御理解 第七節

 天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地は
 はやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の
 心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。

=============================================================

-------------------
徳を受けられる修行
-------------------
 ここの御理解を、もう何十回頂いたか分からんくらいに思いますが、結局は、やはりお道の信心をさせていただくなら、この御理解第七節にあるところの信心が分からせてもらい、それを身につけていく。いわゆるそういう信心が育っていく。そこから、神様を現し申し上げることができるというためには、どうしてもここのところを頂かせてもらわなければならん。

 その後先の説明はともかくとして、私はお道の信心をさせていただいて、まあ信心に修行はつきものと申しますから、やはりさまざまな修行をいたしますけれども、お道の信心をさせていただいて、一番修行の眼目になる修行だと思うんですね。
 いわゆる「天地日月の心になること肝要なり」と。これは、どういう何の修行よりも、一番肝要であり、肝心である。私は、ここのところの信心修行が本気にされるときにです。今月の焦点であります『育つ喜び表す楽しみ』ということになるんだと思うです。

 信心に修行はつきものだと。これは、あらゆる宗教、宗派がさまざまな修行をいたしますね。これは宗教だけではありません。もういろんな、何にだってやっぱり修行はあります。けれども、金光様のご信心はもう、だいたいは、ここにしぼってよいという感じがいたします。
 「此方の行は水や火の行ではない。家業の行ぞ」と、こうおっしゃる。家業の行とても、その家業の行そのものの中味がです、天地日月の心になるという修行でなければ、もう無意味です。一生懸命に農作業をする、一生懸命に商売をする、もうそのこと自体が行だと。けれどもその行の中味が、ただ一生懸命に働くということだけではない。その家業の行の中に、天地日月の心になること肝要なりであります。でなかったら、修行が修行にならん。
 きついとか、つらいとかいうことだけが修行じゃない。天地日月の心になることこそ肝要なりであります。そこに、信心はせんでもおかげはやってある、もう限りなしに下さっている、そのおかげを頂き止めることができる。頂き止める力ができる。けれども、どんなに下さっておっても、力なしにはおかげは受けられません。

 御理解第十三節に、「神は向こう倍力の徳を授ける」とおっしゃる。いわゆる神様の願いとでも申しましょうかね。神は向こう倍力の徳を授けるとおっしゃるから、もう一生懸命神様に向こうて御祈念をする。神様へ向こうてお参りをする。あらゆる修行をさせてもらって、神様へ打ち向こうていく。信心は一にも押し、二にも押し、三にも押しと言われるのですから。その押していくところをです、「どうぞ、どうぞ」と神様へ向かって、いわば肉迫していくようにです、神様へ向こうていく。
 「神は向こう倍力の徳を授ける」。それはね、一生懸命に願います。もう、それこそ日に何回も何回も御神前に出ては、御祈念をする、お願いをする。おかげは受けますね、熱心に水をかぶったり、断食をしたり、そして神様へ一生懸命向こうていく。おかげは受けますけれども、ここでは、「神は向こう倍力の徳を授ける」とおっしゃる徳を受けることにはなりませんね。

 それは、私どもも頂かなければならない、どうでもというおかげがあります。ですから、やっぱり願います。また、願わなければなりませんし、おかげを受けなければなりませんけれども、それは徳にはならない。どこまでも、私は神様へ向こうていくという修行がです、徳を受けていけれる、力を受けていけれる修行でなければならん。神様へ向かえば、向かうその力の倍力とおっしゃる、その倍力の徳を受けられる修行は、天地日月の心になることが肝要なのです。今日は、もう、そこのところだけに一つ焦点をおいて、ひとつ分かっていただきたいと思います。

-------------------------------
右と願っても左、左と願っても右
-------------------------------
 おかげを受ける。神様へ向かう。そのいわば、向かう内容というものがです、なるほど家業の行である。もう一生懸命に、こうやって仕事をさせていただいておるということ、そのこと自体が、金光教では行なのだ。というても、それは一生懸命仕事をしておるというだけでは、行にはなっていない。その自分が、一生懸命働いておるその内容がです、天地日月の心に合っておるかどうかということなんです。
 そしてそこに、神様へ向かう心が、天地日月の心をもって向こうていく力が、百の力をもってすれば、いうなら二百のお徳を受けることができる。二百の力をもってするならば、四百も五百もの力を受けることができる。また、神様はそれを下さるのである。

 私は、私自身の信心を思うてみて、まあ私が頂いているのが、力とか徳とか、というような言葉で表現しては、お徳を、御神徳をけがすことになるかも知れませんけれども、まあひとつ、私が頂いているのを、まあ、お徳と思うていただくならばです、いつ、そういうおかげを受けたかというと、私も分からんなりなんです、実を言うたら。あの時分におかげを受けていたのだろうと思うだけなんです。
 天地日月の心になろうといったような、はっきりした焦点もなかったし、ただいわば、がむしゃらに、なるほど、がむしゃらに神様に向こうた。それはもう本当に、まあいうならば力の限りであった。だから、そういう力の限りで神様へ向かうという人は、たくさんあると思うんです。

