御理解 第五十八節

 人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはな
 らぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに
 行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯を
 せよ。

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落ちぶれて 袖に涙のかかるとき 神の心の奥ぞ知らるる
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 私の信心を、また、私の信心の進め方を簡単に申しますなら、こういうことが言えるのじゃないかと思うのです。
「落ちぶれて 袖に涙のかかる時 人の心の奥ぞ知らるる」という歌がありますが、私の場合は、ここのところが「人の心」ではなくて、「神の心の奥ぞ知らるる」ということに、いつもなっておると思うのです。
「落ちぶれて 袖に涙のかかるとき 神の心の奥ぞ知らるる」。落ちぶれてということ、まあ、さまざまな難儀に直面するたびに、人の心が分かるのじゃなくて、そのたびに、いよいよ神様の心の深さ、思いの深さ、神様が私どもを思うてくださるそのお心の深さを、いよいよ分からせていただくというのです。

 これは私の、ここ二十何年間の一貫した信心姿勢だというても良いと思うのです。私の場合、「あれがああしたから、これがこう言うたから」ということではなかった。それは泥棒じゃと言われ、乞食じゃと言われ、まあ同じようなことも、やはり言われてまいりました。言われてまいりましたけれども、そのつどにです、やはり血の涙が出る思いをせぬこともなかった。けれども、そういうつどに、私は神様の心がいよいよ分かった。
 深く広く、そのつどに分からせていただいて、それが一つの感激ともなり、神様がかくまでもして、このようなことを聞かせたりなさって、こういう問題を通して、このようなことを分からせてくださるためであった、というような生き方なんです。

 ですから、一般では、例えばお金がたくさんある時には、用がない人でも、用があるようにしてやって来た。ところが、さあいよいよお金がなくなってしまったら、寄り付いてもらわねばならぬ人ですら、寄り付かぬようになってきた。「本当に、人間の心とは分かるもんじゃない、いや『人間の心』の奥というのは、実際はそんなもんだ」と、嘆き悲しむところでしょうけれども、私は、信心のあるおかげでね、信心を頂いておったおかげで、そう思わずに済んだ。そのつどに『神様の心』の奥が、いよいよ分かって、信心の奥処へ、奥処へと進むことができた。それは、どういうことであろうか、どういう訳であろうか。

 私は、「しっかり信心の帯をせよ」とおっしゃる、その信心の帯がしっかりできておったからだと思うのです。ですから、どうしてとか、あの人がとかいうときには、自分の信心が、緩んでおる時であると、悟らなければいけませんですね。心に迷いが起こったり、神様に打ち向かう心がなくなったときには、もう、すでに信心の帯は緩んでしまっておる時です。そこで信心の帯を締めなおし、締めなおし、いよいよそのことを通して、信心の奥処を尋ねていかなければならんというわけであります。

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黙って治める
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 もう一つ言えること。「言うて聞かせて して見せて ほめてやらねば 誰もせぬぞえ」。私はね、とりわけ最近の金光教はこういうことになっておるように思うのです。いわゆる常識的ですね。そこのところに力を入れておる。
 金光様のご信心がね、常識的なことであったらですよ、もう信心のない者の考えと五十歩百歩ですよね。だから、今、言いました歌なんかの場合は、普通の人が言うことなんですよ。
「言うて聞かせて して見せて ほめてやらねば 誰もせぬぞえ」。いうならば人使いのコツとでも申しましょうか。確かにね、そういうような生き方になれば人はついてきます。けれども、これはどこまでも常識的な考え方だと思います。

 だから私の場合はね、「言うても聞かせん。しても見せん。ほめてもやらん」そこから、本当の神様のお働きを受けよう、いや受けられるんだという確信が、だんだん持たれてきたことです。
 最近の御理解に「黙って治める」ということを頂きます。「治」めるということは、「シ」(三水偏)に「ム口」無口と書いてある。「シ」とは、水という意味で、自然の流れということである。さまざまな自然の中に起きてくるその問題をですね、黙って受けていく。それが治めるということです。これは、最近の私の信心に強く表れておるところです。言うて聞かせることも知っている。ここで言うて聞かせたら、分かるかも知れん。言うて聞かせる前には自分が実行して、例えば子供から、「お父さん、自分を見なさい」と言われることのないように、お父さん自身もしっかりして、そして、子供たちの間違ったところは、「それはおかしいじゃないか」と言うて聞かせることも、して見せることも知っておる。同時にまた、ほめてやることも知っておる。

