[花押]
 無学で人が助けられぬと云ふ事はない。学問はあっても真がなければ人は助からぬ。学問が身を食うということがある。学問があっても難儀をして居る者がある。此方は無学でも皆おかげを受けて居る。《御理解第九十九節》
 
 久留米教会初代・石橋松次郎師も教祖様と同じ農家の出であられたが、この教えの通りに大勢の人が助かる働きをされた。
 三代金光様から「この人こそ真の人ですなあ」と評されたほど、学は無くとも手厚い真をもって神様と交流された方であった。
 ある時、本部で教会長講習会が開かれ、「信心生活」と題して講演がもたれた。大変難しい講話であったため、無学な師にはそのお話の意味が分られない。せっかくのことなのに残念なことであると思われた師は、あらためて神様に「信心生活とはどういうことでしょうか」とおうかがいされると、「丸裸の赤ん坊が、真新しいフトンに寝て、それに大きく水引きがかけてある」ところをおしらせに頂かれた。
 これによって師は、はじめて信心生活という意味を悟られたということである。
 人は生まれた時は誰もが、丸裸であり、本来無一物である。信心生活とはそこを分って、自分のものは何ひとつない、一切が神様の御物であると、身にも財産にも水引きをかけて神様に奉った信心姿勢の生活をいうのである。
 「我、無芸・無能・無才にしてただ、信あるのみ」
 これは親先生のぎりぎりの御自覚を言葉にされたものである。自分のものは何ひとつとしてない。また、自分には才も力もない。ただ、神様を信じ申し上げるのみ。そこから、ここ一寸動くにしても神様のおかげを頂かねば動くことの出来ない自分であり、神様にすがらずにはおれない私であるという、神様に心が向かい通しに向かっていく、信心生活の根本が生まれてくる。
 自分の力で出来ておるという考えは思い上りであり、自分で出来ないところだけを神様にしてもらうというのは身勝手な信心である。「障子一重がままならぬ人の身」が人間の実体である。そこが分かる時、生活の為に信心があるのではなく、信心の為に生活のすべてがあるという、真の信心生活が生まれてくるのである。
 
 [注]この花押は、神様から親先生が頂かれたもので、「O」は宇宙を表わし、「、」は、その中で浜の真砂の一粒ほどもない自分ということを示し、「一」は、ただ、神様を信じる心ひとつがあるのみということを意味している。(昭五四・七・二四)
 
 
 
