神 訓

 神信心のなき人は、親に孝のなきも人の道を知らぬも同じことぞ
 や。

===============================================================

------------------
親のあるありがたさ
------------------
 これは、お道の信心にして言えることだと思うですね。神信心のなき人は、親に孝のなきも同じこと。神信心というても、やはりたくさんありますから。お道の信心においては、金光大神の御取次を頂いて、そして天地金乃神を拝ませてもらうのですから、その天地金乃神様のみ心を体して、私どもが日常生活をさせていただくということ、そのことが親孝行に通じる。親の心に添う、神様の心に添う生き方。そういうふうに説くのですから、天地をそのまま親として頂く生き方なんです。金光教の信心をして、こういうことが言えるんだということであります。

 人の道を知らぬも同じこと。お互い、やはり人間であれば、人間の道というものは、だいたいみんな歩いておるのですね。人間がいわば「けもの道」を歩いておるとは思われない。人間はやはり人間の道を歩いている。ですから、そういう修養的な意味においての人の道ではなくて、どこまでも、お道の信心によって言えるところの「人の道」であります。
 私ども、例えば親があっても、その親に対して、親のあることの喜びを知らない人もあります。けれども、親がいてくれるということがありがたい。親というものは、このように子供のことを思うたり、または子供のことのためならば、自分の身を投げうってでも子供のために尽くす。そういう親の心というものに触れた時に、本当に“親なればこそ”という心が起こってくるでしょう。また、親のある喜びということがいえるわけなんです。
 私どもが信心させていただいて、ここに初めて、親があることが分かった。親はあるのだけれども、それを信心のない間は知らなかった。信心をさせていただくようになって、天地の親、その親様のおかげで、ということが分かってくるのが、金光教のご信心ですね。

 昨日は美登里会がございましたが、美登里会で、私もしばらくお話をさせていただいた。その中で、久留米の野口真子さんが、こういうことを発表しておられました。
 子供さんがたくさんおられます。現在、久留米のほうにも、ご長男夫婦、それから娘さんたち、町田さんたち夫婦が一緒に同居しておる。それから壱岐にも娘さんが縁についておられる。小倉の富永さん。それからもう一人、娘さんが市内に嫁に行っておられます。もういつの場合でも、どの子供かが心配をかけておるというのではなくて、どの子のためにか一生懸命、もう野口さんがいろいろとお世話をなさるわけです。

 ちょうど、二、三日前から、壱岐の娘さんたち夫婦が、熊本のほうへ変わられることについて、そのために、お母さんが、熊本のほうに行かれ、しかもそのあと相談事がありますから、もう直行して小倉のほうへ行かれて、富永さん夫婦にその話を持っていかれて、いろいろと話を取り進めていかれておる。子供が心配をかけるという意味じゃない。けれども、子供たちの立ち行きのために、親がもう、それこそ自分の疲れも忘れて、この暑いのに熊本から小倉、小倉から久留米というふうに、駆け回っておられる、お母さんの姿を見て、富永佳子さんが言われた。
 「本当に私は思いますが、両親が健康で、これほど子供たちのために、一生懸命働いておってくださるということを、目の当たりに見て、親をもっておることのありがたさをしみじみ感じる」と、お母さんに言われたということです。本当に親なればこそです。「お母さん、本当にようも、そんなにお世話ができることですね。親を持っておることのありがたさを、改めてしみじみ感じさせていただいた」と、長女の佳子が申しましたと、言うてから昨日お話しておられました。

 ですから、たとえ親を持っておってもですね、その親に対して、親を持っておることの喜びが、しみじみと感じられるというところから、お道の信心は始まるというてもいいです、本当の意味においての、お道の信心は。
 天地の親神様が、私ども氏子一人ひとりの上に、切なる願い、おかげを下さろう、幸せになってくれよという、思いを持ってござるということが分かる時です。金光様のご信心を頂いておるということのありがたさを、しみじみと感じる。私はね、金光様のご信心は、ここが、しみじみと分からなければだめだと思うですね。
 でなかったら、ただ金光様のご信心を頂いておるというだけだ。天地の親神様のご信心を頂いて、天地の親神様のお働きをです、日々の中に感じさせてもろうて、本当に親神様を頂いておるということのありがたさが、しみじみ分かるところから、なるほど、神信心のなき人は、親に孝のなきも同じこと、ということが分かる。

