御理解 第九十九節

 無学で人が助けられぬということはない。学問はあっても真がな
 ければ、人は助からぬ。学問が身を食うということがある。学問
 があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおか
 げを受けておる。

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真の信者とは
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 「此方は無学でも、みなおかげを受けておる」。此方ということは、教祖金光大神のことであります。教祖金光大神は、ご自分でもおっしゃっておられますように、無学の百姓と言われる。自分は学問はない、けれども、皆人が助かっておる。だから、学問がなくても、やはり真があれば人は助かると言われる。
 人が助かるということは、もちろん自分自身が助かるということであります。此方金光大神は、ご自身が助かってござった。ご自身が助かっておられたから、人が助かったのである。此方金光大神という方は、だから、どういうようなおかげを受けられて、どのような助かり方をし、また、助け方をなさったかと。

 御理解第九十四節の最後のところに、「信心の篤いのが真の信者じゃ」とおっしゃっておられる。手篤い信心をする氏子が真の信者と言われる。いわゆる、教祖の神様は手篤い信心をなさった。いわば実意丁寧の限りを尽くされた信心であった。これで良いというようなことはない。実に手篤い信心をなさった。
 例えば、そういうひとつの片鱗を見ることができるのは、まだ教祖様がお百姓をなさっておられる時に、村内の方たちといっしょに、お四国参りをなさっておられるんですね。やはり、ずいぶん難所がありましてね、もう、わざわざそこまでも足を延ばして参るということは、時間もかかるし、大変お参りもしにくいところなのだから、どこどこの谷間にお祭りをしてある何々様と言うて、みんなは、こちらのほうから拝んで通られるのですけれども、教祖様は、お参りをしにくい所にも、足を運んで、いちいち拝んで回っておられる。そのように、手篤い心がけを持っておられたということのようです。いわゆる実意丁寧な心がけを持っておられたという。そういう信心をすることによって、真の信心がお分かりになられたわけであります。
 だからここで、「学問はあっても難儀をしておる」ということは、学問があるから難儀をしておるというのではない。だから、学問があっても、やはり真があれば、自分も助かることができ、または、人も助かることができる。教祖様の場合は、無学であったと自分でおっしゃっておられるけれども、これは、どんなに学者であっても、真があれば、いわば手篤い信心をさせていただけば、おかげが頂けるということになります。

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「めぐり」のお取り払いが頂ける信心
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 「此方は無学でも、みなおかげを受けておる」。そこで、まあ結論を先に申しますとですね、教祖様がご自身、実意丁寧神信心をなさり、いわば行き届いた信心をなさり、手篤い信心をなされるうちにです、どういうことになられたかというとね、さまざまな問題、さまざまな難儀を、人間教祖もやはり持っておられたのですけれども、手篤い信心をなさっていかれるうちに、だんだんめぐりがなくなっていかれた。めぐりの影が薄くなっていかれた。そしてめぐりがなくなっていった。

 「此方は無学でも、みなおかげを受けておる」。此方金光大神は、実意丁寧、いわゆる行き届いた手篤い信心をなされていくうちにです、だんだんご自身のめぐりがなくなっていかれた。めぐりがなくなっていかれたということは、ご自身が助かっておいでられた。これは心の状態だけではない。形の上にも、すべての点において助かっておいでられた。
 ですから、ここで思うのはね、私どもが、日々ここで信心のけいこをさせていただいておりますが、ただ一生懸命に拝んでおります、お参りをしておりますというだけでは、手篤い信心ということにはならない。手篤い信心というのは、いわゆるめぐりのお取り払いが頂ける、めぐりの影が消えていくほどの信心をさせていただくということが、手篤い信心をすることになる。

 私も今日は、そこのところを初めて頂いておるわけでございます。実意丁寧に、一生懸命信心をなさるということは、ただ、丁寧に拝むとか、毎日毎日お参りをするとか、修行をするということではなくてですね、そういう日々の信心修行の中から、めぐりのお取り払いが頂けていくような信心。そういう信心を手篤い信心というのである。
 だから、真の信者にお取り立てを頂くこともでき、真の道に出ることもでき、真の信心をさせていただくこともできるわけなんです。めぐりのお取り払いを頂いていくほどの、めぐりの影がだんだん潜んでいくほどの、いや、なくなっていくほどの信心を手篤い信心というのである。
 此方金光大神は、そのような信心をなさった。私どもはそういう信心をさせてもらわねばならない。ですから、信心を手篤くさせていただいておる、熱心にさせていただいておるという間にです、めぐりのお取り払いを頂くチャンスが、次々とあるわけである。

