御理解 第四十二節

 これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろう
 かとおもえば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足ら
 ぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受け
 られる。

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一段と進んだ信心
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 これぼど信心するのに、どうしてこういうようなことが起こるのであろうかということもある。あんなに熱心に信心しているのに、どうしてあんな不幸が続くのであろうかということもある。そういうときに、信心が挫折する、信心が鈍るというようなことであってはならない。そういうときであればあるほど、これはまだ信心が足りぬからだと思うて、そこから一段と進められた信心、一段と進んだ信心になっていけば、そこからおかげが受けられると思う。この四十二節はそういうことでありますね。

 お互いが一生を過ごさせてもらう、暮らさせてもらう間には、さまざまなことがございます。そのさまざまなことがおかげ、例えば「難はみかげ」と、「難あって喜べ」とおっしゃるようなみ教えがありますように、そのことをおかげと頂かせてもらえれる信心、そこのところが分かるということ。
 今日はそこのところをもっともっと根本的なところから、そういう見地から四十二節を頂いていきたいと思います。

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神になることを楽しみに信心せよ
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 私が、御祈念中に御神前で頂いたことは、「イ」(人偏)に片仮名の「ム」を頂いた。ちょっと書いて見てください。「イ」(人偏)に「ム」、片仮名の「ム」、「仏」という字です。そして、ここで今日はどういうみ教えを頂くであろうかと思うて、教典を開かせていただいたら四十二節でした。四十二節は「しに」と読みますね。すると「死に」となりますね。
 今日は、仏さんのことを頂いたり、死ぬるということを頂いたりするということは、普通でいうなら縁起でもないといったような感じですけれども、私どもは、いうならば、生まれてきたということは、もう死ぬるということなんですよ。行きどおしに生きるということはできないのですから。いうならば、死ぬるために生まれてくるのです。

 問題は死んでからが問題なんです。だから、私どもの魂が、信心によっていよいよ清められ、高められていかなければなりませんね。さあ、たいてい、長生きをしたところで百年、たった百年なんです。その百年の間に私どもが仏になるために、いうなら死ぬる準備というものをさせていただくことのために、この世に生をうけておるのです。
 「イ」(人偏)に「ム」という事は「仏」ということ。それをもう少し理解づけると、人が無、人がなくなるということ。人がなくなるということが仏なんです。教祖様もそこのところを、「死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ」と仰せられる。その辺のところが、教祖様の表現の素晴らしいところですね。「死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ」。だから、信心ということは、死したる後、神に祭られるほどのおかげを頂かせてもらうということのために、信心があるのです。私どもは、生きておる間に、そこのところを頂いていかなければいけません。

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神になるための準備
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 亡くなった者のことを仏という。死人のことを「この仏様が」と申しましょう。例えば、金光教でも、み霊の神と申しますから、金光教の信心をしておれば、誰でも神になれるかというと、そうではない。ここでいう神というか、仏というのは、いうならば成仏ということ、本当の意味において仏になるということ。教祖様が「死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ」と、仰せられる神とは、本当に私たち自身が、われとわが心を拝められる神のこと。昨日からも申しておりますように、お礼のみ霊になるためには、私どもが日々、お礼の神恩報謝の心、すべてにお礼の言えれる私どもに成長してゆかねばならないということです。
 例えて申しますと、「これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる」というおかげは、今まで、どうにもできなかったおかげが、御利益が展開してくるという意味なのです。けれども、ここんところを、今日は、もっともっと深い意味において頂くとですね、「そこからおかげが受けられる」というおかげとは、私どもが難儀に直面する、その難儀に直面したときに、「これはまだ自分の本心を磨くのが足りんのじゃ、これはまだ自分の改まりが足りんのじゃ」と、一心に磨いていけば、改まっていけば、そこから一歩でも二歩でも神様に向かって前進することができるというおかげなんですね。今日は、ここのところを、そういうふうに頂いているわけなんです。

 いうなれば本当の意味において、死したる後、神に祭られるということは、難儀に直面したときに、神になることのための準備が、一段一段できていくということです。信心して、どうしてこのようなことが起こってくるのであろうか、というときに、このようなことを通して、一段と神様に近づいていくということなんです。私どもが、信心して、死したる時、本当の意味において、成仏ということなんです。本当の成仏ができることのために、一段と仏に近づいていく。一段と神様へ近づいていく。それが、そのまま信心であると同時に、それを楽しみに信心する。これは信心が足りぬからじゃと思い、そこから一段と信心を進めていくということは、一段と自分の心が神に向かうということになるのです。