 ◎実意をたてぬき候
 一、討向ふ者には負けて時節に任せ。《信心乃心得》
 
 時節そのものが神様の働きと信じられねば、この教えのように討ち向かう者に負けることも、時節に任せることも出来ない。
 教祖金光大神様が様々な御修行をなされた中にも、そこに起きて来る事柄を神様の働きと信じられ、素直に時節に身を任せていかれる一貫した御信心の姿勢が伺われる。
 例えば当時、教祖広前が幕府未公認であることをよいことに、修験道の山伏が、度々広前を襲い、神前のお供えものや神具を持ち去る横暴を重ねていた。
 しかし、教祖はそれに対しても、「このくらいのことは神様のお力でお払いのけになることはへんはない。それに、さように度々来るのは、神様がおやりなさるのじゃから、われは一向に腹はたてぬ。・・・・この神様のお道は、年々に御繁昌なさる。氏子さきで合点せよ」(教祖御伝記より)という態度であられた。
 また明治の変革によって、大谷村戸長から「神前を片付けよ」と命じられた時でも、事の成り行きに淡々と身を任せておられる。
 周囲が狼狽する中にあって、教祖様は神前撤去のその命に素直に服され、その後、戸長自身」が「内々に拝んではどうか」と言われても、「内々ではいたしません、お上様、お役場へご心配かけてはあいすみません。」との態度であられた。
 やがて、成り行きのままに、再び神前を整えてもよいという働きになった時、教祖は、「お上ヘ出ても実意を立てぬき候」と信心姿勢を明らかにされ、神様も又、「何事もみな天地の神の差し向け、ビックリということもあるぞ」と答えておられる。
 自己の宗教を貫く為には流血をも辞さぬという宗教は、歴史の中に幾多もある。しかし教祖金光大神の場合、迫害すらも神様のお差し向けとしてなすがままにされて、それを受け入れられ、ひたすら神様を信じて、時節を待っていかれた。そこに教祖の御信心の前代未聞さがある。
 やがては金光教が、一教独立という時節を頂き、押しも押されぬ大教団としての歩みをみることになったのも、教祖の御信心の結実として当然であろう。
 それでは、時節を待たれる教祖の御信心の内容はどういうものであったろうか。
 この頃に確定をみた天地書附には、「おかげは和賀心にあり」と明言しておられる。和賀心の内容こそ、教祖の御信心の内容にほかならない。
 今朝方、親先生は御神前で「和賀心の和とは素直」と神様からおしらせを頂かれた。和の内容とは、普通一般でいう平穏な心といった程度のものではなく、神様が右と言われれば右を向き、左と言われれば左を向くような馬鹿程に素直な心、しかもそれが不壊のものとしての和の心を言うのである。
 時節を待つといっても、ただ漠然と待つというのでもなければ、泣きの涙で辛抱するということでもない。その間を神様の働きを御働きと信じ、神様への素直心を、また賀びの心を限りなく育てていかねばならない。
 そこに天地の、人間氏子を幸せにせずにおかない働きの時節に乗って、必ず自他共に助かる最高の道が展開してくる。
 合楽教会でいわれる、成り行きそのものが神様のお働きという教えは、いよいよ金光教の信心の芯をなすものであることが分かる。
 まずは、神様・親先生の仰せには背かれませんという生き方。出来事一切を神様の働きと信じ、受けていく生き方。そこに素直心を究めていって、おかげは和賀心にありといわれる、和賀心の内容を育ててゆかねばならない。(昭五四・八・二)
 
 
 
 ◎相抱性原理
 先の世までも持って行かれ子孫までも残るものは神徳ぢゃ。神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る。みてると云ふ事がない。
 《御理解第二節》
 
 昨夜、親先生は神様から、相対性原理という語調をもって「相抱性原理」とおしらせを頂かれた。
 相対性原理とは、言うまでもなく、天才物理学者アルバート・アインシュタインが導きだした新たな物理学理論で、この理論によって、過去のニュートン力学ではどうにも説き得なかった自然界の未知の法則が見事に解明され、人類に一大貢献をもたらした。このように人間のあくなき知識欲から、自然科学の分野は、未知の事柄が次々と明らかにされている。
 それにもかかわらず、私達の身近に、いつもまとわりつくように存在し、絶えず影響を及ぼしながら、いまだ未解決になっている事柄がある。それは、人間が生きていく上で永遠の課題のように思われる難儀という問題である。
 それでは何故、この難儀という問題が根本的に解決されないできたのであろうか。それは在来の宗教が難儀というものを、嫌なもの忌わしいものとして目をそむけさせたり、因縁や罪、運命などという言葉であきらめさせようとしてきたためである。
 その在来の物の見方、考え方とはまったく次元の異なる見方で、難儀こそが神様とのかけ橋であり、神愛の現れであると、難儀を通して神様に近づけ、幸福になっていける人間の根本的生き方を、神様は相抱性原理というお言葉をもってお知らせ下さったのである。
 果して、難儀は本当に嫌なもの、忌わしいものであろうか。いや、実はその難儀と観念する心そのものが、嫌なもの忌わしいものを作り出してきたのである。
 例えば冬は寒いからいやだ、夏は暑いから嫌いだという人があるが、水泳が好きなものにとっては、夏のカッと照りつける暑さこそが最大の魅力であろう。寒さ、暑さの中にも、そういう楽しさ面白さがひそんでいるのだから、要は起こってくる事柄の中にも、それ以上のものがひそんでいることを知ることである。
 神様が人間氏子の為に起こして下さるお働き、それは時には難儀という形をとってやってくる。しかしそれを通してスキーや水泳を楽しむように、天地と共に生きる技を体得する楽しみを身につけていくなら、天地と人間が相対的に対立するのでなく、相抱的に合い楽しみあい、抱擁できる程の楽しく有り難い相抱的生き方が出来てくる。この相抱性原理とも呼ばれる生き方こそが誰でも御神徳を受けていくことが出来る手立てである。(昭五四・八・二二)
 