 自分の難儀を感じるから、その難儀の中から助けていただきたいと思うから、私の場合などは、とにかく、神様のおかげを頂かなければ、立ち行かないというものが、もう、はっきりしてきておりましたですね。それが、あまりにもはっきりしてましたからね。もういよいよ、私は神様のおかげを受けなければできんというのですから、もう一生懸命にならざるを得なかったわけです。

 初めの間、お商売をさせていただいて、神様のおかげと言うておるけれども、まだ自分は誰よりも努力もするし、商売も誰よりも上手だからというふうに自負しておった。また、人からもそう言われていた。ところが、だんだん信心に身が入ってくる、商売にも、いよいよ身が入ってまいりましたからですね、こんどは商売の力を持っておる、商売は上手と思うておった私だけの上に、次々と難儀な事が起こってきたんですよね。
 右と願っても左、左と願っても右、例えば、ひとつここに商いができつつある、大きな商いがまとまりよる。もうそれが、九分九厘まとまって、もうお金を頂くばっかりになっていてから崩れていくんですよ。それがずうっと続いたんです。

 そうして初めて、それこそ打ちのめされるように、自分の商才とか努力とかではできることではない、ということが私は分かったんですね。私は、だからそのことが非常にありがたいと思います。
 まあ、あの時分には、私が一生懸命願うことに対して、神様が、もし妥協してくださってです、もうあれだけ願うから、三遍に一遍ぐらいは、おかげをやらなければならないというようなことになっておったら、まだ目が覚めなかったかも知れませんね。いわゆる「われ無力」ということなんです。

----------------------------------------
神様のおかげを頂かなければ立ち行かない私
----------------------------------------
 「障子一重がままならぬ人の身」であるということ。皆さん、このへんのところを、ひとつ脱皮しなければいけません。自分はできると、だから自分が先頭に立って、神様にはお手伝いをさせている程度だったんですね、私の場合は。なるほど一つの商売に打ち込んでいくのですから、商売が上達していくのは、もう当たり前のことです。だから、商売は誰よりも上手であり、人よりも努力もするから、誰よりも私が、一番売り上げを上げていくことができると思うておった。そのことのために、やはり自分だけの力ではできないから、神様にも手伝うてもろうて、お願いをするというお願いであった。だから、私が、例えば引っ張っていくなら、神様に、どうでも後から押してきてくださいといったような、いわば信心であった。

 ところが、だんだん信心に身が入ってまいりましたらです、様子が少し変わってまいりました。もう一日中ですね、そのころは自転車もなくなってしまっておりましたから、歩いて福岡の町を回るのでございますからね。そして、本当に神様にお願いし、お願いし、またご神意を伺い、伺い、もうその時分にはね、胸知らせというような感じのおかげを頂いておりました。
 道を歩いていても、「さあ右の角へ入れ、さあまっすぐ行け、この家に寄ってみよ」といったようなことでした。ですから、そういう神様からお知らせを頂きながら、やらせていただくわけですね。そうして商いができる。「まあこれで、今日はやれやれおかげを頂いた」と、それこそ九分九厘以上にできておる商いが、ちょっとしたことからですね、「やっぱりちょっと、見合わせておこう」といったようなことに、みんな、なっていくんですから。私は、もう驚いてしまいました。

 そういうことが続いた。その時にです、いかに商売が上手であっても、力があっても、本当をいうたら、神様のおかげを頂かなければできることではないんだという事実を、私は体験させてもらった。いわゆる、神様のおかげを頂かなければ立ち行くことはできない。私という人間は、とりわけ神様のおかげを頂かなければできないということが、分からせていただいたのですから、その神様に一生懸命打ち向かわんわけにはいかん。神様に一生懸命おすがりしなければおられなかったわけです。
 だから、今から考えても、人がびっくりするような、または自分ながらも、よくできたと思われるぐらいに、もうがむしゃらに神様におすがりをする信心にならせていただいた。それでもやはりおかげは受けませんでした。

