御理解 第六十一節

 神より金光大神に、何時までも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。
 信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆ
 くのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わ
 ぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これ
 が神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。

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天地金乃神と金光大神との合作
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 金光大神の信心のすべてというか、金光大神の世界というかね、それをここで、「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ」と仰せられる。その金光大神に、天地金乃神様がお伝えになられたということの内容というか、また、内容から生まれてくる結果というものは、どういうようなものであったかと。

 天地の親神様から金光大神に、「生まれた時から、いろいろとおかげを受けてきたことを書き残しておけ」とお指図があって、それをだんだん、暇暇に書きつづっておられます。金光大神の、いわば自叙伝ともいうべきものでしょうかね。ご自分でおかげを受けてみえられたことを、克明にいろいろ記してこられた。そして、あるところまで筆を進めてみえられてから、途中でね、「どうしてこのようなことができることになったのであろうか、どうしてこのようなおかげが受けられることになったのであろうか」と、そのおかげを受けておいでられた実状を思われて、感泣なさっておられる。そこで筆を止めておられますね。
 「どうしてこのようなことが起きてきたであろうか」と。その時に、神様のお言葉が入ってきておるですね。「金光大神、其方の悲しいのでなし。神ほとけ、天地金乃神、歌人なら歌なりとも詠むに、神ほとけには口もなし。うれしいやら悲しいやら。どうしてこういうことができたじゃろうかと思い、氏子が助かり、神が助かることになり、思うて神仏悲しゅうなりたの」とおっしゃっておられますね。

 いわゆる、どうしてこのようなことが起きてきたのであろうかと。ご自身、無学の百姓と思うておられる。いわば何もできない自分のところで、どうしてこのようなありがたい尊い道が開けてきたのであろうかと。そのおかげを受けてこられたことを述懐されて、思い出されてから、感極まって泣いておられる。ところが、それは金光大神が悲しいのではない、と仰せられる。悲しいということは、もうありがたいという極致なんですね。いわば、困ったことが起こって、悲しいというのじゃない。天地の親神様が感動し、天地の親神様が、「どうしてこのようなことが起きてきたであろうか」と言うて感動なさり、感泣なさっておられる。

 もう金光大神と天地金乃神が、そこに一体となっておられる。そこにね、私は金光大神の世界があると思うですね。また、金光大神の信心から生まれてくるおかげのすべてが、そこにあると思うです。神様と金光大神の、いわば頼み頼まれるその仲から、どうしてこのようなことがという、尽きぬおかげというのはそこから生まれてきている。「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ」とおっしゃっておられる。
 その源はです、神様と金光大神の、いわば願い合い頼み合いとでも申しましょうか、いわゆる金光大神と天地金乃神の合作。それが現在の金光教だと、先日も申しましたですね。
 その中から、いわば筆舌には尽くされないもの。「どうしてこのようなことになってきたであろうか。どうしてこのようなおかげが受けられるようになったであろうか」と、金光大神がそのありがたさに感泣しておられる。その感極まって泣いておられるのは、「金光大神その方のことではない、神自身の喜びだ」と、うれしいやら悲しいやらという言葉になってきておられる。いつまでも尽きぬおかげの原動力というか、源というか、そこから、金光大神が天地の親神様から受けられる話というものは、尽きぬ話になっておるわけです。

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鐘が鳴るのか撞木が鳴るか、鐘と撞木の間が鳴る
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 昨日、東北地方のある教会の先生が尋ねてみえられました。しばらく面接いたしまして、応接室でお話を頂いたら、「もう時間がありません、甘木教会に立ち寄らせていただきたいから」と言うて、先生は急いでおられたようでした。それから、まあそこで、十分か十四、五分お話をしている間に、「先生、もう腹を決めました。九州に参りまして、甘木教会と合楽教会におかげを頂きたいと思いましたが、もうここで頂いたことで十分でございます。もう今日は、ゆっくり先生のお話を頂いて帰ります」と言うて、帰られました。