 
 
 ◎喜びで開けた道
 人間は勝手なものである。如何なる智者も徳者も生れる時には日柄も何も云はずに出て来て居りながら途中ばかり日柄が吉いの凶いのと云うて死ぬる時には日柄も何も云はずにかけって去ぬる。《御理解第六十六節》
 
 「色は匂ヘど散りぬるを我が世たれそ常ならむ有為の奥山今日こえて浅き夢みじ酔ひもせすん」
 世に知られたこのいろは四十八文字は、遠い平安の時代に詠まれた歌という。何ひとつ残すことなく、何ひとつ持っていくこともなく、「ん」とひときばりして、あの世へ駆けって去ぬる、今も昔も変わらない人の世の哀れさ。その人間のはかなさを嘆く声が千年の歳月を越えて訴えてくるような気がする。
 その時代、「此の世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたる事も無しと思へば」と、いわゆる望月の歌を詠んで、並居る貴族達の前で我が権勢を誇った、時の御堂関白、藤原道長でさえ、晩年には自らの病と三人の子供に先立たれた悲しさ、加えて我が政争の犠牲となった人の怨霊におびえ、阿弥陀如来の銅像にすがりついて最期を終えたという。
 波瀾万丈の一生ではあった。尊い人生を送りたいと願っても来た。だが、人生の終着駅に近づいてきて寂しい悲しい思いにおそわれ、はかない一生を終えていく人達が何と多いことであろうか。
 いや華々しく人生の一時でも花を咲かせたり、歴史に名を残した人たちはまだよい。黙々と生き、黙々と死んでいった名もなき多くの民衆の一人一人を思う時、人間がこの世に生を受けたことすらが不可解なことに思えてくるのではなかろうか。
 教祖金光大神様もそういう名もなき農民の一人であられた。備中大谷の草深い片田舎で、土を耕すことを家業とされ、しかも次々と親を亡くし子を亡くし、飼牛まで合わせて七幕築かれる程の辛苦に出会って、「残念至極と、始終思い暮し候」と、やはり人の世のはかなさを味わわれていた。しかも、それは当時、「知ってすれば主からとり、知らずにすれば七幕つかす」という金神のたたりと言われ、なすべき術のない、人の手におえないことであった。
 けれども、教祖様はこの世を苦の世としたまま一生を送られたのではない。それが神の祟りなら、難儀なら、その神に対して、我が実意が足らざる故であり、それ程の力のある神なら、こちらの向かい方次第で、ない命も与えて下さるに違いないと、実意丁寧の限りを尽さんとされた。そこで悲嘆する出来事の中で一点でも喜べることがあると、それを取り上げて大いなる喜びとするという心づかいをしていかれた。
 三人の子供が同時に同じ病いになったことがある。医師はおろか神にも裸参りまでして祈念したが、一人はあえなくこの世を去った。家族親族が悲嘆する中に、教祖は、一人は死んでも二人は生き残ったと、いたく喜び、神へ進物をし、神職にまで手厚く礼をされた。神職は「なんと思いわけのよい人じゃのう。今までこのような礼を受けたことがない」と驚いたという。
 どこまでも神に対しては実意丁寧に、しかも喜びの心をもって事ある毎に神に近づかれ、その心を洗練していかれた教祖様。ついには悪神邪神といわれた金神が向きを変えられ、慈愛あふれんばかりの天地の親神様としての本性をあらわされ、神が一礼申すといわれる程の絶対の御信任を受けていかれたのである。
 教祖様は自らの御体験をもって、「此方は喜びに喜んで開けた道じゃから、よろこびでは苦労させぬ」と、世のはかなさに憂え、難儀の中で呻吟する人々に絶対の助かりを与えていかれた。
 天地の親神様が「このような氏子はみたことがない」と賞讃された教祖様の御一生、そのあろうとも思われぬ稀有の生き方を、誰もがそういうおかげを受けられるように教えとして、教祖様は残されたのである。
 この教えを行じ、自らのものにしていくなら、いろは四十八文字の無常の世界はなくなり、この世に生をうけた喜びに満ちた輝かしい一生を完うすることが出来るのである。(昭五四・九・四)
 
