神 訓

 体を作れ。何事も体がもとなり。

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健全な心に健全な体が宿る
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 体、体とは体、「体を作れ。何事も体が元なり」何と言うても健康が元だと言うのです。何をするにも、確かに健康なしにはできません。どんなに素晴らしい頭脳を持っておりましても、身体が弱かっては何にもできません。とにかくまず体の健康、何事にも体が元なのだからと教えておられます。

 そこで体を作るということなんですけれども、その元は栄養を取る食べ物です。そして、適当な運動をする。それだけでよいかと言うと、それだけでもいけない。その大体根本になるものは心である。「健全な心に健全な体が宿る」と言われておる。確かに、私はそうだと思う。体を作る。やはり、適当な運動、それから適当な栄養、それだけでよいと言うのではない。いわゆる、健全な心を作ってゆかねばならない。その健全な心に健全な肉体が宿ると言うのでございますからね。
 健全な体に健全な心が宿るというのではない。「健全な心に健全な体」と、いわゆる心が元である。例えば悪い事をする。喧嘩をしたり、人殺しをしたり、それは頑健そのものの、健康な体をもっておる。いわゆる健康をもて余すような体を持っておるために、乱暴をする。せっかく栄養を取ったり、運動をしたりして、健康になったことが、かえって不幸せの元になるようなことではいけないのであります。

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力道山の災禍
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 あれはプロレスの力道山ですかね、元はお相撲だった。バーか何かに飲みにいってから、横にいたお客さんが、何かぐずぐず言った。「何を言うか」と言って殴ったところが相手が死んでしまった。あんまり力が強かったから殴り殺したわけですよね。それで、その仇討ちをされて、今度は短刀で突かれて亡くなった。大変な力持ちであった。大変な健康の保持者であったわけです。
 ところが、その健康が災いした。力が強かったばかりに、普通のものならただ殴ったぐらいのことだったら、頬がはれたり、頭にこぶができたくらいのことだったろうけれども、あんまり力が強かったので殴り殺してしまったというように、健康が、かえってその人を死に追いやったということにもなる。

 どうでもひとつ、ここで分からせてもらわなければならないことは、健全な体だからというて、健全な心があるわけではない。健全な心に宿ったところの健全な健康であって初めて、それがすべてのおかげの元になるのである。「何事にも体がもとなり」とおっしゃるのは、幸せになることの元というのである。人間が幸福になる元は、まず健康だけれども、その健康の元は心である。これをアベコベにすると、大変なことになるのです。

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心をつくれ。何事も心が元なり
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 ところが、例えば現在の教育というものはですね、「栄養学」という学問までできて、こういう物と、こういう物を食べると健康になる。そして、スポーツ、運動を奨励する。それは健全な体と、健康になるためであるという。だから、そのことには一生懸命、力を入れるけれども、その根本にならなければならないことがおろそかにされているように思う。どういうわけで健康を願うか、どういうわけで健全とか健康とかいうものが幸せの元になる、幸せの条件に健康が必要である。そこまではいいけれども、いよいよ人間が幸福になってゆくためには、心が健全でなければならない。その一番大事なものがおろそかにされている。

 信心をさせていただく者は、何をするにも、まず「体を作れ。何事も体がもとなり」というところを、「心をつくれ。何事も心がもとなり」ということがなされなければならない。まず心をつくらなければならない。健全な心、その健全な心に約束されるところの肉体、健康。そこに栄養も取らなくてはならないだろう、また、適当な運動も必要であるということになる。こればアベコベになったり、心のほうがおろそかにされては、かえって健康が災いの元になることにすら、なりかねないのです。いよいよ心しなければならないところですね。心です。

 そこで「心づくり、心づくり」と言うても、「心、心」と言うておるだけでは、心は健全になりません。肉体に、適当な運動と栄養を取らなくてはならないように、心にもやはり、心の糧がいるのです。
 健全な心をつくるために、教祖様は、その健全な心づくりのことをあらゆる角度からお説きになっておられます。そして、『今月今日で一心に頼め。おかげは和賀心にあり』と。すなわち、和らぎ賀ぶ心をもって願うなら、健康のおかげも、いや人間の幸福の条件のすべてが、和賀心に頂けるのだと説かれたわけです。心づくり、どうでも心をつくらなければなりません。

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神を現すのが信心の本命
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 昨日、ここの引き出しを整理させてもらっておったら古い手帳が出てきた。初めは私が使いよったらしいけれども、若先生が使っておるのです。若先生が、この手帳に、いろんなことをメモしておる中に、「自己を現そうとしている連中ばかりのようだね」と。誰かのお話をここに書いたのでしょう。「自己を現そうとしている連中ばかりのようだね。神を現すのが信心の本命なのにね、というわけです。信心をしておって、自分さえ良ければよい、というだけでもないでしょうけれども、自分を売り込む、自分を売り出そうとしている。いわゆる、どういうことになりますかね。名誉欲なんかもそうでしょうね。教祖の神様は、「此方は人が助かることさえできればよい」と。地位とか名誉とかというものはいらない。