 甘木教会の初代の安武松太郎先生は、天地の親神様の御物ということを非常に大切にされた。もうすべてを御物として大事にされた。もちろん、「神様の御物」として、御物の一切を大切に、天地のご恩恵によるものですから、それを大事にされた。
 私どもも、やはりそういう信心を頂かせてもらうと、ありがたいと思うけれども、とりわけここでは、天地の親神様のご恩恵というものを事柄の中に、それをご恩恵として頂くという生き方が、私の生き方だというようなことを申しております。すべてのことに、「御」の字をつけるという生き方を少しお話したら、もうそのことがね、いうならば金光大神の信心のすべてであるというふうに感じられたのではないでしょうか。「御物」、「御事柄」、すべての事柄の中に、ただいろんな問題が起きてくるということではなく、それを問題とせずに、御事柄として頂いていくという生き方なんです。

 金光大神が、天地の親神様から受けられたみ教えは、尽きぬおかげの頂けれるお話であった。だから、私どももやはり、その尽きぬおかげの受けられるものを頂かなければならんのである。それはどういうことかというと、金光大神と天地金乃神との間からです、どうしてこのようなことになってきたであろうかと感泣しておられる。これは、私でも、やはりそれが言えると思うんですよ。

 このたびのご大祭を頂かせてもらって、私はもう、あまりにも疲れとりましたから、夕方、ちょっと休ませてもらいました。そしたら一時間ほど、ぐっすり休んでおるところへ、「先生、もう御祈念の時間ですよ」と言って、誰かに起こされたんです。その時にですね、普通なら何日間も疲れに疲れて、体の具合もあんまり良くなかったものですから、もう今夜は、ご無礼しようかというぐらいにきつかったんですけれど、「もう夜の御祈念の時間ですよ」と言われた時にね、「はあ、今日のご大祭のおかげを頂いたことを、お礼申し上げなければならん」と思ったとたんに、今まできつかったとか、眠かったとかいうものが、体の中の血が一新するようにありがたいものを感じたんです。

 ご大祭の晩、夜の御祈念に聞いてもらったんですけれども、「本当にお互いが信心をする、お参りをする、お願いをする、おわびをする、いろいろ言うけれどね、やはり何というても、お礼参りが一番ばい」というてお話したことです。そのお礼も、例えば、あのご大祭をたくさんの方が拝まれたわけですから、どうしてこのようなことが起きてくるようになったのであろうかということですよ。私のような何にもできない、いわば、教祖様はご自分のことを「無学の百姓」とおっしゃったが、私のほうは無学の商人です。
 そういう私のところで、どうしてこのようなたくさんの人が助かることになり、しかもご大祭といえば、もうそれこそ夢のようなご大祭がですね、奉仕されるようにならせていただいたということがです、どうしてこのようなことが起きてきたのであろうかと思う。それこそ教祖様じゃないけれども、感涙にむせばなければおられない。その感涙はです、私、大坪総一郎の感涙ではない、天地金乃神様の感涙であるというても、私は良いと思うのです。

 金光大神が、だんだん自分の生い立ちのところから筆を起こされて、神様のお指図のまにまに、自分の一代記のようなものを書き続けられて、そして今日ただ今、このようにおかげを受けてきておる、このような道が開けてきておることを思われて、「どうしてこのようなことになってきたであろうか」と感涙にむせんでおられる。そこに天地の親神様が、「金光大神、その方が悲しいのではない。神が悲しいのだ」とおっしゃる。うれしいやら悲しいやら、歌人ならば、いわば歌を作る人であるなら、歌の一つも作りたい。画家ならば、これを絵にでもしたいというほどの感動を見せておられます。どうしてこのようなことが起きてきたであろうかと。天地の親神様も同じに、どうしてこのようなありがたいことになってきたのであろうかと。両方が感動し合っておられる。ですから、金光大神の信心の源というか、今日ここに頂いております、尽きぬおかげということは、そこが源なんです。

 金光大神と天地の親神様の、その間から生まれてきた感動、いわゆる「鐘が鳴るのか撞木が鳴るか、鐘と撞木の間が鳴る」というその間の音色のあまりにもの素晴らしさに、うれしいやら悲しいやらと感動なさっておられる、神様と金光大神が。そこから、金光大神に尽きぬおかげの頂けれる話を残しておくと言うておられる。その話のすべての大本おおもとは、私はこういうところからだと思うのです。もうここだと思うのです。その話を承って、いわゆる無学の商人であった私がです、このようなおかげを頂いてきた。