 

◎形の真似はできても心の真似ができぬから
 商売をするなら買場売場と云うて元を仕込む所と売先とを大事にせよ。人が口銭を拾銭かけるものなら八銭かけよ。目先は弐銭損のやうでも安うすれば数が売れるから矢張り其の方が得ぢゃ。身體はちびるものでないから働くがよい。《御理解第七十九節》
 
 今年三才になる秋永静男君は、たいへん腕白な子供である。先日からも教会のレクリエーションでプールに行った時、お母さんがちょっと目を離したすきに、泳げないのに大人の真似をして飛び込み台からプールに飛び込んだ。しかもそのフォームがあまりに見事だったので、プールの監視員も「あゝ、あの子は小さいのに泳げるんだなあ」と感心してしばらく見ていたという。ところがいつまでたっても水面から顔を出さない。はじめて泳げなかったんだ、と気がついてあわてて飛び込んで、水の中でもがいていたところを助け上げた。すぐに気がついたからよかったものの、もう少し遅れていたら溺れ死にするところであった。
 このように、泳ぎ方も知らずに形だけ真似て、水の中に飛びこむのは危険きわまりないように、信心も又、形だけ真似ては、かえって危険な時がある。
 
 この御理解では商売のことについて「商売をするなら人が十銭かけるところを八銭かけよ」と教えてあるが、だからといってただその通りに形の真似だけして安くするのは、かえって損をする結果を招くかもしれない。そこで、数が多く売れるから得になる、というおかげが伴うような、この教えの頂き方でなければならない。
 それには、この教えの通りにすることが、神様に喜んで頂け、商品も生きてくることだ、と教えの真意がまず分かり、そうせずにおれない内容作りをしていくことからである。
 食料品店を経営している日田の高野氏は、最近近所に二軒の大きなスーパーマーケットが進出したため客足が落ち、このまま商売を続けたがよいかのお伺いに、教会に初参拝された。
 すると、親先生は「個人商店でなければ出来ない商売をさしてもらいなさい。まずは商品を拝むことから始めなさい」と諄々と合楽理念による商売の在り方を御理解された。
 初めて頂く教えに心開けるような思いをされた高野氏は、さっそくその通りにされることになった。そしてしばらくたったある日、いつものように開店前に商品を拝みながら「どうぞ今日もお客さんに喜んで頂くような商売をさせて下さい」とお願いしていると、商品の乾物から「符丁(価格)を変えてくれ、符丁をかえてくれ」という声が聞こえて来た。あまりの不思議さに我と我が耳を疑ったけれども確かに聞こえてくる。そこで、「それはどういうことですか」と尋ねると、「自分達は、売れないで店にいるのが一番辛い、早く売れて食べられて人間の血肉になるのが本望だから、符丁をかえて安く売ってくれ」と重ねて話しかけて来た。
 生まれて初めての体験であったが、これは親先生の言われた、商品を生かす方法を神様が教えて下さってあるのだろうと思われて、その通りに全商品の符丁を変えられた。すると、客が急に多くなりだし、しかもわざわざ遠方から「お宅で買いたいから」という人まで現われだし、いよいよ繁昌するようになって来たという。
 このように、形のマネからではなく、神様の教えに忠実になろうと、けいこにけいこをかさねていくところに、おかげの頂ける心のマネも、安く売らずにおれない信心内容も身について来て、真の繁昌のおかげということになるのである。
 
 「せねばならぬ修行は苦しく辛い
 そうせずにおれない修行は有り難く楽しい」
(昭五四・九・一八)
 
 
 