 「やれ痛やという心で、ありがたし、今みかげをという心になれよ」とおっしゃるように、それは痛いことも、難儀を感ずること、さまざまでございましょう。心に大きな打撃をこうむるようなこともありましょう。形の上でそういうこともありましょう。ですから、それは苦しいことであり、悲しいことであり、または、痛いことでもありましょう。
 けれども、そのことをご神意として頂き、神様のご都合として頂き、「やれ痛や、今みかげを」と言われるように、今こそ、みかげを頂いておる時であります、今こそめぐりのお取り払いを頂いておる時であるとして、お取り払いを下さる神様に対して、お礼を申し上げれる信心。そういう姿勢をもって信心が進められていく。そういう信心をさせていただくことがです、手篤い信心ということになるのです。

 信心が手篤いというのは、これほど信心するのに、こんなに一生懸命参っているのに、こんなに一生懸命拝んでいるのに、どうしてこんな事が起こってくるじゃろうかというような信心では、もう手篤い信心ということにはならない。

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神様のご都合以外にない
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 「此方は無学でも、人が助かっておる」とおっしゃる。無学でも、どうして人が助かったかというと、教祖ご自身が、いわゆるめぐりのお取り払いを受けておられる。さまざまな難儀に出会った場合、例えばお子様が亡くなられるといったような、人生の中でも、そうした悲しいことに出会われてもです、私の信心の不行き届きとして、おわびをなさり、ひたすら神様へ、そのことをもって近づいておられる。だから、お子様が亡くなられたことは悲しいことなのだけれども、お子様がなくなられるという、大変な悲しい苦しいことが、それだけのめぐりのお取り払いを受けられての信心の進め方で、おありになったということが分かる。

 そういう信心を、今日は、手篤い信心だと、みなさんに聞いていただいた。信心の手篤いのが真の信者じゃ。いよいよ真の信者、真の人間、真の人だとしてです、天地の親神様がそれこそ心を躍らせ、目を輝かせて、教祖様の御あり方というものを見守られておられたことであろうと思う。そのような生き方がです、めぐりの影はいよいよなくなっていき、薄くなっていき、どのような場合であっても、安心と喜びとが心の中におありになったであろう、という信心生活を身におつけになられ、そこから、此方のような無学な者のところでも人が助かる、ということになられたわけであります。

 今日は皆さんに、手篤い信心をしていただかなければならん。手篤い信心とは、ただ今申しますように、どのような場合であっても、それが苦しいことであっても痛いことであっても、「やれ痛や、今みかげを」と、それをみかげとして頂けれる信心なのです。

 これは、私が昨日から、しきりに思うたことなんですけれども、皆さんが信心をだんだん分かってきて、どのような場合であっても、「神様のご都合ですなあ」と言えれる信心に、または信者に、「どんなご都合ですか」と尋ねんですむ信者にお育てを頂かなければならない。「どんなご都合ですか」ということに対して、簡単に答えますならば、「神様が、よりおかげを下さろうとするご都合以外にない」ということです。
 泥棒に遭いました、火事に遭いました、というてお届けに見えたときにです、「神様のご都合ですなあ」と私が言うても、皆さんが、「本当に神様のご都合に違いはありません」と頂けれる信者にお育てを頂かれるということを、いよいよ願わなければならんなあと、昨日そのことをしきりに感じました。それが、そう感じられる信心を、今日は手篤い信心と言っているのです。

 「広大なおかげを頂きました。家は火事に遭いましたから、もうすべてが灰になりましたけれども、おかげで信心は焼けませんでした」と。そういう信心なのです。そういう信心を手篤い信心というのです。
 ですから、もう完璧に、その難儀の度合いが大きければ大きいほど、それだけめぐりはお取り払いは頂いていきよる。いよいよめぐりの影が薄くなってきた。その影を宿さないまでにおかげを頂いてきた。いうならば、もうそれこそ晴れたお月様を見るようなものじゃないでしょうか。雲一点かからない、いわゆる満月のお月様を拝むようなものじゃないでしょうか、自分の心の中に。なるほど、「やれ痛や、今みかげを」なのであります。
 「此方は無学でも」とおっしゃる。此方金光大神は、そういう完璧なめぐりのお取り払いをお受けになられたからこそ、初めて天地の親神様のご信任がいよいよ篤くなり、神も助かり、金光大神も助かり、氏子も助かっていく道の顕現となったのであります。

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人を見るなら望遠鏡、自分を見るなら顕微鏡
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 そういう信心状態というものを頂かせていただくために、いよいよ、大きな腹の信心。いわば太っ腹と申しますね、腹が大きい。そして、なおかつ細心、細やかな心ですね。先日、東京のある教会より送っていただいた小冊子を読ませていただきましたが、その中にこのようなことが書いてあった。「望遠鏡を持つロマンチストであると同時に、顕微鏡を持つリアリストでなければならぬ」といったようなことが書いてありました。

