは大きな願いを持っておる。けれども、一升欲しいというのに、例えば杯のような入れ物を持っていったって、これは、始まりませんよね。

 だから、成田の田とはそういう意味での受け物、それぞれの受け物。だから大きなおかげを願い、大きな徳を頂きたいと思うなら、やはり自分自身が大きくなる事の精進をせねばなりません。もちろん、心が豊かに大きくなるというおかげを頂かねばならん。だから、大きなおかげを頂きたいと思うなら、心がいよいよ大きく、豊かにならなければ、ばからしいわけです。いや、おかげを受けられないわけです。それで豊かになるけいこをするわけです。
 そこで、豊かになろうと思うて、「さあ、ひとつ豊かになろう」と、ちょっとぐらいの辛抱ならできるけれども、根本が豊かではないのですから、すぐ粗が出てくるわけです。二言、三言は辛抱してこらえておるけれど、もう四言、五言になると、これがもてんようになる。中味がないから、本当の受け物がないからです。

 そこで、そうゆう受け物が、私は市川家の定紋であるところの三枡のお知らせをもって教えてくださった、三枡のことであると思いました。三枡と云うのはね、真四角の枡を三つ書いてある。三枡と言う事について、私は考えてみた。
 成田屋ということは、おかげが成就するということ。お互い、信心修行、いわゆる寒修行によってです、受け物をつくるということ。寒い中に飛び出してお参りをする。眠いけれども頑張って参る。これは形のうえでの修行ですよ。ですから、今日ここのところを頂いて、御理解第十三節、しかも「神は向こう倍力の徳を授ける」ということを頂かせてもらって、十三節というのをすぐに感じた。

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神様の願いが成就することのための修行
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 ここで十三日といえば、神の願いが成就する日と言われております。だから十三日会には、皆さんがたくさん集まって、神様の願いにこたえての、信心共励、または信心の御用をなさるわけです。今日は神様の願いが成就することのために、という願いというものが立てられなければならないということです。
 自分の小さい願い、なるほど、自分の願いが成就するという。自分の願いごとがあるからこそ、お参りしよる、修行しよるといえばそれまでですけれども、信心が、だんだん分からせて頂きますと、これは神様の願いが先に成就することによって、私どもの願い以上の願いが成就するということを、皆さんは金光教の信心をさせていただくものは、そこのところが分からなければいけない。

 一人ひとりにかけられる神様の願いというものがある。その願いが成就することなのです。だから、「目先の病気を治してください、この事が成就しますように」というような小さい願いではなくて、いわゆる神様の願いが成就することのための信心修行、そういう生き方で行けば、必ずお徳を受けるでしょう。

 神の願いが自分の上に起きてくる。例えば、一つの難儀な問題であっても、それが神様の願いが成就することのための修行である、と悟らせていただいたら、その修行が大変にありがたいものになってくる。

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三つのます
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 私はその三枡ということが、いわゆる、「ありがとうございます」という、そのますだと思うのです。「もったいのうございます」というますだと思います。「恐れ多いことでございます」というますである。この三つのますをお供えせねばいけないなあ。今度の寒修行の、形ではない中味は、ここのところのおかげを頂かねばいけないなあ、この心を整えさせてもらわなければいけないなあ、というふうに感じたのでございます。そこに成田屋のおかげが受けられる。

 おかげの受け物が成就する。おかげの受け物ができる。徳の受け物ができる。ただ、がむしゃらに参ってくる。なるほど、これでもありがたい、これも大修行。けれども大修行の内容である。そこで、今日からひとつ「ありがとうございます」「もったいのうございます」「恐れ多いことでございます」と言えることだけなら言えるかも知れませんですね。口で言うだけじゃから。けれども、それをそう思うということは、なかなか難しいことなのです。
 そこで、お互いがそこのところに焦点を置いて、いよいよありがたい、もったいない、恐れ多いというような心の状態をもって形が整うておる。いわゆる、香炉じゃないですけれども、素晴らしい形の香炉の中に、それこそかぐわしいまでの香りを放つほどのおかげになってくる。部屋いっぱいが素晴らしい香りの雰囲気というか、信心させていただくものが、家の中に一人おらせていただいたら、家の中が治まる。家の中が何とはなしに春のような穏やかさと云うか、そういうものが漂うというほどの心の状態でありたい、家の中の状態でありたいと思う。
 そういう受け物が、いよいよできてくるところに、私は、ここでは「倍力のおかげを授ける」とはおっしゃっておらない、「打ち向かう倍力の徳を授ける」と仰せられてある、その徳を受けさせていただく、いわゆる御神徳なのです。

