神 訓

 祈りてみかげのあるもなきも、わが心なり。

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おかげは、自分の心次第
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 いかに祈ったところで、参ったところで、おかげのあるないは、自分の心だ、と言うわけですね。だから、自分の心の状態というものが、おかげを受けられる状態にならせて頂くために、信心があるというてもいいわけです。
 信心とは、自分の心の中に、いつもおかげの受けられる状態、和賀心の状態を頂くことです。それならばどういうような心の状態がおかげを受けられるか、どうゆう心の状態になったら、おかげをキャッチすることができるか。もう本当に、自分の心次第なんですよね。一生懸命に御祈念した。一生懸命にお参りをした。しかも、お取次を頂いてお願いもした。そういう、一生懸命お参りをしたとか、一生懸命お願いをしたとか、または、お取次を頂いておかげを頂く、という意味でのおかげではない。

 「みかげのあるもなきも、わが心」とおっしゃるのは、おかげそのものよりも、わが心に重点が置いてある。霊験を受ける、受けないではなくて、信心をさせて頂いて、そして、自分の心の中に、常時喜びが頂ける、心の中にいつも安心がある。いよいよ神様を信ずる心が強うなる、だから、そういう心の状態を頂くということが、本当の意味での、おかげであると思う。
 自分の心は不安である。いつも、自分の心はいらいらしておる。それでも、やはりお参りしなければおられんからお参りをする、お願いをせねばおられんからお願いをする。なるほど、お取次のお徳によって、おかげは頂く。だから、霊験は頂く、おかげは受けるにしましても、ここで教祖が、または天地の親神様が、「おかげを受けてくれよ」と言うておられる、もう一つの願いというものは、いわゆる、信心しておかげを受けるということ。それは、自分の心の中にあるのだと。信心によって自分の心の中に和賀心を頂くのだと。いうならば我心、我の心と書いてあるけれども、和らぎ賀ぶ心を頂く。そういう心に、本当の意味においての霊験というのはあるのだと。そういう心でキャッチするのだ、おかげというものは。これは、願わなくても頼まなくても、そういう心の状態で、さっさとおかげをキャッチしていく、と教えておられるのだと思います。

 その一つ前のご神訓に「忌み汚れは、わが心で犯すこともあり払うこともあり」と、ここに、わが心というのが出てくる。わが心次第なんです。しかもそれは、普通で言うならば忌み汚れ的なことであっても、それをおかげにしていける道、おかげがついてくる道なのです。

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信心の年輪
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 もう二十何年も昔の話ですけれど、北京から引き揚げて帰ってまいりましてから、正確にいうと、その年、弟の戦死の公報を受けた月から、私はご本部へ月参りをさせていただきました。もちろん、親教会の親先生が当時、月参りをなさっておられましたから、親先生のお供をしてお参りをするのです。そういう、ある月参りの時に、親教会の大奥様もごいっしょに、三人でお参りをすることになった。
 いよいよ出発させていただこうと、三人で表に出させていただきましたとたん、大奥様の履いておられた新しい下駄の鼻緒が、プツッと切れた。私は何かいやあな予感がしましたですね。ところが、大奥様は「ああ、おかげ頂いた」と言われました。「これが途中で切れるならば、はだしにならねばならんところじゃった。ああ、おかげ頂いた」と。私はその時にですね、信心の一つの年輪とでも申しましょうかね、長年、本当に神様を頂きに頂きぬいて修行してみえた方の、思い方の素晴らしいことを、その時初めて知ったような気がいたしました。
 そばにいた私は、何とはなしに、出がけに新しい下駄の鼻緒がプツッと切れたりするならば、何かいやな思い、いやな予感がした。悪い事なんか起こってくる時には、何かそのようなことがあるものだ、と思うておるわけです。
 信心というものは、いわゆる、おかげのあるもなきも、わが心です。または「忌み汚れは、わが心で犯すこともあり払うこともあり」と、おっしゃっておられます。例えば、私の考えで、不吉な予感を持っておったら、途中で本当に不吉なことに出合っておったかも知れません。そういう心が不吉なことを呼ぶのですね。だから、「悪いことを言うて待つなよ」とおっしゃるのも、そうゆうことなのです。