 自分には、とても寛大だけれども、人は許せないという人があります。自分のことは棚に上げて、人の足元だけが分かるという人があります。これは人を顕微鏡で見ておるようなもんですね。自分を望遠鏡で見ておる。
 今日、私が申します信心を、どういうふうにして進めていったらよいかというと、人を見るのは望遠鏡で眺めて、自分自身を顕微鏡で見るという生き方なんです。例えば、一つの人間関係の場合でも、そういう生き方なんです。人には寛大、自分には厳しく。一つの難儀に直面いたしまいしてもね、あれがああしたから、私がこういう目に遭ったというのではない。人のせいじゃない。それを自分自身の心に顕微鏡を当てて見ると、それがはっきり分かってくる。人じゃない、自分自身ですね。

 昨日は、久留米の佐田さんの所の宅祭に併せて、久留米支部のお祭りを奉仕させていただきました。もう本当にありがたい。ああいうお祭りができるようになったら素晴らしいことだと思いますね。自分がひとつもしてござらん。それはもちろん、自分が一生懸命精進し努力して、あのお祭りを仕えられるためには、もう一カ月も前から、それこそ人間の心の使われるだけの心を使わせていただいて、おかげを頂いて、その間、さまざまな修行もあった。けれども、その修行が全部、ご大祭をありがたく奉仕させていただくための修行であった。
 ですから、例えて言うと、お供え物一つでも、準備万端の上においても、なるほど神様が働いておってくださるんだなあ、神様が集めてくださるんだなあ、と思わねばおられんほどのおかげの中に、あのお祭りが仕えられたということです。私は、昨日、そのことを頂いてから、信心とは、もう本当に素晴らしいことだなあ、こういう信心が育っていくことだなあと思うた。
 私が一生懸命、真心をこめて仕えたお祭りというものではなく、そこに実際は、実じつが見えている。お供え物一つの上にでも、万事万端の上にもです、神様のおかげの中に、神様のお働きの中に、これができているんだなあという実感がある。だから、このお祭りも佐田一家の方たちが、一生懸命になられたことは事実だけれども、一生懸命になられただけ、神様も一生懸命になっておられる印がね、そこに見えておるというお祭りであったということなのである。ですから、神と人とが一体になって、あのお祭りは奉仕されたということなんです。

 「鐘が鳴るのか撞木が鳴るか、鐘と撞木の間が鳴る」というお祭りであった。神様だけではできん。人間だけではできん。その真と真との出会いがです、昨日のお祭りの形になって現れた。まあ、ちょっとこんなお祭りは、まずないでしょうね。それが完璧ということではないですよ、まだまだ。けれども、そういう信心の状態というものは、もう絶対、今日私が申します、いわゆる手篤い信心からしか生まれてまいりません。

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遠大なる神のご計画
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 手篤い信心とは、どういうことかと申しますと、例えば困ったことがあっても、それはめぐりのお取り払いとして頂くような信心なんです。皆さんもご承知のとおりですね、一家を挙げてのあのような信心です。どういう難儀な問題があってもです、それを元気に合掌して受けていくという姿勢。手篤い信心とは、そういう信心だと、今日は聞いていただいているわけです。

 そういう例えばおかげを頂くためには、ただ今申しますようにね、望遠鏡を持ったロマンチストでなければならないと同時にです、顕微鏡を持ったリアリストでもなければならないということなんです。実に楽しい。佐田さんの奥さんが、四、五日の間、お届けをされる内容の中に、大変困った問題があった。難儀な問題があった。けれども、それを思うと、心の底から、うれしくて、うれしくてと言うておられます。それは、例えば望遠鏡を持って見るからなんですよ。まさにロマンチストなんです。難儀なことをですね、もう、うれしくて、うれしくてと言うて、いつも受けていかれるでしょう。そして、それだけではない。自分自身には厳しく、例えば顕微鏡を持って見るような生き方、いわゆるリアリストでもあるということなんです。

 だんだん腹が大きくなっていき、同時に、細やかな心になっていかれるわけです。私どもが、「どうぞお願いいたします、お願いいたします」と言うて、現れてくるおかげは、もう神様がしかたなく下さるおかげなんだ。なるほど、そういうおかげも頂かなければなりませんけれども、今日、私が申します、佐田さんの所のお祭りの例をとりますとです、神様の働きも、さることながら、氏子の働きもそこに伴って、いわゆる真と真が出会う、その中から生まれてくるところのおかげ、だから神も喜び、氏子も喜ぶというおかげになってきたわけです。