 今日、「体を作れ。何事も体が元なり」というご神訓を頂いたわけですけれども、今日、御神前で神様からお知らせを頂いたのは「面づくり」ですね。能面なんかを作ります、あれを面づくりと申します。ある人の面を作ろうとしておったところが、天女が空に舞い上がっていく羽衣という絵なんかがありますね、そんなふうに、その人が、アラアラという間に上がってしまったもんだから、その面づくりができなくなった。そんな場面を頂くんです。
 面づくり、自分の面をつくる。いわゆる自分の顔をつくろうとばかりする。それは、人の功績でも自分の功績にしようとしたりする。そんな人はめったにありませんけれども、人からお供え物を預ってきておってから自分の名前でお供えをする人がある。神様を何と心得ているだろうかと。なるほど、私の前だけでは、この人は、なかなか御用ができると思うでしょう。人のした御用でも自分がしたようにする。自分の面づくりです、自分の顔だけはつくる。これも自分がした、これも私がしたと。心をつくるということに心がけないからですね。

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神様を中心にした生き方
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 私が以前に頂いておるみ教えに、「神様の顔を立てておれば、いわゆる神様を中心に働いておれば、神様が氏子の顔は立てて下さる。神様が氏子を中心に働いてくださる」という意味のみ教えを頂いたことがあります。いわゆる自己中心ではなくて、神様中心ということなんです。これはね、私は自分の心作りの最高の事だと思うです。最高の考え方だと思います。神様の顔を立てる、神様を中心に申し上げたところの生き方。それなのに自分を中心にした信心、自己本位である。これでは例えば、よし例えば形の上のおかげが成就いたしましても、心作りということにはならない。

 若先生が書いとります「信心とは神様を現すことなのに、自分を現そうとしておる」。いわゆるアベコベである。自分を現そうとしておる。「信心とは神様を現すことなのにね」ということなのです。
 私はこれを読ませていただいてから考えた、神様を現すということはどういうことだろうかと。なるほど、信心をさせて頂いておかげをうけるという事だと。「あっちは、なかなか信心を一生懸命なさるから家庭が円満だ」と言われるならば、もうそこに神様を現したわけです。「あちらは一家中で信心をしなさるから、立派な家になった、お金もたまった」と、言われるようになれば、もうそれは神様を現したわけになる。私はそうだと思うた。
 ところが、信心はしていなくても家庭円満なところもある。信心はしておられないけれども、どんどんもうけ出していかれているところもある。そうなってくると、神様を現しておかげを頂いておるようにあるけれども、それは、たいした現し方ではないことになる。

 神様を現すということは、どういうことだろうか。おかげを頂いて、不健康な者が健康になる。おかげ頂いて金がたまる。おかげ頂いて人間が円満になって、家庭が円満になる。信心しておられるから、ああいうようにおかげを頂いていっておられると言われれば、神様を現したことになるけれども、ところが片一方では、信心はなくても、そういうおかげをうけておる人がいくらでもあるということ。そうすると、これは、たいして信心で現したということにはならない。もうこれは誰が見ても、誰が聞いても、「なるほど神様じゃなあ」と言わせたり、思わせたりするだけのおかげを頂かなければ、神様を現したということにはならない。
 私はその事をそう思わせて頂きよったら、どこかで見た景色でしょうね。例えば皆さん耶馬渓なんかに行ったことがあるでしょうか。道中に、大地から山がね、岩がね、ずうっと切り立って、紅葉なんかの時には、見事な、それこそ自動車で行きよっても、自動車をとめてから見上げるような場面がありましょうが。それこそ絶景です。いわゆる「絶景かな絶景かな」と言うような景色があります。しかもそれは大地から突き立ったような景色があります。そういう景色を御心眼に頂いた。ハハァ−神様を現すということは、こういうことなんだなと思うた。

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無から有を生じる
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 神様を現すということは、まあ言うなれば何にもないところから、無から有を生ずるという。信心とは無から有が生ずるほどのおかげがうけられるのが信心である。神様を現すというのはそういうことだと。無から有が生じる。だから、信心していても、していなくても頂いておるおかげが、同じ程度のおかげでは、神様を現すということにはならないと言うこと。ただ信心させていただいておかげを頂いてる者だけは、おかげと思いよるけれども、それを現したということにはならない。
 現すということは、「なるほど、神様じゃなあ」と、立ち止って見上げるほどのおかげを頂くということであるのです。とても人間業とは思われない、そういうおかげを頂くことである。それが神様を現すのである。