 人間は、いわゆる、この御神徳を頂かなければ、人間の幸福は絶対にあり得ません。どんなに巨万の富をもっておっても、どのように強い頑健な体を頂いておりましても、どんなに商売が繁盛いたしておりましても、それらは、人間の幸福の条件ではありましても、人間の真実の幸福にはつながりません。幸福の条件ではあります、健康なことも、商売が繁盛することも。けれども、それで人間が幸福ということではありません。もう本当に、金も物もたくさんありながら、難儀をしておる人は、世の中にたくさんありますよ。
 ですから、金やら物ではないと、人間の幸福は。いわゆる御神徳を受けるということ、天地の信用を受けるということ。いつもわが身は神徳の中にあるという実感。神のご守護を受けておる私という自覚というものが、心の中に、いつもあって、「ありがたいことだなあ。もったいないことだなあ。本当に信心もできんのに、恐れ多いことだなあ」ということになってくる。
 だから、この三枡というものを、いつも私どもの心の中に頂くということが、取りも直さず、人間の真実の幸福だということなのです。どんな場合であっても、「ありがたいことだなあ、もったいないことだなあ、恐れ多いことだなあ」と、言えるとしたら、どんなに素晴らしいことでしょうね。そこで、そう思わせてもらおう、そう言わせてもらおうというだけでは頂けないところに、いわゆる信心修行がいるわけなんです。

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事柄の真相
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 昨日の朝の御理解の中にも、「眼に見えるおかげより、眼に見えぬおかげのほうが多い」とありましたように、どんなにおかげの中に浸っておりましても、私どもの心の中に、ありがたい、もったいない、恐れ多いの心がないならば、その事がみんな、嫌な事とか、困った事にしか見えないのですよ。それが、だんだん信心させていただいておかげを頂いてまいりますと、ありがたい、もったいないという心の状態が募ってまいります。いわゆる本当の事が分かるのです。
 暑くても、暑さを感じない、寒くても寒さを感じないほどのおかげも頂けると同時に、その事がね、ありがたいものとして見える。これは、またの御理解にあります、「信心する者は肉眼をおいて心眼を開け」と。心の眼をもって見ると、それはね、神愛、神様の愛情の表れである。しかも、氏子を幸せにせねばおかんという、やむにやまれぬ神様の願いがこめられた、それなのであるということがわかる。

 だからね、今日、私が頂きます三枡ということは、「ありがとうございます、もったいのうございます、恐れ多いことでございます」と、ただ言うとればよいというわけにはいかんのです。それでも、うそにでも言うておれば言わんよりましです。心でありがたくなくても、「ありがとうございます、ありがとうございます」と、言うておると、やはり、だんだん、ありがたくなってくるものです。けれども、それが本当の事が見えて「ありがとうございます」と、言えるのでなければ、本当の値打ちはない。私自身が助からない、助かっていない。
 私自身が、本当の事が本当の事として分かることのために、いよいよ本気で本心の玉を磨かねばならないのであります。日々の改まりが第一である、ということになるのです。限りなく美しくなりましょう、ということになるのです。美しい心で見ると、皆がよい人に見えてくる。美しい人になりますと、人が困ったと言うておることが、実はありがたい事だと、事柄の真相が、分かってくるようになるのです。本当の姿が見えてくる。