 ところが、大奥様の頂き方というのは、もうこれは信心を頂いておらなければ、しかも手厚う信心ができとらなければできることではない。自分の心の中に、「ああこれは、出がけにこうゆうことがあったが、何かあるのじゃなかろうか、まあそれでも神様にお願いをしておこう」と、頭をうち振って悪い思いやらを、払うていくというのもおかげですけれども、それよりも、そのままおかげ、とそれを頂いとられる。嫌な思いをしなければならないことでも「ああおかげ頂いた」と、もうおかげにしてしまっておられる。もちろん、ありがたいご本部参拝が何事もなしにできた。
 しかし、そのときに、そう思うというても、なかなか思えないものである。そこに常日ごろの信心が大事であるということが分かります。例えば、突発的なことが起こってまいりますね、「さあそれはどうしようか」という時に、それをおかげだと言える心なんですよ。

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大きなおかげの受けられる受け方
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 先日も、ある方が、ちょうどここに参り合わせられた方を、自分の方角へ帰られるというので、自動車に乗せて行かれた。いわゆる親切ですよね。ところが、その人が住んでおられる所は、ずいぶん回り道をせねばならないのです。ですから、「まあここで降りなさい、ここから電車で行きなさい」と言うてもよいわけなんです。けれども、その方はわざわざ回り道をしてから、そこまで送ってあげられた。帰り道に、ゴーストップの所で、そこのゴーストップは、何か見えにくい所らしいのです。いうなら一旦停車しなければならないところを停車せずに行かれたところが、後ろから白バイがやって来たわけですね。それで調べられて。おそらく科料でしょうね、罰金を納めなければならないことになった。
 ちょっと神様も神様だよね。「何事にも真心になれよ」とおっしゃるから、こちらは真心になっとるのに、しかも送ってないなら何にもないのに、わざわざもうそれこそ向こうも、ずいぶん遠慮しなさったろうと思う。回り道になるからですね。それでも、「いや送ってあげます」と言うて、送ってあげた。しかも、その帰り道に罰金を取られるようなことが起こった。これは、あんまり親切も過ぎてはいかんと言うふうに感じますけれどね。その方は、最近ある事業を思い立っておられます。「はああ、これはその事業のための修行だなあ」と、思うたと言うのです。
 そのことを明くる日参って来てお届けされますから、なるほどそういう思い方も素晴らしい。いわゆる、和賀心ですね。そういう頂き方になれば、確かに今度しようとしている仕事のためのおかげの受け物が、だんだん水も漏らさんようにできていきよるということもいえます。けれども、「○○さん少し考え方が小さいよ」と、私は申しました。せっかくそういう、お取り払いを頂いたのであるから、もっと大きいところにおかげの頂けるような思い方がありそうなもんだね、と言う話をしたことでした。皆さんなら、どうでしょう。

 相当に遠い所まで帰られるんですよね。しかもそれをわざわざ送ってあげられた。そして、その帰り道だから、ありがたいことばっかりがありそうだけれども、それとは反対のことが起こってきた。これはもう、こんな所まで送ってやらねばよかった、途中まで送って、「後は電車で」と言えばよかった、というようなところですけれども、そのところを、即おかげとして受けておられます。けれども、おかげとして受ける、その受け方も、和賀心が大切なんですよね。

 十のおかげの受けられる受け方と、もっと千も万も、おかげの受けられる受け方があるわけなんです。だから、今度させてもらう仕事が、順調におかげを頂かなければなりません。「そのためのお取り払いだな、修行だな」と思うたら、心の中に「これは送っやらねばよかった」なんていう心は、さらさら起こらなかったという。ありがたいなあ、日ごろ信心しておるからありがたい。けれども神様はもっともっと大きなおかげの受けられる受け方があるぞ、と次に教えておられるわけですね。

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神様のご都合として頂く
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 どういうふうに受けたら、もっと大きなおかげの受けられる受け方になるだろうか。「それは神様のご都合として頂くことだよ」と私は申しました。これは、神様のご都合と言うけれども、もう本当に、その方が言われるような実感を持って、神様のご都合と頂けるということは、範囲が広いでしょう。同じ科料を千円なら千円、二千円なら二千円払わなければならんが、その二千円の元手でですね、十のおかげにもなれば、百のおかげにもなれば、千のおかげにもなってくる。ほんとに自分の心の使い方一つなんです。例えばそういうような場合、「日ごろ、『何事にも真心になれよ』とおっしゃるから真心になったら、かえって、ばからしいことになった」と。「もうこげんなことをしちゃならん。神様もいい加減なもんだ」といったような頂き方しか、一般的にはできないだろうと思います。けれども、それではわが心で犯すことになる。せっかく、神様がおかげを頂かせようとして、そういう働きがあったのに、こちらの受け方が、「これはしまった」とか、「嫌なことだった」として受けたら、それはおかげを向こうに押し返すことになり、自分の心を犯してしまうことになる。
 信心の一つの微妙さというかね。本当に微妙な自分の心。もう、このくらいデリケートなものはないですね。おかげを受ける受けないの心の状態というものは。「おかげ」と頂けばおかげになるのですからね。「これはしもうた」と思うたら、これはしまったになってしまうのですから。同じ事柄なんですよ。それがおかげじゃない事柄であっても、そこの受け方一つで、それがそのままお徳になるのですからね。ですからやはり、私どもは、おかげになる心、またはお徳にもなるほどの心を、もう、いつでもどのような場合でも使えるけいこをさせていただく、ということが信心なんです。私は「信心して、そうゆうおかげを受けてくれよ」と、神様は願っておられると思う。