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深淵なる金光大神のみ教え
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 金光大神が尽きぬおかげを受けられた。その尽きぬおかげの受けられる話のどこを、私は頂いたかというとです、甘木の初代が、神様の御物という自覚のもとに、ご恩恵の御物を御物として生かされたり、お礼を申し続けられて、甘木の教会があるようにです、私は、その御物と同時に、御事柄を神様のご恩恵の事柄として受け継がせていただいて、今日の合楽があるんです。

 困ったことを、本当にこの難儀なことと見なかったわけです。それは一見、困ったことであり、難儀なことでありましたけれども、それを「神様の御事柄」として、私がそれを合掌して受けてきたということになる。その私がおかげを受けてきたことをです、皆さんに伝えておる。「神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ」と。だから、私が日々、このようにおかげを受けていること、また、過去におかげを受けてきたことをです、皆さんにこうやって、毎朝、聞いていただいておる。自分がおかげを受けてきたことを皆さんに伝えておる、その御理解が素晴らしい。「丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ」と仰せられる。だからおかげで、私は真の道を踏んでいっていることになるわけです。

 そこで、「金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ」とまで教えておられます。だから、私は「神になるのぞ」とおっしゃる、神になっていく道をひたすら歩かせていただいていることになるわけなんですね。
 「神になりても、神より上になるとは思うな」。だから、おかげを頂いてくればくるほどに、大本をたどらせてもらう。いわゆる金光大神の、そのような神様と金光大神の“間”から生まれたその音色というものを聞き取らせていただいて、それも私の話は、金光大神の話のすべてではなくて、そのほんの一部なのです。

 昨日、東北地方のある教会の先生に私が申しましたようにね、最近教団では、ご伝記「金光大神」が中心になっておる。金光大神のいわゆる生きられ方、御あられ方というようなものが、ご伝記「金光大神」を読ませてもらうと分かりますわけですが、私はまだ「金光大神」には手が届かない。読むのは何回も読んだんですけれども、まだこれを、皆さんに聞いてもらうところまで手が届いていない。二十年間このかた、私はこの教典一冊を皆さんに聞いてもらいよるけれど、まだほんの一部しか説いていないと、私は申しました。

 ですから、私は金光大神のご信心の、今申しますように、そこのところだけしか頂いていないから、そこのところを、私は金光大神の信心のすべてだと、思い込ませていただくほどに頂いておるわけです。実を言うたら、そんなことじゃないでしょうけれどもね。皆さんに聞いてもらっとるのでも、この二十年間説き続けたけれども、まだまだ説きあかすことができていないんです。ですから、まだ、ご伝記「金光大神」には手が届かない。
 ご伝記「金光大神」というのは、いわゆるお道の聖書ともいうべきものでございます。ですから、神より上になるとは思うな、ということは、金光大神よりも上になるとは思うな、ということなんだと。とても千年万年たったからというてです、生神金光大神のようなお方が、後にも先にも現れようとは思われない、というほどの素晴らしいお方ですからね、教祖様は。その教祖金光大神様の教典を、二十年間、一生懸命頂いてまいりましたけれども、その金光大神の、ほんの一部しか頂けていないということです。

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尽きぬおかげの原動力
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 そこで、私どもがおかげを頂かせていただくということは、いわゆる御事柄として、すべての上に「御」の字をつけさせてもらえれる信心を、体得していくということです。言葉にすれば、それだけですけれども、それを本当に、自分の信心の血肉にしていくことのために、日夜お互い修行させていただいているわけです。

 一昨日でしたかね、神様は私どもに、そうさせなければおかんという働きがある。私どもも、そうしなければおられんという心。そうさせなければおかんという心、そうしなければおられないという心。その心と心が一つになって、おかげが受けられるといったような意味の御理解を聞いていただいた時に、その御理解を頂きながら、何人かの方が、それをまあ素晴らしい表現でいろいろお知らせを頂いておられました。
 中に、久富くにかさんが頂いておられますのが、そのお話を聞きながら、「命もらいます」という言葉を頂かれたそうです。それを聞いて、私はもう本当に、何か身がズーンとしました。いやもう今日の御理解を一言で表現するなら、このことだった。神様はね、私どもにその命を求めておられるのである。そこで、私どもは「命あげます」ということにならなければならない。