---------------------------------------
しみじみとありがたいと思う心が「和賀心」
---------------------------------------
 本当に、天地の親神様のご恩恵に、日に日に浴しておると、それぞれが、私のようなものに対しても、神様はこのような思いをかけてくださり、このような働きをしてくださると、しみじみ分かってくる。それは、富永佳子さんが、親を持っておることの幸せをしみじみ感じた、と言われるようにね。天地の親神様を親と分からせてもろうて、その親神様に、すがれる道にあるということは、まあ何とありがたいことであろうかと、しみじみ分からせていただくというところから、金光様のご信心は、そこからが始まりだと思うです。
 天地書附に、「生神金光大神、天地金乃神、一心に願え、おかげは和賀心にあり」とあります。おかげは和賀心にありということは、どういうことかというとね、金光様のご信心によって、金光大神のお取次によって、天地の親神様のご恩恵の中にあることが、「本当にありがたいことであるなあ」と分からせてもろうた、その分からせていただいたことが、しみじみとありがたいという心が、「和賀心」だと思うね。
 本当に神様なればこそ、親神様なればこそ、私どものような、くずの子に対してでも、このようなおかげをくださるんだ、このような思いをかけておってくださるんだ、本当に金光様のご信心に縁を頂いたということ自体が、まあ何とありがたいことであろうかと思う心、私はその心が「和賀心」だと思う。ですからね、次には、「一心に願え」ばっかりでいいわけなんです。願ってみて、また感ずることなんですけれどもね、まあ本当に、願ってみて思うことは、このようなことまで願うことができ、このようなことまで神様はおかげを下さる。

--------------------------------
神様は、願うことを待っておられる
--------------------------------
 例えば、私はたくさんお水を頂く、冷たいものを頂く。かき氷なんかは、もう、どんぶりで頂くんですよね。そこで、そのかき氷なんか食べますとね、あのどんぶり一杯食べると、二回ぐらい頭の芯がズキズキ痛んでくるんです。皆さんも経験があるでしょう。冷たいものを飲んだり食べたりするとね、頭がズキズキする。
 それで、もうこれは去年ぐらいからですけれどもね、かき氷を頂く前に、「どうぞ、せっかくおいしいかき氷を頂くのですから、頭が痛くなったのではいけませんから、どうぞ頭が痛くならないようにお願いします」と、お願いしてから頂くようになって以来、一回も頭が痛むことがない。もう頂くたびに、私は頭がズキズキしよった、かき氷を食べると。どんぶり一杯頂きますから。多い時には二回ぐらい頭が痛くなる。

 しかも、例えば、そういうようなことをお願いさせていただいて、思わせていただくことはね、神様が、もう待ってござったという感じがします。どうして願わんだろうかと、今まで、神様は思うてござったのだろうと思うぐらいであります。
 皆さん、もうすべてのことをね、一心に願わなければいかん。問題は、一心に願わなければいけませんよ。「生神金光大神、天地金乃神、今からどこどこに行きますから、どうぞよろしく」と。「ただ今からかき氷を食べます、頭が痛みませんように」と。例えていうと、そういう些細なことなんですけれども、食べながら苦しまんでいいように願う。そして、願って、おかげを頂いて思うことなんですよね。神様が、「どうして早く願わなかったか」と言うておられるような気がいたします。

 願わんことには神も仏も知らん。確かにそうですよ。それはもう、お礼さえ申し上げておけば、おかげは下さる。なるほどおかげは下さるけれどもですね、私どもは、そういうおかげでは、まだ足らん。人間が生きて行く上には、願うということの素晴らしいこと。願うということは、親孝行です。こんなことまでお願いしてはならない、それは、親神様を親神様とまだ知らないからです。たったそれぐらいのことと思うてしているが、たったそれくらいのことが、失敗、大けがの元になる、というようなことがあるかも知れません。そう願われとうて願われとうてたまらんでおられるのが、親神様なんです。

 「もうそんなことは、あんたがしなさい」と言いながらも、やはり頼まれれば親はうれしい、親ができることならば。親ができんことを言うことは、これは親不孝ですよね。親がお金を持たんのに、お金を工面してくれ、お金をくれ、などと言うならね、これは親不孝です。
 けれどもね、天地の親神様の場合はそうじゃないでしょうが。もう限りない、人間の幸せに必要な一切のものを、お持ちになっとられる神様。だから、頭が痛むなら頭が痛まないように、腹が痛むなら腹が痛まないように、お金がここに幾らいるなら、幾らいることを頼ませてもらうということがです、いかに素晴らしいことかと思う。しかも、それは親孝行になるのだということです。