 神の願いが成就する。神の願いが成就することは、そのまま氏子の願いが成就することでもある。その神の願いが成就する中にあるところの、私の願いが成就するということは、もうそれは、私どもが夢にも思わなかったほどのことが成就してくるのです。小さいことではないのです、神様が下さろうとしておるおかげというものは。とにかく計り知ることのできないほどのおかげが頂けてくるようになる。それを御神徳という。
 「打ち向かう倍力の徳を授ける」とおっしゃる、神に打ち向かう心を、まずつくらねばならない。形の上には、寒い暑いは言わぬ。眠いけれども、眠さを辛抱しぬくというような、潔い心というものがいる。

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値打ちのある信心
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 例えば、寒さの中に剣道なら剣道の寒げいこに出る。行っただけでは何にもならんです。その寒中の中にです、それこそ一生懸命、竹刀を取ってのけいこができなければ、剣の道の寒修行にならん。
 お参りをしたから、これで寒修行は成就したのではなくて、そういう中に飛び出し、そういう中にお参りさせていただいて、本気で神様へ向かう姿勢をつくらせてもらう。今日の御理解でいくなら、みますを自分の心の中に頂こうと精進する。そのためには、どうあったらよいかということをです、どうあったら成田屋になれるか、おかげの受け物ができるか、成就するかということを求めていく。
 いわゆる、ありがとうございます、もったいのうございます、恐れ多いことでございますという日々であるために、それならそう思おうというて思えるものでないが、おのずと、ありがとうございますが湧いてくる、どんなに考えても、もったいないことだと心の中から湧いてくる。
 そのために、本気で私どもが、自分自身を見極めさせていただいて、なるほどこうゆう汚い心では、ありがたくなれないはずだというものを発見する。見い出させていただいて、それに取り組んで改まっていく、磨いてもいく。

 自分自身がいよいよ美しくなってまいります。いわゆる「我情我欲を離れて真の道を見よ、わが身は神徳の中に生かされてあり」と仰せられる。自分の心から、我情我欲が取れていくにしたがって、本当の姿が見えてくる。どういう中にあっても、なるほど御神徳の中に生かされてあるんだなあ、神様のご守護の中にあるんだなあという実感が、ありがたい、もったいない、恐れ多いということになるのである。

 ですから、これは信心修行の一つの条件として、まず奮い立つ心をもって、教会参拝ができる。できたら、また本気でけいこをする。教えを頂く、そしてその教えに取り組む。これがけいこです。そこから、今までかつて味おうたことのない真味溢れる生活ができてくるようになる、信心のありがたさというものが分かってくるようになる。そのありがたさが与えられてくるのである。
 例えば、寒修行に向かわせていただく姿勢そのものが、神様が待ち望んでござる姿勢なのです。同時に、今日私が頂いております成田屋とか、三枡の定紋といったことから、その内容であるところの姿勢を聞いていただきましたですね。
 それは家の布団の中であっても、ありがとうございます、もったいのうございますということであれば、なるほど、それでもよいのです。けれども、それは、ちょうど茶碗の中で香をたいているようなものです。おかしなもんです。やはり、形の整うた素晴らしい香炉に、香がたき込められて、初めて本当の香炉、または香をたく値打ちがあるようなものです。

 せっかくさせていただくのですから、値打ちのある信心を頂きたい。そういう修行に、ひとつ本気で取り組みたい。寒修行の初日に当たって十三節を頂いたということもです、要するに神の願いが成就することのために、私どもが修行するということになるのじゃないでしょうか。
 神様の大きな願いの中に、私どもの小さい小さい願いはこめられておるものです。「人間の一握りといえばこれだけだけれども、神の一握りはどれだけあるか分からん」と、久留米の初代がおっしゃったということですけれども、私どもは、どれだけあるか分からん世界に住まわせていただかなければなりません。無尽蔵といわれる、限りない、おかげの頂けれるものは御神徳です。御神徳を受けなければ人間の本当の幸福はあり得ません。その御神徳を頂かせていただく道を、合楽では朝に夕に、このことばかりを説き続けておるわけですね。 どうぞ。

              昭和四十七年(一九七二年)一月六日 朝の御理解