 これは私は、根っからの商売人ですからね、そういう、人を使うといったような要領ということにおいては、誰よりも私は、優れていると思うのです。いうなら人使いが上手ということです。ところが、人使いが上手だから、その上手に操られて動く人間なんて、私は本当のものじゃないと思う。ですから、私は最近は、もう言うても聞かせん、しても見せん、ほめてもやらん。それでいて、本当の意味においての治まるおかげでなければ、本当のことではないと思うのです。

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信心の焦点は私が助かること
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 私と私の子供のことを、皆さんが見てくだされば一番分かる。場合には、目に余るようなこともある。ここで言うてきかせたならと思うこともある。ですから、問題は、その言うて聞かせるとか、して見せるとかというのではなくて、問題は、そのつどつどに、私が助かるということに焦点を置いてある。自分自身が助かる。それは言わんでも済むということです。

 例えば、ここはひとつ言わねばおられんということでも、その言わねばおられんことによって、自分が、より豊かな大きな心を頂くことに精進する。ですから言わんで済むのです。または、その姿こそが、親の姿であると思わしてもらう。そこに自らの反省ができる。ほめてやらんでも、して見せんでも、ただ、こうすることが信心だ、ということだけに焦点を置いてある。こうすることが信心だということは、私自身が助からなければならないということである。
 結果においては、どういう答えが出ておるかというと、私に七人の子供がおりますが、それぞれが、とても親が言うて聞かせてもできることじゃない、親が指図してからでもできることじゃないおかげを受けております。
 これは、もう私の場合は、本当に神様が見事にですね、その子供の一人ひとりの性根とか、性格とか、個性といったようなものを、十分ご承知のうえで、お使い回しくださるなあということを感謝せずにおられませんと同時に、なるほど、言うて聞かせたり、して見せたり、ほめてやったりしたぐらいのことでできることじゃない。親の私は、右にしたほうが良いと思っているけれども、神様は左に使おうと思うてござるかも分からんのですから。

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親の思い以上のお育てを頂いている
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 うちの子供たちのことを皆さんひとつ思うてくださり、見てくだされば、一番分かることです。長女は縁づいておりますから、まず長男の若先生です。私が動きませんから、若先生が私の手足になって動いてくれます。それはまあお世辞ではございましょうけれども、昨日ある教会の先生が見えて、外での若先生の御用ぶりをいろいろほめて聞かせてくださいました。親の私が、初めて聞かせてもらった。
 そういうことも親が、「外へ出たら、ああせねばいかん、こうせねばいかん」と言うて聞かせんでもですね、ちゃんと神様が、そうさせてくださってあるということが分かります。いわば私の代行を、私が頼んでするよりも見事にできておる。ほかのことは、目に余ることもたくさんあります。けれども、問題は、そこのところを一人の子供がしっかりやっていってくれればよいでしょう。

 二番目の愛子が学院にまいりました。教職を頂いて帰りました。現在、愛子が受け持っておる分担でも、「ここのところは、あんたが分担せんならんよ」と言わんでも、ちゃんと見事にやってのけてくれます。やっておることは、皆さんがご承知のとおりです。

 三番目の光昭です。この人なんか、親の私が使おうと思うても、使える人ではないです。ところが、自分が率先して、少年少女会のことに当たっておることなんかは、もう本当に神ながらなことなんです。昨日の朝、前夜からの入殿でお泊りになっておられた講師の先生が、「庭を一ぺん見たい」とおっしゃいますから、「ご案内いたしましょう」と言うて、客殿から下りて、ずうっと庭を一巡してまいりました。そして、そこの広場までまいりました時に、前の晩から少年少女会の人たちが、ここでキャンプ形式をとって、野外での活動をやっているのを、そばで初めて見せていただきました。
 そこでご飯を炊いたり、いろんなキャンプ生活の訓練をやっているわけなんです。そこでしばらく光昭の指導ぶりを見ておりました。なかなか堂に入ったものでした。ある者はそこを、ある者はここをと、みんなが、もうそれこそ光昭の手足のように動いているのです。なるほど子供たちが「チーフ、チーフ」と言うて、慕うてくるが、こういうことは、とてもほかの子供たちじゃできんと思いました。
 このごろ、ある教会から、光昭宛にハガキが来ているのです。今度の少年少女会の会合の時、「ご講話をお願いします」と書いてある。まるっきり光昭先生になってしもうておる。先生方もたくさんおられますのにですね。だから、よそでは立派にできているわけなんです。