-----------------
願うことが親孝行
-----------------
 私は本当に、この願うということはね、金光教でいう願いは、そういうことだと。金光教でいう願いということは、親孝行なんだ。けれども、そこに「生神金光大神、天地金乃神」と、一心に願わなければならないことと同時にです、こういう親神様を持っておることのありがたさというものを、しみじみ感じさせていただきながらの願いでなければいけないことはもちろんです。

 富永さんが、お母さんに言うておられるように、この暑いのに、さあ熊本、久留米、そしてまた小倉まで直行で来て、そして、娘たち夫婦のことを、ああの、こうのと、いろいろ心配してくださってある。そういう親の姿を見てから、しみじみ親のあることの喜びが分かったと、お母さんに言うておられる。そういう実感です。
 信心を頂いておることの、金光様のご信心を頂けておることの、合楽にご縁を頂いておるということのありがたさを、しみじみありがたいなあと、感じさせていただくその心で、「生神金光大神、天地金乃神」と、一心に願うのであります。
 ただ、いきなり願うということではいかん。頼みさえすればということではない。しかも、親が持たないものまでくれというようなことではいかん。また親がたとえ、よし持っておってもです、どうしてもやれないこともある。これだけは子供のためにやれない、そういう願いをすることはどうかと思う。いやそれは親不孝かも知れません。
 今申しますように、親はお金を持たないのに、子供がつまらんことにお金を使うてしもうて、金が足らん、それでお金を十万円つくってくれと、親に言うような願いはおかしい。これはおかしいというのではなく、親不孝なんです。けれども親が持っておる、もうやりたくてたまらんならば、「下さい」と言うなら、もう本当に喜んでやりたいのが、親心なんです。

 だから、もう金光教の信心はね、そういう信心によって、いわゆるお道の信心を頂いて、天地の親神様のありがたさというものをです、しみじみ実感させていただけれる心の状態をもって、「生神金光大神、天地金乃神」と一心に願うならば、それはどのようなことでも願わなければならない。いや願うことが親孝行である、神の喜びであるということです。
 だから、親孝行の信心とはね、親にあげます、あげます、ということばっかりが親孝行ではないのです。もらうことも親孝行です。それは、もう御用をさせてもらわなければならない、お供えさせてもらわなければならない。そういうことが親孝行のように思うていると、反対に間違う。それは何か下心があってから、親からひとつ、それこそ海老で鯛を釣るような心を持っておってから、少しばかりお供えなどしてから、おかげを下さいと言うなら、むしろ、それは見えすいている。「これが、もらう時ばっかり上手に言う」としか親に感じさせない。それよりかむしろ、赤裸々に、ないものならないと、困っておるなら困っておることをです、切実に、一心をもって願うということこそ親孝行である。

---------------
和賀心の新解釈
---------------
 「生神金光大神、天地金乃神」と願う。それにはね、天地の親神様を、親神様として感じれるところまで、信心を進めねばならんことが分かります。いつでも、どこででも、神様を頂いておるということの、いわば親のあるということのありがたさを、しみじみ、いつも感じておれるという信心が、まず求められるわけであります。今日、言っておるのは、「和賀心」の新たな解釈ですね。

 和らぎ賀ぶ心ということ。合楽にご神縁を頂いて、金光様のご信心を頂いておるということのありがたさをしみじみ感ずる心、その心を今日は、「和賀心」と言うておる。だから、そういう心の状態があるならばです、もうどのようなことでも、一心に願えばおかげになるということです。おかげになるということは、そのまま親孝行であるということです。だから、なるほど、「神信心のなき人は、親に孝のなきも同じこと」ということが分かるでしょう。
 こんなことは神様にお願いされんというような、親不孝ものがおるということです。だから、信心でいう親孝行とか、人の道を知らぬとかということは、そのように違ってくるわけですね。これは、金光様のご信心をもってして言えることなんだ。とくに人の道を知らぬこと。人間であれば人間の道を歩いておるという、そういう道ではなくて、ここで言う人の道というのは、親神様に通う道、天地に通う道なのであります。

------------------------------------
天地に道あり、人の踏み行うべき道あり
------------------------------------
 昨日の御理解の中に、公害問題のことが出ておりましたですね。「困ったことだ、困ったことだ」というような生き方だけではなくて、せめて金光教の信心をしておる者だけは、そのことに対して、お礼を申し上げなければならんと、私自身は、公害問題ということについて、お礼を申し上げておるという話をいたしましたね。