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修行の必要性
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 「みかげのあるもなきも、わが心なり」なぜ信心させていただくものが修行に取り組まねばならないか。いわゆる、修行の必要性というものが、そこにあるわけです。まあ、分かりやすく言うと、日ごろ修行ができていない、お参りせねばならんと思っているけれど、お参りもしない、そこに罰金を取られるようなことが起こったら、「ああ、このごろは神様にご無礼しておるから、罰かぶった」というような頂き方をしたら、本当に罰かぶったになってしまう。ところが、私が今言った人の場合は、日々、人のまねのできないような修行を一生懸命なさっておられますから、そのような場合にでも、それを「おかげ」と、すぐおかげにキャッチしておられますよね。自動車で送ったということでも、「これから先は、もうこんなことはしちゃならん、もう、やはりほどほどにしておかねばいかん」としか心の中に起こらないなら、おかげになりません。例えて言うなら、それを「信心させていただいておって、これなのだからおかげだ」と頂ける心なんです。「信心させていただいておって、こういう事が起こったんだから、これがおかげにならんはずはない、お徳にならんはずはない」という頂き方なんです。例えば、「信心しておってこんな事が起こった」と信心を止める人さえあるかもしれませんよね。それが、少し複雑だとか、大きな難儀な問題であったら、なおさらですね。けれども、お徳を受けてゆく人は、例えばそうゆう、普通でいうなら、目の前が真っ暗になるような事の場合でもです、それを「おかげ。神様のご都合に間違いはない」と、こう頂けれる心。だから、それがおかげになり、徳になる。そういう心の状態を頂かせて頂くために修行がいるのです。これが不思議に、修行が一生懸命できておるときには、そういう受け方ができる。信心修行ができておらんと、それを、難儀は難儀、困ったことは困ったこととしてしか受けられなくなる。こういう受け方ではいかんけれども、と思うてもしょうがない、心の中に浮かんでくるものだから。

 本当に、日々心を神様に向けさせていただいての修行が続けられておるところから、いわゆる和賀心、おかげの受けられる和賀心というものが、心の中に常時、頂きとめておくことができる。信心はそれがありがたい。「これはしまった」と言うたら、絶対しまったことになるですよ。「ああ、これはおかげ」と頂いたら、絶対おかげになるのです。信心とは、そんなにデリケートです。ですから本当に、「おかげ」。それはおかげだと言える信心を、本気で頂いておかねばいけません。また、そういう心の使えることのために、ひとつ工夫しなければいけません。修行しなければいけません。
 信心させていただいて、しかも日々お取次を頂いて、「今日もどうぞよろしく」とお願いしておって、できたことであり、起こってくることですから、おかげにならんはずはありません。そこで最近ここで申しております、「御事柄」としての内容というものを、本当に極めておかなければならん事になります。

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一切を御事柄として頂く
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 ただの事柄じゃない。神様が私どもに差し向けてくださる事柄ですから、神様が私どもに求めてくださる事柄ですから、それに「御」の字をつけなければおられない。例えばそれが、痛いことであろうが、どのようなことであろうが、それを御事柄として受けさせていただくことこそ、おかげは和賀心にあるのである。