 今日は、「信心の篤いのが真の信者じゃ」と教えられる、その信心が篤いということを、ただ今申しましたね。人のことを顕微鏡で見るのじゃなくて、これは問題でも、例えば難儀な問題でも、神様の深い思し召しがあってのことであろうと、遠いところにある神様の思いというものを、よくよく思わせていただくときにです、ありがたいなあということになるのですよ。
 その難儀な問題がありましても、いわゆる神様のご都合だとして頂くということは、望遠鏡で眺めておるようなもの。遠いところにあって、私どもでは分からん、凡夫ですから。けれども、神様のご計画というか、神様のお心というのは、深くて広い。人間凡夫には相分かりませんけれども、これは神様が、よりおかげを下さろうとする働き以外にない、と頂く心なんです。そういう信心を、手篤い信心という。
 それと同時に、そこに難儀を感ずる、痛い、かゆいを感ずるときにです、私自身の心の中に、顕微鏡を当てて見るような思いをいたしますと、あるわ、あるわ、難儀をしなければならない元が、こんなに、うようよしとる。そこに初めて、改まるということになってくるのです。そういう生き方なんです。

 そういう生き方を、今日、私は、手篤い信心と申しているのです。そういう頂き方、いわゆる「やれ痛や、今みかげを」という頂き方こそが、めぐりのお取り払いを頂いていくということなんだ。そのめぐりが晴れていく。自分の心に曇り一点ないほどの明るさというものが、めぐりのお取り払いと同時にできていく、ということを楽しみに信心する。めぐりがなくなっていく。それはそういう手篤い信心からなのです。

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真さえあれば人は助かる
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 「此方は無学でも、みなおかげを受けておる」。此方金光大神ご自身の心には、めぐりのかげりがない。御自身は、いつも助かっておられる。そこに人もまた、助かっていくということになってきた。だから、ここでは、無学でも人が助かっておるということは、学問があっても人は助けられる、真さえあれば。めぐりのお取り払いさえ頂いていけば。
 ただ今申しますような信心姿勢さえ取らせていただけば、おのずと、だんだんだんだん、人を助けられる。これはもう理屈じゃない。私は、今日は特に、めぐりのお取り払いを頂いてというところに重点をおいて、お話しております。めぐりのお取り払いを頂いていくにしたがって、自分が楽になるということなんです。ですから、どうでもめぐりのお取り払いとして頂ける信心姿勢を、つくらなければいけないことを、皆さん、よく承知して頂きたいと思う。

 「此方は無学でも、みなおかげを受けておる」。これは学問があっても、無学であっても、いわば、めぐりのお取り払いを頂いて、自分自身が助かって楽になっていくというところに、人の難儀もまた、持ってあげられるというか、人が助かっていかれるほどの道は、そこからおのずと開けてくるわけであります。
 私はそういうようなものをですね、昨日の佐田さんの所の宅祭りに見た感じがいたしました。なるほど、めぐりのお取り払いを頂いていくということは、ああいう受け方こそが、めぐりのお取り払いを頂いていくんだなあということです。例えば、ちょっとした難儀な問題でも、皆さんの場合は、そこのところを、ぐずぐずしとるでしょうが、困っておるでしょうが、難儀を感じておるでしょうが。だから、すっきりとしたお取り払いになっていかん。もうそこのところが、うれしくてうれしくて、というようにならなければいけない。「やれ痛や、今みかげを」と思う頂き方にならなければならない。そこから、いよいよ本当の意味においてのおかげが、いよいよ育っていくことになります。
 今日は、第九十九節から申しましたけれども、第九十九節の、とりわけ「此方は無学でも、みなおかげを受けておる」というところに焦点をおいたんですね。そして、第九十四節の最後のところにあります、「信心の篤いのが真の信者じゃ」とおっしゃる、信心が篤いというのは、ただ熱心に拝みよる、参りよるというのではなくて、今日申しましたようなところをです、信心が篤いとは、そういう信心、そういう姿勢がとられての信心を、信心が篤いのであり、それが真の信者じゃというのです。
 真の信者にならせてもらう。真の道を歩かせてもらう。そこから、真のおかげが限りなく開けてくるというおかげを頂くために、どうぞ日常生活の上にも、望遠鏡と顕微鏡の話をいたしましたようなですね、そういう生き方で、ひとつ目細く、おかげを頂かせていただくと同時に、いよいよ大きな腹をつくっていく修行を、本気でさせていただかなければならんと思うですね。 どうぞ。

              昭和四十六年(一九七一年)五月九日 朝の御理解