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この世へは、魂を清めにきた
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 今日、今申しましたようなことを頂きますと、信心というのは、私どもが死したる後、本当に神になることのために、この世に生を受けたということが分かるということなんです。
 天地の親神様の目からご覧になれば生きとし生けるもの、動物であろうが植物であろうが同じこと、牛でも馬でも、いわば神様の氏子と言うてもよかろうと私は思う。神様のご恩恵によってお生かしのおかげを頂いているのですから。しかし、牛やら馬やらが死んだからというて、神になることはできんのです。そうしたら、人間だから、死したる後、神になれたり、仏になれたりできるかといえば、決してそうじゃないです。
 人間は良心というものがあって、その心が、その魂が清められ、高められていくことができるのは人間だけです。ですから私達の心がけいかんによっては、人間であるけれども、神になることができ、仏になることができれるわけです。だから、仏教的にいうならば、せっかく人間に生まれてきたのだけれども、死んだら馬にならねばならんか豚にならねばならんか分からんのです。

 汚いことばっかり言っていたら、死したる後、神に祭られるどころか、仏に祭られるどころか、豚などにならねばならんかも知れませんよね。馬にならねばならんかも知れませんよ。これは、お釈迦様の説を借りればですよ。ですから、人間がいかにこの世に生まれてきたかということは、魂を清めにきたのだということです。人間に生まれあわせたということは、そのことだけでも大変なおかげなんです。この世に人間に生まれてきたということは、どれだけの年数を食って、例えばお釈迦様の生まれ変わり説ですね、輪廻説というでしょうか、この説から思わせて頂くと、人間に生まれて来たということは大変なことです。その生まれてきたことを、大変なこととも思わずに、一生を悪なら悪で過ごし、汚い過ごし方をするとするなら、汚いものに生まれてこなければならないことになるのです。
 だから、問題は、人間はこの世に清まりに来たんだということを、本当に分からねばいけないです。この世に清まりに来たということは、いよいよ成仏することのために、いよいよ神に祭られることのために、人間に生まれてきたということを、第一に喜びとさせていただいて、人間に生まれてきたことのありがたさを、満喫させていただきながら、日々の生活を、お礼の生活ができるように精進させてもらわねばならない。そういう道を教えられる。四十二節に、「信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば」ということは、信心しておっても、どうしてこういうことが、と思うような事が起こってくる。こういうこととは、一段と神様へ向かうことのできれる、いわば節でもあれば、神様へ近づいていけれる手段でもあるわけです。ですから、そのこと自体が、実はありがたいことなのです。一段と信心を進めなければおられないのです。それに信心していて、どうしてこういうことが起こるじゃろかと言うて、神様を恨んだり、もう信心もいい加減なものだと言うて、信心をやめたりするようなことは実に実に惜しいことになりますね。

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すべてが神になるけいこ
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 とにかく、私どもは、この世に魂を清めにきておるんだということなんですよ。魂が清まる。いわば、一歩、仏様へ近づく、一歩、神様へ近づく。そういう心の状態をもって、私たちは信心させていただいているんだ、ということになってまいりますと、もう例えば、ご利益を頂くとか、おかげを頂くとかいうことは、実に小さい小さいことになるのです。
 この世に生をうけて五十年、または七十年、いよいよ長生きさせていただいて百年です。けれども、あの世は永劫である。せっかく人間に生まれ変わってきたものが、また牛やら豚に生まれ変わらなければならないなら、いつまた人間に生まれ変わってこられるか分からないほどのことなのです。もう千載一遇とはそういうことを言うのだろうと思います。
 その人間に生まれきあわせておりながら、一生を、ただわが心が神に向かうどころか、ますます汚れに汚れ、汚ないことばっかりを言いながら、不平不足を言いながら果てていく。それで仏になるとか、神になるということは絶対にない。人が亡くなりさえすれば仏と、普通では言うけれども、人が亡くなったら、本当の意味においての成仏、もう何やら、かにやらに生まれ変わらんですむほどの、私にならせて頂くことのために、この世があるというていいのです。
 だから、この世よりも、あの世が大事なのです。それを、死んだ先はどうなるか分からない。もうこの世でうまい物を食べて、したいことをして、といったような、いわゆる享楽主義と申しますか、享楽をしとかなければ馬鹿らしいではね。私どもはそうではない、すべてを神になるけいこにしてゆく、それが信心である。