 ◎合楽への道
 氏子が神と仲善うする信心ぞ。神を怖れるやうにすると信心にならぬ。神に近寄るやうにせよ《御理解第二十三節》
 
 ある時、神様は合楽に至るバス停の名前をもって、神様と人間氏子が合楽し合う世界に至るための道程をお説き下さったことがある。それはそのまま親先生のたどられた道でもあった。久留米からバスに乗ると善導寺・勿体島・椛目・常持を経て合楽に至る。
 「善導寺」、まずは善い信心のお導きをうけねばならない。親先生は善導寺町にある親教会にご縁を受け、幼少の頃に、ない命を助けられ善導をうけられた。善導を受け、お道に入ると、次々に思わぬおかげが受けられ、「勿体島」、このような自分にもったいない、もったいないと思うようになり、いよいよ教えにも本気で取り組み行じて来ることになる。
 そこにいつしか、「椛目」、心に信心のよろこびの芽が生まれ喜びの花(椛目・木は心即ち心の花)が咲くようになる。
 親先生の心に信心の喜びが生まれ、椛目の神愛会で人が次から次に助かるようになっていったのもこの頃である。そして、その信心のよろこびを育てて常に持ちつゞける心が「常持」。これがいわば極楽の世界である。だが、ここにとどまっていては氏子は満足しても神様は満足されない。そこからもう一歩我が助かりのみにとどまらず、その信心のよろこび、ありがたさ、安らぎをもって神様に向い、「お役に立ちたい立ちたい」の一念を燃やし、神様との交流を深めていく。そこに「合楽」へ。願わずともおかげが生みなされてくる神様と人間が一体となった神様も楽なら氏子も楽という合楽する世界が生まれてくるのである。
 この神も助かり氏子も立ちゆく世界こそ、教祖様あってはじめて到達された前人未到の世界であり、神と氏子が仲良うする究極の世界。そこではどういうことがおこっても、もはや信心のよろこびは消ゆることなく、又、天地のおかげが無尽蔵に生みなされてくるのである。ここにどうでも、人間氏子とあいよかけよで、助かっていきたい神様のやむにやまれぬ思いを感じて、合楽理念に基づいて、善導寺・勿体島・椛目・常持・合楽へと信心をすすめていってもらいたいものである。
 なぜならこの道こそ、人間が人間らしく生きながら、誰もがたどっていける人間幸福の絶対の大道であり、いよいよ日勝り月勝り年勝り代勝りのおかげ、貧争病ない真善美に輝かんばかりの合楽世界に住まわせて頂くことが出来るからである。
 難儀があり問題がある。又、心にひっかかることもある。しかしそれを罪だ、因縁だ、めぐり深い私だから、と自分から求めて十字架を背負っていくような生き方は神を恐れるようなものである。
 過去、数千年の宗教はそこまででとどまっていた。合楽ではその難儀問題が神様が氏子と交流したいばかりの誘いかけであると説き、神様と仲良うする手立てを善導寺・勿体島・椛目・常持、合楽へと誘導して下さるのである。
 ここに天地の親神様のお心と一体となった合楽の信心の真骨頂があるのである。(昭五四・九・二七)
 
 
 