 信心をさせていただいて、日常生活の上に、信心させていただいておる者の喜びを、しみじみ感じさせていただくのは、今日のような御理解が本当に身についてきたときなのです。例えば、「忌み汚れは、わが心で犯すこともあり払うこともあり」とおっしゃる。例えば、それが忌み汚れであっても、ただ自分の心一つで払うていけるほどの生活ができる、ということがありがたいのです、信心とは。
 また、どのような場合であっても、それを「神様のご都合に間違いはない」と確信できる生き方。それは、信心させていただいておってのこと、しかも、信心に心を向けておってからのこと。その辺のところを、本当に大事にして、だんだんそれが、自分のものになっていくことに、信心の楽しみ、信心の喜びがあると思うのです。
 お参りをする、お願いをして、おかげを受けるというだけではなくて、自分の心次第で、おかげが受けられていくのは、実に楽しいこと。そこで自分の心の調子というものを、自分で心の中にかけ続けておれるわけです。こういう心の状態、そこで、この心を犯すことがあってはならない。この心を崩してはならない。そういう精進が、また楽しくなってくる。

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明日を楽しめる信心
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 例えば、「明日を楽しめ」というようなみ教えがありますけれども、明日を楽しませていただけるということは、例えば子供が、明日は遠足だから、明日は運動会だからと言って明日を楽しむ、という意味ではないのです。明日を楽しむというのは、どういう事が起こってくるか分からぬ明日、それこそ、まだ未知のものだけれども、この心の状態でおるならば、ありがたいことだけしか起こってこないと思うから、明日が楽しい、そういう心なのです。
 それは、もう明日食べる物がなかっても、楽しいです。明日はどういう手で神様が食べさせてくださるであろうか、と思うただけでも心が弾んでくるのです。その心の状態というものが、「自分ながらありがたいなあ、素晴らしいなあ」ということになるのです。
 和賀心。その和賀心とは、和らぎ、賀ぶ心。「みかげのあるもなきもわが心なり」とは、おかげのあるも、なきも和らぎ賀ぶ心次第なのです。

 そこで、すべての事柄を、御の字を付けての事柄として頂かせてもらえる、その御事柄の内容を、くわしく知っておかねばならない。分かっておかねばならない。同時に神様のご都合という言葉をたくさん使いますけれども、どんな場合であっても、本当に神様のご都合。どういう御都合かというと、もうおかげを下さろうと思うておられるご都合なのです。
 例えば、今の○○さんの話ではないけれども、今、一つの事業を思い立っておる。そのことのための修行だろう、という頂き方は、おかげを受ける心なのです。ところがね、神様のご都合として受けたら、これはもう、お徳になる心です。だから自分で決めておるわけです。このことがおかげになるための修行だと思うたら、このことがおかげになるためだけの修行。けれども神様のご都合とは、どういうご都合か分からんのです。ですから、神様のご都合として真実頂けたら、それはそのままがお徳になる。

 二千円の科料、五千円の科料、それは幾らであっても、多いほうがよいというわけです。五千円分の徳のほうが良い、二千円分よりも、ということにまでなってくるのです。だから、おかげにするか、お徳にするか。いや、かえってそれを難儀な困ったことにするか。本当にわが心次第である。そこで、いわゆる修行の必要性ということになるわけです。なぜ修行が必要か。そういう心の状態が、いつも頂けておれることのために、修行させてもらう。その修行によって、いつも自分の心の中に、よし明日食べるものがなくても、自分の心の状態が、もうおかげを確信している。明日は、どの手で神様がおかげを下さるだろうかと思うただけでも、明日が楽しめるということになる。

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生神の誕生
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 「祈りてみかげのあるもなきも、わが心なり」。このわが心の状態を、いつも確かめさせていただきながら、生活をする。自分の心の状態は、おかげ、または、お徳を受ける心の一つのバロメーターになるわけです。こうゆう心の状態では、自分も助からんし、これではおかげにもならん。なおさら、お徳などには及びもつかない。そういうような自分の心を見極めて、そういう心が清まっていき、改まっていき、研いていくことによって、自由自在に、ありがたいほうへ、ありがたいほうへと、ありがたい心が使うていける心の状態が頂ける。

 「生神とはここに神が生まれるということである」と仰せられますが、生神の状態というのは、いつもどのような場合でも、あいがたいほうへ、ありがたいほうへと、心がころころと移っていく状態を、生神の状態という。人は悔やむような場合であっても、それをおかげと頂ける心、そういう心の状態が、すでにもう生神である。

 なるほど、わが心に生神がそのようにして誕生していく。そういう心の状態を、いよいよありがたいもの、楽しいものにしていくところに信心があり、それを支えていくものは修行である。いよいよその修行が、そのような尊い修行になっていかなければいけませんですね。 どうぞ。

              昭和四十六年(一九七一年)十月十五日 朝の御理解