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難儀は前進のチャンス
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 それに、これほど信心するのに、といったような考え方は、もうさらさら起こらない。根本的なことを、私どもが分からせていただいておれば。これほどの信心をするのに、どうしてというときほど、どうしてこういうことがというとき、いうなら難儀なときに、その難儀そのものを、大事にしていかなければならないかということが分かりますね。その難儀こそが、私どもを一歩前進させていただくことのできれる光を与えられたのだと悟らせていただいて、いよいよ神になることが楽しみの信心でなければいけません。私は、お釈迦様のおっしゃっておられることが、どういう意味での表現か分かりませんけれども、確かに私どもは、この世に魂を清めにきておる、ということ、すなわち、神になることのために、この世に生まれてきておるということを、ひとつ本気で知らなければいけません。

 そういう意味のことを日田の綾部さんとそこの信者控室で、お話しておりました。信者控室を閉めて話していたんですけれど、私がそのことを申しましたとたんに、“バァーン”と、あの小さい部屋が、それこそ爆発するようなオイサミを頂いたのです。
 確かに仏教では、牛に生まれたり、犬に生まれたり、猫に生まれたりと、生まれ変わってくるように表現していますけれども、なぜ、生まれ変わらねばならんかというと、生まれ変わることによって分からせようとなさる天地の働きです。それを私どもは悟らせていただいて、もう金輪際、牛やら馬などに生まれ変わらない。人間に生まれてきたということが、本当にありがたいこととして、魂を清めて神になり、仏になることの精進をさせていただいて、永劫、仏様としての働き、神様としての働きができれるほどの、私たちに向上しておかなければならない。
 その向上というのは、信心しておっても、やはり起きてくる、どうしてこのようなことがというそのものを、神様へ一歩前進させていただくところの機会と思い、チャンスと頂いていくことです。いよいよ、どうして信心を進めていくかということは、いよいよ本心の玉を磨くことの、または改まりを頂かせていただきながら、そういう思いこみと、そういう姿勢をもって、日常生活をさせていただくということがです、神に祭られることを楽しむということになります。

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本心の玉を磨くことに焦点を置く
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 今日はここの四十二節をです、もう御利益というのではなくて、「一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる」ということを、一心に信心してゆけば、そこから神になることができ、成仏することができれる、いわば最高のおかげが受けられるという意味で頂きましたですね。
 そういう真剣な思いで、本心の玉を磨くことに焦点を置きますと、普通では磨けないところが磨けていける。普通ではとても改まることのできないことまで改まっていけれるということ。それが楽しいという信心をさせていただかなければならないということになります。人間が死にさえすれば仏になる、人間が死にさえすれば神に祭られる、というような安易な考え方は大違いなんです。
 仏になる道を、神になる道を本気で極めようとする精神。「信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ」とおっしゃるように、わが心が神に向こうていくのを信心だと思いこませていただいたら、こういうことによって、いよいよ神に近づかせていただくことになるから、信心のない人は困ったこと、難儀なことということが、ありがたいということにもなってくるのです。せっかく皆さんが、合楽にご神縁を頂いたのですから、そういう大変なことを教えていただくのですからね、本当に、魂を清めてゆくことのために、言うならば、もう、次の世で牛やら馬やらに生まれ変わらんで済むような私になろうということなんです。

 せっかく、この世に人間に生まれてきたということだけでも、どのくらい深いご神意があって生まれてきたか分からないのに、それに気づかずして、また一生を無意に過ごすなんて、こんなもったいない話はありません。
 私どもは、さまざまな縁によって、金光教の信心を頂くようになった。合楽にご神縁を頂いた。そしてそのことが分からせていただいた。信心とは、もう魂を清めること以外にはない。そのために、さまざまな角度からその道を教え説かれたのが、教祖金光大神だと頂かせてもらい、そこのところを思いこませていただいて、「さあ、今日はどの手で磨こうか、今日はどの手で改まろうか」という意欲をもって、今日が過ごされなければならないと思いますね。 どうぞ。

              昭和四十六年(一九七一年)十一月十四日 朝の御理解