 ◎頼むは此方御一人
 金の杖をつけば曲る。竹や木は折れる。神を杖につけば楽ぢゃ。《御理解第五十七節》
 
 「神を杖につけば楽ぢゃ」とある。ということは、信心していて楽でないなら、まだこれは神を杖についていない証拠だということになる。そこで心をよくよく探ってみると、確かに楽でない証拠に、神を杖についているつもりが、人や金や、果ては自分の腕を頼ろうとしていることに気付かされる。
 「たよりなきものをたよりにする故のこの頼りなき心なるかも」と現教主金光様のお歌にもある。
 ここで本気で、神様以外の頼りなきものを頼ろうとする観念を、捨てさらねばならない。そして、自分は神様のおかげを頂かねば、ここ一寸も動けぬ人間である、という思い込みをつくっていくことがいる。自分は無能、無才、無力な人間であると、そこまで心を見極めていく時、はじめて神様だけを杖につかせて頂く他はない、という心が生まれて来て、神様の方も、そこまで頼まれればと、十二分の御神情をお示し下さるのである。
 親先生は三十年間、一日として欠かされることなく、朝三時半から御神勤をされる。ところが昨夜はそういう大切な朝をひかえて、体調をくずされ、疲れきって寝まれた。すると、朝方観先生の御心耳に「逃げた女房にゃ未練はないが・・・・」と浪曲子守唄の一節が聞こえ出した。思わず聞き入っておられると、歌詞が「・・・・・・ひとつ聞かしょうか、トンコロリ」と、「ネンコロリ」のはずが「トンコロリ」となった。その語呂のおかしさに、思わず吹き出され、おかしくておかしくて、笑いながらフトンからはね起きられた。すると、笑いがおさまった時には、眠気も疲れも吹き飛んで、いつものように清々しい朝の御祈念をつかえられた。神様がこうまでして有り難い目覚ましをさせて下さると、その時に親先生は厚く御礼申されたといわれる。
 神様と親先生の妙なるまでの心通う世界。それは神様を杖にしなければ頂けない、おもしろく有り難く楽しい不思議な世界。
 このような楽の世界にも住まわせて頂けるのが「神を杖をつけば楽じゃ」と仰せられる内容である。生活全般の上にこういう働きが頂けると分かる時、もう人や金や物をあてにするのは馬鹿らしいことになる。
 この世一切を御支配される神様を杖につかせて頂いてこそ、限りない楽の世界が広がるのだと合点して、頼むは此方御一人と神様一心の観念づくりに精魂をかたむけていきたいものである。
(昭五四・十・二五)



 ◎神孝行
 祈れ薬れにすればおかげも早いが薬れ祈れにするからおかげにならぬ《御理解第四十七節》
 
 「世界中で一番愛しているのはおまえだが、世界で一番大切なのは私の両親、もしおまえが親を粗末にするようなら、いつ別れてもいい」このように結婚当初より親奥様へ言いわたされていた親先生。親先生にとってこの世で一番大切なのは御両親。だから、初めて参って来られた方には、必ずといっていいほど、信心の根本は親孝行にあるとお説き下さる。親先生御自身も若い頃より、周囲から勧められる進学も断念して、一家を再興しようと、長い酒屋奉公をつとめられたのも、中国に渡ってひと旗あげようとされたのも、総て親に喜んでもらいたいの御一念からのものであった。
 ところがこれ程に親思いの親先生が、真の信心を求めていかれる中に、親以上の親たる神様の仰せにしたがわれるうちに、今度は、親の言うことも、ある場合は無視されるようになっていかれた。
 そのようなある日、いつも黙って見守っておられた父君、徳蔵氏が、思いあまって一度だけ頼むように言われたことがある。
 「商売すれば一人前にやっていけるあんたが、商売はそっちのけで神様々々と言うて、神様ごとにばかり熱中して生活はどうするのか。信心をやめよとは言わん、けれど少しは生活や商売のことも考えてくれ。あんたが、このようなことを続けるなら、私達は、お四国参りでもせなならんごつなるばい」。それをじっと聞いておられた親先生の心の中は、まちがいない神様への絶対信と、不自由な暮しとはいえ、その日暮しが確実にできている感謝の念があるのみ。だから思わずおかしさがこみあげてくる。すると「あんたばっかりは笑うてから・・・・」と。
 そこで親先生は「そんなことより御祈念御祈念」と言って御祈念にかかられ、親先生が御理解を説かれているうちに、いつの間にか笑い声さえ出て来て、そのまま信心話に花が咲いたといわれる。
 そういう時代を通って、現在の合楽の地に移ってこられた時、御両親の生活はどうであったろうか。
 御両親の住まわれた部屋は、それこそ、冬は暖かく、夏は涼しく、四季折々の草花の咲く庭と泉水があり、皆から極楽部屋と呼ばれていた。御両親に必要なもの一切は神様が集めて下さり、部屋には人がいつも訪ねて来て、甘いものが好きな人には甘いものを、辛いものが好きな人には辛いものを出して喜んでもてなされていた。また健康の上にも、肩ひとつこることもなく、寝つかれるということもなかった。大勢の子や孫に囲まれ、信者さんに慕われ、かつて夢にも思われなかった御晩年のお姿であられた。そういう有り難い、もったいないばかりの生活の中に、父君徳蔵氏は九十三才、母君鶴代氏は八十七才という高齢で、安らかにお国替えになられたのである。
 「親に孝行して、神に不孝し、親に不孝して居る氏子がある。神に孝行して、親に不孝し、そして後に親に孝行している氏子がある」と金光四神様も教えられたように、現在の親の思い、親の心に添うことだけが本当の親孝行ではない。この世の中で一番大切な親が泣いて頼んでも、神様の仰せには背かれませんという生き方を貫かれた親先生。それは場合によって親に対して非情な仕打に見えるかもしれないが、そういうことでも、親に本当の助かりを頂いてもらいたいばかりの神情をもってされてきたのである。そこに、亡くなってからあれもしてやればよかった、これもしてやればよかったというようなことが何一つとてなく、総て神様が私のする親孝行以上の孝行をさせて下さったといわれる。
 今日の御教に「祈れ薬れにすればおかげも早いが薬れ祈れにするからおかげにならぬ」とある。薬れ祈れという薬を先に立てての生き方は、いわば人情を先に立てた道徳的親孝行のようなものであろう。そうでなく、祈れ薬れという神情を先に立てた神様孝行、神様中心の生き方こそ、親先生のように人情では、量ることの出来ない最高の親孝行を、神様がさせて下さることになるのである。
 徳蔵氏米寿の時のみ歌
 「ありがたしただありがたしありがたし我身ひとつはもとの身にして」
(昭五四・十・三十)
 