 ここまで人間が成長したこと、人間の知恵、力でここまで、いわば月の世界にでも行けれるほどのことができるようになったということは、これは神様にお礼を申し上げるべきことだ。そして、公害問題を取り上げるということは、ここにこういう難儀な問題になることを気づき、これからは、その難儀をもう積み重ねていくことはあるまい。これから、そこに善後策が講じられるであろう。それから、公害の問題から、だんだん開放されてくるおかげになってくるほかはない。だから、人間が、そこに気づいたことがありがたい。ここまで人間が、進展してきたということがありがたい。だから、私はお礼を申し上げるよりほかにはない、というようなことを申しましたですね。

 私は「人の道」とは、そういうことだと思うですね。いうならば、お礼を申し上げねばならないことに、お礼を申し上げずに、不平不足、不満を言うたり、恐怖心を起こしたり、取り越し苦労をしておるというようなことがです、私は人の道を、もう間違えておる考え方だと思います。頂いておるものに対しては、おかげを受けておることに対しては、お礼が言えれる心が人の道なのです。「あればっかりは、もういくらしてやっても恩義は知らん、お礼も言わん」と言うでしょうが。人の道ではそんなに言うでしょうが。

 神様に対してもそうなのです。御礼を申し上げねばならないことに不平不足を言うておるなら、これは人の道を知らぬも同じことである。神様には神様の道、人には人の道がある。その神様の道と人の道とが、一つの共通点を見い出したところ、そこに「天地に道あり」といわれる、その天地の道に出たところになるのである。人間ばっかりは自分勝手な者だ、と神様がお思いなさるようなことではいけない。お礼を申し上げるべきところは、お礼を申し上げさせていただいて、願うところは願うていくというのが、人の道だ。だから、これは金光様のご信心をしなければ、今日の本当の意味においての「人の道」が分からん。
 道徳的なもの、修養的なもの、そういう道とは違うのです、ここでいう人の道とは。信心はなかっても、道徳的な修養を積んだ人がたくさんありますよ。けれども、神信心のないということは、人の道を知らぬも同じことだ、と言うておられるんですから、これはそういう道ではないことが分かりますね。修養、道徳的なものではない。どこまでも信心によって、その道を分からせてもらうという道が人の道である。

------------------------
信心による親孝行と人の道
------------------------
 今日、私はこの御理解から、本当に新たな開眼をさせていただいたような気がすることは、願っておかげを受けるということが、親孝行だということです。だから、願っておかげがいただけない時には、「生神金光大神、天地金乃神、一心に願え」とおっしゃる、その一心が、まだ欠けておると知るよりほかにない。同時に、生神金光大神のお取次によって、天地金乃神のご信心を頂くようになったことの喜びというものを、まだ皆さんがしみじみと感じ得ていないということになる。そういう心で一心に願えば、それはどのようなことでも願わせていただける。願うことが親孝行、願うことが人の道にも、親孝行の道にも通ずるんだということを今日は申しましたね。

 どうですか皆さん、昨日、美登里会で、みんなが言われたことは、本当に合楽にご神縁を頂いておるということが、もう大変なことだということを分かりましたと。合楽にご縁を頂いておるということがです、しみじみありがたいと思う心なんです。
 皆さんどうですか、その心ならありましょう。合楽にご神縁を頂いておることが、しみじみありがたいという心でです、それが分かるならば、それを感じるならば、その心で「生神金光大神、天地金乃神」と一心に願わねばいかん。だから、ここでもう少し、お互いが分からなければならんことは、その一心にということが、もう少し検討されなければいけませんね。一心に願わなければいけません。
 それは例えば、私が、かき氷を頂くに、どうぞ頭が痛くならんようにと言うて一心に願う。もちろん、心の中で、信心を頂いておることの、天地の親神様を頂いておることのありがたさを、しみじみ感じながら一心に願うから、なるほど、それ以来、頭が痛くならない。そのかわり、頂くたびにお願いする。
 一遍は、それをお願いせずに頂いておったら、ちょっとばかり頭が痛みだした。「あら、今日はお願いするのを忘れとった」と思ってね、お願いしたらすぐおかげを頂いた。だから、願うということが、どんなに素晴らしいことか。願うということは、神様はこうやって、手ぐすね引いて待っておられるということです。氏子が願うということを待っておられるのです。やりたくてたまらないのですから。だから、願うことも親孝行だと言ってるんです。願わせてもらわねばならん、そのために金光様のご信心を頂いておるということなんです。

 金光様のご信心によって、天地金乃神様を知ることができた。こういう親神様があることが分かったことをです、しみじみありがたいと感じて、一心に願えというところに、親に孝行の道も、または、人の道もおのずと分かってくるということになるのです。 どうぞ。

              昭和四十六年(一九七一年)七月十三日 朝の御理解