------------------------
一切を黙って受けぬく修行
------------------------
 そこで、あの手この手で修行をさせていただく、その修行の中からね、こういう修行を私は思い立った。私の身の上に起きてくるさまざまな事柄、それは降ることも照ることもありましょう。嫌な思いをすることもありましょう。苦い思いをすることもありましょう。まあ、どういうことが起こってまいりましても、私の上に起きてくるこの事態そのものをです、私は修行で受けようということに気づかせていただいた。それが後々に、もうどんな素晴らしいことになってきたかというと、現在の合楽教会のごヒレイの大本になったんです。
 この信心は、そういう商売上の大修行中から、椛目で人が助かるようになって、ちょうど五年祭のお祭りを仕える、半年前の春のご大祭の日まで続きました。どのような事があっても、それを受けていく、受けて立とうという修行でした。ですから、そこまでに至るまでに、さまざまな修行がありました。けれども、椛目にいよいよ座り込ませていただいて、人が助かるようになって、いわば四年半です、四年半の間に、当時の信心を知っておられる方は、皆さんもご承知でしょうけれども、それこそ、もう箸にも棒にもかからんような病人を、まるっきり姨捨山のようにしてから椛目に連れてきて、親戚の者まで、かまってくれないというような病人やらが、あの時分にいつもです、もう常時十何人かおりました、あの狭い所に。

 もう本当に誰でもが、側にでも寄りたくないような病人やらがいる中に、それを気にもかけずにね、皆さんがたくさん、ようお参りがあったと思います。あの当時、村内からでも、まあいろんな非難がありました。青びょうたんのような、よろよろしている病人さんが、横にある谷川で、顔を洗ったりするもんですからね。やっぱり、近所の信心のない方たちが、苦情を言われるのは当たり前です。北野町の保健所から何人も来てから、いろんな調査をされたのも、その時分でした。投書があったというわけなんですよね。
 もう例えばね、そういうとき、私は、「それは困るばい、そんな病人を連れて来てもろうちゃ」ということを言わなかったんですよ。お金を下さいと言えば、もう、お金はあるだけやりました。もう、お賽銭箱をひっくり返してあげました。貸してくれと言えば、もう何を言われても貸しました。くれと言えば、やりました。預かってくれと言えば、粟粒結核の病人まで預かりました。もう本当に、これは私だけでできることじゃない。家族中の者がその気になっておかげを頂いた。

 だからね、合楽で信心をさせてもらうならね、そういう信心が真似形でもできねばいけないです。それがね、私は、このような素晴らしい修行であるということを知らぬままにしていた。いわゆるそのころから、『成り行きを尊ぶ』とか、『成り行きを大切にする』という言葉で表現するようになりました。それがね、例えば今日の御理解から頂きますと、それがそのまま「天地日月の心になること肝要なり」と仰せられる修行であった。

--------------------------
あるがままに、なるがままに
--------------------------
 仏教の言葉に「雲水行」というのがあります。行く雲、流れる水、もう自然に逆らわない。「あるがままに、なるがままに」という、そこのところを受けていくという修行なんです。ひとつも気ばらない、そのこと自体が修行なのである。そういう心で家業の行をさせてもらう。家業の行の内容が、そういう雲水行というかね、成り行きを尊び大切にさせていただくという修行にならせていただく。

 「それは困るばい」ということがない。「それはできません」ということがない。けれども、できないことはできません。例えばその当時、お金を百万円貸してくださいと言うても、ありませんから、それはしかたがない。けれども、あるだけあげましょう、ということであった。これはまあ、余談ですけれども、あの時分に貸してあげたり、差し上げたりしたもので、まだ一銭も返ってきた、ためしがありませんでした。
 いうなれば、何にもならん修行のようだったけれども、私にとっては大変な修行であったということです。それを今、思うてみるなら力を受けておったであろう、徳を受けたであろうというのは、その時だったと自分で思うとります。

 もう、いよいよあと半年で、五年の記念祭が仕えられるという春のご大祭にです、「ホウレンソウ」のお知らせを頂きました。それまでは、もうすべてを受けていくということが修行でした。ホーレンソウの引っこ抜いたばっかりの、まだ泥も付いとれば、ひげもいっぱい付いている、下のほうは枯れ葉で赤くなっている。だから、今までの四年半というものは、これをみんな頂いてきたというわけです。洗いもせずに、赤い葉でも何でも頂いた。泥の付いて、ジャキジャキするようなものでも頂いてきた。よくそういうことができたと自分でも思うぐらいです。
 だから、四年半たちましたら、「枯れた赤い葉は摘みとってしまえ。根もひげも付いておるようなところは切ってしまえ。しかも、きれいな、いわば、水で洗うてから滋養になるところ、おいしいところだけを頂け」と。ホウレンソウ全体を頂くけれども、食べられないところは、食べないでよい、というようなお知らせを頂いてからでしたが、そういう修行に、今度は切り替えさせていただいた。