 
 
 ◎清く貧しく美しく?
 先の世までも持って行かれ子孫までも残るものは神徳ぢゃ。神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る。みてると云ふ事がない。《御理解第二節》
 
 「宗教は貧をもって旨とすべし」と観念されて来たのはいつの頃からのことであろうか。「焚くほどは風がもてくる落葉かな」という歌で名高い禅僧良寛は、後年、郷里越後の国上山に五合庵という庵をむすび、いつも五合の米があればそれが仏の功徳、仏恩と悟り、生涯を慎ましく暮したといわれる。
 過去の宗教観念には、そういう、清く貧しく美しく、という生き方を正法とするむきがある。
 金光大神の世界は神徳・人徳・金の徳・物の徳・健康の徳の五徳足ろうた世界。金光教は仏教でいうあきらめの悟り、即ち今ある境遇に「吾、唯足るを知る」と、ただ満足しているというのでなく、どういう中からも天地の心を悟り、有り難し、という境地をひらいていく事を教えるのである。その有り難しの心、喜びの心が大きくなるにつれ、人間が幸福になる為のすべての条件も整ってくる世界を説くのである。
 お金には恵まれているが病人が絶えない。人には好かれるけれども貧乏しているといった、どこか幸福の条件が欠けているなら、自分の信心のどこかが欠けているから、とまず気付かねばならない。そこから「天地日月の心になること肝要なり」と言われる、天の心の、あるいは地の心、日月の心のどれかが欠けてはいないか、と天地足ろうた修行へと改めていかねばならない。十の信心には十の足ろうたおかげがあり、百の信心に育てば百の足ろうたおかげが頂けるように、真の信心には真のおかげが伴う道理である。
 それなのに、心の助かりだけを言って貧しく暮しているような事があってはおかしい。なぜなら神様は、人間氏子に幸せになってもらいたいばかりであり、「氏子信心しておかげを受けてくれよ」とは、この世での人間の幸福の条件がすべて足ろうたおかげが頂け、あの世にまでも持っていける御神徳を受けてくれよ、ということだからである。
 「良し悪しを捨てて起きあがり小法師哉」とそれこそ物事の良し悪しを捨てられたり、何もいらないという、心の状態が生まれて来るような修行をして、独楽(自分だけの助かりの世界)の境地に至っても、それでは限りないおかげの世界にふれる事は出来ない。
 ここは黙って治める土の心で、ここは麗しい、無条件のしかもいさぎよい天の心で、ここは貫く日月の心で、と欠けたところを本気で身につけていく精進に五徳足ろうた金光大神の世界に誰でも住まわして頂くことが出来るのである。
(昭五四・十・三一)


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