 そこからですね、私はすべてが解決するというか、尽きぬおかげの原動力というものがです、そこから生まれてくるのです。前の日でしたかね、御理解に頂きましたように、神様のみ心の中に、私どもが没入した生活を信心生活というのだ。神様もそうさせたい、私どももそうしたい。いわゆる神様に命捧げますということになった。神様も命もらいますということになられた。そこから生まれてくる音色とでも申しますかね、そこからもう全然、予想もしえなかった、金光大神のお言葉をもってすると、「どうしてこのようなことが起きてきたであろうか」というおかげが展開してくる。

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氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになる、と仰せられますから
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 私の場合でも同じことが言える。どうしてこのようなことが起きてくるようになったであろうか。神様は私の命を求めておられる。私は命を捧げることになった。いわゆる神様任せの生活に入ったということなんです。それを三代金光様は、「氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになる、と仰せられますから」とおっしゃった。

 神様が、氏子任せになられるほどのおかげに展開していかれることのために、どうしても神様は、神様任せになる、神様を本位にした生活を求めたもうわけなのです。それを私どもが、信心の分からない時は、結局、神様本位ではなくて、ただ自分だけが中心、自分本位なんです。だから、自分の願いが成就することだけが、自分の思いがかなうことだけが信心のすべてのように思うておるわけなんですけれども、信心が、だんだん分かってくると、そうではなくて、自分の思いというものは捨てる。それを我情を捨てるというのである。そして神の思いを分からせてもらい、神の思いに没入していく。それが、いうならば、神に命を捧げますということになる。神様も、命もらいます、私どもも命あげますという、そこから生まれてくるおかげというものが、尽きぬおかげになってくるんです。
 私どもが、「どうぞどうぞ」とお願いして、生まれてくるおかげというのは、もうその場限りのおかげなんだ、実を言うと。けれども、そのおかげを頂いて、「はあ、なるほど神様じゃなあ」と分かったら、その神様の心が分からせてもらえれる信心に、ならせていただかなければならん訳が分かります。

 金光大神の世界という、金光大神の信心のすべてというものは、それはもう限りがありませんけれども、その大源をたどらせていただくと、「どうしてこのようなことが起きてくることになったであろうか」と、神様と金光大神が、感泣し合うておられるところから生まれてきておるのである。
 金光大神と天地金乃神が一体となられて、そこから生まれてきたもの。だから、そういうことになってくる、そういうことにならせられる世界。天地の親神様と金光大神のそのような関わり合い、そこで、私どもと金光大神との関わり合いというものがです、金光大神に「命捧げます」ということにならせてもらう。いわゆる金光大神に帰依するということです。そこから生みなされてくるおかげが、尽きぬおかげであります。
 だから、その尽きぬおかげに私どもが触れさせていただくことのためにです、今日私が申しますところが分かっていただかなければならんということになる。「金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを」とおっしゃっている。尽きぬおかげの頂けれる、その原動力になるものをです、私どもが頂かなければいけない。そのために、本気でひとつ御物を大事にさせていただくことも大事です。と同時に、いわゆる御事柄としての頂き方をさせてもらう。

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心のスタミナ料理
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 昨夜の御祈念の後に、昨日の朝、頂いていたお夢のことを、皆さんにお話させていただいたんです。それはどういうことかというと、お夢の中にね、ちょうど、スタンドバーのカウンターの所に、二十人ぐらいのお相撲さんのお弟子さんです、まだつるつる坊主の人もおれば、ざんぎり頭の者もおる。もうチョンマゲに結うとる者もおる。その人たちが、真っ裸で黒の褌をしめて、カウンターに腰を掛けて、即席ラーメンを頂いておるところをお夢に頂きました。それで、私がお夢の中で、「これは、即席ラーメンでは力が出るまい」と思いよるところで目が覚めたんです。
 ここで修行生の方たちが、これからもたくさんできることでしょう。それは本当に力を受けたいというのですよね。神様を信ずる力を受けたい、そして、その力をもって、人の難儀が取次ぎ助けられるほどの、力を養うていきたいというのが、金光様の先生にでもなろうかということになってくるのです。これは金光様の先生だけではない。お互い、信心をさせていただいて、おかげを頂くことにおいても、やはり力が欲しい、力を頂かなければ、とにかくお徳を受けなければというのが、合楽の皆さんの願いでもあると思うんです。