 信心とは神を現すことなのだと。神様を現すことができるほどの信心というか、力というか、それはとても自分本位ぐらいな信心では生まれません。自分さえ良ければよい、自分の一家だけ円満であればよい、というマイホ−ム的なおかげだけでは、それもおかげなんですけれども、現すということにはならない。現すというのは、「なるほど、神様じゃなあ」と言われたり、思われたりするほどのものを現わす。いわゆる無から有が生ずる。大地からそのまま突き立ったようにそびえている岩や山がある。それに紅葉した木がいっぱい茂っている。何と素晴らしいと、下から見上げるような、いわゆる絶景と言われるような、おかげを受けられるのも信心なら、それを受けることが、神様を現すということなんだ。
 そのためには、まずは心づくりが必要になるわけです。なるほど肉体に栄養をとらなければならない、適当な運動が必要である。ですから、心にもやはり、糧をとらなければならない。好き嫌いをしてはならない。甘いものが好きだからと言うて、甘いものばっかりとると、いわゆる偏食するから、体のほうもかたよってくる。だから、好き過ぎるものを、適当なところでブレ−キをかけてゆくという生き方。嫌いなものを、それこそ目をつぶってでも、それを好きになる努力をさせてもろうて、適当なおかげを頂かなければ、体も健全にならないように、心も同じである。

 起きてくる問題の中には、甘いこともあれば、辛いこともある。対人間の場合でも、あれは虫が好かんと言うのもある。好かんのを好かんと言うたらおかげにはならない。心が健全じゃない証拠だと思わせてもろうて、嫌いな人でも好きになる、いわば精進をさせてもらい、好き過ぎる人は、好かんふりをするくらいで丁度いい。
 人だけではない、物、物事、すべてがそうなのです。苦い思いをする事であっても、それを頂くことによって、心の胃腸が健全になる。だから心の健全を願うために、その様な心がけも必要であると同時にです、根本的な心を頂かせてもらう。

 今日、私は神を現すほどの心というのは、自分というものを中心にしたものではなくて、神様を中心に申し上げた生き方、いうなら神様本位の生き方なのです。自分本位の生き方から神様本位の生き方、神様に心任せの生き方、そういう生き方に一生懸命、精進させてもらい、努力させていただいておったら、神様が氏子任せになると仰せられる。神様が氏子本位に働いてくださるということになったら、もうこれはあれよあれよと言うほどのおかげなのです。
 久留米教会の初代の石橋先生は、「人間の一握りはこれだけだけれども、神様の一握りはどれだけあるか分からん」と、おっしゃるほどのおかげが現れてくるのである。自分本位で、たいてい、工面をして、理詰めよくやって、これだけのものができたと、いうようであっても、それはたかが知れてる。

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神力無限
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 それで私どもは、自分という者をむなしゅうして、神様本位の生き方に精進する。神様本位の生き方にならせてもらう。そのための修業、そのための信心のけいこである。「信心とは神様を現すことなのにね、自分ばかりを現そうとしている連中ばかりだ」と、若先生がこの手帳に書いております。その言葉からです、そういう連中になり果ててはならない。せっかく信心させて頂くのであるから、神様を現し申し上げるほどの信心を頂きたい。そのために、神様本位の生き方を体得しなければならない。
 もう一にも神様、二にも神様、三にも神様なのである。もう神様中心なのである。神様本位なのである。そこには条件はない。けれども、神様のほうが、今度は氏子任せになってくださるのであり、氏子本位に働いてくださることになったら、どういうことになりましょう。もうそれこそ、あれよあれよというようなおかげになってくるのです。それこそ何にも無いところから、もうこちらは「神様、神様」と言うておるのに、今度は神様のほうが「氏子、氏子」と言うてくださることになってきたら、神様の神力無限という、無限の神力をもって氏子の上に働いてくださることになったときに、初めて神様を現し申し上げることができる、ということになるのです。

 ただ自分本位に、「どうぞこうしてください、ああしてください、健康にならしてください、きれいな家に住まわせてください」といったような願いで、例え、よしそれが成就したところで、「そんなのは信心しよらんでも頂きよるじゃないか」と言われるようでは、現すことにはならんのです。
 神様を現し申し上げるというのは、私どもが神様本位になったとき、神様がまた、氏子本位になってくださるほどしのおかげを頂くとき、神様を現し申し上げたということになるのです。そういう心がけがです、いわゆる「体を作れ」ということを、私は今日は「心を作れ」と。何事も体が元なり」というところを「何事も心が元なり」と御神訓に基づいて、今日のお話しを聞いていただいたわけですね。 どうぞ

              昭和四十六年(一九七一年)十二月十二日 朝の御理解