 そして、本当の意味においての、天地日月の心になること、いわば成り行きを尊び、大事にさせていただくという修行にならせていただいきました。もう、とたんでした。当時の椛目に、病人さんを預かってくれという人たちや、金を貸してくれという人たちがいなくなったですね。
 だから、いかにその間が、神様のご都合であったか、ということを思います。神様はもう、「これでもか、これでもか」と言わんばかりに、まったく見も知らぬ人が金を借りに来たり、縁もゆかりもない者が、もう死にそうな子供を連れて来てから、預かってくださいと言うて来ました。その親は、それっきり来んといったようなことが次々とです、「もうこれでもか、これでもか」と神様はお試しくださったけれども、私は、腹の中に決めてしまっておりますからね、「もう絶対受けます」という修行になっとりましたから、それがもう、本当にさわらずにできてきた。あのときに、お知らせを頂いていなかったら、今までやっぱり、そういうことだったかも知れません。けれどもそれは、やはり神様のご都合でありました。
 そして後はですね。教会に入ってくる人は、本当の意味での、信心修行をされる方ばっかりになりましたですね。いかにそれが、神様のご都合であったかということが分かる。

------------------------------------
天地の働きそのものを修行として受ける
------------------------------------
 そこで、皆さんの上に起きてくるさまざまな問題もです、絶対神様のご都合なのですから、その成り行きを、いよいよ尊ばせていただく生き方でいくことなんです。しかも、天地日月の心を心としてなんですね。
 いつも申しますように、『天の心』とは、限りなく与えて与えてやまない心、『地の心』というのは、それこそ、どのような場合であっても、黙って受けて受けて受けぬいていくという心。『日月の心』、これは、天地の働きの中で、日月の運行のように、正確無比なものはなかろう。そのような正確無比な心、いわゆる、それをお道では実意丁寧という。例えば、起こってくるその事柄を、実意丁寧神信心をもって受けていくという生き方。そういう生き方が、「天地日月の心になること肝要なり」であり、そういう生き方をもって神様に向かう時にです、「神は倍力の徳を授ける」と仰せられるのであります。

 「神は向こう倍力の徳を授ける」と仰せられる。そこで、はっきり私の体験から言えれることは、神様のおかげを頂かなければ立ち行かない、ということです。皆さんが商売をしておられて、なるほど商売の要領もいい、掛け引きも上手にやるようになった、人よりも売り上げが良いというけれども、本当いうたら、そのことも一切、神様のおかげを受けておるのです。
 だから、いよいよ神様が、おかげを形の上に表してくださらんようになってまいりましたら、私の商売の最後のころのようにですね、もう一日足を棒にして歩いても、一銭の商いもできなかったからですね。しかも、どけへ行っても、九分九厘できたかのようにあって、すっと商いが崩れていく。もうその時に、強引な神様のお働きを受けておったと思います。

 おかげで、これは自分の知恵や力ではできん、神様のおかげを頂かなければ、おかげが頂けんことが分かったところからです、さまざまな修行をもって神様に打ち向こうた。けれども、その打ち向かうことの中に、私の心に気づかせていただいて、その後の言葉で言うと、成り行きをいよいよ大事にさせていただくという修行に入らせていただいて、いうならば雲水行が身についてきた。
 それが、天地日月の心になることであるということは知らずに、その修行をさせていただいた。そして、今振り返って考えてみるとです、そのときに、私が向こう倍力の力をもって、現在、神様がおかげを下さってある、徳を下さってあるんだ、力を下さってあったんだと、今にして思うのであります。

 「神は向こう倍力の“おかげ”を授ける」とはおっしゃってない。「神は向こう倍力の“徳”を授ける」とおっしゃってある。神とは何か。神とは、金光教の信心では天地以外にないのです、自然の働きそのものを神様の働きとする以外にない。その天地に向かって、私どもが打ち向こうていく修行というのが、神に向かっての修行である。
 断食したり、水をかかったりしたのは、天地に向かっているのではないでしょうが。天地に向かうというのは、天地の働きそのものを、修行として受ける修行こそが、天地に向かっての修行であり、神に向かっての修行である。
 神に向かって、倍力の力を下さろうという修行とは、そういう修行以外にない。だから、金光様のご信心が、いかに御事柄として、そのこと自体を、私どもが尊び、または、それをひた受けに受けさせていただくという精進こそがです、神様へ向かう力になるのです。だからそういう修行に対して、神様は倍力の徳をもって報いてくださるわけであります。
 「天地日月の心になること肝要なり」。天地日月の心にならせていただける修行ということであります。その修行こそが、神に向かうということです。
 神に向かう。ただ一生懸命参ってお願いする。願う、地団駄を踏んで願う。なるほど、それは願ったことになるけれども、神様へ打ち向かうことにはならない。願うからおかげは下さるけれども、それは徳にはならないという事実がね、これは私の信心体験から、それをはっきり申し上げることができると思うんです。 どうぞ。

              昭和四十六年(一九七一年)六月一日 朝の御理解