 三男の幹三郎を見ると、もういよいよ神様が使うてござるなあと思います。去年の十一月の死ぬか生きるかの病気以来、もうこれこそ、少年少女会の御用で出たときは別ですけれども、うちにおる限り、前の晩、どんなに寝ておらんでもです、もう遅くとも、三時二十分には起きます。親の私はまだ起こしたことはありません。そして、三時半に私といっしょに、控えの間に出てまります。そしてもう何と言うですかね、私の座っている前で、謙虚な、本当にもう横座り一つしません、三十分間じっと、神習しているという感じです。まだ、満の十六歳ですか、十七歳ですか、本当に、こんなことができるかと、私は不思議でたまらないくらいです。
 「幹三郎さん、ああせにゃいかんよ、こうせにゃいかんよ。道の教師を本当に志すなら、こうでなければならんよ」と、言うことも何もいらん。親の思いとか願い以上のことが、実際にできておるということ。とてもとても、言うて聞かせたり、して見せたりしたぐらいのことで、できることではない。「あんたは、ようできるばい」と、おだてることも、ほめてやることも何もいらん。

 三女の直子は、ただ今学院在学中です。直子の場合、私が学院に行けとは申しませんのに、高校を出てすぐに、ご本部の学院へまいりました。
 一番下の栄四郎は、今高校ですから、海の者とも、山の者とも分かりませんけれども、この人とても同じこと、神様が、まあお使い回しくださるだろうと思います。

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神を杖につけば楽じゃ
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 私は、そこから思うて見るのですけれども、どうしてそういうことができておるかというとです、「言うて聞かせて して見せて ほめてやらねば 誰もせぬぞえ」、というような常識的な生き方をもって、人が助かることを願ったり、人を自由自在に操ろうとしたりするようなことではだめだということを知っているからです。神様のおかげを頂かなければできませんね。
 そのためには、私自身がです、私自身が、いよいよ助かることのために精進する以外にはないでしょう。いわゆる、信心の帯をしっかりする以外ないでしょう。
 そこで、私が、どうしてそういうことができるかというとです、その前の御理解第五十七節にありますように、「金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ」ということを分かっているからです。もう、黙って治めることが一番だということ。
 目に余るような事があったり、困った事があったり、難儀な事がある。泥棒だとか、乞食だとは言われなくても、それと同じようなことを言われた場合も、思われた場合も、そこのところをです、いよいよ「落ちぶれて 袖に涙のかかるとき 神の心の奥ぞ知らるる」と受けるのです。
 いろんな問題を通してです、神の心が分からせていただくための猛反省がなされる。そういう生き方から、神を杖につくということができてきます。人を頼らない、金には頼らない、木や竹は折れる、それを私は承知しておる。だから、ただただ、神を杖についておるから楽である。
 私は、この極めた言葉というものはね、私どもが極めていかなければ、その味わいは分かりません。「神を杖につけば楽じゃ」というのは、教祖様のご信心の、極めに極められたお言葉なのです。
 だから、信心しておっても楽でないならば、神を杖についておらんからです。神を信じて杖についたら、そこに目に余るようなことがあっても、起こっておってもです、心は楽です。神を杖についておるから楽なんです。だから、信心の帯をするということは、しっかり神様を杖についておるという生き方だということもいえるわけです。
 最近の私の信心のあり方を一言で言うならば、「落ちぶれて 袖に涙のかかるとき 神の心の奥ぞ知らるる」でなければならない。
 日々のおかげを受けていくというても、これは人間関係だけのことではありません。「言うて聞かせて して見せて ほめてやらねば 誰もせぬぞえ」と。これは世間一般、常識的にはそうであります。けれども、言うて聞かせたり、して見せたり、ほめてやったりしたぐらいで、できるのは、本当の神様のおかげにはなりません。

 例えば私が光昭に、「あんた、幹三郎でさえこんなだから、朝早く起きて、幹三郎のまねをしなさい」と、言うて聞かせたところで、光昭にはできないのです。けれども、幹三郎ではできないところを、光昭は見事にやっていっております。これは、神様のおかげを頂かねば、できることではないでしょうが。それには、やはり無口、「黙って治める」。それには、信心の帯がしっかりできておらなければ、「つい言ってしまった」になってしまうのです。言うてはならぬことを、言うてしまうという結果になります。

 「しっかり信心の帯をせよ」ということは、五十七節から頂きますと、本当の意味において、「神を杖につけば楽じゃ」というほどの、神様を頂くということなのです。そこのところを、今日は二つの歌から、私の信心を皆さんに聞いてもらったわけですね。 どうぞ。

              昭和四十六年(一九七一年)九月十四日 朝の御理解