 ところが、食べておるのは即席ラーメンなんです。これはもう私自身のことだと思う。皆さんは、「おいしかった、ありがたかった」と言われるけれども、皆さんに、即席ラーメンぐらいなものしか与えとらんという感じですからね。このごろ、日田の綾部サミエさんの所に、お相撲さんが来た時に、ちゃんこ鍋というものを初めて頂きました。
 ラーメンなんかじゃ、本当の力はつかないですね。ちゃんこ鍋でなければいけない。あれは、スタミナ料理と言われておりますように、力の元がですね、この食べ物の中にはあるという。それを合楽では、即席ラーメンなんかを食べさせとるくらいなことだと。また、みんなも食べておるんだと。そこで、ちゃんこ鍋の中の内容というものを、工夫しなければいけない。
 お魚も入っとれば、肉も入っとる、野菜も入っとる。もうあらゆる、その力になるような食べ物が、いっしょに、ごった煮にしてあるというのが、ちゃんこ鍋だそうですね。だから、ちゃんこ鍋を頂かなければです、力はつかん。もうラーメンぐらいでは、もういっときばっかりしよったら、またペコペコになる。そうじゃなかろうかと、私は夢の中から思うたんです。
 そこで私自身としてもです、もっともっと素晴らしいものを、皆さんに頂いてもらえれる内容を頂く、と同時にです、皆さんもそれに甘んじることなく、尽きぬおかげの頂けれる、私の話の中から、または御事柄の中からです、「ああこれこそ肉じゃろうか、これこそ魚じゃろうか、これこそ自分の力になるものじゃろうか」という頂き方がです、もっと厳密にできなければならんのじゃなかろうか。
 ただおなかがすいている、即席ラーメンを頂いた。ああおいしかったというだけで、あんまり力にもならないというようなことではいけないというふうに、昨夜は皆さんに聞いていただいたんですけどね。いわゆる、ちゃんこ鍋の内容を、お互いにもう少し研究しなければならないというふうに思うんです。

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「命もらいます」「命捧げます」
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 力ができませんとね、御事柄として受けられんのです。もうどうしてこんな難儀な事が起こってくるだろうか、ということになる。そのどうしてこのような事が起きてくるであろうかというような事柄をです、御事柄として受けれるようにならせていただいた、その先に、どうしてこのようなありがたいことになってきたであろうかという、尽きぬおかげの始まりはそこからだと思うんです。そこを、だから、過程として頂かなければ、尽きぬおかげに触れることはできんと思う。
 しかも、その尽きぬおかげを頂いて、それを神心となりて丁寧に話をしていくのが、神様へのお礼にもなれば、真の道を踏んでいくことにもなり、それがまた、神になるのぞ、というところまでになっていくのですからね、私どもが、おかげを受けなければならん。そのおかげは、いつまでも尽きぬおかげでなからなければならん。

 ただ簡単な目先の事が、一つ二つ成就したといったようなおかげではだめだというようなものを、今日、この六十一節から私は感じます。尽きぬおかげの頂けれる話を金光大神に残しておられる。だから、金光大神が言おうとなさること、金光大神が受けてくれよと思われること、それにはお互いが、一生懸命になり合わなければできることではない。ためには、おまえの「命をくれよ」とこう言われる。「命捧げます」ということになる。「命もらおう」、「命あげましょう」ということにならなければならない。それをもう少し柔らかく言うと、氏子が神様任せならということなのです。
 「氏子が神様任せなら、神様も氏子任せになる、と仰せられますから」と三代金光様は教えておられます。だから、そこのところを頂いていくことから、いよいよ金光大神の世界が、いよいよありがたい、このようにありがたい世界であるということを分からせていただくことができると思うのです。 どうぞ。

              昭和四十六年(一九七一年)四月二十二日 朝の御理解